第6話 それは紛れもなく救えなかった。

 こうして異世界に転生した男「カルマ」は、人間滅亡間近の世界「シエンダ」にその産声をあげた。しかし、その生まれはあまりにも惨い物だった。


 既に焦土と化し灰色が支配する地平線を、真っ黒に焦げ付いたレンガの瓦礫の側、虫の息程度に残った文明の爪痕にもたれかかるようにして、一人の娼婦がその子を産み落とした。


 娼婦は胸に大きな円陣で囲まれ、周囲を不可解な模様で綴られた印証をしていた。息は切れ切れ、瞳は虚ろ、身体は汗でまみれているのに纏った布は千切れ掛けた麻布で、前半分を隠すのがやっとの長さだった。


 娼婦は自分を金で買った者との行為の末、カルマを孕み、それを無理やり降ろされる恐怖に耐えきれずに逃げ出した。しかし行く当てなどあらず外は魔物だらけ、しまいには飢えた獣型に足を噛まれ、命からがらこの物陰に隠れてやっとやり過ごしたばかりだった。ろくに蓄えもないまま産んでしまった我が子を抱きしめる力は、その細々とやせこけた腕には残っていない。しかし娼婦は、黒く汚れた己の生涯の中に、たった一つだけ抗い、勝ち取った。残されたのは絶望のみと思えた世界の中で、唯一女の喜びを手にしたのだ。指先で触れるだけでもその尊さがわかる。どんな時代になっても、この瞬間だけは喜びなのだ。


 もはや抱くことは叶わずとも、せめて体に蓄えたせめてもの命を分け与えようと、丸出しになった自分の胸の先端をカルマの口に寄せようと、カルマに覆いかぶさるようにして前かがみになろうとする。


 しかしその体を、ボロボロに解けた髪を引っ掴んでぐいと引っ張った者がいた。


「見ぃ~つぅ、けぇたぁ♪勝手に出ちゃダメでしょメス豚ちゃん♡」


「…ぅぐ…。」


 男だ。身なりもきちんと整っている。目さえ腐っていなければそれなりに好青年だろう。こいつも私と同じ、金で雇われた哀れな軍隊アリだと娼婦は心の中で男を嘲笑った。


「はぁ~あ。やせこけてなきゃこんな上玉、殺す前に一発ヤってたのによ~。…あ?なんだこれ?」


 男は娼婦の脚から、何か太い血管のような物が出ている事に気づき、その先をたどってみると娼婦が何かに覆いかぶさろうとしている事に気づいた。


 無論、男はその管が何か知らない訳ではない。


「うわ!子供産んじゃってるよこいつ…。ど~すんだよこれ、どうやってボスに報告しよ…。」


 男は苦虫を潰したような顔をしながらカルマに向かって手を伸ばそうとする。するとすかさず娼婦が反応し、掴まれた自分の髪がブチブチと音を立てて切れていくにも構わず、カルマに向かって飛びついた。


「や…やめて、私はどうなってもいい。だけどこの子は…この子だけは…。」


 娼婦は怯えていた。もはや自分の死などどうでもいい。しかし目の前の幸せの象徴が、この歪んだ男の手によって穢されてしまうのかと思うと耐えられなかった。ろくに力の入らない腕でカルマを抱きしめ、顔全体をしわくちゃにする程の必死の形相で男を睨みつける。


 しかしそんな娼婦の思いとは裏腹に、男はこの状況を楽しんでいた。


「…いいねぇ。いつ見ても女の怯えた表情はいい。そそられるよな。今にも助けを請うて泣き喚き、それが目の前で踏みにじられると激昂し、無力に打ちひしがれて絶望する。その後の魂の抜けきった虚ろな目が堪らないんだ。犯してくれって言ってるようでネェッ!!」


 男は持っていた細長いゴム状の鞭を、娼婦の丸まったやせこけた背中に打ち込んだ。娼婦の背には骨の髄まで響くような激痛が走り、打たれた箇所は痛々しく腫れあがっていく。


「ほら!ほらほらほらァ!哭いてみろよ!醜く、みすぼらしく祈ってみろよ!まだ死にたくないってさぁ!」


 五発、六発とそれが娼婦の体を痙攣させる。しかし娼婦はカルマを抱きしめうずくまったまま動こうともしない。それどころか、叫び声一つ上げないのである。それを面白く思わない男は、むち打ちを止めて娼婦の髪をぐいと引っ張って顔を覗いた。


 娼婦は、白目をむいて口から血を垂れ流しており、既にその体から生気を感じられない。鞭の衝撃で細った内臓が破れ、内出血を起こして死んでしまったのだろう。


「…ま、どうせ死ぬとこだったし、いっか。」


 男は娼婦の胸元を無理やりぐいと開くと、まだ管もつながったままの赤ん坊のカルマの頭を掴み、その顔を腫れぼったい腐った目で見つめた。


「…邪魔くさそうだな、それ。俺がちぎってやるよ。」


 男はそういうと、ズボンのベルトに書けてあった刃渡り8センチほどのナイフをカルマの腹に向け、管を抉るようにして思い切り突き立てた。

 カルマの腹から飛沫の如く血が吹き出て、男の顔面を覆いかぶさる。


「…あ?泣かねぇぞこのクソガキ。もう死んでんじゃねぇのかぁ?どっちにしろ今死んだけどな。ヒャハハッハハハッハ!!」


 男は高々と声を上げて笑いこけた。無抵抗な命を奪う愉悦感、まるで神にでもなったかのような快感。それが男の脳天からつま先までの血管の隅々に至るまでを支配していた。


 暴虐的なその鳴き声に、カルマは呆れながらも、その哀れな男を生まれて間もない小さな瞳でギロリと睨みつけた。


 そして男と目が合い、男は、今度は底知れぬ奇妙な恐怖感が体中を駆け巡り、支配権を奪おうと血管の中を駆け巡っていた。


「…なんだお前、なんで死なねぇ?」


 男は、返ってくるはずもない問いを赤ん坊に問いかけた。しかしいかんせん、この生まれて間もないはずの両目が足元を氷漬けにする。やがて自分が小刻みに震えている事に気が付くと、にいっと汚い笑みを浮かべる。


「こいつは面白いもんを拾ったかもしれねぇ。」


 男はカルマを布でくるみ、巾着袋にぶら下げるようにして主の下へ持ち帰った。

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