Chapter.4 R.E.D.



     Chapter.4 R.E.D.


 ユージェニー、と、自分は哀れみに満ちた声で呼んだ。

 哀れだった。もう十年近く一緒にいるこの女が、たまらなく哀れだった。

 女は少し微笑んで、だって、ドミニクのことが好きなんだもの、と叫んだ。

 ドミニクを死なせないためにやってることなんだと、彼女は言った。私や君が死んでも、あいつが一人で生きていけるようにと。そのためなら私は何だってしてみせると。

 私は君だって、犠牲にするよ。彼女はそう、笑った。

 だからそれ以上自分は、何も言えなかった。彼女は犠牲と称したが、ユージェニーのことだから失敗はしないだろうと思っていたし、強くなれるのならそれはそれでいいと思ったから。死ににくい体、それはきっと素晴らしいことだ。

 赤い髪を短く切ったその女は、悪魔の肉体復元能力を、彼女が『種子』と呼ぶものにして人間の遺伝子へ植え込む研究をしていた。殉職する天使を減らすために――ドミニクを死なせないために。そのエゴイスティックな欲求は、多くの天使の反感を買っていた。あのヴィヴィアンも類に漏れず、彼女のことを糾弾した。もっとも、あれは技術開発の責任者だから形式的にやっているだけで、本人としてはユージェニーのプロジェクトに参加したいと思っているだろう。あの女は、人間の倫理観を遥か斜め上に超越した女だから。

「ドミニクが生きてくれれば、私の技術と一緒に生きてくれれば、私はそれでいいんだ」

 ユージェニーはそう言って、あの迂闊な厭世家の青年のことを、夢見るような瞳で思い浮かべていた。そんな彼女を見ながら、ロバートは、また哀れだと思った。

 ――だが、本当に哀れだったのは、俺だったのかもしれない。

 それに気付いたのは、赤黒い肉の塊と化したユージェニーの死体を見つけてからだった。


 ◆


(どこへ行くの)

 逃げるんだよ。

(なんで僕を連れて行くの)

 お前と一緒の方が何かと便利だからだよ。

(僕、行きたくない。もうこれ以上あなたたちにひどいことされるのいやだ)

 一人前の口利くじゃねえか。でもな、お前は弱いから俺を殺して自由になることなんてできやしないだろ。自由になりたいなら、俺を殺してみろ。

(ユージェニーはどうしたの。どこにいるの。あの人がいなきゃ、実験できないんでしょ)

 あいつは死んだよ。

(死……。なんで、死んだの。あの人、強かったんでしょ)

 一々うるせえなあ、俺が殺したんだよ。めちゃくちゃのぐちゃぐちゃにしてやったさ。ごめんなさいごめんなさいって泣きながらあいつは死んだ。あの男もだ。もうあいつらはいない。

(な、なんで、だって、あの人、あなたの、)

 うるせえ! 余計なこと言うな、それ以上言ったらぶっ殺すぞ! 俺は好きであいつらを殺したんだよ!

(でも、あなた、泣いてる)

 俺が? 泣いてる? ……ああ、本当だ。俺、ああ、俺、くそ、俺――

 だって俺は、あいつらのこと、大好きだったんだよ。

 憎くて憎くてたまらなくなるくらい、ちょっとの裏切りが許せなくなるくらい、あいつらのことが、大好きだったんだ。


 ――そんな、遠い、二年前の記憶。

 そして青年は今、彼らの墓の前に立っている。

 風は、吹いていなかった。


 ◆


 ドミニクは、病室の天井を残った左目で見つめてぼんやりしていた。昏倒しているうちに《監視局エデン》へと運ばれたので、いまいちここが《監視局》の天使本部エンピレオにある病院という事実が認識できていない。先程、ヴィヴィアンから言伝を頼まれたと言う女に「眼球の手配だけ間に合いませんでした、ちょっと待っててね。腕とか手足とかぐちゃぐちゃになってた内臓とかはちゃあんと作ったばっかりの新しいやつくっつけましたから、感謝して生活してください。愛してますよドミニク君! チュッチュ!」と身振り手振り付きで伝えられたが、それくらいしか彼を現実と結びつける事項がないのである。なお、最後の投げキッスまでさせられた女は、顔を真っ赤にしてそそくさと帰って行った。新人だろう、古株はそういうヴィヴィアンのノリに慣れ、真顔で投げキッスをして帰って行くから。あれはいつかセクハラで訴えられると思う。

 白い病室は、地上とあまり変わらない。何度か病院に現れた悪魔を殺しに行ったことがあるが、その時もやはり、白い壁と白い照明、白いベッドと白いシーツという内装で、こことさして変わらなかった。

 ただ――ここは、風が、吹かない。匂いもない。薬の匂いはするが、潮の匂いも、太陽の匂いもしない。こちらで過ごした時間の方が長い筈なのに、どうしてだか、ドミニクにはそれがひどく違和感のある事柄のように思えて仕方がなかった。無性に煙草が吸いたい。出来ないとは分かっているが、それが余計欲求に拍車をかけている気がする。

 医者に日付を聞いたところによれば、あの《高慢者》を殺してからまだ三日ほどしか経っていないらしい。体は痛いと言うより怠かった。包帯に覆われた空っぽの右眼窩だけはたまに痛んだが、殆どの時間は鎮痛剤が効いていて大人しかったから、もう全快と言っていいんじゃないか?とドミニクなどからすれば思う。明日からリハビリだと言っていたし、そのうち右目も届くだろう。そうすれば晴れて退院である。短いものだ。

 ……しかしこうして寝ていると、二年前を思い出すな。

 二年前も、ヴィヴィアンの手で千切れた下半身と潰れた両目を補填され、こうして病院に放り込まれた。あの時のドミニクは瞬きも出来ないほど《感情抑制剤アフェクトゥス》を打たれていたのでこうしてベッドへ寝かされていても特に何も感じなかったのだが、二年経って同じような状況に置かれてみると、これはひどく退屈なものだと思わざるを得なかった。

 そう言えば、まだパライソに会っていない。面会謝絶だったのかもしれないが、あの少女にはきちんと謝っておきたかった。心配をかけてすまなかった、ヒステリックに当り散らしてすまなかったと。それから、エヴァンにも、すまないと、ありがとうと言わなければ。

 突き離してすまない、助けてくれてありがとうと。

 眠ったおかげで、精神は再び平静を取り戻していた。やはり睡眠というのは必要なものなのだな、とドミニクは思う。今なら、あの《高慢者》も簡単に殺せそうだ。勿論パライソもちゃんと連れて行くから、《怠惰者》に背後から刺されるなんて間抜けなこともしない。寝不足は判断力や思考力の低下と精神の失調を引き起こすことを理解出来た、と彼は一つ欠伸をした。

 二年前、助かりたくなかったのは事実だ。

 自分は死ぬべきだと、今でも思っている。

 だが、自分が助かった時に泣いたヴィヴィアンやパライソの感情を無視することがいいことだとはさすがに思わないし、自分を助けに来たエヴァンジェリンのことを無碍にすることも同様だ。

 いい人、と、少女に言われたことを思い出す。確かに、彼女らを傷つけないようにする自分は、傍から見るといい人なのかもしれない。だがドミニクは別に、いいことをしようと思って生きているわけではないのだ。

 怖いのである。

 他人を傷つけることが怖いのではない、他人を傷つけた結果、何が起こるのかわからないのが、怖い。だから、ドミニクは、出来る限り彼女らを傷つけないようにしたいと思っている。こんな性格の人間を『いい人』と呼ぶのは些か語弊があるとドミニクは思う。

 それに、このような性格になったのは二年前からだ、二年より前に至っては、エヴァンジェリンの言う『いい人』など程遠い人格だった、はずである。

(悪魔を恐れるような弱い人間は辞めていい。要らないから……)

 確か、朝礼で毎朝そんなことを言った気がする。そうだ、自分は、恐れを知らなかった。悪魔は殺せばいいと思っていたし、事実そうしてきた。今でもそうしている。

 あの日の、あの、悪魔の前以外では。

 あの日あの悪魔から、あの青年から向けられた異常なほどの憎悪が、自分は恐ろしくてたまらない。逆に言えば、それ以外はどうだっていい。ただ、あの憎悪だけが恐ろしいのだ。

 あの瞳だけが、自分は恐ろしい。

 小さく、懐かしい、あの青年の名前を呟いてみた。誰かに聞かれたら血相を変えて査問会にかけられる名前。禁忌になった名前。隠蔽された名前。名前自体が問題なのではない、『自分が』この名前を口にしていることが問題なのだ。だが、この部屋には誰もいない。だから、呟いてみる。大事だった、家族の名前。守ってやりたかった、家族の、たった一人の家族の名前。血なんて繋がっていない、遺伝子的にも遠い、同じ施設で生まれ育った、それだけの関係。

 だが、間違いなく、家族だったのだ。

 天井を見ながらそんなことを考えていると、病室の扉がいきなり開いてドミニクはぎょっとした。医者が来るにはまだ早いし、先程の独り言を聞かれていたらまずいと思ったことと、そして何より、扉から入ってきたのが、一人の少女だったからである。

「あ……」

 扉を開けたのは、エヴァンジェリンだった。スカートのような形のショートパンツ――名前を知らない――を履いた少女が、百合の花束を抱えて入口のところで足を止める。

「……どうした?」

「その、寝てると思っていたので」

「《監視局》、っつーかエンピレオの病院は怪我人の回転が早くてね。朝怪我したやつが昼退院して夜また運ばれてくるなんてことを言われるくらいには怪我人の治りが速い」

「ふふ、なんですかそれ」

 少女が扉を閉めて、花瓶を求めているのだろう、視線を部屋の中にめぐらせた。だが、この部屋には何もない。ヴィヴィアンたち上層部の連中はドミニクがそういうものに興味がないと知っているので、余計なものを置かなかったのだ。

「花瓶、ないんですね」

「あー……今度用意してもらうよ。そこらへんに置いておいてくれ」

「いいですよ、持って帰ります」

 枯れてしまいますし、とエヴァンジェリンは百合を抱え直してドミニクを見下ろした。よく見れば、その金色の目は、ユージェニーのものに似ている。いや、ユージェニーのものよりは濃いか。どちらでもいい、と彼は思った。比べる方は気安いものだが、比べられる方は時にひどい屈辱だと感じるものだ。

 ――そう言えば、自分も、よくあいつと比べられたな。

 あいつはそれを嫌がっていて、しばしばそれが原因で喧嘩になった。

 まったく、嫌なことを思い出したものだ。眉をしかめると、エヴァンジェリンが首を傾げる。それに手を振ってやってから、少し溜息を吐いた。ここは嫌だ、《監視局》も、エンピレオも、思い出が多すぎる。ドミニクと少女の間に、沈黙が降りた。その静けさにどうにも居心地が悪くなって、「帰らないのか」と問う。ドミニクの問いに、「あの」と少女は困ったような顔をして、それから言い澱んで口を閉ざした。何かを言いたいようなのだが、言いにくいらしい。

 そう言えば、言いたいことがあった。

 突き放してすまない、助けてくれてありがとう。

 そう言わなければ。

 だがそう思う頭を裏切って口から零れたのは、自分でも驚くような言葉であった。

「……昔話を、しよう」

 俺は何を言っているのだろう。そんなことを思った。これを喋ったことがばれたら、大目玉では済まないだろう。だが、なぜだか口を開いてしまった。この少女とユージェニーを比べてしまったことへの償いのつもりだったのかもしれない。ただ、なんとなく、そう、なんとなく――喋っておきたかったのだと思う。相手としてこの少女を選んだのは、あの血だまりの中に駆け付けたのが、彼女だったから。もしこれがパライソでも、自分はきっと同じ話をしただろう。ただあいつは全部知っているから、昔話じゃなくて、思い出話になってしまうだろうが。

「まあ、座れよ。今から二年前のことを、いや……もっと前のことからか……まあ、昔話だ」

 これは懺悔なんかじゃない。

「それを、少しだけ、話してやる」

 ドミニクのことを――いや、『俺』のことを、誰かに、知っていて欲しいだけなのだ。


 ◆


「いざ話すとなると、難しいもんだな。どこから話せばいいのかわからない」

「……どこからでも」

 エヴァンは近くにあった背もたれのない丸椅子に腰かけて、百合の花束を持ったまま男の告白を聞いていた。男は右目を包帯で覆っており、また全快していないことがようと知れる。本人は元気なつもりかもしれないが、まだ明らかに顔色が悪い。もしかするとそれは健康状態のせいではなく、精神的なもののせいだったかもしれないが。

 この男はきっと、生きていけるほど心が強くないのだ。エヴァンはそう思う。

 全てを失って生きていけるほど、心が、強くない。

「じゃあ、ロバート・ノーマンとドミニク・ダインリーの話からしよう」

「はい」

「は、律儀だな、一々返事なんかしなくていい」

「そう、ですか?」

 しまった、あの人が話を聞く時は相槌を打てといつも言うので、つい打ってしまった。そう言えば、この男は、あの人とは違うのだ。たまに混同してしまうけれど、別人だ。

「ああ、返事なんか要らねえよ……まあいいや、そう、ロバートとドミニクの話だ。俺たちは、同じ施設で生まれて育った、少し歳の離れた友人だった。三つかな。ロバートが上でね。仲は良かったよ、俺たちはいつもつるんで悪戯して、怒られて、天使になろうっていつの間にか二人とも決めてた」

「……すみません、前から聞きたかったのですが」

「なんだ?」

「あなたは、なぜ、天使になったのですか?」

 これは、《監視局》の天使全員に聞きたかったことだ。こんな危険しかないような職業に、なぜこの人たちは好き好んでなるのだろうと、ずっとエヴァンは聞いてみたかったのである。

 そしてその答えは、案外簡単に返ってきた。

「金のためかな」

 金のため。動機としては、非常にわかりやすい。だが、あっけらかんと答える男は、そういう世俗からは遠い人格をしているように思えた。そんな、重要だがつまらないもののために、命をかける人種だとは思えなかったのだ。

「……納得いかない顔だな。でも、天使の給料ってのは普通の企業とはケタが二つくらい違うんだぜ? 悠々自適な生活さ――生き残ることができればな。あと、家名のためだ。普通《監視局》の人間は施設で育っても十五になりゃどっかの家庭の養子に入って家名をもらうんだが、それが面倒でね。天使になっても家名がもらえるから、それのために」

 男が唇を吊り上げて、煙草吸いてえ、と小さく呟いた。

「……本当のところを言っちまえば」

 少し、男が顔を背ける。男の左側に座っていたので、自然、失った右目がエヴァンの視界から失せた。淀んだ紫色の瞳が、どこか遠くを見つめる。

「俺は、多分、そうするしか、生きていく術がなかったからだ」

「……それ、は」

「俺はきっと、。いや、俺だけじゃない、俺たちは多分、どっちもそうだったんだ。この世界の仕組みを理解した時、俺たちが一番に感じたことは、人間を守っている天使への敬意でも、人間と悪魔の関係に対する疑問でも、ましてや天使や人間を殺す悪魔への恐怖でもない」

 男が、一度、言葉を切った。繋ぎ合わされた右手首の感触を確かめるように、男が指を緩く丸める。その指の形は、銃のグリップを握った時のものによく似ていた。

「天使になれば悪魔を殺せるって言う、歓喜だ」

 そんな人間が、まともに生きていけるわけがない。男はそう言った。

「施設で、消灯時間になる度、同じ部屋だった俺たちは悪魔をどうやって殺すか笑って話してた。銃を撃ってみたいだとか、そういうことを、ずっと話してたよ。朝になるまでな。俺たちは、とにかく悪魔をぶっ殺してみたくてたまらなかったんだ」

 ――あいつらは、頭がおかしいんだ! 殺したいだけなんだよ! 人間も、悪魔も!

 男の言葉を聞きながら、エヴァンは、父の顔を思い出す。目を見開き、口から泡を飛ばしながら、父は、そう自分の上司たちを罵った。

「十一歳で、ロバートが、天使になった。俺は十二でそんなロバートを追いかけるみたく天使になった。天使に年齢制限はないんでね、筆記が基準以上で実技の点数がずば抜けてりゃ、三歳児だって天使になれるのさ。

 ……そして、俺たちは、あのユージェニー・アダムズに、出会ったんだ」

 男の瞳が、エヴァンを見ないまま細められる。そのまなざしはまるで太陽を見上げた時のようで、同時に、恋でもしているようなものですらあった。永遠に追いつけないものを追いかける子供の、焦がれる瞳であった。

 その瞳になんとなく不愉快なものを感じて、エヴァンは百合の花束の根元を思い切り握りしめる。花束を包んでいる包装紙が、クシャリと乾いた音を立てた。その音を聞いて、なんでだろう、とエヴァンは少し思った。

 なんで、自分は、こんな気持ちに。

 ユージェニーのことを、あののユージェニーのことを、この男がこんなにも懐かしそうな瞳で見たから、それがなんだというのだ。あの女はもう死んで、いない。この男がどんなに焦がれても、どこにもいない。

 そして、この男も、もうじき死ぬ。

 なのになぜ――自分は、こんな気持ちになってしまうのだ。

 お前も飴をもらっただろう、と言ったパライソの声が、エヴァンの頭に蘇る。飴。レストランでもらった、デザート。カラメルプディング。追及されなかった体の傷。少し優しくされただけじゃないか、傷に至っては、優しくされたわけでもない。興味を持たれなかっただけだ。そう、少しだけ、少し、ほんの少し――


 少しだけ、幸せな気持ちにさせてもらっただけだ。


 なんだか、普通の人間になったみたいな気持ちに。させてもらっただけだ。

「……ェニーは、やっぱり、変な奴だった。赤茶の髪をだらだら伸ばして、毛虫みたいな外見でさ。まあ、すぐ三つ編みにしてたがね……俺と同時に入ってきたんだが、その時十四で、ロバートの一つ下だったんだ」

 男の言葉でエヴァンは我に返った。意識が飛んでいたらしい、何をやっているのだ、自分は。

「あいつも俺たちと同じタイプだったから、すぐに仲良くなれたよ。それからはもう、転がるみたいにして、俺が十五になる頃にはもう三人で《監視局》のトップになってた。成績は上からロバート、ユージェニー、俺って順番だったから、ロバートを頭に補佐官みたいな形でユージェニーと俺がいたんだ」

 楽しかったよ、と男は言った。

「多分、一番輝いてた時期だったと思う」

「……青春って、やつなんですかね」

「まさしくそれだろうな。俺たちは、出来ないことなんて何もないって思ってたから。あの頃は、まあ今でもそうだが、汚職とかも本当にひどかったし、俺たちは正義と言う名の好奇心に燃えて色々やったよ。無謀さが若さなら、間違いなくあの時の俺たちは若かったろうな……悪魔を殺して殺して殺しまくるのが、俺たちは楽しくて仕方なかったんだ」

 まあ、周りからすれば、最低の指揮官だったろうけどな。男は自嘲気味な声音と共にエヴァンの方へ向き直ると、「でも、平和だった」と泣きそうな顔で続けた。

「ユージェニーが、『天使の殉職率がひどい』っつってな。悪魔の肉体復元能力を司る遺伝子構造を研究し始めて、それで、」

 ああ、ここから先は、僕のことでもある。エヴァンは、腹がしくりと痛むのを感じた。

「俺は、あのプロジェクトの理論的なところをよく知らない。知らないんだが――悪魔から抽出した、『種子』と彼女が呼んだものを植え込むと、悪魔には遠く及ばないとは言え、多少――腹が切り開かれたくらいじゃ死ななくなるってことだけは知ってる」

「……それは、悪魔と、どう、違うんですか」

「弱い」

 男の答えは端的だった。

「傷が治るだけで戦闘能力は人間なんだ、悪魔なんかよりよっぽど弱い、が……その種子ってのは、悪魔から抽出したもので、ユージェニーのそれは、『非人道的だ』とヴィヴィアンたちに嫌がられてたから、自由にラボを使えたわけでもなくて――だからつまり」

 悪魔になったんだ。

「実験台の一人が、失敗して悪魔になってな。ユージェニーを殺して逃げた。駆けつけた――」

 そこで男が、また言葉に詰まる。その理由を、エヴァンは知っていた。

 この話も、あの人から、耳が腐るほど聞いている。

「駆け付けたロバートも、死んで」

「……あなただけが生き残った?」

「……そうだ」

 男が、一つしかない目を閉じた。

 こんなの嘘さ、と男が唇だけで薄く呟くのを、何も言わずに見る。

「俺は――俺は、逃げた。俺の目の前で、ロバートが死んで、あの兄みたいな男が死んで、俺は――」

「……ドミニク」

 エヴァンは微笑む。彼を許すように。反吐が出るな、と心の中で思う。僕は何者なの、こんな、こんなことをしてまで生きてる僕は。

 ただ、僕も――

「もういいよ」

 ――この人と同じように、あの日生き延びてしまった自分の始末をつけて欲しいだけなの。

 あの人に連れられて生き延びてしまった自分の、始末を。

 せめてこの男につけてもらえたら、と、思ってやまない。

「わかったから。辛いんでしょ、言わなくていいよ」

「……そう、だな」

 男が、ドミニクが、目を開ける。紫色の瞳をこちらに向ける。

「僕、帰るね」

「ああ。……そう言えば、パライソはどうしてる?」

「落ち込んでたよ。合わせる顔がないって」

 嘘だ。会ってもいない。あの少女は多分天使たちの預かりになっているので、自分などにはそうそう会えるものではない。

「そうか……悪かったと伝えておいてくれ」

「それは、直接言ってあげて」

「直接も言うさ、でも、先に、言葉だけでも伝えておいてほしいんだ」

 いつか言えなくなる日のために、と、ドミニクは言外に言っていた。

 不思議なものだ。この部屋は病室で、生きたがる人が足掻く場所なのに、今存在するのは二人とも死にたくて仕方がない人間である。こんなにもこんなにも、自分たちの足は、体は、頭は、感情は、死へ向いている。

「わかりました」

 エヴァンは椅子から立ち上がり、百合の花束を右手に下げて、微笑みを張りつけたまま踵を返す。そんな彼女の背中に、ドミニクが声をかけた。

「エヴァンジェリン」

 やめて、と、思わず叫びそうになる。女の名前で呼ばないで、慣れない響きが、胸をかき混ぜてやまないのだ。振り向かなかった、振り向けなかった。

「あの時、あの宿屋で、突き放してすまなかった」

 そんなこと、もうエヴァンは覚えていなかった。気にしていなかった。

「気にしてないですよ」

 ああ、きちんと言えただろうか? 泣きそうな響きでは捉えられていないか?

「そうか。あと、助けてくれて、ありがとう」

「……それも、気にしてないです」

「治ったら、飯屋にでも連れて行ってやるよ――服とかの方がいいか?」

 耐えられない。昔話をされたことは予想外だったが、当初の予定である見舞いは済んだ。自分はもうあの人に言われた通りやった。これでいい、これ以上は必要ない。エヴァンは胸の傷跡がのたうつような感触を覚えて、百合の花束の陰で己の胸元を強く掴むと、その感触から逃れようとするみたいに「どちらでも」とだけ返してから、そそくさと病室を後にした。


 ◆


 エヴァンが出て行ってからすぐにやって来たのは、どういうわけかロッキー支部支部長の鷲鼻だった。珍しく天使の正装を着て、手に帽子まで持っている。お前支部はどうした。放って出てきたのか。ドミニクの言えた義理ではないが、この男も大概職務に忠実ではない。

「……醜態を」

 晒してすみませんでした。そんなことを言おうとした。あれは失敗と呼べるだろう、十日も眠らずに突っ込んでむざむざ罠にかかって挙句の果ては包丁でめった刺しにされて自分より遥かに年下の少女に助けられる。どう考えても醜態である。だが、彼の謝罪は、鷲鼻に遮られて完成することはなかった。

「すまなかった」

「……は」頭を下げる鷲鼻に目を丸くして、ドミニクは疑問を口から零す。この事態の一体どこに、この男の謝るところがあったのだろう。全部自分のせいだと思うのだが。驚くドミニクの前で鷲鼻は顔を上げると、手持無沙汰気味にその曲がった鼻を撫でた。

「その……私は、君を……何と言えばいいのか。人間として見ていなかったのかもしれない。いや、間違いなく、見ていなかった」

「……」

 何を返すこともできず、ドミニクは押し黙って鷲鼻の話を聞く。

「君は、強い、何かしらの生き物で、我々とは違うものなのだと……思っていたのだ。今回、君が電話の向こうで血のあぶくを吐きながら『来るな』と言った時、初めて、君が……いえ、あなたが、人間なのだと、思えたのです。我々と、同じ、人間なのだと」

 突然丁寧になった鷲鼻の口調を聞いて、思わず眉をしかめる。やめてほしい、そう言うものは求めていない。これだから嫌なのだ、歳を取った天使は。自分のことを知っているのが、ドミニクにはとても、とても――嫌で仕方がない。

「二年前の事件まで、あなたが朝礼で、『恐れを知る者は失せろ』と言うのを、私は、怪物の論理だと思っていました。あの事件が起こってからは、他の皆と同じように、軽蔑していました。あんなことを言っておきながら、と」

「……その通りだ。何も間違ってない。俺は軽蔑されるべき怪物だよ」

 相変わらずなかなか話が見えてこない鷲鼻の話に些かの苛立ちすら感じ始めながら、ドミニクは彼の言葉を肯定する。自分は軽蔑されて当然の人間だ。二年前のあれは、そうされるのに値するものだった。だが鷲鼻は、「いえ」と言葉を続ける。

「確かに、二年前のあなたの行動は、軽蔑されることだと思うのです。あなただけでなく、他のお二人の行動も。我々はとてもあなた方の行動を認めることはできませんし、許すこともできません。特にアダムズ補佐は、D区画の焼却所から出て来たあの夥しい死体の数を考えると、とても不可能です。何度査問会にかけても、あなた方は間違いなく、今と同じ罪を背負うことになるでしょう。……でも、あなたの、あなた方の、功績も、間違いなくあった」

 そこまで言ってから、鷲鼻は立つことに――あるいは喋ることに――疲れたのか、近くに置かれていた白い丸椅子に腰かけると、両の手のひらで目元以外を覆い、「そう、あったのだ」と呟いた。それはドミニクに言っているのではなく、自分へ確かめているような響きで、受け取り手のいない言葉は、ただ床へと落ちた。

「《高慢者》や《憤怒者》相手に手を焼き、毎回十数人、ひどい時には数十人も出ていた死傷者を、僅か数人にまで落としてくれたのはあなた方だった。《怠惰者》を発見するのに《暴食者》を使えばいいと教えてくれたのもあなた方だった。あなた方の強要した訓練は厳しすぎたが、それ故に生き残れた新人もいた。あなた方が、たとえ自らの好戦的な、死を恐れない性格のためとは言え、囮になってくれたから助かった場面も多々あった。あなた方が率先して悪魔を殺しに行くから結果として生き延びた天使も、現場で殺されかけたところをあなた方に救われた天使も大勢いる。あなた方は天使全員の名前と顔を覚えていたし、性格まで把握していた。無論、それが戦闘を有利に運ぶための情報として覚えられただけのものに過ぎないのは分かっています。覚えて仲良くしようだとか、そういうことを考える人間ではありませんから、あなた方は」

「……ひでえな。俺たちが仲良くしたいと思ってたんだったらどうするつもりだ」

「有り得ませんね。なぜなら、今のあなたは私の名前も覚えていないからです」

 鷲鼻にそう言われ、ドミニクは少なからず驚く。自分が鷲鼻の名前を覚えていないことを、彼はわかっていたのか。

「だから余計、軽蔑していたのです。所詮あなたは強者だと。生まれながらの強者なのだから、使い潰しても大丈夫で、それが彼の本望なのだろうと。腕が千切れて帰ってきたあなたを見ても、強者のくせにとせせら笑うだけだった。この男は戦いで使い潰されるため産まれてきた存在なのだとすら、私は思っていた」

「……割合、当たってるぜ……俺は、戦わなければ生きられないから。俺の私生活を知ってるだろ、煙草吸って寝て酒飲んで寝て《感情抑制剤》飲んで寝てるんだ、死体みたいなもんさ。辛うじて生きてると呼べるのは、戦ってる時だけだ」

「でも、あなたもやはり、人間だ」

「人間じゃねえよ、……人間じゃあ、ない」

 右眼窩の奥が、なんだかひどく痛んだ。鎮痛剤が切れたのかもしれない。鷲鼻が言う。

「人間ですよ――あなた方は、きっとみんな、人間だったのだ」

 ドミニクは何も言わなかった。言うべき言葉を持たなかった。

「二十、二十代か」

「……うん?」

「若造だ、そう、間違いなく若造だ」

「……それが?」こいつの話は本当に、年寄り臭く婉曲的だ。四十代後半、五十代に入っていただろうか。四十二という天使の平均寿命からすると、本当によく生きていると言える男だった。大体、二年前のあれを生き延びているところからして、悪運は強いのかも知れなかった。

「上から順に、十八、十七、十五……君たちが、《監視局エデン天使本部エンピレオ所属大天使長と、その補佐官――要するにこの世界で最も偉い人間たちになった時の年齢だよ。普通は、この歳で新人になるのだがな。いや、大天使長自体には、十四でなっていたか……他二人が補佐官についた時に十八だったと言うだけで……まあいずれにせよ、若いことに変わりはない」

 いつの間にか、鷲鼻の口調はいつもの偉そうなものに戻っていた。ドミニクもそれに合わせて、「それが、どうかしたんですか」と、丁寧に答える。

「君にはわからないことだ、君は殺し合いに長けている代わり、人間の心にはさっぱり疎い男だからな」

 ――傷口を抉るその言葉で、ドミニクは衝動的に銃を抜きたくなった。銃などないと知ってはいるが、そうしたくてたまらない。こいつは相変わらず、人の傷口を糸鋸で拡張するようなことをしてくるな。いつか殺されるぞ、いやその前に俺が撃ち殺す。

 ……人の心がわからないなんてことは、自分が一番よく分かっている。

 不愉快さを隠そうともしないドミニクを見て満足したのか、鷲鼻は薄ら笑いを浮かべて鼻を鳴らし、「君がそうやって機嫌を悪くしていると、実に気分がいいね。生きようとしているように見える」とまたその曲がった鼻を撫でた。

「まあ、これからも死なない程度に頑張ってくれたまえ、ドミニク・ダインリー君」

 鷲鼻はその言葉を最後に立ち上がると、手に持った帽子を揺らしながら背を向ける。

「名前を」ドミニクの声に、鷲鼻が振り返る。

「名前を、教えてください。あんたの言った通り、俺はあんたの名前を憶えてないもんでね」

 なぜこれを訊いたのか、理由なら、十本の指で数えられないくらいにある。ただ、その中で一番大きな理由を挙げるとしたら実に単純で、この男の名前なら、久しぶりに憶えてみてもいいか、と思ったのだ。それだけだ。

 だが、鷲鼻はまたフンと鼻を鳴らすと、「ここで教えても、君は三日で忘れるだろうが。そんな男に教えるものか」と言っただけですぐに前を向いて扉の外へ出て行ってしまった。

 だからドミニクは、結局彼の名前を憶えることが出来なかったのだった。


 ◆


 パライソは走っていた。ドミニクが目を覚ましたと言うので、ヴィヴィアンに外出許可をもらったのである。エンピレオでも上から五本の指に入る程度の地位を持つ彼女の許可証は凄まじい効力で、首に下げているだけで呼び止められることもなく、逆に敬礼されてしまうくらいだった。おかげで病院の中でも特に警備の厚い、天使でも正装でなければ入れない一級病室棟にも簡単に入ることができたので、今度ちゃんとヴィヴィアンにお礼を言わなくちゃ、とパライソは思う。

 とにかく、一刻も早く彼に会いたかった、彼の無事な姿を見たかった。

 ドミニクが瀕死の重傷を負って《監視局》へ連れて行かれたという話を聞いた時、パライソは本気で倒れるかと思った。あの時無理にでも着いて行っていれば、と後悔しながら、『子供には見せられないくらいにひどい』というドミニクの姿を想像して、ヴィヴィアンに保護された時、わんわん泣いた。二年前のあの日と同じくらいに、パライソは泣いた。失うことが恐ろしかった、二年前の喪失感を思い出すと、怖くて涙が止まらなかった。

 ――二年前のあの日、あの男の残骸を最初に見つけたのは、少女だった。

 パライソは、ヴィヴィアンに言われて、あの日もやはり、彼を探しに走っていたから。ただ、あの日はもうどこもかしこも滅茶苦茶で、誰も彼の捜索などに手を割けなかったから、彼女が彼を見つけたのは必然だったのかもしれない。

 あの日、風の吹き荒ぶエンピレオの東端、ドーム状になった硬質ガラスへ磔にされていた男は、パライソが見つけた時既に上半身だけだった。千切れかけた両腕を杭状に削った人骨で縫い止められ、顔も潰された男の姿は最早何かしらのオブジェにしか見えず、両目はただ血を湛えるだけで、そこに存在していたはずの眼球は、どこにもなかった。道しるべのように内臓の欠片をまき散らして、男は磔刑にされていた。鼻も唇も削ぎ落とされ、鮮やかな晴天の下でガラスを真っ赤に彩る、泥で作られた人形のようなその男の姿を見て、それでもそれが『彼』なのだと分かったのは、《暴食者》の嗅覚のおかげだろう。

 男が死んでいないのだということは、すぐにわかった。引き裂かれた上半身から垂れ下がった心臓が、無意味なのではないかと思うほどに動いていたからだ。だからパライソは繋がらない公衆電話を叩きつけてヴィヴィアンの元へ取って返すと、人を連れて彼を救出したのだ。

 三日前、彼は、助かりたくなかった、と言った。

 だが、パライソは、彼を助けたかった。

 ……本当は。

 本当は、あたしだって、助けられたいなんて思ってなかったよ。

 この時代で目を覚ます前の記憶は、殆どない。いつもひどくひもじい思いをしていて、お菓子って言うものを食べてみたいな、と思っていたことくらいしか、覚えていない。バターや砂糖、クリームをいっぱい使ったお菓子に憧れて、いつも腹を減らしながら、もう食べる物なんてそれしかなくて汚い小石を貪っていた。《暴食者》は、なんでも食べることが出来るから、小石を一生懸命に食べていた。そんな記憶だ。自分がなぜあんな風に凍結されていたのかもわからない。だがその代わり、あの保存溶液の中で凍結処理されていた時のことはよく覚えている。

 それは幸せな幸せな――お菓子みたいな、平和の夢だった。優しい手に頭を撫でられて、綺麗な服を着てお菓子を食べ、芝生のある公園で遊ぶような、そんな夢。

 海から引き上げられた時、パライソは唖然とした。そこは平和とは縁遠い世界だった、記憶はなくても、血の匂いは本能にしみついていたから、そんなことはすぐにわかった。この世界は血の匂いに溢れていて、どこでもかしこでも争いが起こっていた。これなら、夢の方がよほど素晴らしいではないか。しかも、言葉がわからないのでよくわからないが、どうやら自分は必要ないらしい。凍結される前のように必要であったならまだしも、それならばもう、殺されたいと思った。不要な駒に何の価値があるというのだろう。きっと、遅かれ早かれそうなる運命だったのだとすら思った。なんだか、とても、疲れていた。

 そんなパライソを救ったのが――あの男とヴィヴィアンだったのだ。

 最初は余計なことを、と腹を立てた。けれど、パライソが言葉を覚える度に彼女の頭を撫でてくれたのは彼らで、綺麗な服を買ってくれたのも彼らで、お菓子を食べさせてくれたのも、狭いとは言え芝生のある庭で遊ばせてくれたのも彼らだった。

 ――自分の夢は、ここにあったのだ。

 実験の一環だとか、パライソに言うことを聞かせるためのご褒美だとか、そんなことはどうでもいい。どうでもいいと思えるくらいに、彼らは、パライソに夢をくれた。

 彼が磔刑になったのは、そう思った直後のことだった。

 だから、だから――パライソは、彼を助けたのだ。

 彼の夢がもう、元に戻らないのは知っている。あの二年前に彼の夢は、幸せは全て失われてしまって、手に入らないのだとは分かっている。

 だが、その夢の代わりくらいにはなれたらいいと、彼女はあの日からずっと思ってやまない。

「――ドミ!」

 一級病室棟にある、要人用の広場に、ドミニクは立っていた。白い入院服を着て、右目に包帯を巻いたその姿は、間違いなく彼のものである。そう言えば、ヴィヴィアンがまだ右目は手配出来ていないのだと言っていた。

「パライソ」

 振り向いたドミニクの笑顔に胸を撫で下ろし、駆け寄ろうとして――その違和感に、パライソは足を止める。笑顔がたとえようもなく、気持ち悪い。匂いもそうだ、これは、あの支部で嗅いだ匂いと同じものだ。

 それに何より、視界の端で、赤いものが、

「……あ、ああ、」

「お前ってつくづく運が悪いな? 二年前も一番見たくないものを見ちまって、今回も、見ない方がいいものを見ちまった」

 凍結処理されたのも運が悪かっただけなんじゃねえの、とドミニクが――が笑った。見慣れた、それでいて見慣れていない、矛盾した笑みが、パライソを貫く。

 要人が入院した時の憩い用に作られた吹き抜けの広場、それを取り囲む四方の柱、その上の方にある飾り文様の入った壁へ、千切られたばかりであろう人体の残骸が縫い付けられていた。頭と胸が一面、両腕が一面ずつ、最後に、足と、腰。

 残骸からぼたぼたと垂れる真っ赤な血は、あの日のものと同じ色をしていた。

「――あああああああああああああああああッッッ!!」

 パライソは弾かれたようにドミニクへ飛びかかった。を生かしていてはいけないと思った、早急にぶっ殺して二度と生き返られないように食いちぎってしまわなければ。これは、これは――

「残念だがねパライソ、俺はお前よりめちゃくちゃ強いんだよ」

 少女の突進を右に少し体を捻って避け、ドミニクが、彼女の腹に膝蹴りをぶち込む。かふっ、と息の詰まる音を喉から漏らして、体の小さいパライソは蹴り上げられた衝撃に一瞬空中で動きを止めた。組まれた両手で作られた拳が、そんな少女の背中に落とされる。鈍く重たい打撃音が響き、ようやく地面に足をつけたパライソは大きくよろめいた。だが、ドミニクの追撃は止まらない。前のめりによろめく少女の頭を掴むと、その身体をふわりと大きく振りかぶってから芝の生えた地面へ勢いよく叩きつけた。柔らかいように見える地面も表層だけで、すぐ下は石だか金属だかである、鼻と歯が折れて、折れた歯でさらに舌を切った。所詮骨折であるからすぐに治ったものの、頭を打ったせいでワンテンポ対処が遅れる。

 そして、それが、パライソの致命的な敗因だった。

「ぅ、ぐ」

「パライソ」

 上にのしかかってきたドミニクに、いつの間にか解けていた髪の毛を掴まれ、腕も捻り上げられた上で無理矢理彼の方を向かされる。いや、彼などと、人間らしく呼ぶのはおこがましい。

「こ、の、ばけも、のがぁ……」

「お前もだろ? きたねえ顔して、すぐ治るんだから世話ねえよ」

 唾を吐くと、思い切り地面へまた顔を叩きつけられた。それに伴ってどこかの折れる音、このクソが、人の顔をなんだと思ってんだ。あいつなら絶対こんなことしない、絶対。

「……一緒にいてくれ、パライソ。お前となら、何でもできる気がする」

 唐突に囁かれた言葉に、全身の毛が逆立つような心地がする。あたしの、あたしの大事な人の声で、そんなことを言うんじゃねえ。憤怒に血が沸騰しそうだ、涙が溢れて止まらない。殺したい、こいつを今すぐ殺してやりたい。

「なんで泣くんだよ、そう言ってほしかったんだろ?」

「くず、が」

「クズで結構。言われ慣れた言葉なんて、今更何の痛みもないね。ああ、清々するなあ、負け犬の遠吠えは!」

 気持ちの悪い、人間のかたちをした怪物がゲタゲタと笑う。

「俺はお前が大嫌いだし、あいつも大嫌いだし、ユージェニーも大嫌いだった! 俺は天使ってのが大嫌いなんでなあ、お前らが俺に殺意を向けるのが、もう楽しくて仕方ねえんだよ!」

 だから、お前は、更なる殺意のための礎になれ。

 そう言って、怪物はパライソの右腕を固定すると――


 ◆


 ……どうやら、いつの間にか眠っていたらしい。

 ドミニクは、病室のベッドの上で目を覚ました。相変わらず白い天井は、何も訴えることなどないとでも言うようにと彼を見下ろしている。体も怠い。あまりにつまらないので色でも塗ってやりたいなと思っていると、段々クリアになってきた意識の外から、大勢の人間のざわめきが聞こえてきてドミニクは眉根を寄せた。かなり切羽詰まった声でやりとりしている。どうも緊急搬送だとか言う雰囲気ではなさそうだ。

 動くべきかどうか悩んでいると、扉が慌ただしく開かれて若い看護師が顔を出す。その顔は蒼白で、このざわめきの原因がただ事ではないことを示していた。何事かと問おうとしたドミニクに、その看護師は「早く来てください!」と叫ぶ。

「待て、何があったんだ?」

「見てもらえばわかります! 来てください、とにかく!」

「わかった、わかったよ」

 看護師に急かされ、ドミニクは病室を出ると怠い体に鞭打って走った。病室を出て初めてわかったことだが、自分のいた病室は、一級病室棟であったらしい。なるほど、あの鷲鼻が正装で来るわけである。というか、なぜ俺はこんなところに放り込まれたのだろう。今更要人扱いもあるまいに。野良犬にスイートルームをあてがうようなものだ。単に病室が空いていたのか、ヴィヴィアンの采配か。それに、奇妙なことが一つあった。この病棟に、どうやってエヴァンジェリンは入ったのだろう。そんなことを考えながら怒鳴りつけるような案内に従って進むうち、広場に出た。申し訳程度に植えられた芝が眩しい、実につまらない広場である。その広場に、白衣を着込んだ人々がぎゅうぎゅうにひしめき合い、何かを言い合っていた。何を話しているのかはわからなかった、そんなものよりも、ドミニクには、彼らの周りに広がる光景の方が、重要だったから。

 ――絶句した。

 壁を染め上げているのは、血である。ペンキなどとは比べ物にならないほどの鮮烈な赤は、間違いなく、血液のものだった。大分乾いて赤黒くなっているが、その色は白を基調とした病院においてひどく目に痛い。

「……名前を」

「は?」

「名前、を、憶えてやれなかった」

 その血の主は、鷲鼻だった。白い正装を真っ赤に染めて、鷲鼻が、その老いた体をばらばらにされ、飾り文様のついた壁に縫い止められていた。苦痛に凍りついた顔は、眉間を貫かれ、もうあの腹立たしい言葉を吐くこともない。弔いの言葉が言えない、名前がわからないから。悲しんでやろうにも、悼んでやろうにも、思い出に浸ろうにも、名前が、名前が。

「彼の名前なら――」

「そういうことじゃない!」

 思っていたより大きな声が出て、その場にいた人間が一斉にドミニクの方を振り向く。いくつあるのかわからない瞳に貫かれても、緊張することすらできない。考えることがあり過ぎる、どうして鷲鼻が殺された? この殺し方は尋常なものではない、人間にできるのか? 人間に不可能だとしたら悪魔か? このエンピレオに悪魔だと? いや、そもそもどうやってこの病院に侵入した? このエリアは一級警戒だぞ、入り口には警備の天使がいるし、巡回している天使も山ほどいる。ヴィヴィアンあたりの許可証があればまだ――

「……パライソ」

 ドミニクは嫌な予感がして、少女の名前を口に出した。背中の産毛がちりちりと焼けるような心地がする。まずいことになっている気がした、とてつもなく、まずいことに。

「あ、あの」

 少女の名前に反応したのは、ざわめきの中心にいた、先程とは別の看護師だった。こちらも真っ青な顔で、何かを布に包んで抱きかかえている。

「なんだ」

「お呼び立てしたのは、その……」

 言いにくそうに、看護師は目を逸らす。それに苛立って、「寄越せ」と半ばひったくるようにその包みを貰い受けた。布の包みは軽く、血の匂いがする。触れた指先から、中に複雑な形の物体が入っていることがわかった。心臓が早くなる、手が震える、だが、これを開けないわけにはいかない。

 何枚かの布を退けて、ドミニクは布の中身を確認し、それから、頭が真っ白になる自分を自覚した。まったく、的中して欲しくないことばかり、当たってくれるものである。

 中に入っていたのは、右手首だった。細くて華奢な、白い、子供の手首。乱暴な切断面は、何を使って切ったのかわからないほどのもので、相当の苦痛を味わったのだろうとわかる。

 パライソの、手首だった。

 断じるにはまだ早いと言われるかもしれないが、それでも、わかる。おそらくこれは、パライソのものだ。

「それと一緒に、この、紙が」

 呆然としたまま、看護師が差し出した紙を受けとり、文面を見る。シンプルな切れ端は、件のベッカー社のものだった。懐かしい、あの、レポート用紙だ。ベッカー社の紙は、他の会社のものと違って綺麗な白でインクがよく目立ったし、毛羽立ちもなかった。だから、三人で「これが一番使いやすいよなあ」と合わせて使っていたのだ。

 そのレポート用紙が、今、懐かしい色合いでドミニクの手の中にある。


 ――過去から追いすがるものに人は滅ぼされる。空っぽの棺には何が入ってる? 思い出か? それなら死体を入れてやる。あの日の三人だ、あの鷲鼻と、あの悪魔と、もう一人はあいつだ。金色の目の、あの子。二年前より愛をこめて、逃がしはしないぜ――


 ドミニクは、思わず紙を握り潰した。

 そうか、これは、二年前の続きなのだ。そう思う。特徴的な、皮肉めいた言い回しで書かれた文句は、よく知る筆跡だった。これは二年前の続きだ。二年前、あの地の果てで起こったことの、続きだ。

「……エンピレオを」

 握り潰した紙をポケットに入れ、パライソの手首を握りしめると、ドミニクは周囲を囲む看護師と、遅れてやってきた医師、警備の天使に向かって言い放つ。

「エンピレオを、封鎖するように言え。第一から第九に続く扉は第五隔壁までロックして、絶対誰も通すな。軌道エレベーターも封鎖だ。とにかく、エンピレオからもう誰も出すな。取り合ってもらえなければ、あの、技術開発棟にこもってるバリントン第三位天使長に『ドミニクが言った』と伝えろ、絶対にやってもらえる」

 足が、震えた。頭が痛い、《感情抑制剤》が欲しい。何もかも押さえつけて、忘れて、蹲って子供のように泣いてしまいたい。すまなかったと何度も何度も叫んで、許しを乞いたい。

 恐怖している。

 俺は、恐怖しているのだ。

 二年前の、あの、あの光景に立ち向かうのが、俺は、怖い。

 あの憎悪に向き直るのが、怖くて仕方がないのだった。

「早くしろ!!」

 硬直している群衆へ向かって叫ぶと、蜘蛛の子を散らすように、人々が走って行く。ドミニクはそれを見送ることもなく、己もまた、駆け出した。

 金色の目のあの子――

 つまり、エヴァンジェリンを助けに行くために。


 ◆


 焦ってるな。

 青年は、エンピレオのそこかしこに設置された監視カメラの映像を見ながら、ほくそ笑んだ。これなら問題はない。もっとも、彼の性格上、一度関わった人間を見捨てるなんてことはありえなかったが。

 他人を寄せ付けない、それ故に、一度中に入れた人間は見捨てない。他人に興味を抱かない、それ故に、一度興味を持った人間には執着する。

 青年によく似た、性質だ。青年も、そんな性質だからこそ――こんなことになっている。

 病室に行かせたエヴァンの報告から、彼が少女へ好感情を抱いていることはようと知れた。だから揺さぶってみたのだが、効果は思っていたよりもあったようである。ついでにあの、名前を忘れた鷲鼻の天使を殺しておいたのも効いているのだろう。好調だ、と青年はカメラから目を外して、周囲を見回した。

 照明の落ちたモニタールーム、そこにあるのは、死体だ。男を見たかったのに、邪魔をしたから全員殺した。無論青年だって最初からこんな力尽くの手段を取ったわけではない。ちゃんと適当な天使を殺してそれに成り変わるよう擬態し、見て満足したらおさらばしようとしたのだ。青年もまさかコーヒーに入れる砂糖の数でばれてしまうだなんて思わなかったのである。怪しまれ、弁解するのが面倒で、殺した。自分のこういう性格が少しおかしいことは、よくわかっている。

 だが、仕方がないではないか。

 だって青年は、自分の内側にいるあの二人以外は、実際のところどうでもいいのだから。

 自分自身ですら、青年にはどうでもいいのだ。

 自分の命を軽んじているのは、やはり、青年と男の共通点だった。お互いにお互いの命だけを重要視し、己を軽んじていたから、二人はいつも一緒にいなければいけなかった。

 相手を死なせないために。

 皮肉なものだな、と青年は思う。そう思って一緒にいたのに、だからこそ殺し合わなければならなくなった。

 本当は、二年前に全て終わらせたつもりだったのだ。だが、終わっていなかった。

 ならば終わらせなければならない。

「……一度始まった舞台は、終わらないと次の舞台を始められないからな」

 そう笑って、椅子から立ち上がる。それから床に転がしていた少女の、ピンク色をした髪を掴んで引き摺ると、鼻歌すら歌いつつ青年はモニタールームを出て行った。


 ◆


 行くべき場所なんて、考えなくてもわかった。

 空っぽの棺、思い出の墓地。そんなもの、考えるまでもない。

 ドミニクは、息を荒げて足を止めた。右目が、じくじくと痛む。ああ、ああ、と、意味のない言葉だけが頭の中で生まれて消える。

 もうここに来ることはあるまいと、そう思っていた。

 エンピレオにおける東の果て、そこには、墓が二つある。

 一つは、ユージェニー・アダムズ。

 もう一つは、ロバート・ノーマン。

 二年前に一度ドームガラスを壊され、作り直しはしたもののまだ危ないからと人の出入りが禁止になり、監視カメラすらつけずに墓石だけを二つ並べた、簡素で小さな広場だった。背丈の低い紫の花がちらほらと咲いている。これが出来た時、なぜカメラをつけなかったのかとドミニクはヴィヴィアンへ問うた。彼女はそれに対して誰も来ないから、と言っていたが、多分本当は、誰もこの墓を見たくなかったからだと彼は思う。

 だが、ここに死体はない。

 ここは様々な人間の記憶だけが埋められた、墓地なのだ。

「エヴァン、ジェリン」

 二つ並んだ石の向こう、そこに、少女はいた。安全用に緩やかな傾斜のついた広場の地面を、赤い液体が伝ってくる。

 ――少女は、ガラスへ磔にされていた。

 白い杭で喉を貫かれ、血をしとどに流し、成人男性の身長程度の高さに打ち付けられてその細い四肢をだらりと下げているその様は、最早死んでいるようにしか見えなかった。

「エヴァンジェリン!!」

 叫んで、ドミニクは全力で走る。墓の間をすり抜け、磔にされた少女の杭を引き抜くと、せき止められていた血液が噴き出して彼を汚した。穴を開けられひび割れたガラスの隙間から強い風が吹き込んできていて、血の匂いがドミニクを強く打つ。生きているのか、これは? 咄嗟に心臓へ耳を当てると、鼓動は聞こえる。多少安堵し、少女の胸から顔を上げようとしたところで、ドミニクは聞こえてきた声に体を強張らせた。

「よーぉう、久しぶりだなあ」

 ……この声は、この、声は。あまりの恐怖に一瞬ブラックアウトしかけた意識をなんとか繋ぎ止め、ドミニクはぎこちない動きで体を起こす。

「なんていうかさあ。お前のそれって、悪趣味だよな」

 ずるずると、何かを引きずる音。顔を、そちらへと向けた。見たくない、そう願っても、見なくてはならない。視界に入るのは、案の定、忘れたくても忘れられない青年だ。青年が引き摺っていたのはパライソで、ドミニクは叫ぼうとした。だが、声が出ない。

「顔もそうだけど、それ、体格まで俺に合わせてんの? もしかして指紋とかもか。声も一緒だし、うおっ気持ち悪い。発案者誰だよ、後でぶっ殺しに行くから教えてくれ――」

「……ど」

 やっと出たのは、掠れた声だ。嫌だ、もう嫌だ、もう、もうもうもう――

「――なあ、『ドミニク』?」

 誰か、俺を今すぐ殺してくれ。

「二年ぶりだな、あんだけやってやったのに生きてるお前の生命力に乾杯だ」

 白地に金糸で刺繍を施した天使の正装、その外套を男は着ていた。血まみれのそれは、おそらく、鷲鼻のものだ。

「武器持ってこなくて良かったなあ、持って来てたらとっくの昔に殺してたぜ」

 茶色の髪に紫の目をした、が、そこに立っていた。

「ど、ドミニ、ク」震える声で名を呼ぶと、青年がへらへらと笑う。

「それは今のお前の名前だろうが。お前に取られちまったから俺はもう名無しなんだよ」

「お、俺は……」

「つうか、お喋りしてる場合じゃねえぜ『ドミニク』」

 笑う青年の声と呼応するように、どつっ、と、音が響いた。せり上がってきた血の塊を勢いよく吐き出してから、胸に走った痛みと衝撃に、驚いて振り向く。なんだかもう、笑い出しそうになった。

「……すみません」

 血の跡だけを残して傷などすっかり消えてしまったエヴァンジェリンが、ワイヤーを何本も出して彼の体を貫いていた。

 この少女――そうか、ユージェニーの。

「僕、元々、あの人の側なので」

「そういうことさ、『ドミニク』。こいつに作ってもらう飯は美味かったか?」

 エヴァンジェリンがワイヤーを繰る。内臓を引っ掻き回して引き抜かれた鋼の糸に、また血を吐いて青年の足下まで転がった。いきおい、ここへ来る途中でズボンのところにねじ込んでおいたパライソの手首が飛んでいく。

「俺は《愛欲者》のやつらとかみたく操心なんてできねえから、こいつをお前ん所に押し付けるのは骨が折れたぜ。こいつの実績作るために何人犠牲にしたかわかんねえ」

 体を起こそうとして、青年の足に背中を踏みつけられてまた血を吐く。墓地に植えられた紫色の花が、彼の血で真っ赤に染まった。

「あのな」

 自らを名無しと称した青年が、何の表情も浮かべずに言う。

「俺は――ユージェニーを愛してたんだ」

 青年が、転がる『ドミニク』の方へ一丁の銃を放り投げた。

「お前のことも好きだった」

 今度は、マガジンをいくつか。

「だから、あの日許せなくなったんだ。だが、お前が少しでも、ほんの少しでも軽蔑できるようなことをしてくれるなら――」

 青年が、一転、にたりと笑った。

「お前がエヴァンを殺せるって言うんなら、パライソだけは見逃してやってもいいぜ」

「そ、んな――」

 そんなことは出来ない。そう言おうとした。

「出来ねえなら俺がパライソを殺す。そんでエヴァンがお前を殺す。それだけの話だ」

「……僕も、ダインリーさんとは約束がありますから」

 ダインリーさん。なるほど、最初の頃に俺をそう呼んだのは、こいつと一緒にいたからか。ついに、彼は笑い出していた。

「『ドミニク』――もういいやめんどくせえ」

 青年が、ロバート・ノーマンと書かれた墓石に腰かけて、背中を丸めるようにして腿へ肘をつく。

「ロバート、お前がそうやって高潔である限り、俺はお前を許すことは出来ないんだ」


 ◆


 ドミニクは子供の頃、五つでロバートと親しくなるまで、よく自分の名前を忘れる少年だった。別に、彼の記憶力が致命的なほど悪かっただとか、そういうことはない。むしろ彼は、自分の名前以外の部分において、世間一般よりも遥かに高い記憶力を示した。絵本なども、一度読めば殆ど内容を覚えていた。人の噂話も、聞いた分だけよく覚えた。だが、彼は、自分の名前だけどうしても覚えられなかった。覚えたと思っても、すぐ忘れてしまう。ドミニクはそういう少年であった。

 彼が己の名前に頓着しない理由は簡単だった。誰も彼の名前を呼ばないからだ。

 ロバートは何か勘違いして覚えてしまっているようだが、ドミニクは施設生まれではない。孤児だ。天使だった両親が死んでしまって、誰も育てられなくなったから、押し付けるようにして両親の出身施設に預けられたということだった。泣くことしか出来ない乳児の頃に預けられたので、それが真実なのかどうか、彼は知らない。四つになった頃、そんな話を耳にしただけだ。しかし、ドミニクはなんとなく、それが正しいことなんだろうと思っていた。珍しく結婚で――つまり交配で生まれた子供と言うことで、ドミニクは周りから、特に施設の職員から、あまりいい扱いを受けなかった。無視されるなどマシな方で、時には、階段から事故を装って突き落とされたこともあった。もしかすると、自分が試験管で産まれていないこと以外に、他の理由もあったのかもしれない。たとえば、施設の経営が、もう切羽詰まっていて、エンピレオからの助成金の額を増やしてもらわないと殆どの職員が路頭に迷うことになっていたとか。だから助成金の対象にならない、施設生まれでないドミニクは邪魔だったのだとか。そういうありきたりで、だからこそどうにもならない理由があったのかもしれない。最早詳細はドミニクの知り及ぶことではないが、こんな世の中であるから、自分の知らないことで理不尽な扱いを受けることもあろうと彼は達観していた。勿論、職員がそんな扱いをする以上、それを見て育つ子供たちも、同じようにドミニクを扱った。子供の小さなコミュニティにおいて、ドミニクのような『弱者』は、格好の餌食だった。そうして、誰もドミニクの名前を呼ばない世界は完成していったのである。

 ドミニクはなんだかいつも、疲れていた。三歳の頃、あまりにも静かなので、職員に不気味な子だと言われていたことを、薄らぼんやりと覚えている。普通三歳児と言えば、何か気に食わなければすぐ泣き、周囲の人間の興味を引こうとするものであるのに、彼はそうしないと。ドミニクは泣かない子供だった、大人がそうするように理解していたわけではないが、涙は何の役にも立たないと悟っていた。他にもいた同じ歳の子供が職員に抱き締められているのを見ても羨ましいとすら思わないほど、ドミニクは、五歳の時には既に疲れ果てていた。動かず、考えることもしない、路傍の石のような少年。それが彼だった。

 ……石に興味を示して拾ってしまうのは、子供に共通する悪癖である。

 そしてその悪癖をドミニクに対して発揮したのが、その時八歳になったばかりのロバートであった。

 その日、いつものようにドミニクが施設の隅にあった花壇の前に座り込んで土の粒を見ていると、突然彼に声をかけられた。何をしてるんだ、と、知らない少年の声がしたので、ドミニクは黙った。何を言うどころか、何も言わなくても、結果が同じだと知っていたからだ。ならば、労力を使わない方がいい。

 ロバートは黙ったままのドミニクに何を思ったのか、彼の隣に座って、自己紹介を始めた。名前はロバートであるということ。八歳だということ。ここで生まれて、ここで育ったこと。もう図書室の本は全部読んで覚えてしまったのでつまらないこと。外で遊ぼうと思っても、誰も相手をしてくれないからつまらないこと。職員連中は危ないことやひどいことをするなと五月蠅いからいやだということ。好きなものも嫌いなものもないこと。訊いてもいないのに、少年は色々と喋り続けた。要約すると、「退屈しているのでお前みたいな年下でもいいから一緒に遊べ」ということであったらしい。だがそんなものドミニクの知ったことではなかったから、無視していた。

 土の粒を十万五千六十二まで数えたところで、お前の名前は、と、ロバートと名乗る少年に問われた。そこで初めて、ドミニクは、自分の名前を思い出そうとして、ロバートの顔を見た。別段、何かを期待していたわけではない。三つも年齢が離れているのだ、この年上の少年が、自分のことを知っているとはとても思えなかった。

 だが少年は、「あ」と声を上げ、「えーと、確か、ドミニクだろ」と笑顔で言い放ったのである。暇過ぎて図書室にあった名簿も覚えたから、と、少年は褒められたがっているような口調で胸を張った。

 誰も呼ばない彼の名前を、ロバートは、呼んだのだった。

 驚いた、何もかもに驚いて、ドミニクは泣いた。顔をくしゃりと歪めて、涙をぼろぼろこぼしながら、子供らしく、わあわあと声を上げて泣いた。青ざめて「なんで泣くんだよ!? あれ、俺間違ったかな!? ごめん、ごめんな!」とドミニクを慰めるロバートの前で、泣き続けた。

 それから、ドミニクは、ロバートの後ろについて歩くようになった。彼の傍にいれば、自分の名前を忘れずにいられたからだ。もうドミニクは、自分の名前を忘れたくなかった。ドミニクの周りにいた子供たちは、年上の少年から叱られることを恐れて、近づかなくなった。いい気味だと思った。

 ロバートは、ドミニクとは別の意味で周りから距離を置かれる少年だった。自分からは仕掛けないくせに売られた喧嘩は高値で買い、保身を考えない方法で突貫して相手を半殺しにするから、彼がドミニクと花壇で出会った頃にはもう、誰もロバートに近寄らなくなっていたという。あいつは笑って人を殴るんだよ、という話もまた、耳には入っていた。事実、職員ですら、彼に近寄ろうとはしていなかった。しかしドミニクにとっては、きらきらした瞳で「天使になれば悪魔をぶっ殺していいのかあ」と言うロバートの方が、そんな彼を悪しざまに言う人間よりも余程『いいやつ』に見えた。

「来年、天使の採用試験受けてみるよ」

 十歳になったロバートからそれを聞いた時、ドミニクは、彼ならきっとなれるだろうと思った。同時に、「だけどこいつがこんな世界のために働く必要はあるのだろうか?」とも思った。だって、少なくとも、この施設の人間は、クズじゃないか。それでも、何年間か一緒に過ごして話をするうちロバートの本質が限りなく死の方へ傾いていることに気付いていたドミニクは、口を挟まずに応援した。何か言って嫌われるのが嫌だったのも、今思うとやはり、ある。けれど、主な理由は、彼の本質を理解し始めていたからに相違なかった。

 ――こいつはどんな時も、自分以外が行動原理なのだ。

 それにドミニクは気付いていた。ロバートの価値基準は、基本的に他人を中心にしている。彼の行動の本質は、自己犠牲だった。「自分が代わりに殴れば、こいつは糾弾されずにすむ」。「自分が代わりに傷つけば、こいつは傷つかずに済む」。そんな思考回路なのである。彼が何の原因でそうなってしまっているのか、それは知らないが、それはつまり、究極的な博愛精神とも呼べるものだった。初めて会った時、好きなものも嫌いなものもないとロバートは言った。それも当然だ、ロバートには、『自分にとって大事なもの』など一つもなく、『自分よりも価値のないもの』など存在しないのである。

 彼のその本質はドミニクのそれにとても近かった。殆ど同じと言ってもいい。だがそれでいて完全に真逆で、ドミニクはロバートと共にいることがある種の幸福だと感じるようになっていた。愛していたのだろうと思う。

 十一で、ロバートが、宣言通り試験を受けて採用された。それを追いかけて、ドミニクも十二で天使になった。その前の年で丁度ロバートも大天使長になっていたから、彼の下で働けるのがドミニクは嬉しくて誇らしくて仕方がなかった。ロバートもまた、天使になったドミニクのことを自分のことのように喜んでくれた。それからすぐに、同期のユージェニーという少女と仲良くなった。彼女もやはり、排他的で自罰的な性格をしていた。ドミニクたちは、三人でつるんでよく休日を満喫した。忙しいロバートはいないことが多かったけれど、それでも彼らは楽しかった。熱気のある若者がそうするように、「この世界をよくする手段」や「天使を強化する方法」、「悪魔とはそもそもどんな存在なのか」などについてずっと話し合っていた。

 だが――結局、それが、一番よくなかったことだったのだろう。

 半年も経たないうちに、ドミニクの周りでまた、名前の呼ばれない世界が形成された。経緯はどうあれ、最高権力者と一介の新人が仲良くしていることは、周囲の反感を買った。若すぎる年齢で要職についてしまったロバートのことも、彼らは名前で呼ばなくなっていた。

 ロバートは気にしていなかった。そもそも気付いていなかったのかもしれない。

 ユージェニーは、よく泣いていた。せめて外見でどうこう言われないようにと長い髪を三つ編みにし始めたのも、この頃からだった。

 ここで、ドミニクは、ロバートの致命的な欠点を知った。

 鈍感なのだ。

 他人の言動に対して、有り得ないぐらい鈍感なのである。興味がないから。自分の世界だけですべてが完結しているので、何をされても「だからどうしたのか」と言った具合なのだ。そのネガティヴな博愛精神も災いしていた。三つ編みにして女の子らしくし始めたユージェニーに首を傾げていたのを、ドミニクはよく覚えている。そんなロバートを、ちょっと変なやつだ、と彼女は称していた。ドミニクの友人じゃなければ付き合わないタイプだ、とも。

 ドミニクは、また、疲れ始めていた。

 ロバートの前で、上手く笑えなくなった。厭世的な発言をすることが多くなった。ロバートが天使を慮る発言をしたり、助けようとしているのを見る度、この無神経な博愛主義者が、何かよくわからない生き物のような気がしてきて、おそろしかった。ユージェニーと恋愛関係を築き始めたのは、この頃からだ。彼女に縋りつかなければ、耐えられなかった。

 ロバートの、己と真逆であることが、おそろしくてたまらなかった。

 彼らが着実に地位を得て、ロバートの補佐官になると、陰口は減った。だが、年齢に関するものはより一層増えた。とにかく天使たちは自分たちの何もかもが気に入らなかったのだろう。ドミニクはいつしか、この世界全部を壊してみたいと切望するようになっていた。苛烈に破壊を追い求めすぎて、《高慢者》の罠などに引っかかることもあった。

 最早、自分たちの名前を呼んでくれるのは、お互いだけだったから。

 少なくともドミニクはロバートとユージェニーさえいれば他には何も要らないと考えていたし、事実、もう彼には二人以外の寄る辺がなかった。こんなにもおそれているのに、ロバートがいなければドミニクは生きていけないのだと、理解していた。あの得体の知れない生き物のことを、彼は愛していたから。

 切り離せなかった。切り離したいのに、切り離せなかった。

 ユージェニーが、「天使の殉職率がやっぱりひどいな」と言い始めたのは、そんな時だった。その時にはもう色々と改革した後で、死傷者は確かに減っていた。それでも、死ぬ人間はいた。二十人死ぬところが、五人になった程度の違いしかなかった。完璧主義者のユージェニーは、それが許せなかったらしい。あるいは――それをゼロにすることで、天使どもに自分を認めさせようと思っていたのか。それはもうわからないが、とにかくドミニクとユージェニーは、『種子』を作ることにした。技術開発の人間はこぞって彼らを非難し、道理に反する行為だと叫んだ。だが、ドミニクたちはやめなかった。彼らの言い分なんて知ったことではなかった。道端の石の下で虫が繁殖していることに文句をつけるのは人間だけだ。

 ロバートは、呼ばなかった。なぜだか、彼をこの計画に呼ぶのは、嫌な気持ちがした。別に、呼べば一緒にやってくれたとも思うし、彼はパライソの件以来技術開発責任者であるヴィヴィアンと仲が良かったので、彼がいればよりスムーズに事が進むかもしれない、とは思っていた。だが、嫌だった。とにかくロバートを参加させるのが嫌で、ドミニクは、二人だけでやろう、と提案した。その提案に、ユージェニーは「いいよ」と言ってくれた。安心した、彼がいないことに、ドミニクはひどく安心していた。

 ロバートにも、「この計画は自分たちだけで完成させるから」と告げて、関わらせないようにしておいた。これが成功したら、きっと、また笑ってロバートと一緒に過ごせる。そんな気がしていた。


 それなのに、ユージェニーは、自分を裏切ってロバートを呼んだ。


 あの、無神経な博愛主義者を。得体の知れない生き物を。

 それを知ったドミニクは、階段でも転がり落ちるように――全部をめちゃくちゃにしようと決めた。それはひそやかでありながら、彼の全てを燃やし尽くす、感情の爆発だった。

 だって、ドミニクには、あの二人しかいなかったのだから。

 その二人を失ってまだ笑って生きていけるほど、ドミニクは強くなかった。

 強く、なかったのだ。


 ◆


 その日、ロバートは走っていた。追われていたから。

 自分に植え込まれた種子は、まあそれなりに役立った。回復に若干のタイムラグはあるが、悪魔のそれとそう大して変わらない。やや長いか、同じ程度である。非公式の実験に付き合った結果を確認するためだったので、誰も――ヴィヴィアンすらも連れて行かなかったのだが、種子のおかげで大分楽が出来て良かった。何せ、死ぬことを心配しなくてもいい。元々ロバートは命が危なくなったからと言って退いたり臆したりする性格ではなかったが、それでもやはり、腕が千切れたから一旦態勢を立て直す、と言ったようなことをしなくていいのは実にありがたいことだった。

 だから仕事を終えて《監視局》へ帰ってきたロバートは、戦闘後にざっとしたためた報告書を持って、真っ先にユージェニーの元へと赴いたのである。

 だが――そこにあったのは、肉塊だった。

 真っ赤な、ひき肉の塊が、ユージェニーの使っていたラボの床に広がっていた。最初、誰のものかまったくわからなかったロバートは、あまり考えることもなくそれを見ていた。何が起こったのだろう、とは考えていたが、それがまさか、ユージェニーのものだったなんて、夢にも思わなかったのだ。

 それが彼女だと知ったのは、ひき肉の横にあった搬送用ベッドの上に座っていたドミニクが、「これさあ、ユージェニーなんだ」と呟いたからである。

「……は」

「俺がやった」

 青年が何を言っているのかわからず、ロバートは首を傾げた。自分の記憶が正しければ、ドミニクとユージェニーは恋人同士であったはずだ。彼には正直恋愛感情と言うのがよくわからないのだが――性欲は一応理解できても――彼らの仲は、別段悪くなかったように思う。付き合うことにした、という報告を受け取った時から今まで、喧嘩の一つもしたところを見たことがない。それどころか、最近はずっとロバートを抜きにして色々やっているようで、幸せそうで何よりだとすら思っていた。

「これが、ユージェニーだと?」

「そうさ。これがユージェニーさ」

 ドミニクは、こちらを見ない。

「馬鹿言えよ。お前が彼女を殺して何になるってんだ」

 これは誰だとさらに続けて言おうとして、青年がそれを遮った。

「俺を裏切ったから、仕方ないじゃないか」

「裏切った? 浮気でも?」

「…………」

 口を閉ざした青年が、信じられないものでも見るような瞳を、ロバートへ向けた。彼にはドミニクがなぜそんな顔をするのかわからなかった、嘘ではない。

 本当に、本当にわからなかったのだ。

「……ロバート」

 ドミニクは、実に爽やかな笑顔を浮かべた。その笑顔はいつものもので、ロバートは安堵を胸に感じながら青年に「なんだ?」と返事をする。その返事を聞いたドミニクはベッドを下りて、ひき肉を裸足で踏みつけながらこちらへ歩いてくると、ロバートの目の前で少しだけ立ち止まった。

「ロバート」

「だから、なんだって――」

 訝しげに、殆ど身長の変わらない、青年の目を見る。そして彼は、その奥に潜む凶暴な光を見つけて、総毛だった。脳の奥で、本能が警鐘を鳴らした。

 あれは自分を殺してしまう瞳だと。

「お前のそう言う、無神経で鈍いところが俺は昔から大嫌いだった」

 ……そこから先のことは、よく覚えていない。気が付いたらロバートは逃げ出していて、息を切らしながら東の果てまで駆けていた。途中、何人かの天使に出会ったような気もしたが、自分に声をかける彼らを全員無視して、ロバートは逃げた。背中で彼らの悲鳴が轟いた気もしたが、無視した。振り向いて立ち向かえば、救えたかもしれないとはわかっていた。

 だが、振り向いて、あれに、あの憎悪の光に、貫かれるのが怖かった。

 あの青年の、あんな瞳を、ロバートは知らない。

 ガラスに手をついて、ぜえぜえと、いつぶりか分からないような荒い息を整える。そう言えば、武器を全部忘れてきてしまった。ドミニクと戦えるはずもないから、必要ないと言えば必要ないのだが。

 ロバートの知るドミニクは、優しい男だった。

 皮肉屋で多少厭世家な節があり、「人はいつか滅ぶだろうよ。これだけ過去に追い立てられてちゃ、未来になんて向かえやしないんだ」などとよく主張する青年ではあったが、施設にいる時、売られた喧嘩を高値で買ったロバートを宥めてくれたこともあったし、天使になってからも、言葉足らずなせいでよくいざこざを起こしてしまう彼を庇ってくれたりもした。仕事へ行くと、捨てられた子供をよく拾って保護してやっていた。ユージェニーが心無い言葉で傷つけられた時も、彼女と一緒に犯人を捜していた。ユージェニーとドミニクが恋人同士になった時、相手がドミニクなら当然だろうなあと思った。だって彼は完璧だったから。殺すだとか戦うだとかの物騒なことに関してしか能のない自分とは大違いで、ドミニクはこの世で悪魔から最も遠い人間なのだと思っていた。

 そんなあの青年が誰かを憎んでいる姿なんて、ロバートは見たことがなかったのだ。

 ましてや、その憎悪が、自分に向くことなど、想像だにしなかった。

 現実が理解できなくて、それが、恐ろしくてたまらなかった。

 ドミニクが、来ない。やはりあれは間違いだったんじゃないだろうか。ガラスに背中をもたれさせ、ずるずると座り込む。あれは種子の副作用か何かで、俺の幻覚だったんじゃないか。ロバートは希望的観測を真実と思い込みたくて必死だった。

 しかし、希望など、どこにもなかった。

「ロ、バァァァ、ト」

 楽しそうな声にびくりと体を震わせて、ロバートは逃げるようにガラスへ背中を押し付けた。知らない、俺は、こんな声を出すドミニクを知らない。

「逃げんなよ、お前が逃げるからつい色々殺しちまっただろーが」

 血まみれになったドミニクが、そこにいた。色々、とは、何なのだろうか。考えたくない、理解したくない。青年は今までで一番楽しそうな笑顔を浮かべて、くるくるとその場で何回か回る。

「我慢しないことがこんなに楽しいなんて、知らなかった!」

「が、まん」

「俺はなあ、ロバート」

 青年が、姿を変えた。

 短く刈った黒い髪の毛に青い目、ロバートの姿である。擬態だった、信じられないが、それは間違いなく、悪魔のそれだった。擬態できて、この破壊力と言うことは、《嫉妬者》なのだろう。悪魔になったのか、と、ロバートは思った。

 そうか――そうか。ユージェニーの言葉を思い出す。人間も悪魔も大して変わらない。

 そうか。

 人間も、悪魔も、本来同じものなのだ。

 では、自分が殺してきたものは、きっと。

 ロバートの思考がまとまる前に、ドミニクが、呪詛を吐く。

「ずっとずっとずっとずっと、この世界の何もかもを、ぶっ壊したくて仕方なかったんだ」

 自分の顔が、自分の知らないところで醜く歪む様を、ロバートは初めて見た。随分と気味の悪いものなのだ、と、止まりかけた脳味噌で思う。

「俺は、お前とユージェニー以外に名前で呼ばれたことがない」

 言われ、考えてみる。だが、わからなかった。公の場面ではさすがに皆、ちゃんとドミニクの名は呼んでいたように思うが、彼が言いたいのはきっとそういうことではあるまい。

 ……そう言えば俺は、ドミニクが誰か友達と一緒にいるところを見たことがないな。

 ロバートは、よくヴィヴィアンと話をする。ユージェニーは女であるから、それなりに周りへ気を使ってはいたようだった。

 けれど、ドミニクが誰かと何かをしているところは、確かに見たことがない。

「それでも、俺は、お前らがいればそれでいいと思ってたから」

 ドミニクが、姿を戻した。だが今度は、ドミニク本来の色合いではなく、血のように赤い髪と、橙色の目だ。

 ユージェニーと似ているのに、違う色。

「もう俺には、お前らしかいなかったんだ。なのに、なのに」

 突然、ロバートの下半身が吹っ飛んだ。

 疑問符が頭に浮かぶより、痛みで悲鳴を上げる方が早かった。痛みでこんなにあられもない悲鳴を上げたのもやはり、初めてだった。種子の効力で生えて来ようとする下半身が、元に戻りきる前に押し潰されたような形でひしゃげて弾ける。視界の端で、転がって行った下半身もまた、千々に弾けていた。

「……くそ。くそ。くそ!!」

 手の爪の先から肩口まで、皮がはがれて爛れて消える。着ていた服も一緒に引き裂かれ、一瞬で辺りが赤く染まった。

「なんでだよ、なんで、あの時俺なんかに声をかけたんだよ!!」

 両目が、潰れた。体の皮が、腕と同じようにはがされる。

「お前も、ユージェニーもだ!! あのまま、何も知らないままでいられたら良かったんだ!!」

 体が宙に浮いて、ガラスへ叩きつけられる。めしゃ、と内臓や骨の砕ける音がして、ガラスにひびの入った音もした。手のひらに激痛が走る、何かが、両の手のひらに刺さった。

「どうして!!」

 痛みが許容量を超えて、何をされているのか、もうわからない。ただ、自分の肉体の体積がどんどん減っていることだけはわかった。

「……疲れたんだ」

 ドミニクが、小さく呟いた。

「俺はもう、一歩も動けないんだよ」

 その言葉を最後に聞いて――ロバートは意識を失った。


 ◆


 咄嗟に、ロバートは体を起こして右に転がった。その直後、エヴァンジェリンのワイヤーが、今まで彼の転がっていた場所を穿つ。土と花が巻き込まれて散るのを見ながら、ロバートは銃を拾う。胸が痛かった、その殆どを人工のものに置き換えられた自分の体は、タフだが治ることはない。長時間放っておくと、死ぬ。

「避けるってことは、僕を殺すんですね」

「……俺一人なら、死んでもいいんだ。ドミニクがそれを望むなら、俺はもう、死んでいい。このまま生きていく意味なんて見出せてないんだ」

 墓の上に座ったドミニクが、視界の端で顔をしかめた。だが、本当のことなのだから仕方がない。立ち上がり、空にされていた銃へマガジンを入れる。他のマガジンは、放っておいた。入院服にはマガジンを入れておくようなポケットもなかったし、エヴァンジェリンと戦うにはそれなりに使えるかもしれないが、ドミニクと戦うのには間違いなく役に立たないからだ。そして、ロバートはエヴァンジェリンと戦う気がない。

「だが、パライソまで巻き込むのは、俺の本意じゃない。あいつは関係ないんだ」

 エヴァンジェリンを殺す気など、さらさらなかった。それでも拳銃を拾っておいたのは、できるだけドミニクの機嫌を損ねたくなかったからだ。武器を取らないという明確な戦闘放棄をして、パライソを殺されたら後悔では済まない。

「ご立派なことで」

「お前だって、本当は関係ないはずだろ」

 唇を皮肉に歪めるエヴァンジェリンにそう言った瞬間、顔面目がけてワイヤーが飛んできた。首を動かしてそれを避けるが、避けきれず、頬が裂ける。血を拭いながら、ヴィヴィアンに怒られるな、と、どうでもいいことを思った。

「関係ないなんてことが、あるもんか」

「エヴァンジェリン……」

「僕は、この二年間、彼のために生かされた。彼のためだけにだ!」

 少女の叫びと共に放たれた銀色の一閃に、横へ跳ぶ。だが鋼線は、ロバートの動きすら予想したようにしなり、咄嗟にガードした彼の左腕に深く食らいついた。骨まで達した斬撃にばくりと肉が裂けて、輸血されたばかりの人工血液がまた噴き出す。これ以上血を流すとさすがにやばいと思ったが、こればかりは自分の意思でどうにかできるものではない。怪我をすれば血が出るのは当たり前である。ぶらりと垂れ下がった腕に、いっそ千切れれば邪魔にならなかったのに、とロバートは舌打ちした。エヴァンジェリンの追撃が、鋭く空気を裂く音をまとって閃く。今度は、ロバートの喉を狙って。ロバートは身をかがめて少女のそれを躱し、勢いよく右足を踏み切ると、迷いなく少女の懐に飛び込んだ。弾丸のようなそれに恐れを抱いたのか、エヴァンジェリンは鋼線を引き戻すことが出来ず、ぐ、と、呻いて目を見開く。それに構わずその足を払うと、少女の体が回転し――空中で体勢を立て直して着地した。

 それに少なからず驚いて、ロバートは一瞬反応が遅れる。その一瞬で、ぶら下がっていた左腕がついに吹っ飛んだ。邪魔な腕がなくなったことはありがたかったが、それと一緒に左脇腹も抉られ、ロバートは唸る。そんな彼の視界で、エヴァンジェリンが、一足飛びに跳んだ。右目の死角に飛び込まれて、完全に一度見失う。速い、と思った時には既に、背後のエヴァンから彼の首へワイヤーが巻き付いていた。取ろうともがくが、首の肉に食い込んだそれは、容易に取れるものではなかった。

「ぐ、ぅ……!」

「……ロバート」

 背後に回り込んだ少女が、低い声で、怨嗟を口にする。

「僕は、あのユージェニー・アダムズを怨まなかった日なんてない」

 ぎりぎりと、首が絞まる。なんだか最近よく首を絞められるな、などと酸素の薄くなっていく脳内で思いながら、ロバートはどうするべきか考える。これはこのまま投げ飛ばしたら、勢いで首が撥ね飛ぶのではないだろうか。

「あの人を怨まなかった日はない」

 あの人、とは、ドミニクのことだろう。何をされたんだ、とロバートは思った。種子を植えられているということは、間違いなくユージェニーの実験につき合わされたのだろうが。そう言えば、この少女は、五年前の思想犯の娘であるという。サーカス云々は間違いなく嘘だろうが、これは多分真実だ。わざわざ騙る意味もない。だが、その時保護された子供の中に、彼女はいなかった。直接事件に携わったわけではないからわからないが、少なくとも、事件の報告書を読んだ限りでは見当たらなかったはずだ。

 そうだ、あの事件を直接担当していたのは――

 意識が奈落へ落ちそうになる直前で、ロバートは咄嗟に背後の、エヴァンジェリンの頭があると思われる場所へ向かって思い切り後頭部で頭突きを食らわせた。ごつっ、と鈍い音がして、「あうっ!」という悲鳴と共にワイヤーが緩む。びちり、と首の肉が少し切れたが、構わずワイヤーを振り払うとロバートは少女の間合いから転がり出た。少し咳き込み、ついでに傷ついた肺から血も吐き出してから、ズボンのゴムウエストに銃をねじ込み、頭を振る少女へ弾丸のような踏込で肉薄すると、彼女の平べったい腹へ掌底をぶち込んだ。治るから痣にはならないよな?などと焦りつつ、ウエイト差で吹っ飛んだエヴァンジェリンを追いかける。とりあえず気絶させるか何かして動きを止めさせたいだけなのだが、治るものだから加減がわからない。構わず顎から脳震盪でも狙った方が良かっただろうか。だが、下手に顔を狙うのは、なんだか悪い気がする。

 追いつく前に、涙目になったエヴァンジェリンが起き上がり、ワイヤーを放った。それを避け、蹴りを放つ。そのままノーガードで蹴られた少女に、しまった、とロバートは青ざめた。先程頭突きをまともに食らっていたことと言いこの蹴りを食らったことと言い、この少女、もしかして、対人戦闘はド素人なんじゃないか? そうとは思わず、わりと本気で蹴り飛ばしてしまった。

 だが、そんな彼の心配をよそに、先程打ち付けられていた壁の、大きく罅が入ったあたりまで転がって行ったエヴァンジェリンは、またすぐさま立ち上がると、憤怒にたぎる目でロバートを睨んだ。さすがに、蹴られて怒っているらしい。

 だが、あの日のドミニクよりはマシだ。

 あの日の――濁った橙色よりは、ずっとマシだ。

「大人しく死んでくださいよ、ロバート」

「……お前にロバートって言われると、なんか、収まりが悪いな」

「どうでもいいでしょう、そんなこと。あなたはロバートで、僕は、あなたを殺さないと、自由になれないんだ」

 そう言えば、この少女がドミニクと交わした約束とは、何なのだろう。気になって、ロバートは、身構えたまま問うてみる。

「なあ、お前は一体あいつと何の約束をしたんだ?」

「……あの人は、あなたを殺したら、僕の体に植え付けた種子を、取り除いてくれると」

 種子を? ロバートは、内心で首を傾げた。ユージェニーが、どんな理屈で種子を作っていたのか、ロバートはよく知らない。彼は本当に、『何かそういうことをドミニクたちが俺の知らないところでやっている』程度の認識だったからだ。だが、悪魔の遺伝子構造から肉体再生に関するところだけを取り出して解析し、その結果として、人間のそれを悪魔のそれに近づけるような仕組みを作った、というのは知っている。種子とは言うが、遺伝子配列を書き換える、ある種の病原体のようなものであったらしい。無論、そのような原始的生命体ではない、というか、そもそも生命ですらないと思われるのだが、その改変は可逆的なものなのだろうか。

 だって、悪魔は、決して人間には戻れないのに?

「エヴァンジェリン、その……衝撃を受けるかもしれないんだが」

「なんですか?」

 苛々とした声音でロバートの隙を探す少女に、彼は、出来るだけショックを与えないように、言う。

「多分、それは、嘘……だと、思う」

「……………………は」

 エヴァンジェリンが、ひどく間抜けな顔をした。

「その、俺は、知らないから何とも言えないんだが……」

「え、え、いや、だって、だって、ロバートも、種子を植え付けられたんでしょ、でも、二年前の傷が治ってないじゃないか! 他の人に取り除いてもらったんでしょう!?」

「いや、俺の場合、もう体が殆ど生身じゃないから」

「治ってないから、そういうことになってるんじゃないの!?」

「それが、その、なんだ、俺二年前、凄いことになっててな。もう死なない状態を維持するので精一杯だったらしくて、その――」

「――そうでも言わないと、お前言うこと聞かずに逃げそうだったからな」

 青年の、つまらなさそうな声が、墓場に響く。

 エヴァンジェリンの腹から、真っ赤な花が咲いたのは、それと殆ど同時のことだった。え、と、少女が、目を丸くして血を吐く。そして、前のめりに少女は倒れた。生きてはいるはずだ、生きては。これくらいでは、おそらく死なないだろう。

 だが、回復してしまうということは、回復するたびに引き裂かれるということだった。二年前この場所で同じことをされたロバートは知っている。案の定、少女は断続的に痙攣し、流れ出す血の量は増え続けていた。エヴァンジェリンの血が、ロバートの足に触れる。

 振り向かなくても、誰が、何をしたのかは分かった。

 だが、彼は振り向いた。

 かつて自分を友と呼んだ人間が、どんな顔でこれを行ったのか、確認するために。

「……ドミニク」

「ムカつくヤツ同士潰しあってくれねーかなーと思ったけど、無理だったな」

 殺せないならもう要らねえよ、とドミニクが欠伸をした。

「まあ、あれだ」

 青年が墓石から立ち上がり、パライソを地面に転がして蹴飛ばす。

「どちらにせよ、俺が全員ぶっ殺す予定だったわけだから、問題ないさ」

 殺しあってみようぜ、ロバート。

「一方的な虐殺になるかもしれないがね」

 そう言って、ドミニクは笑った。

 二年前と同じ顔で――青年は笑ったのだった。


 ◆


 ドミニクの笑顔を見て、ロバートはもう、やることを決めていた。

 それしかないのだとすら思った、もう、これしか、ない。

 だが、その前に、いくつかはっきりさせておきたいことがあった。

「……ドミニク」

「なんだよ?」

「お前、五年前の、エヴァンジェリンの父親の事件で――俺に全部を報告しなかったな?」

 青年が、肩をすくめる。「それで?」ドミニクの声には、何も悪びれたところがない。

「確かに俺はエヴァンのことを報告しなかった、それが今、なんか意味のあることか?」

「……確かに、意味はないかもしれないな」

 ロバートは静かに息を吐き出して、ガラスの向こうに広がる青い空を見た。雲の上に作られたドーム状の樹状都市は、昼夜しかない。雲もなく、ただただ青い世界と太陽が広がっているだけだ。雨が恋しい、と、彼は少しだけ思った。シャワーのようなあれが実は、嫌いではない。

 そう言えばいつの間にか、好きなものが増えていたな。煙草、酒、雨、潮の匂い、太陽。二年前までの俺は、何かを好きだとまるで言えなかった。そんなことを思う。

「同じようにして、何人実験に使ったんだ」

 ワイヤーに貫かれた胸が、痛む。また喉にせり上がって来た血を、ロバートは飲み込んだ。本物の血液ではないから、これを飲み込んだと知れたらヴィヴィアンに怒られるかもしれない。だが、足下にはエヴァンジェリンがいるのだ。吐き出すことは出来ない。風が、ひゅうとどこからか吹いた。失った左腕の傷口が、焼けるように熱く痛む。血が止まらない。右眼窩に残った視神経も、風の音へ反応するようにずきりと疼いた。

 ――そうだ、二年前に、俺は、こうしておくべきだったんだ。

「さあ。覚えてない」

「そうか」

「つか、それ聞いてねえのかよ? 二年前生き残ってんだから、それくらい聞いてるだろ」

「俺は、大勢殺した、ということしか聞いてなかったな」

「マジか。あいつら相変わらず杜撰だなあ?」

「そうかもな……」

 ロバートはゆっくりと首を空からドミニクへと戻した――なんだか、少し、泣きたかった。

 別に、裏切られただとかは思わなかった。興味がないから放っておいたのは自分だし、自分に報告すれば止めただろうから、目的のためにそうしなかった彼らは、彼らの目的を考えると正しい。

 ただ、哀れなのはやはり自分だったのだなあ、と思っただけだ。

 哀れなほどに、愚かだった。

 ユージェニーが騙し打つようにロバートへ麻酔を打って、無理矢理実験台に使った時、別に彼は怒らなかった。あれは『自分はドミニクに愛されていない』などと思っている哀れな女であったから、もしこれで彼女とドミニクが幸せになれるのなら、まあ別にいい、と思った。それに強くなれるなら、それはそれで実際望むところではあった。強ければ強いほど、自分に頓着しなくていいから。死ににくい体というものに興味があったのも、事実だ。

 けれど――それで、何が好転したわけでもなかった。いたずらにドミニクを傷つけただけだ。ユージェニーを死なせただけだ。ヴィヴィアンとパライソを泣かせただけだ。

 そしてエヴァンジェリンを、こんな目に遭わせただけだ。

「ドミニク、お前、ユージェニーと一緒に、何をしてたんだ」

「それは、あれか? エヴァンに何をしたのか訊きたいってことか?」

「そうだな、それも、聞きたいな」

 そう言えば、どうやってエヴァンジェリンをあの病棟に送り込んだのかも、警備の中で鷲鼻を殺したのかも、ロバートは知らない。二年前、ドミニクが去ってから今まで、何をしていたのかも彼は知らないのだった。

「別に、何もしてないんだがね」

 犠牲をものともしない、倫理観など投げ捨ててしまった欲望の果てで物事を追求する人間の『何もしていない』ほど、当てにならないものはない。その最たるものであるヴィヴィアンと長く一緒にいるロバートはそれを知っている。

「……お前ら、エヴァンジェリンを――拷問したな」

 拷問、と、言葉を濁したのは、その所業を考えたくなかったからだ。ユージェニーの死後、ヴィヴィアンが回収して厳重に管理、封印した資料には、そのようなことが書かれてあったと言う。手紙とは言え彼女から直接聞いたので、おそらく間違いないだろう。

 そしてやはり、ドミニクは、ロバートの言葉に「ああ!」と手を打った。

「それはやった。エヴァンで実験した時は、まだ完成とは程遠かったから、色々やったな」

 ……、というのを、ロバートは、概念として最底辺のものだと思っている。正気というのは不変的に定義されるものでもなく、揺れ動く常識と照らし合わせて示されるだけのものだからだ。そんな曖昧な概念を、ロバートは使いたくはない。

 だから彼は、ドミニクを狂人とは言わない。ロバートもまた、誰かからすれば狂人なのだ。その代わり――そこに横たわる差異を、自分で片付けようと思う。

「そうか」

 ロバートはまた、それだけ言った。何か言えば、具体的に説明されそうだったからだ。

「それで、二年間、お前は何をしてたんだ」

「地上にいたよ」

「地上に?」

「そうさ。擬態できる俺にとっちゃ、ここから逃げ出すことなんて簡単なことだったからな。ずっと地上で、適当に魚釣って生きてた。色んな島をうろうろしてさ、その日暮らしで。意外と楽しかったぜ」

 そんな話は、どこででも聞いたことがなかった。もっとも、擬態を得意とする《嫉妬者》を誰かが見つけて通報することなど不可能に近いが。しかも魚釣りをして自給自足をしているのならばなおさらである。

「あと……少し、悪魔も殺してたよ」

 ドミニクのその言葉に、ロバートは眉根を寄せた。

「悪魔を? なんで、わざわざ」

「うるっせえなあ」

 苛々とした調子で、ドミニクが頭を掻く。

「あいつら一々邪魔だろ、だからだよ。移動に邪魔だったしな、海にいる奴はあらかたぶっ殺したんじゃねえの、知らねえけど。騒ぎ起こると俺も住みにくいし……てか、お前さっきからなんでなんでってうるせえよ、あいつそっくりだ」

 あいつ、というのは誰なのだろう。ロバートにはわからなかった。

「俺はな、ロバート。一回普通に生きてみようと思ったんだよ」

「普通に……」

「そう、普通に。ユージェニーも殺したし、お前も殺したと思ってたから。お前らを忘れて、生きてみようと思ったんだ。それで、なんとなく――」

 そこで、ドミニクの言葉が、一瞬途切れた。何かを、考えているようだった。

「なんとなく、エヴァンを、連れて行った」

「……なんでだ」

「なんとなくっつってんだろ。その時その場にいて、なんかいたら便利かもな、って思ったんだよ。実際、お前らの夢とか見て気分悪い時とか、あいつ殴るとスッキリしてよかったからな」

 何しても治るってのはいいね、とドミニクは言った。

「お前、エヴァンジェリンを殴ってたのか」

「なんだ、怒ってんのかよ? 半月も一緒にいないのに?」

「いいから、答えろ」

「馬鹿な男だな、お前も……ああ、殴ってたさ。俺はあいつのこと、大嫌いだからな」

 最初の頃怯えていた理由は、これだろうか。優しくしてやれば良かったか、とロバートは少し後悔した。今の自分は、ドミニクと同じ顔なのだから。

「お前がクズなのはわかったよ、ありがとう」

「何をいまさら」

 罵られた青年がハン、と笑う。

「そんで、地上で適当に暮らしてたら――お前を見かけた」

「……俺を、だと?」

「そうさ。お前は、パライソにアイスを買ってやってた。その時俺は目立たないよう擬態してたからこの姿じゃなかったが、それでも自分の顔だ、間違うわけがない。驚いたぜ、俺と寸分同じ顔がそこにあったんだからな」

 それは一体いつのことなのだろう、パライソにアイスを買い与えるのは日常茶飯事なので、いつの話かわからない。

「どうせ思い出したって俺がどこにいたのかなんてお前にはわかんねえよ」

 それも道理だった。パライソならある程度把握しているだろうが、それでもビルの上や雑踏の中から見られただけだと、いかな彼女でも思い出せないのに違いない。

「それがお前だってのはなかなかわからなかったよ、最初はヴィヴィアンあたりがなんか変な人形でも作ったのかと思った。煙草も吸ってたし、馬鹿みたいに薬飲みまくってるし。だから、適当に他人を唆して悪魔にしたりしてさ、呼び出してはお前を何度も観察して、時々天使も捕まえて拷問して、それでようやく、お前の正体を知った」

 お前がなんで俺の姿なのかもわかったよ、とドミニクは鼻を鳴らした。

「相変わらずクソな組織だ。責任を押し付けることしか考えてやがらねえ」

「……俺たちは嫌われてたからな、いなくなったら、すぐ元に戻ったよ」

「汚職とか、やっぱまだ流行ってんだろ? そういうのが起こらないように給料高いのにな」

「それはどうなんだろうな。俺は、二年間殆どここに足を踏み入れなかったから」

「否定できない時点でクソだよ――本当に、クソだ」

 青年の言葉は、やはり、憎悪を孕んでいた。

「まあとにかく、それから俺は、ここでお前を殺し直せるよう、計画を考えた」

「……なぜ、ここで」

「ここでなきゃ駄目だったんだ」

 二年前の続きでなくちゃ、俺は。ドミニクは苦虫を噛み潰したような顔でそう言った。

「だから、俺はエヴァンに命令してお前をここまで連れて来させた。お前を前にして、平静を保てる自信が俺にはなかったから」

「そうか……」

「まさかここがお前の墓になってるとは思わなかったがね」

 死んでねえのになあ? そう笑ってから、青年は、こちらへ歩いてくると、倒れるエヴァンの横を通り過ぎて、ガラスの前で立ち止まった。

「俺はな、ロバート。お前が悪いと思っているわけじゃないんだ」

「……」

「ただ、俺は、お前を殺さないともう、歩けやしないんだ。それだけなんだよ」

 ――疲れたんだ、と、二年前、青年は呟いた。

 それがどういう意味だったのか――今なら、ロバートにも、わかる気がした。

「……なら、俺だけを、殺せよ。エヴァンジェリンとパライソは――それに、あの鷲鼻も、関係なかっただろうが」

「お前、今の俺に取捨選択を求めるとか馬鹿か。気が付いたらぶっ殺してたんだよ、あの天使は少なくともな。俺がお前のことを見に行こうとしたところで、あいつが入って行ってさあ。立ち聞きしてたら、二年前まであんだけ俺たちを蔑んだくせに、今更俺たちのことを人間だったんだとか言って、なんか、分かったようなツラしてたから――ムカついてな」

 ドミニクは、ガラスの向こうを憎々しげに睨んだ。そこにあるのは、青だけなのに。

「簡単だったよ、警備のやつをぶっ殺して、擬態してな。《嫉妬者》って便利だな、ほんと。おかげでエヴァンも簡単に入れられたし、あの天使も、お前の姿になってやったら『もう起きていいのか』なんて言ってさ――」

 ドミニクが、奥歯を軋らせるのがわかった。

「本当に、今更だ」

 そう唸る青年に、今更でもよかったじゃないか、と、言うことはできなかった。

 ユージェニーは死に、ドミニクは悪魔になって、ロバートは全ての責を負ってドミニクのふりをしている。天使は半数以上が青年に殺されて、もう二進も三進もいかない状況だ。

 それでもやはり――今更でも、やらなければいけないことは、ある。

「ユージェニーが死んでさあ」

 青年が、ガラスに凭れる。

「俺もいなくなって、そんなカッコさせられて」

 生き苦しかっただろ、と、ドミニクは言った。

「そろそろ、楽になろうぜ。お互いにさ」

「……そうだな」

「俺は、お前を殺してやれるよ」

「ありがたくて涙が出そうだ」

 言いながら、すまない、と、ロバートは思った。俺は、お前と戦う気がない。これでお前をまた、傷つけるんだろう。

「なんでこんなことになったんだろうな?」

 ドミニクが、ガラスから体を起こして、悲しそうに笑った。

「俺たちが、若すぎたからだよ」

 ロバートはそう答えた。そうだ、若すぎた――自分たちはきっと、幼すぎたのだ。

「でも俺は、他の天使どもが大人だとは思えんね」

「それは確かにな」

 言いながら、大人の定義とはなんだろう、と、ロバートは少し思った。それはおそらく、年齢を重ねることだけではないのではないのに違いなかった。

「じゃあ、死んでくれロバート」

「望むところだよドミニク」

 そんな言葉の直後に――

 ロバートの体が吹っ飛んだ。


 ◆


「――ロバート・ノーマン、ユージェニー・アダムズ、ドミニク・ダインリーの三名は、以上の罪により、死刑が求刑されている」

 首や腕に両手では足らないほどの管をつけられたまま査問会に引きずり出されたロバートは、ぼんやりとした心地で目の前の髭面の言葉を聞いていた。なんだかもう、どうでもよかった。それは彼が悪魔になって暴れることを危惧した天使連中の手で大量に投与された《感情抑制剤》のせいかも知れなかったし、最愛の人を二人も失った空虚感のせいであるかも知れなかったし、もしかすると、この査問の行く末を既に知っていたからかもしれない。査問員は髭面しかおらず、聴衆もいなかった、ドミニクの後始末に追われているエンピレオに、こんなところへ来るような暇人は、いない。

 結局この件で、エンピレオの天使は六割から七割程度が死んだと聞いた。他の場所へ警邏などに出ていた者たちは助かったらしいが、エンピレオにいた天使はほぼ壊滅、特に被害がひどかったのは比較的長く務める中堅以上の天使で、残っているものなど二十人もいないという。笑える話だった――天使を一番殺したのが天使だというのは。

 天使の激減、それが意味するのは、もうこのままではエンピレオが立ち行かないということだった。後進を育てることすら難しくなってしまっているのは明らかで、どうにかして、せめてある程度天使が育つまでの時間を稼がなければならないのである。しかも、この件を世間に公表する気がない天使連中であるから、新人を育てるのと並行で、いつも通りに業務も遂行しなければならない。これが至難の業であることは、ようと知れる。

 そのために何が必要かと言われれば、答えは簡単だった。

 時間を稼げるほど力があって、理由をつけて使い捨てられる、従順な駒だ。

 その条件にあてはまるのは、今、《監視局》に一人しかいない。

 ロバートは髭面の話をまともに聞かないことにした。面倒くさくなったのだ。名前も思い出せない人間の言葉など、もう聞いていたって仕方ない。少し前までは覚えていたような気がするのだが、あいにく、ロバートは必要のない名前を一々記憶に残しておいてやるほど優しい人間でもなければ脳味噌の容量が他人より優れているわけではない。それに、ここへ立たされているのは、形式的にそうしなければいけないからというだけだ。

(ごめんね)

 もごもごと口を動かす髭面の顔をどんよりした目で見つめながら、彼はヴィヴィアンの言葉を思い出す。三日前のことだ、珍しく部下による言伝を使わず――あるいは使える人間がいなかったのか――ロバートの元を訪れた彼女は、ひどく疲れた顔をして、鏡を手にしていた。

 意識の向こう側から髭面にそう、ロバートは我に返ると、掠れた声で、はい、と返事をした。顔はともかく、この声は慣れないな、とロバートは鼻を鳴らす。傍から聞く分には同じなのかもしれないが、自分で発すると、大分違う。

(全てを執り行ったのは私です、あなたを死なせたくないあまりにこのような始末をつけてしまったのは私です。全て私の行いです。これを止められなかったのも、全部、私のせいなの)

 ヴィヴィアンの声が、頭の中でぐるりととぐろを巻く。違う、お前のせいじゃあない、そう言ってやりたくても、その時は声が出なかった。それに、そう言ったからと言って、何がどう変わるわけでもなくて、結局ロバートは、まだそれを言えずにいる。

 髭面が、続けた。

「アダムズ補佐と共謀し、倫理的に問題のある実験を続けたこと、補佐官でありながら、ことが起こるまでノーマン大天使長を止められなかった君の罪は死してなお贖いきれぬほど大きい」

 罪、罪か。ロバートは笑い出したくてたまらなかった。もし笑うための体力があったら、彼は腹を抱えて笑い転げていただろう。俺こそがそのノーマンってやつだろうが、と叫んで、泣きながら、笑っていたはずだ。それをしなかったのはひとえに、そんな力がなかったからだ。

 あの後、ドミニクが何をしたかと言えば簡単で、彼は、姿天使を殺しまわったのだった。別に彼は、ロバートのことを貶めようと思っていたわけではあるまい。少なくともロバートはそう思う。ただ、ロバートの姿である方が油断させやすかったとか、そういう理由だろう。大天使長という地位は何も知らぬ天使たちへ近付くのに非常に有効だったのに違いないから。もっとも、そのおかげで、ロバートが極刑と求刑されたわけであり、上層部連中が偽装と隠蔽を繰り返さなければならなくなったのだが。

 加えて、天使が、同じ天使とは言え、人間を悪魔にしてしまった、というのもまた、ユージェニーたちの大きな罪と捉えられていた。天使が悪魔を生み出した、というその事実が外に漏れたら大変なことになるのは明白で、あのヴィヴィアンですら、少し困ったわねえ、とため息をいていたくらいなのだ。そのような情報でもし自作自演などを疑われ、天使の正当性が僅かでも損なわれてしまえば、均衡の元に成り立っているこの世界は簡単に破綻する。

 ……そう言えば、ユージェニーたちが何人実験に使って殺したのかは、結局わからなかったな。ロバートは、その問いを投げた時にヴィヴィアンが浮かべた苦笑と、沢山、という一言だけを思い出しながら、髭面の言葉を聞く。

「しかしながら、身を挺して彼と、その原因となったユージェニー・アダムズを殺した功績もまた、称賛に値するほど大きい」

 まったく、事実改竄もここまで来ると立派なものだとロバートは思った。《監視局》で悪魔が生まれてしまったと言う事実を隠蔽し、戦力不足を補うためにロバートをどうにか生かそうと、生き残った上層部の――ヴィヴィアンも含めた上層の連中は、必死になって真実を捻じ曲げた。その結果、『若さゆえに狂気に中てられ、叛意を持ったロバートの下で、ユージェニーと共に非人道的な実験を繰り返していたが、途中で己の罪の大きさに気付き離反、ロバート主導の元に行われたエンピレオの大虐殺をドミニクが止めた』という大層な筋書きが生まれ、こうして査問会に立たされているわけである。馬鹿らしい、心底馬鹿らしい。どうせこの話はエンピレオより外に出ないだろうし、そもそも実際は何も解決などしていないのに。ユージェニーは死んだが、ロバートはこうして生きているし、ドミニクは天使を散々殺しまわって気が済んだのか、とっくの昔に逃げてしまって、生き残った天使が消極的ながらも探しているところだ。

 今度こそロバートはこらえきれなくなって、くふ、と、重たい体を震わせて笑った。全部だ、全部嘘じゃないか。俺も、この世界も。何もかも、一切合切が、嘘だ。

 笑う自分が気に入らなかったのだろう、髭面があからさまに苛立った顔をして「静かにしろ、ドミニク・ダインリー」とまたロバートを呼んだが、そんなものはどうでもよかった。ただ、笑いが止まらなかった。

 ドミニク、なあ、ドミニク。

 お前になりたいと思ったことが、なかったと言えば嘘になるよ。

 幸せそうに振る舞う笑顔のお前が気に入らないと思った瞬間がなかったと言えば嘘になるし、ユージェニーなんていうかけがえのないものを持っているお前を疎ましく思う瞬間がなかったと言えば嘘になる。お前が俺を羨んだように、俺もお前を羨んだことがあるんだ。


 でも、俺は。

 俺は、お前に苦しんでほしいと思っていたわけじゃなかったんだよ。


 笑いながら、涙が溢れて来て、ロバートはその場にゆっくり崩れ落ちた。体についていた管が、いくつか、びちりと音を立てた。針が皮膚の下で動いて、痛い。だが、《感情抑制剤》のせいか、それもひどく鈍く感じられて、彼は益々笑みを深めた。そんな彼に何を思ったのか、髭面が嘲笑うような声音で、先を続ける。

「これらの功罪を踏まえ、ドミニク・ダインリーは天使資格の剥奪、及び、《監視局》への自由な出入りを禁ずるのみとする。また、ロバート・ノーマンとユージェニー・アダムズについては、既に死亡しているため、天使資格の剥奪のみの処分とする」

 勝手にしろ、と、声に出来ていただろうか。

 俺はこれから、ドミニクのように振る舞えるだろうか。

 以前のようにきちんと戦えるだろうか。

 ごめんね、というヴィヴィアンの謝罪を耳鳴りのように思い出しながら、ロバートは髭面の、「お前も死ねばよかったのに」という呟きを聞いていたのだった。

 俺だって死にたかったよ、と吐き捨てたいのをこらえて。


 ◆


「――なんつーかさあ?」

 ガラスに叩きつけられて、げぼっと彼は先程飲み込んだばかりの血液を思い切り吐いた。だが、これこそが、ロバートの求めていたものだ。ばきり、と、どこかで、堅い音が響く。これが罅の広がる音だと彼は気付いていた。

「悪魔と人間って、やっぱ、違い過ぎるよな」

 もう一撃、子供が人形をそうするように、ロバートの体がバウンドしてガラスを叩いた。ばきり。もっと、もっとだ。その脆さに、俺は期待している。

 これが成功したらパライソに怒られるな、と彼は内心苦笑した。だが、それを聞くことは、きっとない。彼女が気絶していて良かった、とロバートは心底思う。

「大体、お前満身創痍だし……左腕も右目もないし」

「……そう、だ、な……」

 立ち上がっても、足下がもう覚束ない。肋骨折れてるし、内臓がだいぶんイカレてるな、という自覚はあった。何か、どこもかしこもが痛い。痛くないところを探す方が難しい自分の体に、エヴァンジェリンが見舞いへ来た時に言ったジョークを、彼は思い出していた。

「どうしようか」

「なに、を」

「いや、二年経って、俺も考えたんだよ。圧倒的な力で殺すのもいいけど、お前のことは、人間として殺した方がいいんじゃないかって」

 ここまでやっておいてから言う台詞ではない気がした。だが、接近戦に持ち込まれるのなら、それはそれで、ロバートにとって僥倖だ。ばきばきと、既に音は響き続けている。入った罅のせいで、自らの重さに耐えきれないのだ。

 代用品は、脆い。

 それをロバートは知っていた。

「よし」ドミニクは、気付いていない。「久しぶりに、殴りあってみようか」

 迂闊なところは相変わらずなんだな、とロバートは思う。《高慢者》の罠に引っかかって、助けてやった時から。そして、自分の自己犠牲的なところも、あまり変わっていない。偽悪的だ、と、あの朝食の席でパライソに言われたことを思い出した。そうだ、俺は、自ら悪人であろうとしている。

 俺は――

 俺は。

「おれ、は」

 口に出すと、ドミニクが怪訝そうな顔をした。青年も自分も何も変わっていないのに――どうしてこんなことをしているのだろう、とは、少し思った。だが、考えたって仕方がない。

「おれは、たぶん、つよくなんて、なかった」

「……それは、三人ともだったよ」

 恐れないから、と、青年が言う。

「恐れを知らないから――俺たちは強く見えただけだ」

 次の一手を。

 恐れて怯え、誰もが踏みとどまる次の一手を。

「それを踏み込めるという点でしか、俺たちは実際、優れているところなんてなかった。自罰的で、死にたがりだったからこそ、俺たちは強く見えただけだ」

 そう考えると、英雄ってのは皆、動物的に欠陥品なのかもしれねえな。

 青年はそんなことを言って、腰を落とすと、一気に間合いを詰めてロバートの腹に拳をめり込ませた。体格はそう変わらないし、体重だけで言えば今のロバートの方が遥かに重たいはずだったが、ドミニクの拳はひどく重く彼の腹をぶち抜いた。拳とガラスに挟まれる衝撃に吐き出した血と胃酸が、ドミニクの顔を染める。ロバートは、そんな青年の服の襟を、残った右腕でしっかと掴んだ。襟元から、蛇のような鱗が見える。もしかすると、エヴァンジェリンが爬虫類を嫌いだと言ったのは、これのせいなのかもしれない。そんなことを思いながら、そのを、聞く。

 ――ああ、割れる。

 ばりばりばりばり、と、ドーム用の硬質ガラスが。二年前に砕けて、補修されたガラスが。


 、と。


 ドミニクが、目を見開く。お前は本当に、人の悪意に弱いな。悪意を、本質的に理解できていないんだ。クソ真面目で、まともにしか受け止められない。だから受け流せなくて、考えすぎて、悩んで――

「――壊れちまったんだよなあ」

 虚空へ、ロバートは倒れていく。

 青年の襟を掴んだまま。

 青年が、驚いて目を見開いた。足がもつれる。

 バランスを崩した二人の体が――空中へ投げ出された。

「ろっ……ロバァァァァァァト!!」

 青年が叫んで、ひどく楽しそうに、笑う。ロバートも、笑う。

「ドミニク」

 悪魔の中には飛べる種類もいるが、彼はそうではないと、ロバートにはわかっていた。大体、飛ぶ悪魔は、巨大な翼を持っていることが多いからだ。それに飛べるのならば、二年前に飛んで逃げている。そちらの方がリスクも低く、早い。

 つまり落ちてしまえば、彼は、下にある海へ叩きつけられるまで止まれない。

「お前も、生き苦しいだろ」

 風が。

「これがきっと、最善だったんだ」

 風が、吹いた。


 ◆


 僕、何してんだろ。

 男たちの言い合いを右から左へ流して、エヴァンはそんなことを思っていた。

 嘘かあ。嘘だったのかあ。じゃあ、僕が今まで生きてきた意味って、多分特にないんだろうなあ。そんなことを思った。

 そうかあ。

 なんだか、心の中は静かだった。だって、これでようやく死ねるのだ。

 多分、ロバートはドミニクに殺されるだろう。そうしたら、ドミニクはエヴァンも殺すだろう。だって彼は、劣等感の塊だから。エヴァンに劣等感を抱いているから。

 気付いていて蓋をしているのか、それとも本当に気付いていないのかは知らないけれど、ドミニクという青年は、エヴァンから見れば、劣等感に殺された男だった。

 人生において蔑まれた期間の方が長いあの青年にとって、蔑まれることの苦痛は、おそらく、決定打ではなかった。では何が一番苦痛で、彼をここまで追いやる決定打になったのかと言えば、多分、ロバートと比べられることだったのだとエヴァンは思う。己の敬愛する、最愛の友人と比べられることが、きっと、ドミニクにとっては、一番苦しいことだったのだ。だからあの日、ユージェニーに裏切られて、悪魔になるほど感情を爆発させてしまった。彼女までもがロバートを選んだと思ってしまったから。

 エヴァンは彼らに拾われた時十歳で、ものの見方なんてよくわかっていなかった。でも、ドミニクがあの赤毛の女に依存していたのは理解していた。彼女がいない時のドミニクは、もう、死体も同然だったから。きっとこの人はユージェニーがいないと駄目なんだ、と、エヴァンは子供心に思った。

 多分、この種子の研究が、完成していれば。

 ドミニクがエヴァンのように成功していれば、彼は救われたのだろう。

 救われて、ロバートとユージェニーを真実愛していけたのだろう。

 けれど失敗し、彼は、もはや取り返しようのない劣等感を抱えた。それがきっと、ロバートの恐れる憎悪の正体で、エヴァンを散々痛めつけた彼の残虐性の正体だった。

 成功作品であるエヴァンと己を比べることも、彼はよくおこなった。傷つくのが嫌なら比べなければいいのに、とは思うのだが、おそらくドミニクはもう、自分で自分の傷口を抉ることでしか生きられないようになっていたのだろう。いけないと分かっているのに、どうしてか、そうしてしまうのだ。幸せになれないと分かっているのに。エヴァンも自分の胸の傷について同じことをしてしまうから、よくわかる。鏡を見て、何度も何度も、傷を確認してしまう。彼女が拾われた理由は、種子で過去の傷も治るかどうか、という理由だったが、結局、治らないという結果に至ったのだった。それからずっと、エヴァンは胸の傷を眺めて過ごしている。

 似ていたのだろう、と、思う。

 だからドミニクはあの日エヴァンを連れて行ったし、二人とも、どうしようもなく、ロバートに拘ってしまってやまないのだ。彼が他人の傷に興味を示さないから。エヴァンがドミニクを嫌いな理由の一つに、多分、同族嫌悪も含まれている。

 そんなことを考えているうち、不意に、痛みで靄のかかった脳裏へ、ばしゃあん、と何かが割れて砕ける音が響いて、エヴァンは億劫ながらも顔を上げた。風が、強く彼女の体を撫でる。

 視界に入ったのは、落ちていく二人の男の足だった。

 落ちた。

 落ち――た。

「……は、はは」

 喉が、勝手に哄笑を、上げる。

「はは、ははは、ああはははははははははははははは――――――!!」

 何が面白かったわけでもない。楽しかったわけでもない。嬉しかったわけでもない。現にエヴァンは笑いながらぼろぼろと涙をこぼしていたし、再生しては破れる腹が痛んでしょうがなかった。

 ここから落ちて、ドミニクはちゃんと死ぬのだろうか。海へ落ちたくらいじゃ、治ってしまうのではないだろうか。ロバートは、拳銃一丁しか持っていない。あれで、殺せるのだろうか。そのあたりをちゃんと考えて心中を選んだのだろうか。あれも、馬鹿な男だから。

 本当は、あの海上都市で、彼は死ぬところだった。彼女が駆けつけた時《高慢者》は普通に逃げ出そうとしていたところで、エヴァンが機関砲に紛れてあの女をミンチにしていなければ、ロバートはとっくの昔に死んでいたのだ。あの女を悪魔になるよう唆したのがドミニクだったせいで、同じ顔のロバートを、あの《高慢者》は心底憎んでいたから、あと一歩間に合わなければ本当に死んでいた。

 ――あの人の二年前なんて知らないけれど、今のあの人は、誰かが傍にいないと、きっと駄目なんだ。そんなことを思った。

 そう言えば、見舞いに行かされたのはドミニクの指示だったけれど、あれには一体どんな意味があったのだろう。

 視界の端で、パライソが起き上がった。気絶していたのだろう、何が起こったのかわからないようで、割れたガラスを見て呆然としていた。それから、笑うエヴァンを見て、激昂した様子で走ってきた。

「お前――お前が!」

 よく見れば、少女には右手首から先に焼かれた金属がはめられていた。このせいで再生しないのか、とエヴァンはぼんやり思う。

「……ごめんねえ」

 パライソが何か言うのを聞きながら、ワイヤーを引きずり出して、少女を貫く。パライソが血を吐いて黙った。そんな少女を横に転がしてエヴァンは立ち上がると、しっかりとした足取りで、《監視局エデン》の果てに立った。

 なんでだろう。

 なんでだろう。

 なんで、だろう。

 エヴァンにもわからない。大体、誰しも、自分のことが一番わからないものなのだ。

 だが、それでも。

 エヴァンは――エヴァンジェリンは、ガラスの外の空へと、飛びだした。

 飛べる気が、した。


 ◆


 馬鹿が。ドミニクはロバートを罵って、笑った。なんだかとても楽しかった、まさかこの男が心中を選ぶとは、さすがの青年も思わなかったからだ。彼の性格からして、大人しく殺されることを選ぶと思っていたのに。

 このままだと、海に叩きつけられてドミニクは死ぬ。高度数千から落ちて、無事でいる自信は青年にもない。エヴァンはよく無茶をして高いところから飛び降りたりしているが、いくら悪魔でも、木端微塵になると死ぬのだ。悪魔の再生能力は、脳に依存している部分が大きい。頭を消し飛ばされても復活するのは、不死身だからではなく、細胞自体にもある程度再生するよう指向化が施されているからというだけで、天使が悪魔を「動かなくなるまで殺す」のは、その再生の許容範囲を越えさせるためだ。

 だが、死ぬからどうだというのだ。

 ドミニクは、笑いの止まらない自分を自覚していた。

 ロバートだって、ここから落ちれば死ぬ。二人一緒に、海の藻屑だ。飛べない二人に、ここから助かる手段はない。

 ――どうせ死ぬなら、楽しんで死ぬべきだよなあ!

 ロバートが、ドミニクの襟から手を放した。自然、距離が開く。ドミニクはそうするべきだと思って、ロバートを捕まえるとまた引き寄せた。男はそれに構わず、ズボンのウエストにねじ込んでいた銃を抜いて、セイフティを外すと青年へ突きつける。

「そんなもんでどうにかなると!」

 ごうごうと、風がうるさい。ドミニクの嘲弄に、ロバートも笑った。

「思ってねーよ! これは、ただの、悪あがきだ!」

 銃声が風に掻き消える。殆どゼロ距離で撃たれた弾丸は、正確にドミニクの眉間を捉えた。大脳を破壊されて一瞬、思考が止まる。だが、すぐさま再生して、青年は空いていた方の手でロバートの頭を掴むと、自由になった拳を振り上げた。拳が、自分そっくりな顔にめり込む。力を使えばいいだなんてことはわかっていた。けれど、ドミニクは、拳でロバートを殴った。男が拳のラッシュなどものともせず、銃を撃つ。一、二、三……残っていた七発を撃ちきったところで、ロバートが銃をくるりと回して銃底で思い切りドミニクの側頭部をぶん殴った。首がもげるかと思うほど強烈な打撃に、青年も負けじとロバートに拳をぶち込む。

 楽しい、と、ドミニクは思った。

 笑っていた、二人とも、笑っていた。

 雲を突っ切る。真っ白な水に絡みつかれて、びしょ濡れになりながら、ロバートがついに、その手から銃を滑り落とした。それはそうだ、これだけ重傷で、再生もしないのに、顔面を殴られ続ければ、意識だって吹っ飛ぶだろう。雲を抜けた時にはもう、二人とも血と水でめちゃくちゃだった。泣いていることに気付かれなければいいとドミニクは思う。

 朦朧とし始めているらしいロバートは、笑いながら、ドミニク、と青年の名を呼んだ。いつの間にか彼の歯はいくつか折れてどこかに行っていた。

「おれは、あのひ、あのかだんで」

「ああ」

「おまえのなまえをよんだことを、こうかいしてない」

「……ああ!」

 そう言う男だ、お前はそう言う男だろうよ! ドミニクは泣きたくて泣きたくて、それでも喉からせり上がってくるそれを飲み込む。そうして、それを紛らわすようにまた拳を振り下ろした。

 どうして、この男と、もっと違う関係を築けなかったのだろう。

 どうして、自分は、こいつを殺さなくては生きていけないと思ってしまうほど、憤懣ふんまんを溜めこんでしまったのだろう。

 もっとうまく生きられていたら。

 あの日、ユージェニーを赦せていたら。

 もう一発拳を顔面にぶち込んだところで、ロバートが完全に気絶した。だらりと力の抜けた体は墜落の抵抗のままに流されている。

 ドミニクは、また、笑った。

 笑いながら――首を撥ね飛ばされた。

 誰がやったのかなんて、考えるまでもなかった。

 それに、もう、そんなことはどうでも良かった。

 過去に人は滅ぼされるのだと、ドミニクは、昔からずっと思っていた。だからいつかこうなるだろうとは、思っていたのだ。これを望んでいたのかもしれない、とすら思った。

 でなければ、自分が、この、自分とよく似た子供を連れて行った理由が、よくわからない。

 彼女をロバートの元へ見舞いに行かせてやった理由も、わからない。

 ――ああ、海が、青い。

 海と同じ色に煌めく髪の毛が、朝日のような金色の光を伴って、閃いた。

 その金色に恋人を思い出して、ユージェニー、と、ドミニクは、小さく呟く。

 お前の研究、多分、どう頑張っても成功しなかったんだよ。きっと、そうだったんだよ。ロバートだって、成功したわけじゃない。結局、死なない状態を維持するだけで精一杯になって、体全部生身じゃなくなってる。俺も悪魔になった。他の実験台は殆ど全部死んでさあ。そんで、こいつも、結局こうなった。

 俺もさあ。

 自分の始末を誰かにつけて欲しかっただけなんだ。

 多分、きっと、そうなんだよ。

 愛してたよユージェニー。愛してた。


 そして彼は、目を閉じた。



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