Chapter.3 Eden

     Chapter.3 Eden


 ……眠れない。

 ドミニクは、空っぽになった酒缶と《感情抑制剤アフェクトゥス》の瓶の海で、ソファに横たわったまま天井を見つめていた。ソファを置いたリビングの窓は閉め切っているから、風などない。高い湿度と気温が、ドミニクの不快指数と不眠に拍車をかけていた。くわえた煙草の煙が、真っ直ぐ上へ昇って行く。夜の静けさの中で、波の音だけがよく響いていた。開けたカーテンから差し込む月光を充満した煙が反射して、視界は薄青い。

 エヴァンを追い出してから十日、彼はずっと眠れていなかった。昼間に少しうつらうつらとすることはあるのだが、眠りへ落ちた途端に今までとは比べ物にならないほど鮮明に二年前の記憶が蘇ってきて、脂汗と共に目を覚ますことになるのである。《感情抑制剤》も、酒も、煙草も、どれも役に立たない。眠れないまま一週間が過ぎたところで柄にもなく娼館にも行ってみたが、まあ、結果は自分でもどうかしていたなと思う感じだった。あまり思い出したくない。

 パライソとは、この十日間殆ど会話をしていない。吐瀉物にまみれ、白目をむいて気絶するドミニクを助けてくれたのはあの少女ではあったが、その後に事情を説明した際、「え、ドミ、あいつのこと男だと思ってたのか!?」と言われたものだから――つい当たり散らしてしまって、それから無言の状態が続いている。最初の三日は辛うじて片づけくらいしてくれていたのだが、あまりにドミニクが酒瓶などを空にし続けるので、四日目から一切やってくれなくなった。おかげでこの有様だ。

 眠りたい、と、ドミニクは思った。二年前までは、こんな悩みを自分が抱えることになるとは思っていなかった。当時は眠りを愛していたのではなく、必要だから眠っていただけだが、今は眠りが恋しくてたまらない。

 見れば、先程まで使っていた灰皿代わりの空き缶が、吸い殻でいっぱいになっていた。億劫ながらも、酒や薬の代わりに吸い殻を溜めた瓶や缶を退け、新しいものを出してくる。捨てなければ、と思うのだが、仕事もないので動く気力が湧かないのだった。

 思い出したくないことばかり思い出してしまうのは、どうしてなのだろう。ドミニクはそんなことを思う。忘れようとしていたのに。あの日死んでしまった、自分と、ユージェニーと、それから、彼のことを。

「……なんでもできると、思っていたんだ」

 両手で顔を覆うと、蘇ってくるのは、あの懐かしい日々だ。若さと全能感に溢れて、三人はいつも笑いあっていた。三人でいればなんでもできると自分たちは信じていた。だが、出来なかった。だから忘れたかった。だってもう、どこにもいない。あの時の三人は、あの懐かしい日は、どこにも存在しないのだ。

 ――きっと本当は、悪魔と人間なんて大して変わらない。

 エヴァンの言葉を、思い出す。そうだ、その言葉は、ユージェニーの口癖でもあった。彼女は悪魔の研究を進めていて――それを応用した天使の強化を図っていて――

「――ぅ、ぐ」

 吐きそうになって、ドミニクはそれ以上考えるのをやめた。体が重い、吐き気がする。眠りたい、とまた彼は思った。眠ってしまえば、考えずに済む。夢に出てくるユージェニーたちは、顔も名前も思い出せない。それでいい、それがいい。

 ただ、忘れたいだけだ。

 ドミニクはただ、彼らのことを忘れて、眠って、そして無心に殺していたいだけなのだ。

 あの日感じた悲しみも驚きも焦りも恐れも痛みも――何もかも、忘れたい。

 記憶の傷が忘却でしか癒せないというのなら、それを与えて欲しいと彼は思う。あの日彼が失い、同時に背負ったものは、あまりに大きく、また、多すぎた。

 幸福になりたいわけじゃない。

 自由になりたいわけじゃない。

 ましてや、生きていたいだなんて思ってはいない。

 ただ、ただ――そうだ。


 あの日生き延びてしまった自分の始末を、誰かにつけてもらいたいだけなのだ。


 ドミニクは、震えながら携帯電話へ手を伸ばした。ヴィヴィアンに電話をかけようと思ったのだ。彼女なら――あの日、真っ二つになったドミニクを彼女なら、どうにかしてくれそうだと思った。新薬の実験だろうがなんだろうが構いはしない。眠れるのならば、それでいい。

 だが、番号を入力し終わり、最後のコールボタンを押そうとしたところで、指が止まった。こんな理由で電話をしたら、まず、ユージェニーたちの話から始まりそうな気がしたからだ。それはドミニクの望むところではない。それに、現在時刻は深夜の二時だ。もし寝ていた場合、美容がどうたら健康がどうたらと文句を言われそうである。あれは他人に自分の生活を乱されることをひどく嫌う。ドミニクは携帯電話をテーブルへと放り出した。

 ついでに煙草を空き缶に押し付けて消し、ソファの背もたれの方へと顔を向けるように寝返りを打つ。それからドミニクは腕を組むと、今日こそ二年前のことを思い出さずに眠れるよう祈りながら、静かに目を閉じたのだった。


 ◆


 ――跳躍する。

 郊外にある建設途中のビルの鉄骨、その端から、跳躍する。シャツが空気を孕んで、ぶわりと膨らんだ。下の鉄骨には、《憤怒者》の男が立っている。だがエヴァンが目指しているのは彼ではない。では何か。答えは簡単だ。地面である。落下するに従い、男の姿が明確になってきた。目が覚めるような空色をしたその髪の毛に、一瞬、空へ落ちているような心地すらする。朝になる前の、いっとう暗い闇の中で、男の髪はよく目立っていた。落ちるエヴァンに気付いて、男が、こちらを見る。だが、彼が現状を認識して何かするよりも、自分の方が早い。

 落下の加速を乗せて、ワイヤーを繰る。鉄骨を通り過ぎざま、男の首にワイヤーがかかり、落下するエヴァンの重量に従って男の首が落ちた。バランスを崩し、血の雨と共に男が鉄骨から落ちてくる。男の体から首が生えようとしている、それをまた撥ね落とす。ついでに他の体のパーツも切り離して、ばらばらにする。血の雨が濃さを増す、撥ね落とす、ばらばらにする。なんだか楽しくなってくる、撥ね落とす、ばらばらにする。段々気分が良くなってくる、撥ね落とす、ばらばらにする。肉の塊が小さくなってきたのが残念だ、撥ね――

 ばあん。

 最初に跳んだ鉄骨から地面まで何十メートルくらいあったのかは知らないが、最後に男の首を撥ね落とした時、ようやくエヴァンは地面に着地した。着地、というには語弊がある、全身で土とキスをした。どれだけの箇所が損傷したのかわからない。ものすごく痛い、ということだけはわかるが、どこがどう壊れたのかは分からなかった。だが、とりあえず、自分は生きている。その事実が大事だった。男の肉片が、地面に倒れるエヴァンの体の上へびしゃびしゃと降り注ぐ。口の中に血が流れ込んできて、エヴァンは痛む首を無理矢理横へ向けて唾と一緒に吐き出した。気持ちが悪い、血を見るのと匂いを嗅ぐのは好きだが、味は嫌いだ。

 しばらくすると全身の痛みが引いて来て、エヴァンは起き上がった。悪魔との戦いなんてつまらないものだ、と思う。こんなもの、先手を取った方の勝ちだ。

 もっとも――普通の人間は、こんな無茶なことなどできないだろうが。

 立ち上がって、工事現場から出ようとしたところで、「よう」と声をかけられエヴァンは足を止めた。血の味の他にエヴァンの嫌いなものが、この男である。少女は振り向かず、声だけで返事をした。

「……なんですか。仕事は終わりましたよ」

「俺の方も明日で終わりだ。ところで――」

 足に激痛が走り、エヴァンは悲鳴を上げて地面に転がった。痛い、痛い。何か、縄のようなものに絞め上げられ、足がどんどん青黒く染まっていく。見えないので、剥ぎ取ることすら出来ない。このままでは砕かれる、とエヴァンは涙すら浮かべながら叫んだ。

「やめて! やめてください!」

「やめる前に質問だ。なんでこんなことされてるかわかるか?」

 わかるかッ。そう吐き捨ててやりたかった。いや、わかる、わかっているが、あれは仕方がないじゃないか!

「お前、なんであいつのとこから離れてんだ?」

 エヴァンが答えるよりも先に、男が怒りの滲む声で答えを告げた。

「う、失せろって、言われたから!」

「ばああああああか。そんなのまともに受け取るやつがあるか。食らいついて執念深くついていってりゃ、あいつも折れたろうよ」

 ぐしゃ、と、両足の砕ける音がして、エヴァンは喉を反り返らせた。だが首に、先程まで足を絞め上げていたのと同様の縄が巻き付いて、少女は結局掠れた声しか上げられなかった。

「まあ、これはこれで良しとしてやるさ……あいつは他人を傷つける恐怖を知ってるからな、むしろもっとセンセーショナルになるかもしれん」

 突然縄が外れて、エヴァンは咳き込む。足はいつの間にか治っていた。嫌だ、と思う、こんな体だから、この男は、こうやってエヴァンをひどい目に遭わせるのだから。

「精々俺の役に立てよ、『姉さん』。俺のために!」

 男が笑って、まだ這いつくばっていたエヴァンの腹を蹴った。腹へぶち込まれたその衝撃にまたせ、絶対いつか殺してやる、と少女は心に誓う。この男が自分に嫉妬をいだいていることは知っているが、それから至る暴力行為を寛容に受け止めてやるほどエヴァンは人間が出来ていない。こいつはいつもそうだ、劣等感と嫉妬を誤魔化すために彼女を痛めつける。五年前は実験の一環だったが、二年前からは明らかに違う。いつかさっきの《憤怒者》みたいにぐしゃぐしゃの死体にして、魚の餌にしてやる。また腹を蹴られた。このクズが。

 それができないことは、わかっているけれど。

 弱いから。エヴァンはこいつを殺せるほど強くないから。こいつ相手に先手は取れない、この男は、エヴァンが自分を殺したがっていることを知っているから。

 それなら死にたい、と彼女は思う。死ねないから。死なせてくれ、と、願っている。救ってくれる人はいないし、自分自身を救えるほど強くない。だから、死なせてほしい。二年だ、二年、二年もこいつの玩具になって生きたじゃないか。もう、いいだろう。そう思う。

 ……でも、死ぬなら、あの人に会ってからが、いいな。

 会いたいな、あの男と一緒に過ごした時間は割合、幸せな時間に入るから。お菓子なんて、生まれて初めて食べた。誰もあんなもの、エヴァンに与えてはくれなかった。この十五年で、一度も。そんなことを考えながら、エヴァンはこれ以上蹴られないようにさっさと立ち上がると、男から血を拭うためのタオルを受け取ったのだった。


 ◆


『親愛なるドミニク・ダインリー君へ。

 パライソちゃんは元気でしょうか。そろそろ喧嘩してそうでヴィヴィはとっても心配です。ドミニク君もパライソちゃんもいい子だけど(二人とも私がお世話したので、いい子じゃないわけがありません)、ドミニク君は謝れない子だし、パライソちゃんは自分の正義を他人に押し付けるところがあるので、そのあたりで喧嘩になってるんじゃないかって心配で心配で、つい機関砲を改造してしまいました。気分が乗ったおかげですっごいことになってしまって、ドミニク君以外には使えそうにありません。《監視局エデン》には内緒で送るので、使ってください。弾はいつもの二十ミリが使えるので、それでお願いします。

 そうそう、腕とか取れたらまたこっちに来てください。引っ付けるか、無理なら新しいのを用意しますから。出来れば新しいものを取り付けたいものです、あなたの体が私の作ったもので構成されていくのが、私はとっても楽しくて仕方がありませんから。

 では、体に気を付けて。あなたの大好きなヴィヴィアン・バリントンより』


(追伸、『パライソちゃんと喧嘩している場合、チョコレートとプリンのパフェ(上にナッツが乗っていて、中にフルーツとかじゃなくてソフトクリームとスポンジが入っているもの)をあげれば十中八九機嫌が直るので試してみてね』……)

 ヴィヴィアンからの手紙を読んで、ひとしきり、いつもとは違う類の頭痛を感じてから、ドミニクは横に置かれた小包を見た。小包、とは言ったものの、軽く二メートルほどある。乱雑な包装はヴィヴィアンがやったのか、それとも、《監視局》から地上へ運ぶ際に緩んだのか。両方かもしれない。

 案の定まったく眠れないまま朝を迎え、鬱塞うっそくした気分を切り替えるために冷水のシャワーを浴びたところで、ドアのチャイムが鳴った。支部を中心とした市街地から遠く離れ、陸地の端に位置するドミニクの家には、ダイレクトメールくらいしか来はしない。来るとすれば支部の連中くらいなものだったので、彼は面倒に思いながら返事をしてジーンズとコンバットブーツだけ履き、それからドアを開けた。だがそこには支部の鷲鼻や、その部下である――名前を思い出せない――男たちでもなく、困った顔の郵便配達員が立っていた。逆はともかく、《監視局》から地上への荷物は検閲されないのを良いことに、無理を言って押し付けたのだろう。そうして受け取ったのがこの包みである。一緒に渡された手紙の内容から察するに、中身は機関砲であるらしい。相変わらず予想の斜め上を全力飛行していく女であった。

 うーむ、と唸ってから、とりあえずドミニクは小包を廊下へ置いておくことにした。最近は大きな仕事が入らないので、後で確認するのでもいいと思ったのだ。それから、便箋を適当に折ってどこかへ片付けようとしたところで、紙が二枚重ねになっていることにドミニクは気付いた。怪訝に思ってよく見れば、メッセージが書かれているのは便箋ではなくヴィヴィアンの愛用しているベッカー社のレポート用紙だった。台紙についたままの紙に二枚手紙を書き、一緒に千切って封筒に入れたらしい。相変わらず研究以外には大雑把な女であった。

 一枚目に署名と追伸まで書いておきながら一体何を送って来たのだとドミニクは二枚目の便箋をめくってみて――全身の血が足下へ落ちていくような心地を味わった。どうしてヴィヴィアンは、こんなことを。


『ユージェニーたちのことはあなただけのせいじゃない』


 その一文だけが、罫線の入った白い紙に書かれていた。やめてくれ、と、思わず呟く。俺を慰めようとしているのだろうか。それならばとんだ勘違いだ、ドミニクは慰められたいわけではない。そんな資格はない。

 ドミニクは――自分は、確かに、二年前の惨劇を引き起こした張本人なのだ。

 そうだ、あの時、あの、《監視局》に初めて強い風が吹いたあの日――恐れをねじ伏せることが出来ていたならば、あんなことにはならなかった。

 冷たい手で、手紙を畳む。破り捨てたい、とも思ったが、ヴィヴィアンの使ったレポート用紙に対する僅かな郷愁がそれをさせなかった。これを見越していたのならよく頭のまわることだとドミニクは口角を吊り上げて、自分の手の中に収まった白い長方形を尻のポケットに入れると、置いておくつもりだった小包に向き直る。

「……俺は、強かった」

 ぼんやりと、そんな言葉が口をついて出た。

「俺は、誰よりも、強かった」

 その言葉は虚しかった。俺は本当に強かったのだろうか。実感がない、《監視局》は未だに自分を強いと評価するし、事実、おそらく成績は天使よりもいいだろう。だが、自分はその強さというものを実感したことがない。自分はずっとやれることをやってきただけで、それ以上ではない。では、強くない自分が永らえている理由とは。

「……なんで俺は、ここにいるんだろうな?」

 薄ら笑いを浮かべて、階段をふり仰ぐ。そこには、パライソがいた。目を見開き、激昂する直前と言ったような表情で、少女は自分を見下ろしていた。唇を震わせながら、何も言わない。

「俺は、まだ、俺のままだ」

 携帯電話が鳴った。

「苦しくてたまらない、生きてる意味がわからない」

 これは何の電話だろう。できれば、大きな仕事であってほしい。頭を空っぽに出来るような。

「これなら、あのまま捨てておいてくれた方が――」「――言うなぁっ!!」

 パライソが、ついに叫んだ。泣きそうに目を潤ませ、階段の手すりから身を乗り出して。

「言うな言うな言うなぁっ! そんなこと言うな! 折角助かったんじゃねえか、そんなこと言うなよぉ……!!」

「パライソ」

 コール音が止まない。仕方なく、ジーンズから電話を取り出す。相手が支部であることを一応確認してから、通話ボタンを押す前に、言う。俯いて、少女の顔を見ないように。

「俺は、助かりたかったなんて一度も言ってない」

 そのまま、彼女が何を言うより先に階段へ背を向けて電話に出ると、案の定仕事であるらしい。それも――《高慢者》が相手の。ああ、死の匂いがする。それは喜ばしいことだった、もうエヴァンはいないし、今回はパライソだってついてこさせない。自分と悪魔だけの空間に、今から自分は赴く。

 そうだ、俺は、助かりたかっただなんて一度も言っていない。

 あの日の風の中、二つに千切れて転がった時から。

 ひき肉のようになったユージェニーの死体を見た時から。

 小包を開けて、中から銀色に光る塊を引きずり出す。機関部を押し込めた金属の箱から筒状の砲身とマガジン、グリップが生えたような姿をしたその巨大な塊は、明らかにどこかへ固定して扱うものだろうと思えるもので、ひどく重たかった。大体七十、八十程度か。もしかするともっと重いかもしれなかった、だが、今の自分なら振り回せない重さではない。ヴィヴィアンもいいものをくれた、と思った。

「ドミ、あたしも」

 そんなことを言うパライソを無視して、階段裏に作った火器倉庫から弾を用意する。いつもの拳銃を下げて、先程出て来たばかりのバスルームへ入ると、無精で作ったクロゼットから黒い半袖のシャツを取り出して着た。次いで、カーゴパンツへ履き替えておく。ジーンズだと、《感情抑制剤》の瓶が入らないからだ。それから洗面台で髭を剃り、一歩退いて鏡を見る。そこに映っているのは、自分だ。茶色の髪に紫の目。ドミニク・ダインリー。元天使の始末屋。優秀さ故に、未だ生かされている男。恐怖を薬で抑えつけないと眠ることも出来ない男。二年前から存在する《監視局》の汚点。

 ――馬鹿らしい。

 衝動的に、拳銃を引き抜いて鏡を撃った。当然のように鏡が砕けて、床にまき散らかされる。その音に階段を駆け下りてきた少女が、バスルームの入り口から不安げにこちらを伺っているのが分かった。いつもなら笑って優しい言葉をかけてやるところだったが、今の自分にそんな余裕はない。この精神のささくれは、眠っていないせいもあるだろうと彼は思う。頭の中の冷静な自分が、子供に当たるなと怒鳴ってきた。ああ、うるさい。わかってるよ畜生、俺はクズだ。だがな、そんなことはわかってたことだろう。今更善人ぶってどうする?

 それでも最後の良心で無理矢理舌打ちを飲み込んで銃を仕舞うと、佇むパライソを通り過ぎ、リビングに置きっぱなしだったサングラスをかけてジープのキーを取る。そして彼は廊下の荷物を左手に抱えると、黙って玄関を開けた。朝八時の太陽は、ぎらぎらと暑い。

 帰ってくる、とも言わなかった。パライソはついてこなかった。


 ◆


 恐れを克服することが勇気だと人は言う。

 恐れとは警戒、そして命を繋ぐための学習だから。

 では、恐れを知らず、命を顧みず戦う者は臆病者なのか。

 どれだけの成果があろうとも蛮勇とそしられなければならないのか。

 エヴァンは、そうは思わない。

 適当に借りたホテルのバスルームにて、エヴァンは鏡の前に立っていた。鏡の前には、裸の自分がいる。首元から胸を通って肘までの皮膚に、無数の縫合痕をつけた自分が。縦横無尽に走るそれはあまりにも歪で、醜かった。金色の目が、嫌悪を湛えて自身の体を睨んでいる。この傷がないのは、背中と、肘から先だけだ。

 あの男は、これを見ても、何も言わなかった。

 何も言わず、エヴァンの首を絞めた。彼が問題にしたのは彼女が己の性別を偽っていたことに関してだけで、この傷のことなど意にも介していなかった。見てはいるはずなのだ、確実に。何せ、あの時自分はあまりに驚いて胸を隠すことすらしなかった。

 変な人だ、と思う。普通の人間は、これを見ると気味悪がった。あの人もだ。あの、エヴァンを痛めつける人も、これを見て「気持ち悪い」と言った。だが、あの男は違う。最早、認識すらしていないようだった。おそらくあの男にとって、他人が醜かろうが美しかろうが関係がないのである。興味がないのだ。自分の世界で生きている、と言ったパライソの言葉を思い出す。確かにあの男は、自分だけの価値観で生きているらしい。

 ……自分の世界で生きていると言えば、父もそうだった。

 指先で、つぎはぎにも似た、その縫合痕をなぞる。どう見ても、どう触れても、醜い。それはひどく古いものだった、幼い時分にワイヤーを体の中に入れられた時のものだ。ワイヤーが入っているので、傷は隆起し、蚯蚓のように皮膚を這い回って消えることはない。筋肉と繋げられたそれは、自分の意思で出し入れが可能だが、抜くことだけが出来なかった。

 五歳で初めてこうされた時、エヴァンは自分を拾った父を怨んだ。粗悪な麻酔と素人じみた闇医者の手で行われた手術は、十年経っても色褪せぬ凄惨さで記憶に刻まれている。それ以来、成長に従って何度も何度もワイヤーの場所を変えられ、こんな傷だらけの体になってしまった。父はエヴァンが手術をされる度、包帯を巻いて泣く娘を見て「強くなれるんだ! いいことだろう、お父さんがいなくなってもちゃんと生きていけるようにしたんだ、感謝しておくれ」と笑った。この少年のような言葉使いを教えたのも父だ。彼は、女としてエヴァンが生きることを「きっと生きにくいから」と言って拒絶した。父は悪人と言い切ることさえできなかったが、狂人ではあっただろう。彼が逮捕された時、エヴァンは十歳ながらにほっとした。

 そんな父は天使崩れだった。レストランであの男が言ったような《監視局》の環境に耐えられず、天使を憎むようになったのだと言う。

 曰く、あそこは地獄だ。

 降りてきた地上も相応の地獄だったが、それでも《監視局》よりはマシだと父は言った。《監視局》の天使に混じって悪魔を殺して生きるより、ずっとマシだと。

 あのイカレた三人の下で働くよりはマシだと、父は呪いのように言い続けた。

 あのロバート・ノーマンとユージェニー・アダムズ、それから――


 ドミニク・ダインリーの下で働くよりはマシなのだと。


 そして、天使を殺し続けた。悪魔を殺し続けることが嫌だと言いながら、帰ってくるたび、天使を殺したと報告するのである。高らかに、歌うような上機嫌で。翌日の新聞には、人の顔が載っていた。一緒に暮らしていたエヴァンの兄弟たちはそれをちっともおかしいことだとは思っていなかったようだが、エヴァンはその矛盾がおそろしくてたまらなかった。

 そんな父が消え、十五になってもまだ、エヴァンは何が正しいのか分かっていない。

 非情なまでに悪魔を殺し、捕まえ、実験を繰り返しながら上辺だけでも秩序を守る天使と、それに恐怖し、悪魔を憐れんで、憎しみから天使を殺し続けた天使崩れの父と。

 どちらが正しいのか、自分にはわからない。今の彼女に出来ることは、命令のまま我を忘れて悪魔を殺し続けることだけだ。頭の先から爪の先まで血に汚れて、殺す快感と死線をくぐる恍惚にひたることだけだ。

 もしかしたら死ねるかもしれない、その期待が、今なお少女を生かしている。

 この腹に植えられた種子が、何かの手違いで機能しないかもしれないという期待が。

 のために生き続けることを義務付ける、この種子が。

 ビルの鉄骨から落下しても足が砕けても治してしまうこの種子が、機能しないかもしれないという、その期待だけで、エヴァンは生き、戦い続けているのである。

(――残念だが、俺は元からぶっ壊れてる方だよ、エヴァン)

 エヴァンが問うた時、あの男はそう笑った。かつて《監視局》のトップのうちの一人として君臨した男は自分含めた天使を『壊れている』と称したのである。そして、エヴァンもまた、それが正しいことを知っている。五年前父が捕まった時、こんな体であるが故に、身を以て理解させられた。許せない、と、エヴァンは小さく呟く。知らず握りしめた拳の中で、爪が手のひらを抉る痛みが走る。父がそうであったように、自分もきっと、あのユージェニー・アダムズたちを許すことはできないだろう。

「……でも、父さんが正しいなんて、思えないよ」

 吐き出したその言葉は、重苦しくバスルームに堆積して、エヴァンの体にまとわりついた。それは蛇のようで、少女をひどく不愉快にさせる。爬虫類は嫌いだ、昔から、どうにも本能的に受け付けない。特に、あの人に連れられるようになってからは顕著だ。あの人もやはり、エヴァンの苦手なもののひとつである。

 全裸の自分を見ながらそんなことを考えているうち、バスルームの扉の外から電話のコール音が鳴った。電話の主はわかっている。あの人だ。出たくはないが、さっさと出なければ何をされるかわからない相手であることも理解していた。殺されはしないだろうが、殺される手前までは何でもされるだろう。それは嫌だ。誰が好き好んで痛い目に遭いたいと言うのか。

 つまり、仕事なのだ。気鬱である、別に、自分はあの男には恨みがない。

 エヴァンは一つ溜息を吐くと風呂桶に引っかけておいた下着をつけ、電話を取るためにバスルームを出たのだった。


 ◆


 二年前のあの日、ベッドの傍に跪いて「死んでくれ」と言ったユージェニーの顔を、自分はまだ覚えている。

 死んでくれドミニク、と言ったあの顔を。

 君は怪物になってしまった、だから、死ななくてはならない。彼女はそう言った。

 その整った顔を鼻水でぐしゃぐしゃにして、金色の瞳を涙に濡らし、ユージェニーはドミニクの手を握りしめたまま「私のせいだ」と「ごめんなさい」、それから「死んでくれ」を繰り返していた。それしか語彙がなくなったかのように、彼女は泣き続けていた。首のあたりで短く切り揃えられた赤い髪の毛はぱさついていた。昔は長かったのをいつの間にか切ってしまっていたのだが、それが今でもドミニクには残念でならない。長い方が似合っていたのに。

 この人は、泣いているのか。ドミニクは体中にチューブをつけられベッドの上で寝そべったまま、茫然とそんなことを思った。いつも超然としているこの人が。それはドミニクにとって青天の霹靂と言えるような事実で、ひどく戸惑ったこともやはり、覚えていた。記憶の中にロバートはいなかった、それは当然だ、あの日は珍しくロバートが一人で悪魔を殺しに出ていて、《監視局》にはドミニクとユージェニーしかいなかった。

 泣くなよ、失敗は誰にだってあるし、お前が死ねと言うなら死ぬからと、お前のために死ねるのなら本望だよと、ドミニクは微笑んでユージェニーの涙を拭おうとした、気がする。よく覚えていない、だって、あの女は、

(――ロバートの時は上手くいったのに、ごめんなさい)

 このプロジェクトはドミニクとユージェニー二人だけのものだったはずなのに、あの女はそう言った。彼女をずっと支えてきたのはドミニクで、ロバートの目を盗んで実験体を捕まえてきたのも彼だったのに。技術開発責任者であるヴィヴィアンの糾弾から守ってやったのもドミニクで、手を汚してきたのも、彼女のためにと自ら実験に志願したのも、彼だったのに。

 全部全部、ユージェニーのために生きてきたのは、ドミニクだったのに。

 この時胸に芽生えた感情の始末を――ドミニクは未だにつけられていない。


 ◆


 仕事場は、いつもの水陸両用ジープで海を渡って二十分の海上都市ホバー・シティだった。狭い敷地に高くそびえる集合住宅を上っ面に貼りつけて海上を浮き、朝夕に陸への定期往復船を送り出しながら、物資補給のために時折陸地へやってくるそれの外観は、昔古書で見た城というものを彷彿とさせた。確か、この都市の建造番号は三十八番である。最近は海に住みつく悪魔が減ったせいか、このような都市が流行っているのだった。怖いもの知らずなやつらだ、と思ったが、人口が増えるにつれ土地がなくなり、価格が高騰しているので仕方がないかとも思う。こんな狭苦しいサイズの集合住宅でも、地上なら相当値が張るはずだ。ドミニクの家は沿岸にあるのでかなり安い方だが、ここよりは確実に高いだろう。しかも、あんな海沿いでは土地の価格に比べてデメリットが大きい。それを考えると、こういう都市で安く家を買う方が賢いのかもしれなかった。

 港に入って、マガジンポーチを腰に巻きつけながら機関砲と共にジープから降りる。沈黙と同乗したジープはどうにも居心地が悪く、降りられたことにほっとした。静かだと考えることが多くて、嫌になる。同時に、移動中話し相手がいることにすっかり慣れてしまっている自分に気が付いて、ドミニクは皮肉げに笑った。《監視局》にいる時は、移動中仲間と会話なんてしなかっただろうが。元々の自分は会話を楽しむ類の人間ではない、ユージェニーたちとですら必要以上には会話をしなかった。煙草が不味い、と思う。十日間もろくに眠っていないせいで今にも吐きそうだった。

 避難してきたらしい慌てた様子の住人をあしらい、場所だけ確認する。機関砲を背負い直してサングラスを外しながら、バイクを――借りようとすると持ち主が何かごちゃごちゃ言ったので――財布から適当に引き抜いた札を十枚ほど投げつけて買い取り、それに乗って集合住宅の入り口まで辿り着く。港からそう距離もなかったが、自分の足で走るよりは早い。

 ざっと見回すと、窓からちらちらとドミニクを見る瞳がある、それもかなりの数だ。間違いなく、逃げていない住民のものである。だがそれも当然だろう、陸地まで辿り着ける自家用ボートを持っている人間などいなさそうであるし、この狭い海上都市ではどこにも逃げ場所なんてないのだ。避難させてやりたいのは山々だが、悪魔のいる海上都市を接岸するわけにもいかないし、唯一の非居住区である港も、定期船もここの住人全てを収容できるほど大きくない。

 カンカンと海上都市特有の金属の床に足音を響かせ、フィルターぎりぎりまで吸った煙草を携帯灰皿に押し込んでから、『B』と大きく壁面に書かれた棟へとドミニクは足を踏み入れた。ロビーで間取りを確認し、現場の位置を把握する。

 B棟三〇四二室。それが悪魔の現れた部屋だと港の人間は言った。最上階にほど近い三十階の、一番右端にある部屋だ。住んでいたのは、一人の女であるらしい。その閉鎖された空間で何が起こったのかは知らないが、女はそこで悪魔になり、三十階の住人を殺し始めた。幸い異変に気付き二十九階に逃げ込んだ住人が一人いて通報されたのだが、少し目を離した隙にその住人も殺され、二十九階の住人からも連絡が途絶えているので、今現場がどうなっているのかは誰にもわからない。

 無論そこから移動している可能性もあるが、探すにせよ現場には行ってみなければならない。もっとも、《高慢者》はその性質故に拠点から動かないことが多いので、おそらく大丈夫だろう。

《高慢者》は、罠を仕掛ける生き物だ。自分のテリトリーに罠を張り、玉座で獲物がかかるのを待つ。捕らえた獲物は躊躇なく嬲り殺すが、自分から動いて獲物を探そうとはしないので、戦いやすいと言えば戦いやすい。発見のしやすさは、悪魔の場合戦いやすさに繋がる。《愛欲者》が嫌がられるのとは逆である。

 ただ、ネックとして、仕掛けられる罠が多種多様に渡り、対策が非常に難しいというものがあった。判断を誤ると九割の確率で死ぬ。残りの一割で生き残っても手足などを失い、病院送りは免れない。しかも猫が鼠をいたぶるように嬲られてから殺されるので、その死体は原型を留めず、仲間の死体がトラウマで天使を辞める人間すらいるほどだった。《嫉妬者》も同じように汚い死体を作る傾向にあるが、特定の人物だけを選ぶ《嫉妬者》と違い、《高慢者》は罠にかかったもの全てを対象とするので、特に《高慢者》は天使たちから忌避されていた。

 ……まあ、嫌じゃなければ、俺なんかに回さないだろうな。

 そんなことを考えながら、ならそうテリトリーも広くないだろう、と、二十八階ほどを目指して、棟の脇に設置された螺旋階段を駆け上がる。緊急時だからだろう、申し訳程度に作られた蒸気エレベーターは止まっていた。もしかすると海水を使って塩でもこびりつかせてしまっているだけかもしれないが、それはドミニクの与り知らぬところだし、使えないことに変わりはない。

 ――そう言えば、自分も、しくじったあいつを助けてやったことがあったな。

 走りながら、不意に頭をもたげてきた記憶に、ドミニクは舌打ちした。寝ていないせいか、本当によくあの二人のことを思い出してしまう。あいつは頭が回るくせに迂闊な奴だったから、《高慢者》などとの戦いは向いていなかった。ユージェニーもそれを怒って、仕事へ行く時にあいつだけ置いて行ったこともあった。あいつはそれをいつも嫌がっていたが、仕方がないではないか。

 だって、俺たちは、あいつを死なせたくなかったのだから。

「……俺たちは、お前を愛してたんだよ」

 思わず、口をついて出た。形になった言葉は郷愁と恐怖で胸と喉を締め上げて、ドミニクは歯を軋らせて立ち止まり、ポケットに入れていた《感情抑制剤》を取り出していつものように流し込んだ。馬鹿野郎、思い出すな。ドミニクは痛む頭を振って、再び走り出す。あの二人のことなんか忘れるんだ、早く、早く。仕事中だ、忘れなければ。だが、湖底の泥が舞い上がるように浮かんできた記憶は、易々と脳味噌の底に沈んではくれない。

 もうなんだか無性に泣きたかった、睡眠不足で不安定になった精神が、過去と現在の感情を増幅してドミニクを揺さぶる。二年間だ、二年、俺は、俺は生きた。二十階の表示が視界に映る、もうすぐだ。あと八階。はあはあと、息が熱くなり、そして途切れる。階段を駆け上がっているせいではない、そこまでやわな体はしていない。ただ、もう、苦しくてたまらないのだ。自分の隣に誰もいないことが。友も部下も死なせてしまったのに、自分だけがこうして生き永らえている事実が。

 本当に死ぬべきは、俺だったはずだ。

 脳裏に、この二年ずっと考えていたことがよぎる。二年間、その長さを、きっと誰も理解していない。友人を失い、部下を死なせ、数多の責を負って、自己への憎悪と後悔を抑えつけながらそれでもなお生きなければならない辛苦を。二十二階。俺は二年前、生かされたかったわけじゃない。俺一人でこんな醜態を晒してまで、生き延びたかったわけじゃない。二十五階。天使たちは、俺に死んでもらうと困ると言う。だが、俺に一体何が出来ると言うんだ。俺は体こそこうやって五体満足に存在しているが、中身は空っぽだ。あの日失ったまま、何一つ取り戻してやしない。ハリボテの人形だ。そんな俺に何が。二十七階――二十八階。


 ――俺は、『何』だ?


 ドミニクは、居住フロアの廊下へ続く踊り場で一度足を止めた。そうだ、こんなことを考えている場合ではない、今から、殺し合いをするのだ。担いでいた機関砲を下ろし、階段の隙間から覗く二十九階を見上げる。こんな集合住宅で機関砲など振り回すとまずいかもしれないが、《高慢者》相手に手加減などしていたらこちらが死ぬ。捕縛も命令されていないし、遠慮なく殺させていただこう。

 階上は静かだ。やはり死んだか、と思う。一つの階に四十五部屋、九十人、死に過ぎだ。だがきっと、天使たちは少ない、と言うだろう。犠牲者が百人足らずなら、安いものだと。反吐が出る、と眉をしかめたが、自分もかつては天使たちに同じことを言ったのだから人のことは言えないと自嘲に口角を吊り上げた。物事を数字だけで捉えるのは天使たちに共通する悪い癖だ。自分たちの死には一喜一憂するくせに。

 目線を二十八階へ戻し、フロアに足を踏み入れる。左右に扉が並び、防錆の塗装を施された白い廊下が長く続く、何の変哲もないフロアだ。やはり、ここまではテリトリーになっていないらしい。

 一応二十八階以下二十階ほどまではドミニクが来る前に下の方の階へ保護してもらうよう勧告したという話だが、確認のために扉を一つずつ叩いていく。なお、三十階より上の人間は最上階の三十五階に行くよう勧告されているらしい。濃い青色に染められた最後の扉をノックし、中に気配がないことも確認して、ようやくドミニクは、二十九階へ上がろうと先程上ってきた階段の真逆に設置されたもう一つの階段へと足を踏み出し――ふと、奇妙なことに気付いた。

 九十人。これは一部屋に一人しか住んでいなかった場合の話であって、確実にこれより大勢死んでいるはずだ。つまり、それだけの『汚い死体』がこの頭上には転がっているのだった。《高慢者》は別に死体を片付けるタイプではない。《暴食者》のように食ったり、《怠惰者》のように隠したりはしないのだ。だから、絶対に死体はあるはずなのである。

 だが、血の匂いが、しない。

 まさか、ここまで既にテリトリーなのか? 咄嗟にさっきまでいたフロアに戻り、機関砲を構えたまま辺りを注意深く見回す。気付くべきだった。いつもの自分なら絶対に気付けたはずなのに、と内心で毒づく。いつからだ。一体いつから、どこから俺は――

「――っぐぅっ!」

 背後から『何か』に首を締め上げられ、天井の方へ吊り上げられる。ドミニクは顔を歪め、焦燥感に駆られながら己の首に絡みつく『何か』を引き剥がそうと首に爪を立てるが、そこには何もない。空を掻く指を嘲笑うかのように更に『何か』へ力が籠められ、がっ、と、ドミニクは酸素を求めて口を開いた。足が地面から離れているため、首に全体重がかかる。どこかで、女の笑い声が聞こえた。くそったれめ、と、苦痛の中で吐き捨てる。《高慢者》の性質上これで死ぬことはまず間違いなくありえないが、気絶でもしたら装備を引っぺがされてしまう。悪魔は『感情に流されている』だけで、知能が低下しているわけではないから、それくらいなら平気でする。

 赤くなっていく視界にドミニクは、お前らちゃんと三十五階に避難していろよ、と半ば自棄のような気持ちで天井へ砲口を押し付け、引き金を引いた。がががががががっ!という鼓膜をつんざく砲声と閃光がドミニクの眼前で爆発し、二十九階より上へと二十ミリ弾がぶち込まれていく。天井に大穴が完成すると同時、首が解放されて床に放り出される。だが別に、本体へダメージを与えられたわけではないはずだ。ダメージを与えられていたのなら、さすがにもう少し悲鳴などの反応が返ってくる。

 どうにか本体を叩かなければ。そうドミニクが判断し、機関砲のマガジンを換えてから二十九階、三十階へ上るべく駆け出したところで、右膝に激痛が走った。

「――――――っ!?」

 突然、膝から下が千切れて後方へ吹っ飛んだのである。一瞬過ぎて打開策を見出せないままバランスを崩し、前へつんのめるようにしてドミニクは床を滑る。機関砲は手放さなかった、何がどうだろうと、これを手放したら死ぬ。顔を上げ、自分の足を見ると、見事に右足が膝の付け根からねじ切れていた。傷口はひしゃげてよく見えないが、これはもう《監視局》に帰らないと元には戻らないだろう。真っ赤な人工血液が白い床に帯を作っており、帯の先には、緑色のカーゴパンツと黒いコンバットブーツに包まれた自分の右足が所在なさげに転がっていた。

「っ、くっそ!」

 奥歯を軋らせ、ドミニクは近くにあった壁に手をついて無理矢理立ち上がる。だが、すぐさま左足も同じように吹っ飛ばされ、床に再び転がった。今度は腿から先が消えて、ドミニクは床を這いながら、砲口を周囲へ向ける。やばい、かなりやばい。この状況はかなり本気でやばい。せめて痛みをシャットアウトできれば、と思う。脂汗が止まらない。ヴィヴィアンは痛覚がないなんて人間の本能に反するとそういう機能をつけてくれないが、実際痛みを味わっているのはドミニクである。ふざけないでほしい。

 どうするべきか? 血が止まらない、止血をするべきか。だが、今この瞬間こそ追撃がないだけで、止血をしようとした途端腕を吹っ飛ばされる可能性は大いにあり得る。パライソがいれば、いや、言っても仕方ないことだ。それに、罠の中に入ってしまった以上、彼女がいても同じだ。あの少女まで嬲り殺されるだけである、罠の中へ入る前に止めてくれたかもしれないが、それだけだ。この状況では役に立たない。どうする、考えろ、《高慢者》の特性を思い出せ、《高慢者》は玉座から絶対に出て来ることはなく、範囲的に、見せしめ的な方法で獲物を殺す。無差別破壊が主な《憤怒者》とは違う、完全な対『集団』用悪魔。絶対的な王者。その火力と言い、能力と言い、本来少人数で対峙できる相手ではない。しかし、ドミニクはかつて《高慢者》を数人で殺したことがある。

 ――そうだ、あいつがしくじった時、俺はどうやってあいつを助けたんだった?

「……おい」

 ドミニクはにやりと笑って、できるだけ馬鹿にした調子で言葉を続けた。

「お前は臆病なやつなんだなあ? 俺一人殺すのに姿も現さないなんッぐぶっ!」

 腹のど真ん中に、見えない刃が突き立てられる。口と腹から血が噴き出し、内臓を抉られて思わずのけぞった。今までと違い急所である、ならばやはり、これなのだろう。

「そう、やって、はっ、見えないところからいたぶるのが――汚いっつってんだよ」

 本来はこんなものに乗るわけがない。だが、生まれたてで感情的になっており、前時代の戦争中のように指揮官を持っているわけではない《高慢者》である。悪魔、特に《高慢者》たちのような擬態を必要としない前線用の種類というのは『使われる』ための存在だ。よく言えば素直、悪く言えば直情径行な馬鹿なのである。褒めれば喜ぶし、罵れば怒る。挑発にひっかかりやすいのだ。無論、挑発した人間は死を覚悟するべきだが、これに引っかけることでやりやすくなるのは間違いなかった。もっとも、相手が大勢になれば別で、一定以上の人数で挑むと、本能的なものか、異常なほどの冷静さで相手を全滅させてしまうから、ドミニクの現状は運に恵まれていたと言える。

 問題は、俺が失血で気を失うのと相手をぶっ殺し終わるの、どちらが早いかということだ。

 追撃が来ない。動きがない。葛藤しているのか、それとも。それでも笑いながら――笑うことしか出来ないまま――待っていると、期待通り、一人の女が二十九階へと続いた天井の穴から顔を覗かせた。それを視認して、ドミニクは機関砲の砲口をそちらへ向ける。蛍光オレンジの髪とピンクの瞳をした、垂れ目気味の気弱そうな女だ。歳の頃は二十四程度か。こんな女が何をトチ狂って悪魔なんかになってしまったのだろう、と、ドミニクは頭の片隅で思った。

「あのさ」

「……ああ?」

「とりあえず、その紫色の目が気に入らない」

 右の眼球が弾けた。「――ぐっあああああ!!」眼球の欠片と眼漿と血液をぶちまけた眼窩を押さえて悲鳴を上げると、女がゲタゲタとやかましく笑った。このクソ野郎、絶対ミンチにしてやる。

「わたしのことを馬鹿にしたあいつも、紫色の目だったわ。いいざまよ」

「そうっ、か、よ……まあ、俺だって、お前のことは、馬鹿だと思う、がね」

 罵ると、女がさっと表情を消し、ドミニクの右手首から先が吹っ飛んだ。噴き出した血で、銀色の機関砲が赤く染まる。大丈夫だ、まだ、まだ左腕があれば機関砲は撃てる。

 もう撃つか?と思う。だが、この距離だと、逃げられる可能性がある。ドミニクが引き金を引くモーションに反応して逃げれば、逃げ切れるだろう。仕損じれば《暴食者》ほどではないものの肉体復元能力を持っている《高慢者》なら、ドミニクを簡単に嬲り殺す。

「……あなたが何を考えているか、当ててあげる」

 女が、また禍々しく笑った。

「これ以上近づいたらミンチにしよう、とか考えてんでしょ?」

「……考えてねえよ」

「信じられないわあ。でも、他人はみんな信じられないわよね。特に男は」

 なんだこの女、男に捨てられでもしたのか。ドミニクはそう言う方面のアプローチが苦手だ、恋愛のことはよくわからない。何せ自分は未だかつて恋人などいたことがない。そういうものは、あいつの――今はもういない、あいつの得意分野だった。

「とにかく、わたしは今とっても気分がいいの。私を馬鹿にした周りの人をぶっ殺せてとてもとても幸せなのよ。男に捨てられた女って馬鹿にした目で見るから、殺しちゃった。わたしは捨てられてなんかないのよ。わたしは誰よりも美人で、誰よりも優れているんだもの」

 どこからその自信が出てくるのだろうなどと思っていると、不意に、先程吹っ飛んだ傷口が、焼けつくように痛んだ。右眼窩も、両足もである。ドミニクは怪訝に思って視界の端にそれらを捉え、血の気が引いた。

 溶けて、いる。

 酸をかけられたように、傷口から体が焼け溶け始めていた。

「……ぐ、ぅう……っ!」

「どろどろのぐちゃぐちゃにしてあげる。きっと幸せよ?」

 現状を把握すると同時に強く走った痛みに鈍い悲鳴を上げるドミニクへそう言って、女は朗らかに手を合わせる。冗談ではない。こいつ、本当に生まれたてなのか。憎悪が深すぎてこうなったのだろうか? 周囲への? いや――

「本当は、わたしも、あなたを殺すつもりはなかったんだから。ちょっといじめて、そこら辺から放り出そうかなって思って。でも、茶髪に紫の目って、あの人にそっくりなんだもの」

 ――俺へのか。

 最早逃げられるだとか考えている場合ではない。この女は間違いなくこれ以上近付いて来ないだろう。自分に似た特徴を持つ見も知らぬ男に殺意すら抱きながら、ドミニクは穴の方へ向けっぱなしだった機関砲の引き金を引いた。ががががが、という音と共に女の頭が、胸のあたりまで巻き込んで吹っ飛ぶ。肉片になって飛び散るその姿を見て、まだだ、と思う。肉が蠢いて、みぢみぢと凄まじい勢いで体が復活しようとしていた。

 悪魔を殺したかどうかの判断基準はとても単純だ。動かなくなるかどうか。それだけだ。だからドミニクは女が動かなくなるまで、撃って撃って撃った。無傷の左手と、不自由な右手でマガジンを換え、撃って撃って撃った。これならベルトリンクに切り替えておけば良かった、と思いながらとにかく撃った。

 四十発ほどぶち込み、穴の大きさが先程の倍以上になって、三十階まで見えた頃、ようやく女は動かなくなり、焼け爛れていく傷口も止まった。

「……死んだ、な?」

 口に出して確認しなくても、間違いなく死んでいる。ドミニクは安堵の吐息を吐き出し、床に這いつくばっていた体を起こした。支部へ電話をしなければ。重傷ですと。《監視局》へ連れて行ってもらわなければ、手足と右目がないまま過ごすことになる。携帯を取り出し、ぐらぐらする頭で支部の電話番号を打ち込んだ。電話帳に登録すればいいのだが、面倒なのだ。通話ボタンを押してから耳に携帯を当て、ドミニクはコール音を聞く。そして――

 どつっ。

「――ごぼっ」

 真っ赤な血を吐き出した。手の中から滑り落ちた黒い携帯が、くるくると回って血だまりの中に転がる。背中に走るのは激痛で、頭上にクエスチョンマークを浮かべながらドミニクは首を左へ捻って背後を見た。《高慢者》は殺したはずだろう、そんなことを考える。二体目? 人間? だが、そんな気配はなかった。

 この階には、誰もいなかったはずなのだ。

「おせえんだよ……」

 そこには、緑色の髪と真っ赤な瞳をした少年が立っていた。十二、三くらいか。だが、こんな少年は、さっきまで存在していなかった。《怠惰者》か、と思うと同時、少年が近付いて来て、背中に刺されていた刃が抜かれ、また刺される。見れば、彼が持っているのは何の変哲もない、やや長めの包丁だった。痛みと衝撃で思わずうつ伏せに倒れると、何度も何度も、刃が振り下ろされる。抵抗しようと思うが、その度に背中へ刃が落ちてきて体を起こすことすら出来ない。

 もしかして、あの《高慢者》がここまでテリトリーを拡大していたのは、この少年を探していたからだろうか。もう死んでしまったので聞くことはできないが、もしそうであるのなら、実に間の悪いところへ飛び込んでしまったものであった。別に悪魔は悪魔同士なら本能的に庇うだとかそんなことはないから、可能性としては十分あり得る。

「おせえんだよっ、母ちゃんも兄ちゃんも死んじまったじゃねえか、ちくしょう……っ」

 ああ、トラウマから悪魔になるパターンか。子供に多いよなあ、とドミニクは思った。家族が死んだり、自分が死にかけたり、耐え難い暴力にさらされることで悪魔になる子供は多い。地上で悪魔の発生件数が増える理由として、かなり上位に食い込むものだ。包丁が、肺をずたずたにしていく。意識が朦朧としてきた。俺は死ぬのか。それもいい、それは素敵なことだ。だって俺は死にたかった。ずっとずっと、死にたかったのだ。

 耳元に転がった電話の向こうで、鷲鼻が何か叫んでいるのが聞こえてきた。加えて、慌ただしい音。助けに来るつもりなのだろうか、臆病なあいつらが。《監視局》の方針に耐えられず自ら左遷されることを選んだあいつらが。

 来るな、と、電話に向けて言った。それは思っていたより血に掠れた声だったが、届けと切に願う。自分の存在をその場から完全に抹消してしまう《怠惰者》は、《暴食者》などの嗅覚に頼らなければ絶対に見つけられない。あいつらはきっとパライソを連れてこないから、一網打尽にされてしまう。好戦的な種類ではないとは言え、《怠惰者》は立派な兵器なのだ。

「おせえ、おせえんだよ……っ!」

 少年が叫んで包丁をまた振り下ろす。もう、指一本も動かせない。先程この少年は、母と兄を失ったと言った。つまり、弟であるのだろう。この様子だと、兄のことを慕っていたようだ。そうだ、『弟』に殺されるのならば、それはそれで、本望なのだ。最高のシチュエーションではないか、これ以上は望むべくもない。ドミニクは無事な左目をゆっくり閉じようとして、耳朶を打つその怒声で再び目を見開いた。

「……怒りをぶつけるなら、自分にしろよクソガキ」

 ひゅう、と、ワイヤーが空気を裂く音と肉の貫かれる音がして、少年の悲鳴が上がった。

「お前が強ければ、お前の家族は死ななかった。そうだろ?」

 この声は知っている。覚えている。視界に、スニーカーを履いた褐色の少女が見えた。黒く短い髪に、金色の目。低い身長と、華奢な手足。

 ドミニクは、この少女を覚えている。

「その人は、なんだよ」

「……エヴァ、ン、ジェ、リン……」

 血混じりの声で、そう呟いた。俺は別にいい人じゃない、とか、どうしてここに、とか、色々言いたいことはあった。だがそれらを口にするのは困難で、ドミニクはワイヤーを操る少女を見上げることしかできなかった。

「うっ、うう、痛い……!」

「痛い? そんなの痛いうちに入らないだろ、少なくとも、お前がその人にやったことに比べればさ」

 少年の泣き声と、少女のせせら笑う声が降ってくる。

「お前が弱いから失うの。お前が弱いから死ぬんだよ」

 少女が、両腕を羽ばたかせる様に動かした。同時に、何本ものワイヤーが少女の腕から出てくる。その姿は、翼を広げる鳥に似ていた。

「じゃあ、死ね」

 少女が、また羽ばたくように腕を振るう。その直後、ぐしゃあ、と、倒れるドミニクの上で果実が潰れるような音がして、真っ赤な液体がびしゃびしゃと彼と周囲を染め上げた。相変わらず、派手な殺し方である。機関砲でミンチにした自分が言うことではないが、もう少し綺麗な殺し方は出来ないのだろうか。真っ赤な海に倒れ伏して、ドミニクは少女が慌てた顔で駆け寄ってくるのを見る。少女は無惨なドミニクの横に跪いて、彼の顔を覗きこみながら、泣きそうな顔で「生きてはいますね!?」と言った。

 開口一番なんだかひどい言葉だった。というか、そんなことを訊かれても、この状況で答えられるわけがないのだが。ドミニクは答える代わりに息を吐き出し、ぶくりと血の泡を作ってから、震える手をなんとか動かし親指を立てると――痛みに耐えられなくなって昏倒した。

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