R.E.D.
蔵野杖人
Chapter.1 Dominic
Chapter.1 Dominic
結局、自分の罪とは何かというと、全てだった。一つ一つの事象ではない、最早、自分が生きていること、そのものが罪なのだ。世界に自分がいること、それが自分の罪だった。
自分と言う余分な歯車を孕む歪な世界の真ん中で、女が手招きをする。ああ、見覚えがある、見覚えが。だが、名前が思い出せない。思い出したいのに、思い出せそうなのに、どうしても名前が見つからない。知っているのに。脳味噌が軋んでいた、どうにもならないほど。
ひゅう、と喉から息が漏れる。呼吸の仕方が体から失われているのがわかった、もう苦しくてたまらない、誰かに助けて欲しい。ぐらぐらと、世界が極彩色に明滅し、コーヒーへ落としたミルクのような螺旋を描いて崩れていく。歪曲した世界で、例の、名前の思い出せない女がぬるく笑っていた。その横には、これまた見覚えのある男が立っている。ああ、自分のせいだ、これも全部、自分の――
――バシャン!!
「ぼっぶ!?」
「このボケナス! うなされるくらいなら薬飲むなっつってんだろ!」
淀んだ眠りについていたドミニクは、唐突に頭上へぶちまけられた生温い海水と罵倒に、目を白黒させてソファから転がり落ちた。埃と砂利の積もった床にうつ伏せで倒れ込んだまま、何度も咳き込み、涙をぼろぼろとこぼす。口の中は塩の味が広がり、喉がひりついた。
やばい、涙が止まらない。
ドミニクは部屋着にしていたシャツの裾で顔を拭いながら、肺の中の空気を全て吐き出すような咳をした。先程まで見ていた夢と同じくらい、いや物理的苦痛を伴う分、こちらの方が断然キツイ。
「起きたみたいだな」
唯一残った聴覚が、先程自分に罵倒をぶつけた少女の声を捉えた。わかってはいたが、この乱暴な口調はパライソである。もっとも、この家にはドミニクと彼女しかいないので、消去法でも彼女しかいないわけだが。
「パ、パライソ……」
よろよろと起き上がり、倒れるようにソファへ座る。びしゃびしゃになった布地の感触にすぐさま座ったことを後悔したが、座ってしまったものは仕方ない。どうせ濡れるのも安いジーンズだ。ようやく痛みの引いてきた目を何度か瞬かせ、ドミニクは己の正面で仁王立ちする少女を視界に入れる。
パッションピンクの髪を左右で丸くまとめ上げ、猫の様な水色の瞳を吊り上げた、十代前半と思しき少女――それがパライソだった。本名ではない、ただ《
またゲホ、と湿った咳をしてから、ドミニクはテーブルの上に置いた煙草の箱に手を伸ばし、ライターと、中に入っていた煙草の一本を取り出した。細いそれに火を点けると、パライソが非常に嫌そうな顔をしたが、寝起きの一服くらい好きにさせて欲しいと彼は思った。ゆっくりと深く吸ってから、煙草の横に置いていた灰皿を引き寄せて、灰を落とす。
それを繰り返しているうちに一本目を吸い終わり、こちらを睨むパライソを無視して二本目に火を点ける。だが、紫煙をくゆらせているうちに、段々と痛みが喉から頭へと推移していくことに気付いてドミニクは眉をしかめた。この頭痛もいつものことではあるが、やはり、痛み止めが欲しい。
「パライソ」
煙を吐き出しながら名前を呼ぶと、少女が汚物でも見るような目をした。どうやら名前を呼ばれたくなかったらしい。酷いやつである、雇い主に向かって。
「痛み止めか《
ドミニクが、今度は痛む頭にまた目を瞬かせて端的にそれだけ言うと、少女は手に持っていたアルミのバケツを思い切り彼へ向かって投げつけた。避けなければ当たるのはわかっていたが、避けようとすることが最早億劫で――
――とりあえずドミニクは、顔面でそれを受け止めた。
◆
「お前馬鹿だろ? 馬鹿なんだろ?」
「いや……」
「よく考えろ、薬飲んで寝てうなされてさらにまた薬飲もうとするって相当な馬鹿だろ?」
痛む鼻を冷やしながら、ドミニクはパライソの前で正座させられていた。かれこれ十五分ほどこの姿勢で説教されているので、少し足が痺れている。水浸しのソファはそのままで、バケツも転がったままだが、少女の説教が終わらない限り片付けは出来ない。煙草が吸いたいな、とドミニクは思った。
大体、彼女が言うところの薬、つまり《感情抑制剤》は、《監視局》が全人類に対して定期配布しているもので、危険なものでもなんでもない。これが法外な麻薬などであるならドミニクも態度を改めようと思うが、むしろ逆に摂取を推奨されているものを飲んで何が悪いと言うのだろう。
そんなことを考えていると、パライソが、水色の目でぎろりとこちらを見下ろした。ドミニクより遥かに小さい少女ではあるが、正座させられていると、さすがに彼女の方が頭の位置は上だ。どうやら、ドミニクが考えていたことを察したらしい。
「……お前、今、別に飲んでもいいじゃんかって思っただろ」
「思ってない」とりあえず嘘を吐いておく。が、意味はないだろう。
「いいや、思ったね。そういう顔だったね」
案の定何かよくわからない勘の良さを発揮した娘は、じゃらじゃらと《感情抑制剤》の瓶を振りながらドミニクをさらに睨みつけた。どうでもいいが、頭が死ぬほど痛いのでさっさと説教は終わらせてほしい。《感情抑制剤》はもういいから、せめて痛み止めをくれ。
「これ、一日の限界摂取量二錠だから! 通常は一錠! 普通の人間はお前みたいに十錠も二十錠も飲まないんだよ! しかもお前、それを一時間ごととかに繰り返すだろ!? どんな薬でも飲み過ぎれば毒なの! 馬鹿なの!?」
「馬鹿じゃなかったらこんなとこで《監視局》の始末屋なんかしてないと思います……」
痛みでぼうっとする頭にまた目を瞬かせて、痺れる足をもぞもぞと動かす。あー、さっさとカーペット洗って干したい。そこまで考えたところで、パライソに思い切り瓶で頭を殴られた。痛みをあまり感じないのは、《感情抑制剤》のせいだろうか、それとも彼女の力が弱いせいか。
「このばあああああああか!! ばーかばーか!! 自分で馬鹿とか言っちゃうところがさらに馬鹿!!」
「いや、だって俺、それ飲まないと歩けもしないんだぞ……それに、もう一錠や二錠じゃ効かないし……それで飲むなって酷な話だとは思わないか……」
頭痛がますますひどくなってきたので、少女の説教に付き合うのをやめてドミニクは立ち上がった。話を最後まで聞かないと彼女が怒るのは知っていたが、このままだと、話を聞いてる最中に倒れそうだ。家の中の管理は全部パライソ任せでも、痛み止めの場所くらいはわかる。
立ち上がったドミニクに、パライソが「話はまだ終わってないんだから!」と怒鳴り散らしているのを背中で聞きつつ、ゆらゆらする頭で身体を引き摺りキッチンへ向かう。確か缶詰の横に置いてあったはずだ、と、左手に持っていた氷を流しに放り出してから壁の上の方につけられた引き戸を開け、覗き込んで探す。だが、肉や果物の缶詰が乱雑に詰め込まれたその棚の中に、お目当てのものはなかった。
「パライソ、痛み止め、知らないか……?」
「え? そこにない?」
先程までの怒りはどこへやら、困ったような顔で少女がぱたぱたと駆け寄ってくる。
「ないんだよ、てっきりお前がどこかへやったんだと思ったんだが……」
「《感情抑制剤》ならともかく、ただの痛み止めをどっかやったりするか!」
「うーん……」
痛みで思考がまとまらない。痛み止めを最後に飲んだのはいつだったろう? 一週間前に仕事して腕が吹っ飛んで、それでまた作ってもらって……
「……あ」
ドミニクはそこでようやく、痛み止めがどこに行ったのか思い出した。
「四日前に飲み切って捨てたんだった」
俺が。自分で。なんだか最近夢うつつでいることが多かったから、すっかり忘れていた。
「こっの……馬鹿がぁ!!」
「いってえ!」
パライソの回し蹴りが尻へ綺麗に入る。だがまあ、これは仕方がない。痛いけど。
「備品がなくなったらちゃんと言えって何回言ったら分かってもらえるんですかね!?」
「悪かった、悪かったから蹴りはやめろ、蹴りは……っ! 女の子なんだから……!」
「もうあたしは女の子とか言う歳じゃないし!」
「外見は十歳かなんかだろ!?」
「外見はな!」
ずるずるとキッチンの壁に凭れかかるようにして崩れ落ちながら、「外見が十歳なら問題なく女の子だろうよ……!」とドミニクは言った。ケツと頭がとにかく痛い。呼吸も浅くなってきた。というか、このまま頭痛を放っておくと、悪夢よりひどい状況になるので本気でどうにかしたいのだが。
「……薬、くれないか」
声が震えてきたのが分かる。《感情抑制剤》はその名前の通り、感情を抑制するものだ。その『感情』には喜怒哀楽以外に、恐怖なども含まれている。
そう――恐怖だ。ドミニクはもう、自分の恐怖を大量の薬で抑えつけないと歩くことすら出来ない。そういう人間になってしまった。二年前から、ずっと。
瓶を握るパライソの目に怯えが宿る。本当はわかっているのだ、彼女も。ドミニクがもう普通に生きていくことなど出来ないことを。自分が彼女のことを知っているように、彼女も自分のことを知っている。
「お願いだ、……正直、今にも死にそうなんだ」
「……ッ」
パライソが、苦い顔で瓶をこちらに投げて寄越す。悪いことをした、とは思う。思うが、文句ならばこうなったドミニクをまだ生かそうとする《監視局》に言ってほしい。彼らがドミニクを二年前に助けなければ、身体が半分千切れ飛んだあの日に彼は死んでいたのだから。
受け取った瓶の蓋を開けて、適当に手のひらへとぶちまけた。水もないが、どうだっていい。飲める。ざらざらと手のひらに乗った錠剤を口の中に放り込むと、無理矢理嚥下して瓶の蓋を閉めた。しっかりと白い蓋の閉まったそれを、先程されたようにパライソへ投げる。少女は簡単にそれをキャッチして、忌々しげに瓶を睨んだ。
無論飲んだからすぐに頭痛が引く、というわけではない。しかしこれでマシにはなるだろう。ドミニクはキッチンの床に座り込んだまま、また、煙草が吸いたいな、と思った。《監視局》の連中が嫌がるので吸い始めた煙草も、今では人生の友と言えるようなものになっている。
カラカラカラ、と、天井につけられた空調が乾いた音を立てた。波の音がする、と彼は思った。この家は海辺に建っているわけだから、そんな音がするのも当然なのだが、なんだか心地がいい。風も吹かない《監視局》とはえらい違いだ。
こうなると、景色も見たくなるのが人情である。
「パライソ、窓を開けてくれ」
気分がよくなってきて、ドミニクは少女に頼む。パライソは《感情抑制剤》の瓶をキッチンの流し近くに置くと、言われた通りに、ドミニクの向かいにあった窓を開け放った。ガラスの向こうで吹いていた熱い潮風がキッチンに流れ込んで、彼の頬を撫でる。
「あー……今日もよく、《監視局》が見えるな」
自嘲にも似た調子で、ドミニクは笑った。風に吹かれてひらひらと舞うカーテンの遥か彼方、瓦礫の沈んだ真っ青な海の真ん中には、一本の柱が立っていた。真っ白で、まるで空へと続く光の柱のようにすら見える。ここからでは雲に隠れて見えないが、柱の上の方に枝葉のような大量のドームを引っ付けているそれの名前を、ドミニクは嫌というほど知っていた。
それこそが『人類』最後の都市であり、ドミニクを飼っている組織なのであった。
大仰な名前こそついているが何のことはない、温暖化によって水没した世界に嫌気が差した人類の作った最後の砦だ。人口だってそれほど多くはないどころか、試験管でどうにか子供は作っているが減る一方で、虚無思想に駆られた連中が麻薬やらなんやらに手を出す爛れた場所である。名前の由来までは知らない――ドミニクの不勉強というよりは、資料が残っていないのだ。歴史書の類はその殆どが海底に沈んで久しい。あの都市を作ったかつての『人類』は、何の意図があったか知らないが、歴史について詳細に記したデータの類を、紙や電子問わず、一切と言っていいほど遺さなかったのだ。だからドミニクを含む現在の『人類』の大多数は、実際のところ、自分たちの歴史についてそれほど詳しいわけではなかった。詳しくなれないと言うべきか。『エデン』という言葉が本来何を指すものなのかさえ、ドミニクたちは知らないで生きている。
無論、己らの歴史について深く調べるべきだと考えている人間は少数ながら存在する。海底の資料をサルベージすべきだという意見は毎年出ているし、実際、何度かそれを試みたこともないわけではない。ただ、それがまともに成功したことはない。少なくとも、ドミニクが知る記録の中では、一度も。強いて言えば、数百年前、まだ陸地がこの星の三割ほどを占めていた頃は、多くの『国』と呼ばれるものがあったという情報を得られたくらいか。後は、海流発電を利用した、海底都市の建設計画書なども見つけはしたが――ドミニクたち今の『人類』から見れば、夢物語の戯言に過ぎなかった。狂人の妄想とも呼べる。いずれにせよ、労の割に得るものが少なすぎる調査だったのは間違いない。
大体――と、ドミニクは、上下に広がる青と、それを貫く白い人工樹を眺めながら考える。現在残っている施設を運用する知識と資料を継承していくだけでも、徐々に数を減らし続けている自分たち『人類』には既に負担となりつつある。補修するだけでも、資源を調達し、人手を募り、エネルギーを捻出して、多くの時間を支払わなければ立ち行かない。こんな状況で、海底数千メートルに埋もれた、有用かどうかもわからない、遥か昔の電子データを拾ってくるほどドミニクたちは――というより《監視局》も暇ではなかった。いくら腐っていると言っても。それでもあれは最後の砦だったから。海底調査も、比較的浅いところを適当に浚っているだけだ。調査したいという人間に「やってはいる」という結果を見せるために。
だから――つまり――滅ぶのだ。ぼんやりと、ドミニクはそう思う。
自分たちは、『人類』というのは――最早滅びゆく存在なのだ。
それくらい、多分、皆、わかっていた。
この、愚かな自分にでさえわかるのだから。他の誰彼にわからぬ道理はないだろう。
「どうせ滅ぶなら、馬鹿になって五十年生きた方がマシじゃないか?」
「……そう考えるのは、お前くらいだろ」
なんとなく呟いた言葉に、パライソが反応した。この少女、いつの間にか、床に座り込んでシャーベットを食べ始めている。そんな嗜好品を買った覚えはないので、もしかすると自分で適当に何か凍らせて作ったのかもしれない。
何せ、彼女は『悪魔』だった。
そう言えば――とドミニクは、海底調査の記録を思い出す。成果――目の前の少女も一応、成果ではある。彼女は海底調査によって引き揚げられた施設の残骸の中にいたからだ。尤も、記憶の類は全て処理されていたらしく、彼女から得られた情報はなかった。ならば施設の方はと言えば、……魚や貝の住処から、重要な情報が出て来ると考える方がおかしい。ドミニクは少し可笑しくなって、鼻だけで笑う。それと同時に、ふと少女の頭を撫でてやりたくなって、ちょいちょいと手招きをした。が、「言うことちゃんと聞かないやつに撫でさせる頭はねえ」と煩わしそうな少女に唇を曲げられた。じゃあ仕方ないな、と男は思い、諦め混じりに、少女の言葉を噛み砕く。そう考えるのはお前くらい。そうか――そうなのかもしれない。だが、そうじゃないか。事実は覆らないだろう。
人間が――『人類』が、どうしてあんな真っ白い『樹』の上まで追い立てられたのか。
「だってさあ……」
それを知らぬ者はおそらく、この世界のどこにもいない。
「どうせ、世の中悪魔の方が強いじゃん? 繁殖力も、何もかもさ……」
陸地が三割あった頃の話だ。まだ《監視局》が影も形も、計画さえもきっと存在しなかった頃。『国』というもの同士の諍いを暴力で解決する目的で作られた人型の生き物が、『悪魔』というものだという話だった。伝聞にしかならないのは、これまた資料が碌に残っていないからだ。どうやって生み出したかくらいは遺しておいてくれりゃあなと思うものだが、ないものを強請っても意味はない。どこの誰が発明したのかも判然としない。ただ何故かは知らないが、それを『人類皆がこぞって』作り始めた。もしかすると、本当は暴力のために使われるものではなかったのかもしれない。ただ、結局それは戦争という大規模な諍いの解決に使われ始め、なんだかよくわからないけれど繁殖して、なんだかよくわからないまま『人類』を乗っ取った。そしてその生き物を、人間は『悪魔』と称して、地上を放って逃げた。かくして地面は悪魔と、《監視局》に住むことを許されなかった貧困層の人間に覆い尽くされた――というのが残っている資料に曰くで、まあ要するに、『人類』の敵であるとのことだった。
なんというか、その話を子供の頃から散々聞かされて――《監視局》の人間でこの話を嫌になるほど聞かされない奴はいないと思うが――育ったドミニクとしては、「もうさっさと滅んだ方がいいんじゃないかなあ、人類」と思うところなのであった。
海に適応できる悪魔は年々増え、人工島の破壊報告も増加の一途。水没と言い、悪魔と言い、過去から追いすがってくるものに首を絞められるようにして、この世界は滅ぶのだ。
とは言え、当の悪魔たちにはまったく人類を滅ぼそうとかそんな考えはないらしいのだが。敵視しているのは結局『人類』側だけなのだ――現に悪魔のパライソは、凍った赤い塊を口に入れて「そんなものかね」と言うだけだった。普通の生き物なのではないか、と、ドミニクはいつも彼らを見ていると思う。誕生の経緯が少し特殊で、少し――そう少し、感情が高ぶるとまずいことになるだけで。
「そう言えばさー」
「うん?」
「《監視局》から命令来てたよ。電話で」
「……いつ?」
「お前が寝てる間に。確か八時くらいかな。電話の横のダイレクトメールにメモ取ってある」
のほほんとしたパライソの言葉にドミニクは弾かれるようにして立ち上がると、キッチンから水浸しのリビングに飛び込み、灰皿の横に転がっていた携帯電話を引っ掴んだ。画面を見る。着信十五件。なんでこんな大事なことを最初に言わないのだろう、あのお子様は。人類滅べとかなんとか言っている場合ではない。
ばさばさと溜めこむだけ溜めこんだ広告を確認しながら、メモを探す。幸い、メモはすぐ見つかった。まあ、その場にあった紙を使っただけだろうから、それも当然だろうが。
――十時、《監視局》ロッキー支部。仕事。
子供の汚い字でそう書かれた紙を二回ほど読み直し、ドミニクは履歴に隠れた時計盤を確認した。ここから支部までは車やバイクを使っても三十分ほどかかる。海水まみれの服も着替えなくてはならないし、せめて九時くらいであってくれとドミニクは願ったが、その願いは無情にも打ち砕かれ、膝から崩れ落ちた。
液晶に表示された小さい時計が示すのは、十時半。
遅刻も遅刻、大遅刻であった。
◆
「今何時だと思ってるんだ、ダインリー君?」
「えっと、十二時です」
ドミニクは、鷲鼻の支部長の前でへらりと笑ってそう言った。間に合わないことを悟ってからの彼は見事なものだった、悠々とシャワーを浴びて、一服してから服を着替え、パライソを後ろに乗せると安全運転でバイクを走らせて支部まで来た。あの時間だと急いでも意味がない上、よくよく考えなくてもどうせ自分の評価は最下層から動かない。それならば、ゆっくり用意した方がいいというものだった。
世界が水に覆われる前は山頂だったのであろう小高い丘の上に建てられた、《監視局》の支部の中は相も変わらず閑散としていて、壁の塗装も一部はがれかけている。机や椅子などの調度品もろくなものではなく、支部長の机ですら、そのままでは傾くからと要らない雑誌を足の一つの下へ敷いているくらいだった。空調も、壊れているのか効いていないのか、むっとした嫌な臭いの空気がぐるぐるとかきまわされているだけである。息を吸うのも嫌で、ドミニクは浅い呼吸を繰り返した。
「よろしい。確かに十二時だ。では、なぜ、こんなに遅刻したのかね?」
「寝てました」
笑いながら、正直に答える。隠したって仕方ないことだ、どうせ相手も分かっている。別に遅刻の常習犯というわけではないが、パライソが電話に出た上で遅刻となれば、寝ていたとしか思えないだろう、向こうも。
「やはりか……」
鷲鼻の部長がため息交じりに言って、「薬の飲み過ぎだ、控えろ」とまるでパライソのようなことを言った。さしたる罵声も皮肉も言ってこないのは、彼がドミニクの事情を多少なりとも知っているからであろうが、知っていてそう言うのか、とも思う。
「……俺が、《
「無論それは知っているが、君の飲み方は常軌を逸している」
「でも、動けませんから。飲まないと」
「だがもう二年も前のことなんだぞ?」
こいつの頭、撃ち抜いても問題ないよな。
無責任な物言いをする支部長に、ドミニクは一瞬ぼんやりと、だが本気で、腰に下げた銃を引き抜こうかと考えた。ドミニクを飼っている《監視局》の上層部からすれば、この支部長なんかより、彼の方がよほど大事であろうから、ここでこの支部長を殺したとしても精々「簡単に人を殺すなボケ」という注意が来るだけで済むだろう。
しかしそこまで考えたところで、見せしめにパライソが殺されるかも、と思ってドミニクはその妄想を抑えつけた。自分ならば概ね何をされても構わないが、あの少女がそのとばっちりを食うのはさすがに可哀想だ。
「まあいい」と、ドミニクの怒りを露程も知らない支部長が背もたれに体重を預ける。「今日は始末の話ではないからな」
それはわかっていた。始末の話なら、呼び出した時間の三十分前までに来なければ家に直接乗り込んで叩き起こすくらいのことはやってのけるだろう。
「君は優秀だが、《感情抑制剤》の飲み過ぎで、日常生活も困難だ」
「はあ……」
「パートナーが必要だとは思わんかね」
「や、パライソがいるんですが」
「彼女は子供じゃないか! それに悪魔だ。あれはパートナーではなく装備品に過ぎんよ」
支部長の言わんとすることはイマイチわからず、ドミニクは首をひねる。パライソが子供で、悪魔で、さらに装備品なのは、二年前に彼女と組まされて仕事をさせられ始めてから《監視局》では周知の事実だ。それを今更蒸し返してパートナーが必要とはどういうことだろう。
「今日のようなことがあるといざという時たまらないからね、君にはちゃんとしたパートナーをつけることにした」
「はあ」
「彼は九時からここで待機していたんだよ。可哀想に、君が遅刻しなければ、三時間も待たせずに済んだのだ」
「はあ……」
「なんだ、気のない返事だな。君には人の心がないのか?」
「《感情抑制剤》飲んでますし……」
「あれは感情を抑制すると言っても、振れ幅を小さくするだけで、失わせるわけではないはずだがね」
お前の話が長いから面倒くさくなってるだけです、とはさすがのドミニクも言えなかった。パートナーには興味があるし、見てもみたい。だが、この鷲鼻が繰り返すような、その『彼』がどれだけ待っていたかなどというのは極めてどうでもいいことだ。さっさと要件を伝えてくれないだろうか。
「まあいい。呼んでくるから少し待っていたまえ」
鷲鼻が、継ぎの当たった革の椅子から立ち上がる。その椅子の惨状に、本気で金もらえてないんだろうなあ、などと思いながら、立てつけの悪い扉の向こうへ消えていくその背中を見送ったところで、ドミニクは背後から声をかけられた。
「……やだ」
「ん?」
振り向けば、先程まで部屋の隅に居たパライソが、すぐ後ろに立っている。その可愛らしい顔は、すっかりふて腐れた様子で頬を膨らませていた。
「やだ。他の人が来るの、やだ」
「我儘言うなよ、パライソ。これも仕事だ」
「やだ!」
少女はヒステリックに拒絶の言葉を口にすると、ドミニクに抱き着く。別に人見知りというわけでもないはずなのだが、どうしてそんなに嫌がるのだろう。いや、今まで知らなかっただけで、もしかすると、テリトリーを気にするタイプの悪魔だったのかもしれない。
「そんなに嫌がらなくても、いいやつかもしれないだろ。会ってみてから言えよ」
「やだ、知らない人は嫌だ! ドミと二人がいい!」
ぎゅうぎゅうとしがみつくパライソの頭を撫でてやりながら、ドミニクは、
「つっても実際、俺一人だと本当にやばい時困るしな……」
と眉根を寄せた。対外的に『装備品』でしかないこの少女では、何かが起こった時にやり辛いのは確かで、やはり、この少女の他にもサポートしてくれる人間がいるというのは心強いのである。
「一緒に住むわけでもないんだし、機嫌直せよ。帰りにお菓子買ってやるから、な?」
「そんなの要らない」
「お前の好きなソフトクリームでもか?」
「要らない!」
これは重症だ。大体、拗ねたパライソはお菓子を与える約束でもしてやればすぐさま機嫌を直してくれるはずなのに。
「大体、ここ、来てからずっと嫌な臭いがするんだ! 前はこんな臭いしなかったのに!」
「嫌な臭い?」
確かにここは、人の体臭や熱気、潮と埃の匂いがごちゃ混ぜになった、思わず顔をしかめるような臭気が漂っている。だが、これは以前からのもので、今更特筆するものでもない。
「どういうことだ?」
「知らねーよ! でもすっごく帰りたい、今すぐ帰りたいの! なあなあ、もうパートナーとか放っといて帰ろうよドミ。帰っても怒られないだろ、お前なら」
「いや怒られるけどな普通に」
「うーっ、とにかくやだ! 帰りたいよぉ!」
「お前な――」
「――待たせたね」
そう言って入ってきた鷲鼻の姿に、パライソが「フーッ!」と威嚇するような声を上げた。水色の目が見開かれ、ささっとドミニクの後ろに隠れる。威嚇された当の鷲鼻はと言うと、ちらりとそれを見たものの、別段気にした様子もなく右に避け、扉を支えるだけだった。
「入りたまえ、エヴァン君」
その言葉で室内に入ってきたエヴァン、という男を見て、ドミニクは少なからず驚く。自分のパートナーだと言うから、もっと屈強な男だと思っていたのに。
「よ、よろしくお願いします、ダインリーさん……」
入ってくるなり緊張した様子で頭を下げたエヴァンは、男というよりまだ少年だった。声は高く、褐色の肌をしており、身長の低さ――おそらく百六十もないだろう――に似つかわしく、手足はすらりと長くしなやかだ。四肢に比例するように首や胴回りも細い。顔立ちは女じみていて、整った、丸っこい金色の目が穏やかそうな色を湛えている。
着ている服もまた、趣があった。少なくとも、ドミニクの『着られればいい』という風情のカーゴパンツなどとは大分違う。少年は、だぶついた、おそらく自身のサイズより二回りほど大きいと思われる白いシャツを腕まくりして、片足の千切れた大き目のジーンズを履いていた。胸元には黒いスカーフを巻いており、洒落っ気が見える。とてもではないが、始末屋などするような外見ではない。酒場でバーテンでもやればきっと繁盛するだろう。
……いやこいつ、俺についてきたら死ぬだろ?
冗談抜きで、ドミニクはそう思った。《監視局》の連中は一体何を考えているのか、こんな子供を連れて来て、よりにもよって自分のパートナーとは。とてもではないが笑えない。
「あ、あの、僕、エヴァンって言います、家名はなくて、えっと」
「そんなことはどうでもいいんだが」
ドミニクは眉をしかめて首をひねり、まだしがみついてくるパライソの頭を後ろ手に撫でながら直球な質問を投げつけた。
「見たとこ銃も何も見えないが、武器は何を使ってんだ? つか、戦えるのかお前」
「た、戦えますっ。ダインリーさんの足手まといにはならないはずです!」
「いや、俺の足手まといになるかどうかはどうでもよくてな。俺はどうせ、どんだけ酷い目にあっても《監視局》の連中が死なせてくれねえし、俺のことはどうでもいいんだ、俺のことは。問題はお前自身だ」
始末屋、というかドミニクの仕事は基本的に、《監視局》の馬鹿どもがやりたがらないために回ってくるものだ。それ故、内容の三分の一ほどは《監視局》から遠い場所で起こったものであったり、点数にならなさそうな雑魚であったりする。だからそれに関しては、ドミニクも全く問題にしていない。そんなものはきっと他の、それこそ駆け出しの始末屋だってこなせる仕事だ。おそらくこの少年でも問題なく始末できるだろう。
では、ドミニクが問題にする、残り三分の二は何かというと、簡単だ。
「お前死ぬぞ?」
戦ったら死ぬ、というのが前提のもの、そのすべてである。
《監視局》は人が少ない。だから天使はいつだって人手不足で、無駄に戦力を失いたくないと彼らは思っている。特に、二年前にその半数を失ってからは顕著だ。だから、危険すぎる汚れ仕事は全部ドミニクに回して、高みの見物を決め込むのだ。現地で手伝ってくれる人間なんて一人もいない。もちろん物資も足りていないから、たとえ弾が足りなくなったとしても、『現地にあるものでどうにかしろ』で終わりだ。そして仕事が終われば、そこでようやく、弾をくれる。ドミニクのしている仕事と言うのはそういう仕事だ。そういう生き方だ。
それを、この少年が出来るとはとても思えなかった。
「俺はリサイクル製品だからいいがな、お前はそうじゃないだろ。帰れ、死ぬ」
「だ、大丈夫ですよ! 僕、こう見えて強いんです!」
「だから、何を以てして大丈夫だとか強いだとか言うのかって――」
「――ダインリー君。彼はな、もう、五十以上の仕事をこなしているんだよ」
割って入ってきたのは鷲鼻だった。鷲鼻はいつの間にかぼろい椅子に座り直し、ふんぞり返ってこちらに顔を向けていた。やっぱりこいつ撃ってもいいかな。殺せば問題になるかもしれないが、足くらいなら問題にならないのではないだろうか。
「五十と言っても、どうせ《愛欲者》でしょう? それでこなしたと言われたって困りますよ」
「確かに、大多数は《愛欲者》だがね。それでも彼は五十件のうち、《憤怒者》が五件、《貪欲者》を十二件始末している。それも、大した怪我もなくね」
「…………は?」
一瞬、自分の頭がおかしくなったのかと思った。
「この子供が?」
「その子供が」
「《憤怒者》を?」
「《憤怒者》を」
「五件?」
「五件」
「《監視局》の無能な馬鹿『天使』どもでも手こずるのに? それを五件? 一人で? しかも殆ど怪我無しで?」
「……君、上に報告させてもらうよその発言は」
「勝手にしてください」
ドミニクはそれだけ吐き捨てると、もう鷲鼻に用はないとエヴァンへ向き直った。先程よりもさらに怯えて縮こまってこちらを伺っている少年は、やはりどう見ても、『綺麗らしい少年』にしか見えない。これが、あの馬鹿どもより強いとは、信じがたい事実であった。あの馬鹿どもも、弱いわけではない。《監視局》の天使連中というのは怯懦なやつらではあるが、戦うことを生業にしている人種である以上、こと戦いにおいてはそこそこの力を発揮するはずだった。
もう一度、頭の先から爪の先までじろじろと無遠慮に眺めまわす。武器の類、無し。鍛えた形跡、無し。筋肉は多少ついているが、戦うためのものではない。服装、戦い向きではない。というかなんだそのスカーフは。いるのか。何に活用するんだそれ。
「……さっきの話は、マジなのか?」
「ま、マジです」
「……」
問うてみて、それに答えられて、ドミニクは唸った。パートナーが必要なのは間違いない、そう、それは間違いないのである。動けないほどの怪我を負った時、色々なことをやってくれるのはパライソだ。《監視局》と連絡がつかなければ最寄りの病院まで運んでくれるし、しくじった時の後始末も彼女がやってくれる。身長も高く、体重もかなりあるドミニクを病院まで運ぶのは至難の業であろうに、彼女はそうしてくれる。動けない自分を庇いながら後始末をするなど並大抵のことではないだろうに、そうしなければならないから、彼女はそうする。ドミニクを見捨てたら、殺されるから。だからだ。悪魔で、《監視局》のやつらの実験動物で、戦いのための道具だから――それが当然と言われたらそうなのかもしれないと思う。
だが、ドミニクにはそれが哀れでたまらない。
《監視局》の連中に死ぬまで使い潰されて、死んだら墓も作ってもらえない。廃棄という名目で死体を焼かれて、骨も残さず消えてしまうのだ、彼女は。そういう生き物だ。『
背中に、少女の温度がある。
「……これからよろしく、エヴァン」
ドミニクは、それだけ言って、握手のために手を差し出す。
ほっとした様子でその手を握り返す少年はやはり――信頼するには華奢過ぎた。
◆
「結局、お前の武器ってのはなんなんだ?」
支部からそれほど離れていない場所に作られた商店街、そこの飯屋に彼らはいた。未だふて腐れた様子のパライソはドミニクの隣でハンバーグを食べ、エヴァンは彼の向かいで白身魚のムニエルを食べている。昼時の店内は込み合っていて、ざわざわと人の出入りも激しかった。白を基調にした店内はブラインドで日光を遮られており、空調もよく効いていて、支部よりは遥かに過ごしやすい。
少年はムニエルについてきたパンをちぎりながら、彼の問いに「ワイヤーです」と答える。
「ワイヤー?」
「鋼線ですよ、僕、昔軽業師をやってて、それで」
「想像つかねえな」
上手い具合に仕事があれば良かったのだが、残念ながら支部に呼び出された理由はこのエヴァンの話だけで、ドミニクには少年の力量を見る機会が与えられなかった。くそったれなあの鷲鼻をもいでやりたい、と内心で毒を吐きながら、自分の前に置かれたパスタに目を落とす。食欲がない、トマトソースのかかったそれをフォークでぐるぐるとかき混ぜてみるが、不味そうなオブジェが出来ただけで、口に運ぶ気にはどうしてもなれなかった。
「で、どこに住んでんだお前。この辺り、じゃないよな」
パライソがハンバーグを食べ終わり、物欲しそうにメニューのデザート欄を見ていたので、ウェイトレスを捕まえて端から端まで頼んでやる。「そんなに要らない、今すぐ撤回しろ」と少女は言ったが、頼んでやった瞬間驚いたような、それでいて嬉しそうな顔をしていたのでその主張は無視した。
「え? 引き払いましたよ」
「引き払った? なんでまた」
「《監視局》から、あなたと一緒に住めって言われて」
「……は?」
本日二度目の疑問符である。
「は、え? 本気で? 本気で俺と一緒に住むのか?」
「はい。そうしろって。だから、明日には、あなたの家に荷物が届くかと」
少年の言葉に、パライソが、凄まじい目でドミニクとエヴァンを交互に見た。当たり前だろう、ドミニクでさえ《監視局》の連中がまさかこんな選択をするとは思っていなかったのだから。些か呆然とした気持ちで、エヴァンを見る。
「二年の間におかしくなっちまったのか? あいつらは」
「僕にはよくわかりませんけど……」
「お前がわかってたらオドロキだよ」
「す、すみません」
苛立ちを込めて吐き捨てると、エヴァンはしゅんとして体を縮めた。このおどおどしたところも、ドミニクの気に入らないところだ。もっとビシッと決めておいて欲しい、特に、これからは命を預けるのだから。相方がこんな調子だと、不安で仕方なくなる。
「お前のことを責めてるわけじゃない、ビクビクするな」
「す、すす、すみませ」
「だからそれやめろっつってんだよ」
生育環境がよほど悪かったのだろうか、そう言えば、こっちでは生まれた子供を売り払うのが一部の貧民の間で横行していると聞く。単純に、産んでも育てられないからだ。なら産むなとは思うし、実際《監視局》から「計画性のない妊娠出産はやめろ」と警告もされているのだが、貧乏だとそれしかやることがなくなるようで、人売りは後を絶たない。子供を産まない人間が圧倒的多数を占める《監視局》とはえらい違いである。この少年も、軽業師だの始末屋だのと堅気ではない仕事をしてきている以上、そんな風に育ってきているのかも知れなかった。
「……クソだな、上も下も」
「く、クソですか?」
「クソだとも。俺もお前もな」
言いながら、すっかり冷めたパスタのオブジェをようやく口へ放り込んだものの、パライソに思い切り足を蹴り飛ばされて思わずそれを噴き出しそうになった。
「ふぶっ!?」
「飯食ってる時に汚い言葉使ってんじゃねえよ!」
言い返すため、パスタをろくに噛まないまま飲み込む。
「どうしてお前はそんなに言葉使い荒いくせにそういうとこだけ律儀なの!」
「だって、ヴィヴィが言ってたから」
あー、とドミニクは一瞬で陰鬱な気分になった。ヴィヴィ――ヴィヴィアン・バリントン。パライソの元飼い主かつ命名主で、ドミニクを二年前に助けた人間のうちの一人だ。
そして、《監視局》『天使』陣きっての奇人である。
ぶっちぎりで。
「あの女の話はやめよう」
真顔でそう言うと、パライソは首を傾げて、「いい人なのに、優しいし」と言う。そりゃあモルモットに厳しい研究者がいるか。役に立つ間は餌もやるし優しいよ。少女の幻想を壊したくなかったので口には出さなかったが、ドミニクはそんなことを思った。あれは、人間の倫理観を遥か遠くへ超越した女だ。
「お、お二人は仲がよろしいんですね! お友達、ですか?」
にこにことしたエヴァンの、的外れな質問に、ドミニクは僅かに眉根を寄せる。
「始末屋と、《監視局》貸出装備品だよ、単なる」
「家事やら備品管理やらさせておいてそーゆーこと言うかお前は」
「わかった、じゃあ家政婦も追加で」
「ドミ、頭齧ってやろうか。そんな藁みたいな脳味噌いらないだろ?」
「可愛い冗談だろうが!」
牙をカチカチ鳴らすパライソに焦っていると、やり取りを横で聞いていたエヴァンが笑った。
「羨ましいですね、仲が良くて」
「どこが? 目玉腐ってないかお前」
「喧嘩が出来ると言うことは、仲がいいと言うことですよ、ダインリーさん」
「……そういうもんか?」
疑問ではあったが、少年は微笑んで「そうです」と答えるだけである。
「まあ、別にいいが……それと、ダインリーじゃなくていい。ドミニクで」
「あっ、す、すみませんドミニクさん」
「呼び捨てでいい」
またも怯えるエヴァンに、ドミニクは辟易しながら言い放つ。同時に、頼んだデザートが一気に来て、テーブルの上がいっぱいになった。パライソの水色の瞳がきらきらと輝いていて、ドミニクは内心ため息を吐く。
――早く、死にたいとは思っていた。
いや、死にたいなどとは贅沢だ。正確に言えば、早く、《監視局》が自分を捨ててくれないかと思っていた。出来れば、パライソは生かしておく方向で。だが、それは無理な願いと言うものであることも重々承知していた、だから彼は、パライソを甘やかす。
自分と共に死ぬ時、悔いが残らないよう。
本来、彼女が目標とする、『健康的で建設的で後々の人生までちゃんと考えた生活』なんて、自分たちには無縁なのだ。どうせ死ぬしか後はないのだから。二年前から、自分にも、それにつき合わされるパライソにも未来などない。なのに、少女はそれに拘る。まるで、そうすることでやがて未来が掴み取れるかのように。
救いがない、とドミニクは思った。
「あー……希望が見えねー」
フォークでパスタをつつきながら、空いた手でぐしゃぐしゃと自分の髪の毛をかきまわしてそう呟くと、エヴァンが驚いた顔をする。
「何か悩み事でも?」
「……なんでもねーよ」
「で、でも、人に話すと楽になれるかもしれませんよ?」
「お前は俺のことより先にその吃音を治せ」
「こ、これは、そ、その、緊張してて……」
「緊張しなくていいだろ、普通にやろうぜ」
「まあ、あたしはお前大嫌いだけどな。お前の匂い最悪だし」
「パライソ!」
チョコソースのたっぷりかかったアイスクリームを頬張りながら割り込んできたパライソをたしなめる。何が気に入らないのか――いや気に入らないのは分かっていたが、この少女、自分の考えを口に出し過ぎである。
「だってほんとのことだもん!」
「ほんとのことでも言っていいことと悪いことがあるんだよ!」
「き、嫌われちゃいましたね……あ、あはは……そ、そんな変な匂いしてますかね僕……」
悲しげに笑うエヴァンが流石に可哀想で、パライソのデザートを一つ取り上げてエヴァンに渡す。少女が「あ!」と責めるような声を上げたが、構わずエヴァンの方へ押しやった。
「い、いいですよ! これ、パライソちゃんのでしょう?」
「いいんだよ、金出すのはどうせ俺だ。あと、お前は別に変な匂いしないから安心しろ」
ぶすったれた顔になるパライソとは対照的に、エヴァンが申し訳なさそうに、だが嬉しそうにデザートスプーンを手にする。そうか、この少年甘いものが好きなのか。真偽のほどはともかくとして、とりあえず、ドミニクは自分の脳内のメモ帳にそう記しておいた。
「そう言えば、今何歳なんだ?」
「十八です!」
カラメルのかかったプディングを口に入れ、満面の笑みを浮かべたエヴァンは十八歳とは思えなかったが、「そうか、若いな」とだけ返しておく。訊いてみただけで、その情報にさしたる意味はない。
「ドミニクはいくつなんですか? 好きなことは?」
「二十二。好きなことは煙草を吸うこと」
なぜ吸うのか、と問われると二年前から掘り下げて答えなければいけなくなるのだが、ドミニクが唯一好きなことである。
「意外ですね」
「それは年齢が? それとも好きなことが?」
「好きなことです」
「俺だって、煙草くらい吸うさ」
「でも、《監視局》の人たちは、そういうの毛嫌いするから」
「《監視局》は、クリーンな環境、ってのが好きだからな……仕方ない。それに、あの閉鎖空間にそんなもので回ったらとんでもないことになるってのが彼らの言でな」
まあ、実際はもっととんでもないものが出回っているので、いっそ煙草や酒を出回らせた方がマシだった気がしないでもないが。締め付けるとその分、下層部がひどくなるのは、どこでも一緒である。
「そうなんですか……」
「それに俺は《監視局》のやつらが嫌いでね。嫌がらせさ」
「お嫌いなんですか? ではなぜこんな仕事を?」
しくじった、答えにくい質問を誘導してしまった。これも二年前から掘り下げなければいけないものの一つだ。
「それは……金払いがいいからな」
「でも、ドミニクさんは生まれも育ちも《監視局》でしょう? あの支部長から聞きましたよ」
よし、今度あったらあいつ足ぶち抜こう。
鷲鼻のスカした面を思い出しながら、ドミニクは決めた。当事者でもないくせに、何を勝手に人の過去を第三者へ話しているのか。正直、殺してやってもいいくらいである。というか、もし二年前の事件まで勝手にバラされていたら本気で今から殺しに行くところだった。
「《監視局》生まれの人が下に来て、さらに始末屋なんて。普通しませんよ」
「俺は確かに《監視局》生まれだがな、その、なんだ」
「色恋沙汰に巻き込まれたんだよ、なードミニク?」
驚いて横に顔を向けると、パライソが、生クリームのたっぷり添えられたチョコレートケーキをフォークで崩して、にやにやしながら言った。
「元々こいつは《監視局》生まれ《監視局》育ちで、さらに《監視局》の『天使』をやってた超超超エリートだったんだけどさ。二年前に、色恋から発展した刃傷沙汰に巻き込まれてさ。職失った上で左遷されたんだよ、なー」
……なんというか、名誉のために全力で訂正したい感じである。この少女、さっきデザート取り上げたことを根に持っているな。だが、渋い顔のドミニクとは裏腹に、エヴァンが、興味津々といった様子で食いつく。この少年、甘いものの他にゴシップも好きか。
「色恋で、ですか!?」
「うん、激昂した女に刺されて病院送りにされてな」
あ、これはパライソがなんか勝手にストーリーを作ってくれる流れだ。自分の外聞を考えるとものすごく、本当にものすごく訂正しておきたいところだったが、真実を話すのも嫌だったので、ありがたく黙っておく。
「エンピレオで人死にが出かけたのなんてあの事件くらいじゃないのか? 血がさ、ドバーッと出ててさ、あたし、絶対こいつ死んだなって思ったもん」
「凄いですね……」
「凄かった、あれはあたしの人生の『一生忘れない光景セレクション』十指に入るくらい凄いくらい光景だった。その後、ドミニクはノイローゼになるしさあ、なんかホント凄かったよ。おかげでこいつはクビになったわけだけど!」
けらけらと笑うパライソが実に楽しそうだったので、なんかもういいや、という気分になる。実際、体が半分千切れ飛んだので、血もドバーッと出ていた。回収された時には虫の息だったくらいには。
《監視局》内部であれだけの人が死んだのも――二年前のあの時以外に事例はない。
だから、強ち、間違っていないのだ。
「なるほど……」
少女から話を聞き終わったエヴァンが、明らかな好奇を目に湛えてこちらを見る。この目をしていられるうちが花だ、とドミニクは思った。真実を知れば、この目はきっと軽蔑に変わる。《監視局》の上層部連中がそうであるように。
「天使崩れってやつなんですね、ドミニクは」
「まあ、そうなるな」
天使崩れ。
《
そんな『超超超エリート』から弾き落とされた人間。
鷲鼻のように左遷で済まなかった人間。
《監視局》から、地上へ捨てられた人間。
それを、天使崩れと世間は呼んでいた。
もっともドミニクの場合、厳密には天使崩れではない。天使崩れは完全に《監視局》から追放されるが、ドミニクは《監視局》と手が切れているわけではないし、そもそも、《監視局》上層部――つまり天使連中のさらに上層、命令系統最上部の連中の指示で仕事をしている。それに、ドミニクが彼らの配る《感情抑制剤》無しでは生きられないように、彼らもドミニクがいないと生きられない。
心底軽蔑し合っているのに、お互い離れることはできない、そんな歪んだ関係を、二年前からずっと、《監視局》とドミニクは続けていた。
「天使って、一回なると、もう他の職業には就けないんですか?」
「就けなくはないんだが……天使ってのはちょっと特殊でな」
「どう特殊なんですか?」
「あそこに長い間いる人間は大体、人格が破綻するんだよ。簡単に言えば、ぶっ壊れる。元々ぶっ壊れてるやつも多いしな……それで、他じゃとても働けなくなる」
「ぶ、ぶっ壊れ……って、なんでですか?」
「……あそこはな。『悪魔』の研究所でもあるんだ」
ちらりと、パライソへと目をやる。スイートポテトを崩し始めたその姿は、どう見ても人間と変わらない。違うのは、髪の色くらいか。どうなっているのか詳しくはしらないが、このパッションピンクは地毛だ。
「より効率のいい悪魔の利用方法ってのを日夜研究してる場所なんだよ、あそこは。悪魔ってのは外見が人間と殆ど変らない。勿論中身もな。延々真横で人体実験が続けられてるような環境に一年以上いれば、いくらそれが人間とは違うと分かっていても、段々壊れてくるものさ」
それに違和感を覚えない連中は元から壊れてる、と付け加え、ドミニクはさらに続ける。
「壊れた後は、もう、普通の環境じゃ働けない。そりゃあ、耐えられずに辞表を出して普通の生活に戻ったやつもいるよ当然。農家になったやつだっている。だけどそう言う奴は大体、二年後くらいに泣きながらまた戻ってくる。それか死ぬ。自殺でな」
「……思ってたより、その、凄い……ですね」
「あそこは、頭がおかしいやつらの巣窟だからな」
「じゃあドミニクも……おかしくなってしまってるんですか」
不安げなエヴァンの問いに、ドミニクは一瞬目を丸くしてから、にたり、と笑った。
「残念だが、俺は元からぶっ壊れてる方だよ、エヴァン」
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