番外編 おいしいごはん(本編既読を推奨します)
……さて。
ドミニクは店に並んだ釣竿を前にして、難しい顔のまま首を捻っていた。理由は簡単である、どれを買えばいいのかわからないのだ。前々から一度自分で魚を釣ってみたいと思っていたので竿を買いに来たのはいいのだが、そもそも《監視局》に釣竿などというものがなかったこともあって、どれがいいものであるとか、どれが自分に一番合っているとか、そういうものが全く分からない。というか、何がどういうものでどう使ってどう魚を釣るのかさっぱり理解できない。金の心配はしていなかった、《監視局》を出る際に今まで溜めこんだ金を持って出てきたのだが、地上の物価と照らし合わせてみると、どうやら向こう十年は遊んで過ごせそうなほどの額であるらしいと判明したのだ。
だから好きなものを選べばいいのだが。
首を捻りながら十分ほど店内を見て回った結果、ドミニクは匙を投げることにした。諦めに一つ頷くと、彼は傍らで縮こまっていた少女へ声をかける。
「おい、エヴァン」
「な、なに?」
「お前が選べ。俺わかんねえわこれ」
「ぼ、僕も釣竿なんてよくわかんない……」
これは困った。だがよく考えたら、あのイカレた男の下で育てられ、その後はずっとドミニクたちが実験に使っていたのだ。釣竿なんてものを見る機会はなかっただろう。期待を裏切られ、青年は口をへの字に曲げた。そんな彼に、少女がびくりと体を震わせて益々萎縮する。それに苛つき、何を考えるより先にドミニクは躊躇なくエヴァンを蹴り飛ばしていた。小さな体が軽々と吹っ飛んで、店の床を滑るように転がっていく。アドバイスでも寄越そうとしていたらしい店員が、悲鳴を上げる少女を見るなり、さっと目を逸らすのが見えた。その姿にまで憤りが湧くのを感じて、ドミニクは渋い顔になる。人間だった頃は笑顔を繕うのも感情を押し殺すのもあんなに簡単だったと言うのに、悪魔に成って以来、それらがひどく難しいものとなっていた。店ごと焼き払いたくなる衝動をどうにか抑え込もうとしながら、まだ床に転がるエヴァンへ近寄ると、その腹を思い切り蹴り上げる。僅かながらでも宙へ浮かぶほどの威力で腹をぶち抜かれた少女が、げぶ、と吐瀉物を店の床にぶちまけて痙攣し、店員が「ヒ」と小さく声を上げたが、睨むとすぐに黙った。吐瀉物交じりの咳を繰り返す少女を見下ろしているうちに衝動が治まってきて、ドミニクはなるほど、と内心で頷いた。代替物でも破壊衝動の始末は出来るらしい。世の中体験してみないとわからないことがたくさんあるようだ。
ドミニクはもはや震えるだけになった少女の髪の毛を掴んで床から引き摺り上げると無理矢理立たせ、「そこのやつ」と店員を呼ぶ。
「は、はヒッ!」
可哀想なくらい青ざめた店員は、ドミニクに呼ばれて、声を裏返しながら背筋を伸ばした。その姿に苦笑しつつも、彼はジャケットから取り出した財布を投げつけると、こう告げたのだった。
「ここから好きなだけ抜き出して、買わせたいだけの竿をくれ。あと餌。餌が要るんだろ、釣りって。よく知らねえんだよ、悪いな」
◆
「ビビリ過ぎだろ」
がちゃがちゃと十本くらいの竿を腕に抱えたドミニクはそう唇を尖らせた。空いた方の腕にはみっちりと魚の餌が詰まった箱と、釣った魚を入れるためのバケツを下げている。正直、重たいのはともかく、この長さと餌箱の大きさが邪魔で仕方ない。じりじりと照りつける太陽も暑くて、ドミニクは、これで魚が釣れなかったら海岸線ちょっとくらい変形させていいよな、などと考えていた。
あの後店員は投げつけられた財布を丁重にドミニクへ返却し、あまつさえ、ガタガタ震えながら釣竿を高い方から順に差し出してきたのだった。対価なしに物はもらえない、物乞いじゃないんだと言って何回も断ったのだが、地べたに這いつくばって額を床にこすりつける店員に、ドミニクが折れた。結果、このようにがちゃがちゃと釣竿を抱えて練り歩くことになってしまったのである。
「ちょっとお前を小突いただけじゃねえか、なあ?」
少女の方へ笑顔を向けると、吐瀉物のこびりついた服のまま、エヴァンが明らかに怯えた様子で体を震わせた。ドミニクはそれもやはり気に入らなかったが、少なからず初めての釣りに胸を躍らせていたので、蹴り飛ばすのは我慢しておいた。
しかし、店員とまともに会話できなかったおかげで、竿の使い方も釣りのやり方もよくわからないままである。見えてきた海岸に「おー、海!」などとはしゃぎつつも、ドミニクは内心首を捻っていた。これで釣れなかったら本当に今日の夕飯がなくなるし、今後の食事の懸念がとても凄いことになるのだが、その時はどうしようか。別に毎日外食でもいいけどさ。でもあんまり人目につきたくないし。さすがにあのクソ怠惰な天使どもも、あれだけやれば自分を探すだろう、だとすると、他人と接触するのはあまりよくないことであるように思う。《暴食者》ならまだしも、《嫉妬者》は普通に食事をとらないと飢えて死ぬので、食事は切実だった。そう考えるとやはり、どうにか釣れていただきたいもんだなと彼は思った。
そんなことを考えているうちに砂浜へ辿り着き――次の瞬間、ドミニクは年甲斐もなく歓声を上げていた。
「おおおおお!! 海! 海だぁ!! やべえ! 砂浜! 熱い!!」
勿論、海で仕事をしたことなど腐るほどある。だが、それとこれとはやはり、別だ。仕事は全て沖ばかりで砂浜に来たことなどなかったし、波打ち際をまじまじと見たこともなければ、波の音をじっくり聞いたことだってない。当然海の中へ無防備に入ることもだ。全てが新鮮で、ドミニクは興奮のあまり抱えていた竿や餌などを全て砂浜に放り出し、履いていた靴を脱ぐと、海へ向かって一直線に走り出していた。
「うわっは、あはははは! すっげ! すげえ熱い!! 砂やべえ!! うおっ海やべえ! 波やべえ!! うわはははっ、なんだこれすっげ!!」
ひゃあっほう、とドミニクは脳天をぶち抜いたような声を上げて、絶えず動き続ける水の中へダイブしてみる。水場がない《監視局》生まれの人間のご多分に漏れずドミニクも泳げないのだが、そんなことは最早関係がなかった。なんだかもう頭のどこかのメーターが振り切れているような気がした、とにかく楽しくて仕方がなくて、思わずドミニクは、「ロバートとユージェニーも呼びたいなあ!」と口走ってしまっていた。それはまったくの無意識で、言ってしまった後でもしばらくドミニクは気が付かずに波打ち際で遊んでいたのだが、ふと視界の端に入れたエヴァンがぽかんとした顔をしていて、ようやく彼は自分が何を口走ったか理解した。
「……俺、今、」
唇を震わせるドミニクに、エヴァンは、何も言わなかった。ましてや砂浜に散らばった竿や餌など、物悲しく太陽に光るだけだった。
その日は、波打ち際ではしゃいだのが祟ったのか、魚は一匹も釣れなかった。ドミニクは腹いせにエヴァンの腕を毟ってから、街へ出向いて彼女と一緒に安い食事を取った。さすがに少女の腕は食う気にならなかったので魚の餌にと海に放り込んでおいた。
空腹は満たせた。それだけだった。
◆
「今日はちゃんと魚を釣る」
ドミニクは買った船の上でそう竿を握りしめると、買った本の通りに餌のついた針を海へと放り投げた。正直思い立って二日目で最早なんだか面倒くさくなってきており、海に衝撃波ぶち込んで浮かんできたやつ拾えばよくね?などと思い始めていたのだが、『普通の人生』というものに少々どころではない憧憬を抱いていたドミニクは諦めずに続けてみることにしたのだった。別に普通の人生を送りたいからと言って釣りをする必要はないとドミニクだって薄々気づいてはいたのだが、とにかくちゃんとやってみたかったのである。昨日吐瀉物や血まみれにしたエヴァンの服は買い換えてやった。
糸を垂らして開始十分。来ない。だが平気である。待つのは得意だ。
三十分。買った釣りの本をちらちらと読む。毒のある魚ってどう食えばいいんだろ。
一時間。本をがっつりと読み終わるとやることがなくなり、転がって空を見る。今日も晴天、クソ暑い。《監視局》は温度管理してたからなあ。この暑さには慣れない。
三時間。釣れない。太陽の色がオレンジに近付いてきた。さすがに飽きた。腹も減った、もうかなり限界に近い。エヴァンがぼーっと波を見て暇そうにしている。
エヴァンの腕あたりをまた毟って餌にした方が釣れるんじゃねえの、などと思いながら、ぴくりとも動かない糸を見つめて、ドミニクは、うん、と一つ頷く。
「………………人間諦めが肝心ってこと、あるよな」
「そ、そうですか?」
「そういうおぁあああぁゴッ!?」
言葉の途中で何者かに船底を下から突き上げられ、ドミニクは悲鳴を上げて足を滑らせた。これが地上であったなら、彼もこんな無様は晒さなかっただろう。だが彼が今襲撃されたのは不慣れな船の上で、しかも空腹でぼんやりしているところだった。結論として、ドミニクは何かを掴むことすらできないまま後ろ向きにスッころんだ。受け身も取れずに後頭部を強打し、辛うじて転覆を免れた船の上でもんどりうつ。すぐさま再生したらしくコブなどはできなかったが、如何せん痛み自体は傷がついた瞬間に感じるものであって、空腹が極限に達しつつあったドミニクは簡単にキレた。
「しゃあああああああッッッ!!」
船底に対する第二撃で、これが悪魔のものだろうという見当をつけた――というかもう人間だろうが天使だろうが魚だろうがどうでもよかった、何にせよミンチにしてぶっ殺すつもりであったので――ドミニクは、泣きそうな顔で船から落ちそうになっていたエヴァンの襟首を掴んで引き上げると、擬態も解いて咆えた。
「人の飯の邪魔するヤツは死ねボケッ!!」
――どばん、という音と共に三度船を揺らしながら上がった水柱には、肉片と血、それから魚が巻き込まれていた。なんというか、端的に言って、大漁である。魚の大半は身がよじきれていて見た目は悪かったが、食えないわけではないだろう。生きているものも相当数跳ねているわけだし。
「……もう今度からこれでいいだろ」
「……と、獲れ過ぎじゃないですかね?」
びちびちと血まみれの甲板の上で跳ねる魚を眺めながら、二人はそんな言葉を交わしたのだった。
◆
(君を愛してる)
ユージェニーが、ドミニクを抱きしめて、そう言った。いつものこと、いつもの台詞だ。ドミニクはいつもこんな彼女を抱きしめ返して、自分より頭一つ分ほど下にある、炎のような色のその髪にキスをする。
いつものドミニク、ならば。
自分を抱きしめる女を見下ろしながら、ドミニクは、冷ややかな目で口を開く。腕は体の横に下ろされたままだ。
――じゃあ、どうして、あいつを呼んだ。
それは、あの日の、問いだった。どうして。なぜお前はロバートを呼んだんだ。
どうして、お前は――俺よりあいつを選んだ?
(君を愛してる)
自分の胴体に縋りつくようなユージェニーは、ドミニクの問いに応えない。ただ、冷たい体で、いつもの言葉を繰り返すだけだ。それは、海底から引き揚げたディスクを動かそうとした時によく似ていた。海の中に沈んでいたそれらは、どれだけ保存状態が良くても、大体の場合、同じ光景と同じ音声を繰り返すだけだった。
答えろ、ユージェニー! ドミニクは声が大きくなっていくのを抑えられなかった。だが、彼女は答えない。愛していると、壊れたように嘯き続ける。耐えられずに、とうとうドミニクは女を自分から引き剥がすと、その首を絞めた。答えろ、答えろユージェニー。俺がお前の首を折ってしまう前に。女は何も言わない、繰り返し続ける。君を愛してる。君を。君だけを。本当に君だけを。やめろ、言うな、俺の質問に答えないまま愛だけを押し付けるんじゃねえ。俺を見ろ。俺を。頼むから、俺の喜びの全てを嘘にしないでくれ。愛を偽りにしないでくれ。俺を見てくれ。お前だけは。お前とロバートだけは、俺を、おれのことを――
(君を、君を、君をををををおおおおおおおおお――――――)
「――――――ッッッ!!」
跳ね起きたドミニクは、自分の体にまとわりつく、水を含んだ重たい風に、一瞬で現実に引き戻された。勿論、見渡すどこにもユージェニーはいない。当然だ、彼がその手で殺したのだから。先程の夢のように、首を絞めて、何度もどうしてと詰問しながら、あの女を、ひき肉にした。
そんな中ユージェニーは――
彼を恐れるように見ると、まったくわけがわからないと言った風で、どれだけ苦痛を与えようとも、「君を本当に愛しているんだ。嘘じゃない」と、何度も何度も――
「――っぐ、」
涙と吐き気がこらえきれなくなって、ドミニクは寝床にしていた廃屋を飛び出す。汚いスラムの道端にうずくまって、彼は思い切り吐いた。そして、泣いた。ううううう、と、彼は汚い地面に爪を立てて、獣がそうするように唸る。憎い、と思った。ユージェニーが。ロバートが。あの二人が、殺した今になっても、まだ、憎くてたまらない。
あの、純粋で強い二人が、憎くて、許せなかった。
そんなドミニクを見て中毒患者だとでも思ったのだろう、売人らしき男が声をかけてきて、彼は何の躊躇もなくそれを黙らせる。縦に両断されて左右へ倒れる男に、通りすがりの娼婦が悲鳴をあげかけて、それもまた、黙らせた。うるせえ、うるせえうるせえうるせえ。どいつもこいつもうるせえんだよ。
また涙が溢れて来て、ドミニクは、嗚咽を漏らす。しゃくりあげ、もう二十にもなるというのに、地面に額をこすりつけると、声を上げてわあわあ泣いた。なぜ涙が出るのか、ドミニクには、わからなかった。わかりたくも、なかった。
〈了〉
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