Chapter.2 Evan
Chapter.2 Evan
友人だから、とドミニクは呟いた。それは二年前、いや、それよりもっと前から変わらない呪詛であった。その呪詛を何度も何度も何度も何度も口にして、ドミニクは、最早、憎しみでしかものを見られなくなっていた。
一度は、それを忘れようと思った。二年前のあれで、もう全部、終わってしまったのだと。そう思って、なかったことにしようと思った。だが、忘れられなかった。彼らの存在はドミニクという人間の奥深くに根差していて、無理に引き抜こうとすれば己が壊れてしまうことなどわかりきっていた。だから結局、ドミニクは最早、あの二人のためだけに、あの二人への憎悪を失わないためだけに、今も生きているのだ。
友人であった、どちらも、自分の友人であった。だが、それでも、ドミニクは、彼らを憎み、嫉み、恐れずにはいられない。あの男が、ドミニクと同じ施設で育った、兄にも似たあの男が彼女の手によって怪物になってしまった時から、彼は、あの二人を憎んでやまない。
どうして、自分は失ってしまったのだろう。
海辺から見上げる月は、今日も冴え冴えとして青い。あの男と、彼女と、三人で並んで見上げた月も、やはり青かったように思う。かつては地上を覆い尽くしていたという街灯の殆どを失った夜空は、深い紺色の中にちらちらと色とりどりの明るい星を瞬かせていて、海にもまた、それが映っていた。この星の一部は、既に死んでしまっているのだろうか。明日にも、この中の一つが消えてしまうのだろうか。そんなことを考える。あの日の自分がもう消えてしまって、その残骸だけが今ここに残っているのと同じく。
尊敬していた、愛していた。誰よりも何よりも、あの二人を、愛していたのだ。彼らがいれば、世界すら作り変えられると、そう、思っていた。
そんなものは、嘘だったけれど。
あの男は怪物になり果て、ドミニクもまた、二年前のあの日、怪物になった。
やがて、自分はあの男と出会うだろう。そして、怪物同士で殺し合うだろう。
「……過去から追いすがるものに、人は滅ぼされるのさ」
そうだろ、と彼は皮肉げに呟いて、それからようやく、眠るために海辺を離れたのだった。
◆
与えられたベッドは、エヴァンには大きすぎた。おそらく元はあの男のためのものだったのだろう、それは太陽に焼けた埃の匂いがして、古びているのに人の気配を感じさせなかった。夜闇の中、エヴァンは深く静かに呼吸を繰り返して、その匂いを胸の中に沈める。
……これでいい、問題ない。
二年間、二年間だ。ドミニクのために生きた。それが全て成就する。そうしたら、自分は、きっと自由になれる。だから、これでいいのだ。
緊張する自分を自覚していた。あえなく失敗してしまうかもしれない、そう思うと、どうしようもなく緊張する。自分は器用な方ではない、むしろ、不器用なタイプだ。演技も下手で、曖昧に笑って過ごすことが唯一の処世術というような人間だ。だが、ここで逃げるわけにはいかない。逃げても意味がない、目的を達して、この、腹の中の種子を――ドミニクに取り除いてもらうまでは逃げられない。
蒸し暑さを緩和するために開け放たれたバルコニーへの扉からは、潮の風が吹き込んでいた。白いカーテンがひらひらと揺れていて、その向こうには、月が滲んでいる。
訪れた家は、思っていたよりも綺麗で、同時に、汚かった。矛盾しているのだが、そうとしか言えない。海岸沿いに作られた風通しの良さそうなその二階建ての白い家は見たところとても綺麗だったし、桟橋から続く青い海とのコントラストがエヴァンには好ましく感じられた。だが、一度入ってみると、奇妙なことに気付かされるのである。
汚いのだ、どうしようもなく。ゴミも捨てられている、物も片づけられている、それなのに、どこか薄汚れている。床には砂利や埃が積もっていて、窓ガラスは白く濁っている。廃墟じみている、というのが、初めてその光景を見たエヴァンの感想だった。
特に、あの男が寝起きしているリビングは顕著である。パライソがたまに掃除はしているらしいが、それでもなお、およそ『家』という表現は使えない。生きた匂いがしない。おそらく、快適にしようという発想がないのだ、彼には。少なくともエヴァンはそう思う。現状に満足してしまって、それ以上を望もうとしない。いや、それ以上を望んでも無意味だと思っているのだろう。だから止まってしまっている。時間も、思考も。その停滞は、廃墟と言うよりも最早墓のようにすら思えた。
そう、墓だ。エヴァンは己の考えに納得する。この家は墓だ、あの男の、巨大な墓碑なのだ。あの男と共に朽ちていくために全ては用意されている。
全て――家も、あのパライソも。
そして、この自分も。
ドミニクという男と心中するために存在している。
そんなことを考えて、寝返りを打つ。仰向けになると、自然、月光に照らされた天井が目に入り――エヴァンは思わず悲鳴を上げそうになった。天井に、何か巨大なものが張り付いていたのである。寸でのところで悲鳴を上げずに済んだのは、『それ』が水色の目でエヴァンを睨んでいて、正体が簡単に知れたからだ。口から飛び出しそうなほど早く大きな鼓動を繰り返す心臓を落ち着かせるために、その名前を口に出そうとして、エヴァンは次の瞬間天井から落ちてきた『それ』に口を塞がれ、黙らされてしまった。
「……黙ってろ。珍しくドミニクがうなされないで寝てるんだ」
そう唸ったのは、案の定パライソだった。鋭い爪が、自分の喉に当たっている。青い光に輝くのは、ほどかれた桃色の髪の毛と金色の角だ。この少女は、自分を本気で殺すだろう。それを察したエヴァンは些かの恐怖を覚えながら、少女の瞳を見つめ返す。
墓守が、墓荒らしを追い出しに来た。そんなことを考えた。この少女が自分のことを嫌っているのはわかっていたから、ドミニクが寝ている間に追い出しに来たのだろうと見当をつける。あるいは、殺しに来たのか。勝てるだろうか、と考えてみて、無理かもしれない、と弱気なことを考えた。
だが――それならそれでも、いいんじゃないか。
ここで無意味に殺されてしまうのならそれはそれで、僥倖だ。
だからエヴァンは、静かに横たわったまま、パライソを見上げる。だが少女は、そんなエヴァンの考えとは裏腹に、ただ口を開いただけだった。
「いいか、あたしはこれだけ言いに来たんだ」
殺気に濁った水色の、トルコ石のような瞳が、エヴァンを映している。
「あいつに手を出したら殺す。八つ裂きにして殺す。生きたまま内臓を食い散らかしてやる。あたしたちの生活を脅かすものはどんなやつだって容赦しねえ。それだけ覚えとけ」
低くくぐもった声は、少女のものとは思えないほどの威圧感を含んで、エヴァンの耳朶を重く打つ。やはり、この娘は墓守だ――あの男を守って、死ぬこともきっと厭わない。
「お前のことは大嫌いだ。お前の吐いてる嘘がいくつあるのか知らねえが、お前の汚さには反吐が出る。《監視局》の天使たちだって、お前ほど汚くはねえ」
「……僕は、嘘なんて吐いてないよ」
「嘘なんて吐いてない、黙ってるだけだ――ってか? 馬鹿言ってんじゃねえ、黙っていることで真実を誤魔化すなら、それは嘘なんだよ」
なるほど、それは正しいように思えた。であれば、きっと、エヴァンは大ホラ吹きに他ならない。そんなことを考えて、へらりと笑う。そう言えば、僕のこれまでの人生に、嘘を吐いていない場面なんてあったかな。なかったような気がして、益々エヴァンは笑みを深めた。
「……笑うな」そんな自分に、パライソが、顔を歪めた。「お前の笑顔は、気持ち悪い」
「気持ち悪い、かな」
「ああ、気持ち悪いよ。お前は、自分なんて死んでもいいと思ってんだ」
「……」
「あいつもそうなんだ、あいつも、自分なんて死んでもいいって思ってやがる。だからあたしはお前が嫌なんだ――お前が横にいると、きっとあいつは死ぬ方向へ引っ張られちまう」
「……いいじゃないか」
「ああ?」
死の何がいけないというのか。
「いいじゃないか、死んだって」
どうせ、どう頑張ったって、未来に幸福などないのだから。
「お前、何を」
「もしあの人が、それでしか救われないとしたら、君はそれを否定するの?」
「……ッ!」
「過去って首枷だよ、産まれた瞬間から、過去というものが一秒でも出来上がったその瞬間から、この世界の生き物は、死刑が執行される日を待ってるだけなんだ。それなら、無意味でもなんでもさっさと死んだ方がマシだ」
「……お前と似たような思想のやつを、昔見たぜ。二年前のことだ。そいつは今でも《監視局》に追われてる」
「そう? よくある考え方だよ――
――過去から追いすがるものに、人は滅ぼされるんだ」
それを口にした途端、パライソが血相を変えた。青ざめ、目を見開いて自分の顔を凝視している。ああ、そう言えば、この言葉は、ドミニクの口癖だった。
「お前――その言葉、」
「何?」
「いや、なんでもない……そうだ、お前の言う通り、よくある言葉だ。でも……」
少女が、驚きを隠すように口元を押さえてエヴァンから身を離す。そうしてもパライソはしばらくエヴァンのことをじろじろと眺めていたが、一つ「だめだ、思い出せない」と呟いてベッドを降りた。それから、開け放していたバルコニーの扉の方へと歩いていくと、最後に一度振り向き、物言いたげに口を開いて、何かに気付いたように再び海の方へと向き直った。
「……ドミがうなされてる」
「……そう」自分には聞こえないが、この少女が言うならそうなのだろう。
「いいか、エヴァン」
不意に風が吹いて、パライソの柔らかそうな緩い巻き毛が月光に揺れた。
「ドミは、いいやつなんだよ。だいぶ他人の感情に鈍感で、自分の世界の中だけで生きてる節があるけど……それでも、いいやつなんだ。凍結処理されて施設ごと海に沈んでたあたしが《監視局》に回収された時、あたしを生かしたいって言ったのは、あいつとヴィヴィだけなんだ。だから、お前があいつの敵になるっていうなら、あたしはお前を絶対に食い殺す」
「……命の恩人、ってやつなのかな」
「そんな大それたもんじゃねえよ。ただ、起きたばっかのあたしに飴をくれただけの男だ」
少女の言葉に、エヴァンは嘲笑を浮かべる。背後にいる自分は、パライソからは見えない。だからエヴァンは嘲笑を――自嘲を浮かべたのだった。口の端を吊り上げて、喉の奥からこみあげてくる熱い塊を飲み込み、目を伏せてエヴァンは笑う。
「羨ましいなあ」
口をついて、出た。
「僕は、今まで一度も、飴なんてもらったことがないんだ」
「……もらったろ、あのレストランで」
ドミから。パライソに言われ、エヴァンは、勢いよく顔を上げて目線を少女の方へ向けた。だが、少女は既にそこから消えており、カーテンがひらひらと揺らめいているだけだった。
◆
……まだ、意識がどろんとしている。
ドミニクはそんなことを思った。寝起きがいい方ではないので、海水で起こされずとも朝はきついのである。とりあえず起き上がり、テーブルの上に放り出しておいた煙草の箱を掴むと、その中の一本に火を点ける。寝床でもあるソファに座ったまま紫の煙を吐き出せば、風に吹かれて部屋に散った。いい風だ、誰かが窓を開けてくれたらしい。潮の匂いがする風に頬を撫でられると、実に気分が良かった。今日は薬を飲まなくていいかも、と思う程度に。
「ドミニク、朝ご飯は何にします?」
「……うーん?」
この声、誰だ。低いし、パライソのものじゃないな。だが聞き覚えがある。誰だっけ。声の主を探し当てようと曖昧な記憶をまさぐりつつ、灰皿を引き寄せ、適当に、「コーヒー」などと応えておいた。ああ、風が気持ちいい。人工の風しか吹かない《
「コーヒーは飲み物ですよ。もう、勝手に作りますからね」
「うーん……」
「作りますからね!」
強めの語気で言われて、ハッとドミニクは目を覚ました。それと同時に、声の主のことを思い出す。大分増えていた灰を灰皿へ落として後ろを振り向き、キッチンに立ってフライパンで何か炒め始めている少年へ、急いで声をかけた。
「エヴァン、ソーセージじゃなくてベーコンで!」
「言うのが遅いです! もう焼き始めました!」
少年の言葉に、ドミニクはしおしおとソファへまた倒れ込んだ。今日はベーコンが食べたい気分だったのだが、残念だ。そして眠い。寝煙草は危ないと思ったものの、銜えた煙草を消すことすら億劫なほどに、眠たくてたまらない。一応眠る時間自体はそれなりであるものの、悪夢に延々うなされて過ごすので、まったく疲れが取れないのだ。だが、《
「ドミー、オムレツは要る?」
「要る……」
パライソの声に、ドミニクは眠気の滲んだ声で返事をした。直後、エヴァンとパライソが何かを喋る声が聞こえてきて、朝から騒がしいなあ、と彼は思う。
初邂逅から今日で三日目の朝だが、このエヴァン少年、素晴らしいことに料理が出来た。この二年間、ずっと外食か缶詰で済ませてきたドミニクは、この事実に対して諸手を挙げて喜んだ。もっとも、ドミニクは美味い食事にありつけることを喜んだわけではなく、自分で食事を用意する手間が省けたことと、外食するよりも食費が浮くこと、それから、パライソにまともな食事を与えられることに喜んだのだったが。鷲鼻の足をぶち抜く計画は、彼の料理スキルに免じて取りやめてやった。感謝して欲しいところだ。
ただ、その事実を気に入らなかったのはパライソである。彼女はその事実が判明するなりキイキイ声を上げて、「あたしだって習えば料理くらいできるもん!」とバシバシ机を叩いた。そんな少女にエヴァンは苦笑し、ドミニクは危ないからと少女をキッチンから遠ざけていたことを内心で謝罪した。怒るほどに料理に興味があるなら、もっと早く習わせてやればよかった。ドミニクの家は電波が入らないのでテレビはつかないが、本くらいは買える。
ということで、現在パライソはエヴァンに料理を習っている最中なのである。
もう一度言おう。習っている最中なのである。
「……おお」
口の中のオムレツは、昨日の――もう原型が何かわからない――夕飯よりはマシだった。何せ、形がそれっぽい。無理矢理飲み込んでから、同じ皿に盛られたソーセージをぱり、と噛む。こちらは美味い。
三人で囲む食卓には、三者三様の食事が置かれていた。エヴァンのものは実に美味そうなソーセージとオムレツで、パライソのものは、オムレツが少し不格好である。おそらくそれぞれ、エヴァンが一人で作ったいわゆるお手本と、助言されつつ作った練習作であろう。
ドミニクのものはと言うと、ソーセージは普通で、オムレツも、多少焦げ付いてはいるものの普通だ。味以外は。何を入れたのかは察しがつく。マスタードだ。この少女、マスタードを包んでいやがる。これはあれだ、エヴァンと共に自炊するようになって急に増えた調味料の類を見て「家っぽい!」とはしゃぎ過ぎたパライソが、スープに塩を一瓶ぶちかました初日以来の衝撃だ。エヴァンを見る、少年はすっと目を逸らす。いや責めてるわけじゃない、責めてるわけじゃないさ。お前はよくやった、実によくやった。それにそう、マスタードだって立派な調味料だ。問題ない。パライソだって、ドミニクが辛い物の方が好きと言うことを知っていてやったのだろう、誰にも問題はない。
ただ、量がおかしいな。
ちょっと辛い、とかを通り越している。かなりやばい。かなり、やばい。もう一口食べる。やっぱりやばい。鼻から脳天までぶち抜く衝撃が舌を辿って来るたび、どこか大事なところに深刻なダメージを食らっている気がする。中身はマスタードそのものだから当然なのだが。
「おお……」
ドミニクはまた呻いて、コーヒーへ手を伸ばした。この『本番』を、パライソは必ずドミニクに食べさせる。それは別にいいのだが、別にいいのだが――どうしてこう、妙なアレンジを加えようとするのだろう。エヴァンが止めてくれればいいのだが、パライソとエヴァンでは押しの強さが違い過ぎて、止めきれないのである。
「パライソ、辛い。つうかやばい」
直球で投げる。
「あ、やっぱ辛かった? 入れ過ぎたかなとは思ってたんだよな、なんせ一瓶入れちゃって」
思ってたのかよ!
じゃあせめて謝罪する姿勢とか見せろよ!
しかもまた一瓶かよ買いに行くの誰だと思ってんだ!
言いたいことはあったが、飲み込んで「次からは気を付けてくれ」とだけ言う。コーヒーだけで済ませる朝食よりは余程まともな食事だったので、文句を言うのも失礼だと思ったのだ。ドミニクは確かにまともさを積極的に求めているわけではないが、まともであることに文句をつける主義ではない。
「そう言えば、来ませんね、仕事」
「さすがに三日や四日で来るもんじゃないさ、あんなもん」
トーストにバターを塗りながらそう言うエヴァンに、ドミニクは答える。
「それに、俺のとこに回ってくるようなやつは天災みたいなもんだからな、そんなにバンバン来られたって困る。せめて二週間は間を空けて欲しいもんだね」
「ですか……」
「まあ、そろそろ要らない点数の分が来るかも知れんが」
「点数?」
オムレツをソーセージと一緒にトーストへ挟み込んで、口に放り込む。こうした方がまだ食えそうだ。ケチャップが欲しいとは思ったものの、席を立つのが面倒で、もしゃもしゃとひたすら咀嚼しコーヒーで流す。それからようやく、ドミニクは少年の疑問に答えた。
「そう、点数。天使どもの序列ってのは、家柄とか入った時期で決まってるわけじゃないんだ。単純に、どれだけ強いのを沢山殺したか、それで決まる。あと給料もな。まあ、死にたくないからあいつら本当に強いのは相手にしないが」
「でも、それなら、下の方の人が取り合って大変なんじゃ……」
「《愛欲者》程度なら、なんていくら殺したところで大した給料にならない。何せあいつらは、人間と同じように弱いからな。そのくせ人を操る術には長けてて、命ばっかり危険でね。安すぎるとみんな思うのさ。しかも発生件数が多い上、何と言ってもまず悪魔を探し出すところから始めないといけないもんだからな……こんなご時世だし、あいつらは年中人手不足だから仕方ないがね、あんなの無駄に疲れるだけで、得にならないから嫌がる」
「じゃあ、始末屋なんて職業があるのも」
「そういうおこぼれもらって生きてるわけだ。騒ぎが起こっても、天使が来ない時あるだろ? 大体そういう理由さ」
「……最低だ」
エヴァンが、軽蔑を漏らす。それは十代らしく若い潔癖さに満ちていて、針にも似たひどく鋭い痛みを含む言葉だった。
「力があるなら、助けるべきだ。それが力ある者の義務でしょう?」
「そういうノブレス・オブリージュ的な発想は、今時じゃねえな。今は力がある人間ほど、出し惜しむもんだ」そう言いながらコーヒーをすすると、少年に睨まれる。今のうちに好きなだけ睨めばいい、とドミニクは思った。どうせ、彼もいずれ気付く。『力ある者』というものが、どれだけ怠惰な人種かと言うことを。
「それに、報酬ってのは大事でな。俺たちも人間だ、霞食って生きられるわけじゃねえんだよ。しかも歩合制と来たら、得にならないことはしたくねえのが人情だろ」
「僕は、そんな打算で人助けをしたことはありません!」
「それはお前が馬鹿なだけだ」
「……じゃあ、ドミニクは打算でやってるって言うんですか」
「そうさ、俺は打算で生きてる男だよ」
少なくとも今は。そんなことを考えながら、トーストをまた口に入れて噛み千切った。歯形のついた断面に、ふと、二年前の自分を思い出す。今は、とは思ったけれど、あんなことが起こる前の自分は、打算せずに力をふるっていただろうか。
この――この、卑怯で俗悪な、自分は。
少年との会話を黙って聞いていたパライソが、「相変わらず偽悪的なやつだ」と吐き捨てたのが聞こえた。ドミニクは、それに答えることもせず、己のトーストを三度口へねじ込む。
ピピピピピ、と、穏やかな朝の風に乗って電話が鳴ったのは、そんな時分のことであった。
◆
……そうだ、《愛欲者》は、人間に近すぎる。
があん、と、大きな音と共に裸の女の頭を撃ち抜いて、ドミニクは浅く息を吐いた。真っ赤な血に汚れる女の髪は、奇妙な紫をしている。パライソと同じ、悪魔特有の、人間では到底有り得ない色だ。本当はこうなってしまっても、《
硝煙と鉄錆の匂いに、銃を持ったぶるぶると手が震え、滲む汗も相まって、思わず滑り落としそうになった。慌ててグリップを握り直してから、これ以上の無様を晒さないようさっさと腰のホルスターに収める。そもそも、人間用の銃で死ぬところが、既に『人間らし過ぎ』た。どうせ悪魔であるのなら、他の凶暴なやつらのように、簡単な肉体復元も出来てくれればいいのに。
女の死体から離れ、顔を上げる。そのぎらぎらした、それでいて薄暗い、娼館らしく淫靡な内装を見ているうち、いつもの吐き気を伴う頭痛が襲ってきて、ドミニクはズボンのポケットに入れていた《感情抑制剤》の瓶を取り出すと、震える手で錠剤を喉に流し込んだ。それから、手近にあった、まだ無事な――血に汚れていないという意味で――椅子を引き摺ってくると、煙草に火を点けながらそこへ座った。今回は娼館での仕事ということで、パライソがいない。おかげで、瓶に直接口をつけて錠剤を飲み込む不作法も、煙草も咎められることはなかった。
椅子に座る彼の真正面には、鏡があった。鏡に映る、死人のような表情で煙を吐き出す己の顔を、ドミニクはまじまじと見つめる。どんよりとした紫色の瞳、短く刈った茶色の髪の毛、綺麗に髭の剃られた顎、袖のないシャツから見える鍛えられた体……それがドミニクという男だ。二年前から、ドミニクは変わらない。中身は大分、変わったが。
彼がいるのは、支部から陸路をジープで三時間ほど行ったところにある、違法娼館だ。勿論、違法娼館など腐るほどあるので、《監視局》だってそんなことで一々摘発したりしない。ただ、死亡事件の件数がダントツに多かった。娼館だからと調べることはないが、さすがに、死人が一ヶ月に何人も出ていれば別だ。
そして案の定ドミニクにお鉢が回ってきて、今朝の電話でそれを調べろ、と言われてやってきたわけである。
調べろと言われたものの、原因はすぐに分かった。どうということもない。娼婦が全員悪魔で、彼女らの洗脳能力を使い、娼館の経営者が客から金を毟っており、その時にうっかり死なせてしまったせいで、ことが露呈した。それだけだ。ただ、経営者に誘拐され、押し込められて体を売らされていたその娼婦たちの大多数は擬態も出来ないほど正気を失っており、《監視局》に一応連絡しても「殺せ、他の違法娼館への見せしめにもなるから」と言われたので、殺した。経営者は、裁きを受けさせるために捕縛した。それだけの、よくある話だった。
血臭の中で紫煙をくゆらせて、ドミニクはぼんやりと、薬が巡るのを待つ。そうだ、今日は酒も飲んで寝よう。パライソは怒るだろうが、仕事の後はいつも彼が気鬱なものを感じるのは彼女も知っていることだ。食事をする気分でもない、今日はさっさと帰って寝たい。たとえ見るのがひどい悪夢でも、それこそがドミニクにとって唯一の救いと呼べるものなのだった。
たまに、思うことがある。あの二年前の事件がなければ、自分はどうしていたのだろう、と。少なくとも、まだ天使は続けていただろう。自分で言うのは驕っているようで嫌だが、自分は、天使の中でも屈指の優秀さを誇っていた。それこそ、今でも天使連中から首輪をつけられているくらいに。それほど自分は優秀だった。というよりも、それしか出来ない人間だったのだ、何せ自分は、元から壊れている類の人間だったから。
壊れていたから――あんなことになったのだから。
床に転がっていた灰皿を拾い上げて、白い灰を捨てる。煙草を持ったまま頭を親指でがしがしと掻いて、ドミニクは、忘れよう、と思った。たらればの話など、いくらしたって意味がない。ドミニクにとって、つまり今の自分にとって、現実こそがすべてだ。
「……あの、現場で煙草を吸うのは感心しませんよ」
そんなことを考えている最中に、扉の方からそう声をかけられて、ドミニクはそちらを振り向く。同時に些かぎょっとして、一瞬固まった。
そこに立っていたのは、困った顔のエヴァンだった。無論、エヴァンだから驚いたのではない。そうは見えないとは言え十八であるらしい彼は、今日の仕事にだってちゃんとついてきた。そして、二階を受け持つドミニクの代わりに、部屋数の少ない一階を受け持っていたのだった。だから、驚いたのは彼の存在ではない。
ドミニクが驚いたのは、エヴァンが頭の先から爪の先まで、血に染まっていたからだ。彼は今日も相変わらず薄手の黒いシャツに白いパンツなどという小洒落た出で立ちだったのだが、それがすっかり真っ赤に染まっていた。
「……どうした、それ」
「え? ああいえ、僕、首を切り落としたりするので、返り血が凄いんです」
そう言えば、ワイヤーで戦うとか言っていたな。よく見れば、エヴァンが歩いてきたらしき廊下は、彼の真っ赤な足跡を鮮明に残していた。
「気持ち悪くないのか? それだけ返り血が凄いと、服もおじゃんだろうに」
「まあ、気持ち悪いですけど。僕は別に、血は嫌いじゃないので」
唐突に少しばかりおかしな告白をされて、ドミニクは「そうか」と言うしか出来なかった。しかし、これではこのまま帰るわけにもいかない。多少ならともかく、血まみれとなるとさすがに人目に付きすぎる。しかも、真っ赤なのは服だけではなく、全身なので、着替えさせるだけでは解決しない。
「聞くが、今まではどうしてたんだ?」
「依頼主が大体その場にいたので、その人に頼んでシャワーを借りてました」
「……今回はどうするつもりだったんだ」
「えっ、えっと……ドミニクに、《監視局》の人に頼んでもらって、この娼館のお風呂が借りられたらなあって……」
見通しが甘いことこの上ない言い分に、多少の、先程までとは違う類の頭痛を感じながら、ドミニクは溜息を吐く。もしかしてこの少年、天使連中にも一定数存在していた、『敵を見ると我を忘れる』タイプの人間なのかもしれない。大体、一人で《憤怒者》まで殺せるらしいのだ、そういう人種である可能性も拭いきれなかった。
「仕方ないな……使え」
「さ、先に連絡とかしなくていいんですか?」
「あいつらは俺にそう厳しく言える立場じゃないからな。いいだろうよ」
それに、エヴァンのこの悪癖を事前に説明しなかった彼らも悪いとドミニクは思う。事前に知っていれば、宿屋くらい取っておいたのに。無論、どんな客にも文句を言わなさそうな、という条件のものをだ。値が張る割に質の悪い宿になるだろうが、背に腹は代えられない。もし始末屋です、と言っても、まともな宿なら断られるのが目に見える。それなら悶着を起こす前に自分から比較的穏健に済ませられそうな場所を使うのが吉だ。
「す、すみません」
「いいから早く入れ。こんなところ、さっさとおさらばしたいんだ」
「じゃあ、お風呂に入ってきますね!」
「ああ」
そんな会話をしてからたっぷり二時間かけて、エヴァンは風呂に入って着替えて帰ってきた。その間に、帰ってきた少年が思わず眉をしかめるくらいにはドミニクは煙草を消費していて、とりあえず彼は、エヴァンの頭を拳で小突いておいたのだった。
◆
「ど、どうして僕、さっき殴られたんですかぁっ?」
「長いんだよ、風呂が。血まみれつったって、二時間もかけてんじゃねえ」
支部へ向かうジープを運転しながら、ドミニクは煙草を口に銜えたまま、機嫌の悪さを隠そうともせずにエヴァンを
「これからは、仕事前に宿を取るからな。勿論、俺から硝煙の匂いがしたり、お前が血まみれでも文句を言われないような宿だ。質は期待するなよ、風呂が使えるだけありがたいと思え」
「はい……」
「あと、当然俺と同室だからな。あんまり長い時間風呂に入ってると蹴飛ばすぞ」
灰をジープの灰皿に落としながらそう言うと、エヴァンがサングラス越しでもわかるほど目を見開いて、その端正な顔に焦りを浮かべてドミニクを見た。
「えええええっ、ドミニクと一緒の部屋なんですか!?」
「当たり前だ! お前の風呂のためだけにそんなに金をかけてられるか!」
「じゃ、じゃあ、ドミニクだけ他の場所にいるとかぁ……」
「俺は、自慢じゃないが、飯にも喫茶にも色町にも興味がない。それくらいなら煙草吸って薬飲んで寝てる方がマシだ」
「ぼ、僕が自分で宿賃払いますから……先に帰って……」
「……仕事の回数だけ、宿賃を払うって? 言っとくが、文句を言わないってことは、それ相応の金を食うってことだからな。それに、お前交通手段ないだろ。免許持ってんのかよ?」
「……無理ですすみませんでした」
エヴァンが、深々と頭を下げる。まったく、最初からそうしておけばいいのだ。
「まあ、経費で落とさせるつもりだからな、そのあたりは」
「落とせるんですか?」
「……《監視局》の連中を信じろ」
廃棄品の寄せ集めのような武器弾薬と、海風に崩れかけていた家しか寄越さず、気前よく寄越す物と言えば安い給料と《感情抑制剤》というような連中であるので、落とせるかどうかは甚だ疑問ではあったが、ドミニクは真顔でそう言っておいた。なお、寄越された家が今のあの家だが、修復するのに五ヶ月かかった。その間にパライソが言った愚痴の回数は、軽く千を超える。当然、修繕費は自前だった。
「……信じろ」
エヴァンに、というよりは最早自分に言い聞かせるように、ドミニクはまたそう言った。あのクソみたいな連中を信じて事態が改善したことは彼の人生においてただの一度もないけれど、とりあえずそう言っておいた。
「……ら、ラジャー……」
エヴァンが唇をひきつらせて敬礼するのを見ながら、ドミニクは自棄気味にアクセルを踏み込んだのだった。
◆
……まあ、無理だとは思っていたが。
「す、すみません……いつも本当にすみません……」
謝るエヴァンに無言で手を振りながら、ドミニクは煙草を吸いつつベッドに転がった。血まみれの少年がバスルームに駆け込んで、水音が聞こえてくる。空調のない部屋は、蒸して暑い。パライソを外に出しておいて正解だった、と彼は思った。絶対にうるさい。
真っ赤に染まったエヴァンに驚くと同時、その姿に空腹を覚えたらしいあの少女は今、いくらかの小遣いを渡され、髪の毛を隠すための帽子と共に菓子を探していることだろう。そのために多めの小遣いを渡したので、是非満足が行くまで菓子を貪って欲しいところである。パライソの性格上遠慮してしまう可能性があったが、血に反応してエヴァンの手足でも食いちぎられた方が困るので、ここは遠慮しないでおいて欲しいところだ。
案の定宿代を経費で落とす計画は却下され、諦観とともに自腹を切ることになったドミニクは、かれこれ三回目の宿代を思い出して些か憂鬱な気分になっていた。特に今日は、パライソまでいるものだから盛大に嵩んでいる。何せパライソが目に見えて悪魔だ、宿の方も全力で割増してきていた。一度髪の毛を染めさせてみようか、とも思ったが、嫌がられそうなのでやめた。それに、パライソの場合、種類的に髪の毛が染まるかどうかも怪しい。《暴食者》は擬態を必要としないので、毛染めのようなものは弾かれる可能性が高かった。
寝煙草を叱るパライソがいないため、ドミニクは存分にベッドの薄っぺらさを堪能しながら煙を呑み、エヴァンね、と今風呂に入っている最中の少年のことを考える。今日もやはり《愛欲者》相手ではあったのだが、持ち前の洗脳能力を活かして小さな組織を作っており、始末するのは骨が折れると思われるものだった。何せ、襲ってくるのは全て人間なのだ。もしかすると、悪魔に成る前の悪魔も混じっていたかもしれないが、それは一応、《監視局》だと人間扱いなので、おいそれと撃ち殺すわけにはいかない。だからドミニクは、自分が適当に末端をいなしつつ、小回りの利くパライソに首謀者の《愛欲者》だけを捕まえてもらおうと思ったのだが。
(『やっぱり、こういう事例だと全員殺したら怒られますよね? 後々の取り調べとかのために、一人くらいは残しておかないといけませんよね? 手加減は苦手ですけど頑張ります』って、なあ……)
どう考えても、まともではない。まともな人間は皆殺しが解決手段のスタンダードであったりはしない。しかも、どうもそこに罪悪感がないようなのだ、エヴァンという少年は。それが正しい手段だと思っている。初めて娼館で仕事をした時もそうだ、十人を超える娼婦を全員殺しても戸惑っていないのは場数のせいだと思っていた、だが、違う。
あれは、皆殺しが正しいのだから、そんなもの感じるわけがないということなのだ。
一緒にこうして仕事をした回数はまだ片手で足りる程度でさして多くはないし、仕事の内容も小さいものばかりだった。だから、参考にならないと言えばならない。
だが、ドミニクは思うのだ――あれは、『放っておくとまずい』と。
それにまず、自分と一緒に住んでいることが既におかしいと言えた、《監視局》の天使連中は、ドミニクと他人が係わることを良しとしない。特に、プライベートなど論外だ。ドミニクという存在は、二年前のあの事件の集大成だ。恥部そのものだ。そんな自分と、部外者である下の人間を共に住まわせるなど有り得ないことだった。最初エヴァンからそう聞かされた時に「あいつらはおかしくなったのか」と思ったのはそのせいだ。
だからこそ、ドミニクはエヴァンが信用できない。
《監視局》というのは決して、崇拝の対象ではない。むしろ、出来上がった経緯を考えれば自明なように、地上にいる人間から憎まれ、羨まれ、妬まれるために存在しているような組織で、場所だ。それを管理運営する天使連中も当然、怨まれている。悪魔を始末できるのが天使を含めた一部の人間しかおらず、反逆すれば命の危険が伴うために、仕方なく天使を敬っている現状なのだ。
無論そんな組織が何の敵対組織も持たないわけがない。今まで支部を狙ったテロのようなことは幾度もあったし、ドミニクもこの二年でしばしば後始末に駆り出されたりもした。《監視局》にいる時も、地上回帰主義の活動家が起こした事件を片付けたこともある。他にも、悪魔崇拝主義――悪魔が人類に代わる新たな生物だと唱える思想家が、子供の悪魔をかき集めて『教育』し、《監視局》に特攻させたこともあった。その思想家の最期は、教育した悪魔たちに殺されることで彼らにトラウマを植え付け操ると言う凄惨なもので、事件を受け持っていた天使が遺物から狂気に触れて一人自殺したのを、ドミニクはまだ覚えている。
それを知っているからこそ、エヴァンという少年が、この類の人間ではないとはとても断言できないのだった。
それに、とドミニクは思う。あの少年が、悪魔の擬態である可能性も、ないわけではない。曲がりなりにも天使である鷲鼻を籠絡し、《監視局》公認の始末屋になるくらいである、今までの、力押しのテロリストとはわけが違うだろう。となると、やはり、悪魔である可能性も見えてくるのであった。
悪魔、というものは、感情の振れ幅が一定値に達すると変化する『人間モドキ』の生物兵器なのだが、困ったことに、産まれた時は人間と見分けがつかない。しかも、人間と交雑することが可能と来た。しかも、産まれた子供はハーフなどではなく必ず悪魔になる。悪魔があっという間に増えた一因として、これがある。これのせいで悪魔は完全に人間社会へ溶け込んでしまっているので、最早分離することが不可能なのだった。
悪魔として変化してしまえば、以降はずっと外見が明らかに人間とは変わるのでわかりやすくなるのだが、それと同時に、超能力のようなものを備えるのが一般的だった。能力は大別して七種類、その分類が正しいのかどうか、ドミニクは知らない。つい十年ほど前に《監視局》の天使がそういう分類にしただけで、かつてはもっと違う分類で分けられていたのかもしれない。悪魔と言う呼称も勝手につけただけである。大戦前に存在していた何かの宗教の類から引用しているらしいが、ドミニクはよく知らないし、知る気もない。そもそも、試験管で生まれて施設で育った自分に、科学以外の寄る辺はない。
さて、そんな大仰な名前の中に押し込められた悪魔であるが、その中には、『人間への擬態』を必要とするものとしないものがいた。用途が違うのだろうから当たり前なのだが、そのうちパライソの分類される《暴食者》を始め、《憤怒者》、《貪欲者》、《高慢者》は擬態を必要としない。擬態を必要としない種類は、とことん自分の姿を偽ることを嫌がる。本人の意思とは関係なく、そういう風な仕組みなのである。パライソが髪の毛を左右でおだんごにしているのも、あの下に角があるからだ。羊のような、丸い角が、あの中には収まっている。だからおそらく、試そうと思ったことはないが、髪を染めたりはできないだろう、とドミニクは思っていた。
だが――《嫉妬者》、《怠惰者》、《愛欲者》の、擬態を必要とするものは違う。
髪や目どころか、悪魔に成った者の特徴である、パライソのような角や、翼に尻尾、牙や蹄、それから爪や毛皮などの『明らかに人間とは違う部位』までも隠してしまえるのであった。しかも、それが外的要因では解除されない。完全に、彼ら自身の意思以外では擬態を解くことが出来ないのだ。
無論、エヴァンのあの姿が擬態であると考え切っているわけではない。ただ、そう、ただ、ドミニクは、彼が信じられない。信用できていないのだ、あの日、支部で紹介された時から、ずっと。
煙草を吸い終わって、灰皿に押し付ける。考えても詮無いことではあった、外的要因で擬態が解けない以上、ドミニクがそれを確かめるすべはない。少なくとも、今の彼にはどうしようもない。《監視局》へ連れて行ってヴィヴィアンあたりに拷問してもらえば、悪魔であろうがなかろうが正体の一つや二つ簡単にわかるだろうが、ドミニクは《監視局》へ行きたくないし、彼らからも出来る限り来るなと言われている。だから、エヴァンが信用できなくとも、現状では気を抜かない程度のことしかできないのだった。
そんなことを考えながら二本目を吸おう、と箱から取り出したところで――
「――ッぎゃあああああああああああああああああああああッッッ!!」
突然、風呂場からただ事ではない絶叫が聞こえてきてドミニクは跳ね起きた。下げっぱなしだった銃を抜き、安全装置を外して、バスルームに飛び込む。途端にざあざあと言うシャワーの音が耳朶を強く打ち、シャワーカーテンに張り付いているらしき少年のシルエットが視界に入った。血臭はもうしなかった、代わりに、安い石鹸の匂いが漂っている。
「どうしたッ」
「ああああわわわわああああああ」
質問してみたものの、エヴァンの答えはまともなものではない。もう一度「どうしたんだ」と問うてみるも、やはり答えはなかった。どうも、答えられる状況ではないらしい。
仕方なく「開けるぞ」と声をかけてから、躊躇なくシャワーカーテンを引く。エヴァンは突然引かれたカーテンに驚いたようで、「ぎゃあああ!」とまた悲鳴を上げて飛びずさると、ドミニクを見た。涙の滲んだ金色の瞳が狼狽えるのがわかる。風呂に入っていたところだったので、当然エヴァンは全裸だった。何も包み隠すことなく、ドミニクの前に褐色の裸体を晒していた。その――女性らしく丸みを帯びた体を。だからドミニクは、その姿を認めるなり、すっと目を細めると、何を考えるより先に、少年――いや、少女の首を掴んで吊り上げるとタイルの壁に叩きつけ、銃口を彼女の眉間に押し付けたのだった。
「――ッ!?」
「質問だ、エヴァン」
受け答えが出来る程度に首を締め上げながら、ドミニクは全裸の少女に問いかける。端から信用していなかったおかげか、割合冷静に対処できている自分を自覚する。なるほど、女。何やら清々しい気分である。よくよく考えずとも、何一つ、おかしくないところなどなかった。高い声も、綺麗らしい顔も、細い手足も、確かに言われてみれば、少年というよりは成熟する前の女のものだ。骨格で見抜けなかったのは失態だった、と思いながら、ドミニクはエヴァンを吊るす。
「一、性別を偽った理由を述べよ。二、俺、ひいては《監視局》に近づいた理由を述べよ。三、己の正体を述べよ。それぞれ十秒以内に答えぬ場合は射殺する。十、九、」
カウントダウンを始めるなり、ぐっ、と呻いてエヴァンの目つきが変わった。丸い瞳に明らかな敵意を浮かべ、両手でドミニクの手首を掴むと、それを支点にして器用に体を捻り、宙ぶらりんの足を振り子のようにして蹴りを繰り出してきた。顎を狙って放たれたそれを、咄嗟に手を離して避ける。いきおい、体まで引くことになり、エヴァンとの距離が開いた。その一瞬の隙を見てエヴァンが逃げようと身を翻すのを、ドミニクは後ろから足を払って転ばせ、湿気たバスルームの床へうつ伏せに倒れた少女の上に間髪入れず圧し掛かる。同時に腕を捻り上げ、もう一度銃口を突きつける。今度は、後頭部へ。
遥かにウエイトの違うドミニクに背中へ乗られて、エヴァンはようやく観念したようだった。だが、抵抗はやめても敵意は消えておらず、少女は頭だけを動かして己の上に乗るドミニクを睨みつけた。その動きにいっそう強く銃口を突きつけ、体重をさらにかける。
「なんで逃げた」
「……裸見られて銃突きつけられて、逃げない女がいたらお目にかかりたいですね」
憎々しげなエヴァンの台詞に、「ハッ」とドミニクは笑った。
「お前の反応は、明らかにその類のものじゃなかったさ。それに、俺だって、お前が自分を男だと言っていなければ、こんなことはしなかったよ」
「相手が男でも、勝手にカーテンを開けるやつがありますか」
「……そっちなのか、お前にとっての重要なのは」
些か拍子抜けしつつ眉根を寄せると、少女はそこで初めて、自分がひどく間の抜けたことを言ったと気付いたらしい。ぼっと顔を赤くして、怒鳴りつけるようにして「……どっちもです!」と唇を曲げた。
「まあ……いいが。それに相手が男でもあんな悲鳴が聞こえたら駆けつけるし、しかも返事がないと来たら、開けるしかないだろう。そう言えば、あれは結局何の悲鳴だったんだ?」
「あ、あれは……」
言いにくそうにエヴァンが目を逸らすと同時、ドミニクの首に、ぼたりと何かが落ちてきた。ぎょっとしつつも、両手が塞がっているので放置する。ごそごそ動いているので虫の類なのだろうが、別にドミニクは虫くらいどうと言うこともない。だから彼は、「早く答えろ」と苛立ちを込めてエヴァンを急かした。
だが――そうしてドミニクに急かされ、「あれは」とこちらを向き直したエヴァンにとっては『どうと言うこともない』ことではなかったらしい。次の瞬間、全身を強張らせた少女が、目を見開いて絶叫を上げていた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!!」
耳の右から左へ、脳味噌をぶち抜いて轟いたその悲鳴に、ドミニクは眩暈を禁じ得なかった。音波兵器でも食らった気分で、「やかましい!」と叫んでは見るものの、少女は涙を浮かべて悲鳴を上げるだけだ。
「くそっ」
このままでは埒が明かない。仕方なく、悲鳴から逃げるように顔の方へ移動してきたそれを、銃を持ったまま引き剥がす。見れば、自分の無骨な指に摘ままれているのは、虫ではなく灰色のヤモリであった。
「なんだ、ヤモリじゃねえか」
正体がわかればもう用はないと、指の間でじたばたともがくヤモリを逃がそうとした瞬間、「だめーっ!!」とエヴァンが悲愴さすら滲む声でドミニクを止めた。見れば、その目には恐怖すら見える。
「……苦手なのか、これ」
こくこくと、少女が頷いた。意外である。普段はいかにも若者らしく、怖いものなどないという風情であるのに。
「だが、いつまでも俺が持っておくわけにもいかないしな」
「いっ、一、僕が性別を隠してた理由は女だとわかると色々面倒だから! 二、《監視局》の方がお金入るかなって思ったから! それに、後ろ盾があるのとないのとじゃ大違いだし! 三、僕はただの孤児です!」
何を言う前から先に、エヴァンが畳みかけるように先程の質問に答えた。そこまでこの小さな生き物が嫌いなのか、などと呆れつつ、ドミニクはその答えを咀嚼する。
「……一以外信用できないな。ただの孤児だなんて言うが、お前みたく、『皆殺しが解決手段』だなんて思ってるやつはそうそういない。生来のものか後天的なものか知らんが、お前の思考はまともじゃない」
「……っ」
「言え。場合によれば、死ぬだけで済むぞ?」
「……それって、『だけ』って言うんですかね」
「薬漬けにされて、首から下の肉が殆どないような状態でも笑っていられるのが、死ぬよりマシだって言うんならそれでもいいが」
「……どうも、《監視局》は、聞いてたよりも乱暴な組織みたいだ」
エヴァンが皮肉げな笑みを浮かべてそう言い、「もう逃げませんよ」と解放するようドミニクに訴える。
「湯冷めします、服くらい着させてください」
「……逃げようとしたり攻撃してきたら、撃ち殺すから、そのつもりでな」
「わかってますよ」
「どうだか」
「ああ、あと――」
ドミニクが注意深く少女から離れて立ち上がると、同じように立ち上がってきたエヴァンは、その傷一つないなめらかな背中を向けたまま、こう吐き捨てたのだった。
「そのヤモリ、さっさと殺してください。僕、爬虫類ってのが大嫌いなんですよ。反吐が出るほどね」
◆
さすがに殺すのもどうかと思ったので、ドミニクは、部屋の窓からヤモリを逃がした。それを見たエヴァンは不満そうにしていたが、それなら自分で殺せばいいだけの話である。そう言うと、少女は唇をへの字に曲げて目を背けたが。
ベッドに座ったエヴァンは、薄いブルーに染められた男性もののシャツに、今ドミニクが履いているのと同じようなカーゴパンツという出で立ちだ。この少女、前々から思っていたが、お洒落するのが好きであるらしい。
「僕の正体って、どこから話せばいいんでしょうかね?」
「全部だよ」
「じゃあ、僕が孤児になった理由から話さないとなりませんけど……長いですよ」
「構わん」
エヴァンの正面のベッドへ座り、銃を向け、ドミニクは猫背気味になりながら
「じゃあ、遠慮なく……元々僕は、エヴァンジェリンという名前で生まれました。でも、両親は僕を育てられずに案の定捨てて、消えました。捨てられた時僕は乳飲み子だったので、彼らが生きてるのか死んでるのかさえ今ではわかりません。よくある話です、地上じゃね。まあそれで、僕は最初、反《監視局》の活動家に拾われました。そこで十歳まで育てられて、こんな性質になったわけです」
少女の説明を聞いたドミニクは、はたと過去の事件を思い出した。反《監視局》の活動家で、子供を育てていた人間が、彼の記憶の中に一人いる。
「……もしかして、その活動家ってのは、五年くらい前に《監視局》に捕まったやつか?」
名前はもう忘れてしまったが、巧妙な手口で支部に勤める天使を一人ずつ殺害し、その度に殺害現場へ付近の住民を扇動するような血文字を残して行った、連続殺人犯である。確かにあの男は孤児を拾うのが好きだったようで、育てられていた子供が五、六人ほどいたように思う。一応全員保護したと思ったのだが、取りこぼしがあってもおかしくはない。ドミニクは直接その事件に関わっていないので、なおさらだ。
「いやだが、年齢が……」
「僕、十五歳ですよまだ」
けろりと告げられた事実に、ドミニクは最早、笑うしか出来なかった。
「性別詐称に偽名に年齢詐称と経歴詐称か。いい根性してるぜ」
「いい根性してなきゃ、生きていけませんよ。こんな世の中じゃ」
「否定はしないがね……。で、それから五年、どうしてたんだ」
「三年間、小さなサーカスにいました。僕は身軽な方だったので、曲芸はすぐ出来るようになりましたし、そこそこ人気があったんですけどね。ある日ぽっくり団長が死んで、それからはもう、路銀を稼ぐために、男のふりで殺して殺して殺す日々です。悪魔を殺すのは楽しかったですよ、誰にも怒られないどころか、褒められるわけですから。僕の性にあってた」
「イカレた女だ」
「褒め言葉ですね。実際、僕には、何が正しくて何が正しくないのかわからないんですよ……だって、悪魔の方が、よほど人間らしく生きてるんですから」
きっと本当は、悪魔と人間なんて大して変わらない。
そう言って、エヴァンが微笑む。
「そうでしょう、ドミニク?」
少女の真っ直ぐな金色が、ドミニクの脳味噌を――抉った。
笑顔で放たれたそのエヴァンの言葉に、感覚が一瞬でブラックアウトする。思わず銃を取り落とし、ベッドから転げて膝をついた。頭が割れるように痛い、今すぐ頭蓋を叩き割って中身を引きずり出したくなるほどに、痛みが脳味噌にこびりついて離れない。《
「あ、ぁ」
喉がひりつく、カラカラに乾いて、舌が上顎に貼り付きそうになる。助けてくれ、と、ドミニクは誰かに叫んだ。遠くの方で、女の声がする。この声は誰のものだ? ユージェニーのものだろうか、そうであってほしい、いや、そうであるべきだ、ユージェニー。ああ、ユージェニーユージェニーユージェニーユージェニー・アダムズ!! 助けてくれ、俺は、俺は俺は俺はもうもうもう、お前がいないとお前が、だってあいつを止められるのはお前だけだ、ああユージェニー、頼む助けてくれ、俺はもう、お前、お前たちがいないと、怖いんだ怖い、怖くてたまらない、助けてくれユージェニー、お前たちはいつだって俺を助けてくれたじゃないか、お前とあいつで、俺を。お前と、あいつがいないと、お前たちがいないと、三人じゃないと、俺は、俺は――
――ああでも、お前たちは死んだんだったな。
その事実が脳裏に閃くと同時、遠くで聞こえる女の声が誰のものかを思い出す。エヴァンだ、エヴァンジェリン。心配そうにドミニクと名を呼ぶその声が、煩わしくてたまらない。もう、彼女の尋問などどうでもいい。
「う、失せ、ろ」
しゃがれた声でそう言って、ドミニクはふらふらと立ち上がると、まとわりつくエヴァンジェリンを突き飛ばした。飛ばした、というほどには勢いがなかったが、少女は確実に後ろへ下がり、ドミニクと距離を置いた。自分でやっておきながらもそれが気に入らなくて、彼は益々強く「失せろ」と繰り返す。
エヴァンジェリンが、困ったような顔で、自分の荷物を掴んだ。血に汚れた服を入れた、小さなナップザックである。
「もう、俺に関わるな」
少女を見ないように俯き、ベッドへ倒れ込むように座る。頭痛と吐き気がひどい、パライソが帰ってくるまで意識があるかどうか疑問だ。久しぶりに気絶出来るかもしれない、と、奇妙に冷静な自分が頭の片隅で嗤った。
「ドミニク、あの、僕、」
「いいから失せろッ!!」
泣きそうな声で言い訳しようとするエヴァンジェリンを怒鳴りつけると、少女は、嗚咽をこらえるように呻いて、ばたばたと出て行く。扉が慌ただしく閉められる音を最後に、部屋には静寂だけが残った。
「……くそ、」
自分で、自分の頭を殴る。それで頭痛が治まるとでも言うように。だが当然、痛みは消えなかった。
悪魔が人間と大して変わらないだなんて――そんなこと、ドミニクが一番分かっている。
それを最初からわかっていて、天使になった。それが自分だったのだ。
二年前に、あんなことが起こるまでは。
「――――ッ……っ!」
結局、ドミニクは吐いた。それから彼は、パライソが帰ってくるのも待たずに白目をむいて気絶した。
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