番外編 怯える羊と狂った聖人の話(本編既読を推奨します)
「――あなたは」
片付けをしていたヴィヴィアンは、背後からそう声をかけられて、首だけで振り向いた。そこにいるのは、先程まで翼を生やしていたエヴァンだ。髪の毛の色だけはまだ青くきらきらと光っていて、彼女が人間でなくなったことを示している。
「なあに?」
「あなたは、ロバートの旧い友達だと伺いました。では、ダ――ドミニクのことも、」
「知ってますよ」
少女が言葉を言い終わるより先に、微笑んで答える。あの三人とは、上司、同僚、部下という変遷を辿って懇意にしてきた。もっとも、ドミニクとユージェニーはヴィヴィアンのことを嫌っていたようだが。
私はそこまで嫌いじゃなかったんですけどねえ、とヴィヴィアンは思う。つまらない人たちだとは思っていたが、だからと言って嫌いになるほどヴィヴィアンは彼らに執着がない。どうでもいい、というのが一番正しい認識だろう。
「昔の彼のことを知りたいんですか?」
「……知りたくない、と言えば、嘘かもしれません」
「そうよねえ、知りたいですよねえ。何せ自分の内臓引きずり出したこともある人のことですものねえ」
言うと、少女がびくりと震えて、目を伏せた。あら、とヴィヴィアンは自分の失言に口を押えた。特に他意はなかったのだが、怯えさせてしまったらしい。そう言えば昔、ロバートに言われたことがある。お前は本当に他人のトラウマと劣等感だけを的確に抉って行くやつだな、と。その時はよくわからなかったのだが、なんとなく理解できたような気がする。
「ドミニク君はねえ、つまらない人でしたよ」
「つ、つまらない?」
「はい」
片付けの手を止め、ヴィヴィアンは丸椅子を引き寄せると、そこに座る。
「私は、彼がここに来た時から知ってますけど――つまらない人でした、そう、とっても、つまらない人。ドミニクも、ユージェニーも……きっと、あの年の採用試験で取った天使の中で、一番つまらない人たちでしたよ」
天使は基本的に、年がら年中採用試験を行っている。年がら年中人が死ぬからだ。一年に一回だとか、そんな頻度では到底追いつかない。それに、人員の問題もあって、一度に教育できる人数も限られているから、結局いつでも採用試験を行うことになるのである。ドミニクとユージェニーは、確か一ヶ月違いだったように思う。とは言え、一応年度でくくってはいるため、あの二人は同期と呼ばれていたし、本人たちも同期だと思っていたはずだ。
「ロバート君が来た時も驚きましたけど、ドミニク君が来た時も驚きましたねえ。別の意味で。ロバート君が来た時、私は、『とんでもない逸材が来たものだ』と思いました。ドミニク君は、逆に、『とんでもない凡人が来たものだ』と思いましたよ、私はね。この子はすぐ死んでしまうだろうなあと、そう思っていました。まあ、死ななかったわけですが。いえ結局あなたが殺しましたけど、ついさっき」
細切れになって落ちていくドミニクの体を思い出しながら冷めたコーヒーに口をつけると、責められているとでも思ったのか、エヴァンが唇を引き結ぶ。別に彼女を責めているわけではなかった、というか、そもそもドミニクは殺さなければならない存在だったし、たとえ彼を殺したことに咎があったとしても、心中などというあの驚くほどに頭の悪いことをしでかしてくれたロバートを回収して来てくれたというだけでお釣りが出るくらいの功績だったのでむしろ褒めてあげたいくらいなのだが、もう一々フォローをするのも面倒で、ヴィヴィアンは少女を放っておいた。
「あの子はねえ、何かを成し遂げる力なんて少しも持ってなかったのよ。良くも悪くも、普通の人。ユージェニーもそう。あの二人は、どこまでも普通で、どこまでも、不幸だっただけなの」
「ふ、つう」
そんな馬鹿な、と言った風情で、エヴァンが言葉を反芻した。それにヴィヴィアンは苦笑して、コーヒーのカップを机の上に置き直す。
「あなたにはきっと、あの二人が、とってもおかしな人に見えてたと思いますけど、私から見れば、とっても普通の人でしたよ。そうですね、間違いなく、あなたの方があの二人よりよっぽどおかしい人。きっと天使にならなければ、《監視局》にたくさんある会社のうちの一つに勤めて、小さな家庭を持って、普通に老いて死んだはずよ。天使になったとしても、出世せず、そこそこ安全なところで、そこそこの実績を出して、誰でも犯すようなミスで、簡単に死んでいたと思うわ。ドミニク君が、ロバート君の親友でさえなければね」
ロバート・ノーマンという男は、良くも悪くも、影響力というものを持っていた。カリスマというものに近かったかもしれない。別段虜にするわけではなかったが、あの、周囲の人間を否応なく捕まえて巻き込んで引きずり回してしまう性質は、彼が生まれ持った性質の中で最高、かつ最悪の部類に入るものだとヴィヴィアンは思う。
「ロバート君は多分、あの二人を私たちと同じ類の人だと思っていたんでしょうね。あの子は、視野の狭い子だから。……いえ、もしかすると、違うとわかっていたのに、ドミニク君を失いたくなくて見ないふりをしていたのかも。ロバート君にも、仲間はいなかったから」
「……あなたは、仲間じゃ、なかったんですか」
「私?」
エヴァンの質問に、ヴィヴィアンは緩く笑みを浮かべた。子供と言うのは、突飛なことを考える。
「私は、ロバート君とはまた違いますよ。多分ロバート君も私だけは違うって思ってます。私とロバート君は、そうですね……海水とお酒くらい違うんじゃないでしょうか。両方とも液体で、一時は渇きを癒してくれるけれど、すぐに喉が渇いて、飲み続けると人は死ぬ。二つはただそれらの点にのみ於いて同じだけれど、性質は全く違いますよね。だから、私とロバート君は、全然違うんですよ」
でも、あの二人は、真水のくせに、一生懸命お酒や海水のふりをしていた。ドミニクは、ロバートに捨てられたくないから。ユージェニーは、そんなドミニクに、捨てられたくないから。本当につまらない人たちですよ、とヴィヴィアンは思った。
そんなことをしたって、すぐに化けの皮をはがされてしまうというのに。
怪物のふりをしたって――人間は所詮人間なのに。
「それで、あの二人は、ロバート君についていけなくなってしまったの。そしてロバート君も、あの二人のことがわからなくなってしまった」
あの二人が種子の研究を始めた直後、独りになったロバートの、あの捨てられた子犬のような顔が、ヴィヴィアンには忘れられない。休憩時間を使ってパライソへお菓子を差し入れに来たあの男は、ひどく傷ついた顔をしていた。信じていたものに裏切られたような、薬だと思っていたものが毒だったような、そんな顔を。
「私はね、ロバート君のことだけは少し可哀想だと思いますよ。騙されていたわけですからね――あの二人に。あの二人の、つまらない、意地と孤独、それから、嫉妬。それにずっと振り回されて、騙されて、信じて、裏切られて、傷つけられて、それでもロバート君は、あの二人のことを愛しているんですよ。あの二人のせいであんな人生を送ることになって、それでも命を懸けて、愛して、愛されもしないのに愛し続けて――今でも悪夢に魘されている」
ヴィヴィアンの知る人間の中で、最も聖人に近い人間を一人挙げよと言われれば、迷いなく彼女はロバートを挙げる。いや違う、彼以外に挙げる人間を知らない。
「憎めば幸せになれるのに、あの子は憎めないんですよ、あの二人をね」
愛しているから。彼は、あの二人を、未だに愛し続けているから。
「愛と憎しみは表裏一体らしいですけど……ロバート君の頭の中に憎しみってあるんでしょうか? 別に彼は、天使のことだってそんなに憎んでいるわけではないでしょうし。好きでないのは間違いないですし、怒ることはあるでしょうが……憎悪ではない気がします。興味があるので、機会があれば一度開頭してみたいですね」
「……その方法ではわかりかねると思いますけど……」
「あら、冗談ですよ」
丸椅子から立ち上がり、ヴィヴィアンはコーヒーを淹れ直すことにする。先程飲んだが、冷めたそれは不味く、とても二口目を口に入れる気にはならなかったからだ。
「あなたも飲みますか?」
「いえ、僕は」
「飲んで行きましょうよ――ロバート君が生きてたお祝いに」
エヴァンの返事を聞く前に、部屋の隅へ設置した小型のガスコンロに鍋をかけ、湯を沸かしながら、ヴィヴィアンは、ロバートに執着している自分を認識し直していた。ロバートという男は、面白い。彼が来るまで、ついぞ新人の名前など覚えて来なかったが、彼だけは名前を覚えた。ドミニクとユージェニーは、オマケである。あんな画一化された人間たちに、ヴィヴィアンは興味を引かれない。彼らのように、悪魔と同じ檻へ閉じ込めたら五分と経たず死にそうな人間に、何の価値がある? ヴィヴィアンは人間の顔がまともに識別できない、だってみんな同じに見えるから。画一化され、死ぬことを恐れた、臆病な羊。つまらない、実につまらない生き物だ。死にもの狂い、という言葉の意味を知らない、我を通すことすら知らない、つまらない生き物。
だが、ロバートは違う。
あれは、きっと、羊を食い殺すために生まれた、怪物なのだ。
それでいながら、羊たちのために自ら磔刑へ処される聖人でもある。どうせ死ねないくせに。そういう生き物なのだ。
だからこそ、異様と呼べるその事実を認識するたび、ヴィヴィアンは彼のことが大事で仕方なくなる。あんな狂った聖人、そうそういない。絶対に失いたくなくて、先日など柄にもなくロバートを殴り飛ばしてしまった。少し手が痛かったけれど、ロバートの驚いた顔が見られただけで良しとしよう。
(だって、あんな面白い『ひと』、貴重ですからね!)
何をしても大体怒らないし。たまに泣くが、それはそれで面白い。
ロバートが聞いたら真顔で「俺は今すぐお前から逃げるべきだよな?」と言いそうなことを思い浮かべつつ、ヴィヴィアンは上機嫌で豆の缶を開けたのだった。
〈了〉
R.E.D. 蔵野杖人 @kurano_tsuehito
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