Chapter.5 Robert
Chapter .5 Robert
結局、自分の罪とは何かというと、全てだった。一つ一つの事象ではない、最早、自分が生きていること、そのものが罪なのだ。世界に自分がいること、それが自分の罪だった。
自分と言う余分な歯車を孕む歪な世界の真ん中で、女が手招きをする。ああ、見覚えがある、見覚えが。だが、名前が思い出せない。思い出したいのに、思い出せそうなのに、どうしても名前が見つからない。知っているのに。脳味噌が軋んでいた、どうにもならないほど。
ひゅう、と喉から息が漏れる。呼吸の仕方が体から失われているのがわかった、もう苦しくてたまらない、誰かに助けて欲しい。ぐらぐらと、世界が極彩色に明滅し、コーヒーへ落としたミルクのような螺旋を描いて崩れていく。歪曲した世界で、例の、名前の思い出せない女がぬるく笑っていた。その横には、これまた見覚えのある男が立っている。ああ、自分のせいだ、これも全部、自分の――
「――あのぉ!」
「うおおッ!?」
淀んだ眠りについていたロバートは、下敷きにしていたタオルケットを引っ張られて、目を白黒させながらソファを転がり落ちた。すっかり掃除されて綺麗になった床に転がり、タオルケットを引っ張った少女を見上げる。
「邪魔なので。薬飲んでうなされて寝るくらいなら、洗濯手伝ってください」
「エヴァン、そいつ手伝わせると洗濯物破かれるぞ」
「どうやったらそういうことになるんですかそれ!?」
テラスの物干し竿に洗濯物を干しているパライソの言葉に、エヴァンジェリンが呆れたような声で返事をした。そのまま、仰向けで床に転がるロバートにはもう興味がなくなったように、「これも洗っちゃいましょう」と、パライソの方へと歩いていく。
なんというか――やはり、正しく、二年前の続きだった。ついでに言えば、何でこんなことになっているのか相変わらずよく覚えていない。気が付いたら病院にいて、ヴィヴィアンから全力で殴られた。普通に吹っ飛んでベッドから落ちた。あの女に殴られたのは初めてだったが、細い体に似合わず重たい拳で、第三位天使長は伊達じゃないんだな、と欠けた奥歯を吐き出しながら思った。欠けた歯の代わりは一時間後に届いた。そしてやはり査問会にかけられて、なんか「ドミニクのふりして生き続けろ」とお達しが来たので、なぜかここにいる。まあ、天使の大半を失って、ロバートに頼らなければ最早まともに機能しない《監視局》であるから、仕方ないのだろうが。ついでに、悪夢の方もまったく治っていなかった。頭痛も。ユージェニーのこともドミニクのことも未だに思い出してうなされるし、死ぬべきは自分だったのだろうともいつも考えてしまう。
二年前と違うのは、エヴァンジェリンまで押し付けられたことと、今度こそ本当にドミニクが死んでしまったことか。
あの青年に空でボコボコにされて、気絶したのは覚えている。本当はどうにか海に叩きつけられるまでは意識を保っておくつもりだったのだが、思っていたより青年がタフだったのと、自分の怪我がひどすぎて不可能だった。脳味噌に八発鉛をぶち込み、普通の人間なら頭蓋骨が陥没して死ぬような威力を込めた銃底でぶん殴っても嬉々としてこちらの顔面を殴りつけた青年を見て、「あ、これ無理だわ」と色々悟った。意味が分からないくらいにタフだった。性格上、死も痛みも恐れていないせいで怯みやしないし、鍛えた人間が悪魔になるとあんなことになるのだな、とロバートは思った。
そうして彼が殴られ過ぎて気絶した後、ドミニクを殺したのはエヴァンジェリンだった。側面につけておいた幾つかのカメラに、彼女が青年をミンチにするところが映っていたらしい。その後、気絶して落下を続けるロバートを少女は助け、飛んで《
エヴァンジェリンもまた、悪魔になったのだった。
もっとも、ヴィヴィアンの検査結果曰く《怠惰者》であるらしい少女は、もうすっかり擬態してしまって、普通の人間と変わらないのだが。見せてくれと言っても頑なに拒まれた。なぜだろう。パライソには乙女心がわからないと蹴られた。なんでだ。
とにもかくにもそんなわけで、ロバートは悪魔二人を装備品として押し付けられて、また地上に放り出された。なんというか、これは完全に、今後も厄介者同士で固められていくのではないだろうかと彼は嫌な予感しかしていない。
ロバートはようやく床から起き上がると、テーブルの上に置いてあった小さな本を手に取ってソファへ座り直す。テラスでは、まだ少女たちがうるさい。それを微笑ましく思いながら、その本を開いた。
合成皮革で覆われた、手のひらサイズの本。その中身は、日記だった。誰のものかと言えば、ユージェニーである。ヴィヴィアンが資料と一緒に回収して保管していた、ということだった。なぜ今更渡すのかと問うと、今のあなたなら見せてもいいかもって思ったから、と答えられた。今と、先日までの自分と。どう違うのだろう。ロバートにはわからない。
日記には、彼の知らないユージェニーのことが色々と書かれていた。とりあえず『ロバートのハゲが』と始まっていることが多く、地味にダメージを食らう日記である。ハゲてねえよ。ハゲる予定もねえよ。嫌われているのだろうなとは薄々感じていたが、まさかここまで知らないところで悪口雑言を書かれているとは思わなかった。
つまりそれほど、この日記は、彼女の本音なのだった。
日記は、毎日つけられているわけではなかった。一日に三回くらい書かれていることもあれば、二、三ヶ月ほど間が空いていることもあった。だが全ての日記に共通していることは、ドミニクを愛しているということだった。
そして同時に――ロバートへ、嫉妬しているということだった。
ドミニクの昔を知っているのが嫌だ。
ドミニクの友人であることが嫌だ。
ドミニクが私以外のことを考えているのが嫌だ。
嫌だ。嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
ロバートが、大嫌いだ。
そんなことが、日記には延々書かれていた。
本当に自分は何も知らなかったんだなあ、と、それを見た時ロバートは思った。その無神経なところが大嫌いだ、とドミニクに言われたのは、まったく間違っていなかったのだ。
それから、それと併せて、他の天使への恨みつらみも日記には書かれていた。よくここまで悪口の語彙があるな、と思うほど、ユージェニーは他の天使を罵倒していた。だが、こうまでしないと精神を保てなかったのだろう。それほどの怨嗟だった。そしてやはり、その中には、『ロバートがどうしてあれほど無神経に生きていけるのかわからない』と書かれていた。
――他の天使からぶつけられる悪意に、ロバートも、気付いていなかったわけではない。
だから彼もやはり、天使が嫌いだ。あの怯懦な連中を、自分はどうしても好きにはなれない。ただ、それを表に出そうとは、思わなかった。それだけだ。それに、それで彼らが幸せになれるのなら、それでいいとも彼は思っていたのだった。
ぺらぺらと、もう何度も読み直した日記をめくる。よくもまあ、こんなに誰か一人のことを好きになれるものだ。やはり、彼には、恋愛と言うものがよくわからない。
「ドミニク!」
テラスからエヴァンジェリンに呼ばれて、ロバートは本を閉じた。対外的にロバートと呼ぶわけにはいかないので、まだ、ロバートの名前は『ドミニク』のままだ。
「なんだよ?」
「僕は、後悔してませんからね!」
何を、というのは、聞かなくてもわかった。
「そうか」
ロバートは、少しだけ笑って、それから、日記をテーブルの上に置いた。今日は天気がいい、家の掃除でも、やろうじゃないか。
埃っぽい家は、嫌なものだからな。
そんなことを考えながら、ロバートはソファを後にしたのだった。
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