第62話 「先生、頼む。どうか元の先生に戻ってくれ。そうしたら、いつかまた……!」
ハダシュは、ヴェンデッタを抱いたまま後ずさった。腕を伝うなまぬるい感覚が、すべてを赤く、焼けつくようなつめたさで染め抜いていく。まるで破裂した水袋を抱いているかのようだった。
レイスは血を吐いた。混ざり合った血にぬめる口元をぬぐう。
「手負いの賊とあなどったのが失敗だった。早々に片を付けてやる」
残る隻眼で、毒のようにハダシュをにらみ付ける。
ハダシュは低くいなした。
「もう、本当に……戻る気はないんだな、先生。元のあんたに」
「くどい」
ハダシュは汗みずくの額をぬぐった。息を深く吸い込む。
もとより、ラトゥースの示す光の導きに従って進んできた。しょせん、レイスとは道を違えるほかない定めだったのだ。
勝負はおそらく一瞬で決まる。レイスもハダシュが取るであろう次の一手を推し量っているのか。
唇を冷酷に吊り上げたまま、動かない。
背中に上甲板の手すりが当たった。
船全体が、今にも引きちぎられそうな軋みをあげている。
また、炎が一段と高く上がった。
眼下は激しく打ち寄せる波と炎。空からは白い蒸気となって降る豪雨。
「目をそらすな、小僧!」
その瞬間を狙い、レイスがむしゃぶりつくように襲いかかって来た。避けきれず、すくい上げる拳をまともに顎へと食らう。
ハダシュは手すりを砕きながらのけぞり、吹っ飛ばされた。
斜めになった甲板をもんどり打って倒れる。
炎の渦が船を包み込む。船腹の中央から横に火が噴き出していた。
振り子のように、船全体が左右に大きく揺れる。甲板が斜めに大きく傾いた。急坂になって立っていられない。
ハダシュはヴェンデッタの遺骸と一緒に、急な甲板を転がり落ちた。
支えていた手が、離れる。
気がつけば、上半身が船の甲板の外にあった。遠心力で振り飛ばされ、完全に中空へと放り出される。
「うわあっっ!」
海に落ちる寸前。
かろうじて指先だけが手すりの縁に引っかかった。レイスが手すりごと拳で殴りつけた。
「無様な格好だな、殺し屋風情が! この私に勝てるとでも思ったか!」
「ちくしょうッ! 誰が……!」
必死にしがみつく。身体が側壁に打ちつけられた。
激しく上下に揺すぶられる。
肩に激痛が走った。筋肉と骨が、ぶちぶちと音を立ててちぎれたように思った。絶叫して耐える。
ヴェンデッタの身体が、斜めにかしいだ甲板を転がり落ちてゆくのが見えた。
「だめだ」
ハダシュは手すりにすがりついた。
もう、届かないとわかっていても。
「ヴェンデッタ!」
手を差し伸べる。
離れてゆく。消えてゆく。喉を嗄らして叫ぶ声が、耳を聾する轟音に呑み込まれる。
頭上に、火の粉をまき散らしながら真紅にはためく巨大な炎の帆が見えた。
燃えさかるロープが、炎の舌となって真紅にうねる。視界が、降り止まぬ豪雨のせいで赤くぼんやりとにじんだ。
船がシーソーのように傾く。レイスがよろめいた。その隙にハダシュは手すりをよじ登った。
「逃すか!」
背後から背中にぶち当たってくる。
ハダシュとレイスは足をもつらせて転倒した。顎を蹴り上げる。顔を殴りつける。
レイスは馬乗りになってハダシュに殴りかかった。
「君を!」
頰がゆがむほど何発も殴られる。
「殺さねばならぬのが!」
意識が吹っ飛んだ。
「どんなに苦しいかわかるか!」
銀の髪が悪夢のように広がって覆い被さるのが見えた。
「なぜ! 共に行くと言ってくれない!」
ハダシュは肘で無数に降るこぶしをようやく受け流し、腰を跳ね上げた。肘を引きつけて前のめりに倒し、一瞬で体勢を入れ替える。
レイスの髪の毛をつかんだ。頭突きもろとも、後頭部を甲板へと叩き付ける。
床の砕ける嫌な音がした。銀の髪が飛沫を散らして広がる。
「あんたが」
ハダシュは、よろよろ立ち上がった。
「自分の間違いを認めないからだ……!」
意識が混濁していた。頭を振る。つまずいた。ほとんど斜面同然となった甲板を走る。
帆柱の下へと駆け寄った。ロープに飛びつく。体重をかけ、引きずり下ろす。
帆布の炎が、滝となって降った。かろうじて横柱に引っかかって、激しく燃えている。
ハダシュは火がついたままのロープを引きずって舳先へと走った。
「逃げられると思うなよ」
息を乱したレイスが、ふらつきながら後を追ってくる。
ハダシュは、肩で息をし、喉をぜいぜいと言わせて首を振った。
「もう、やめろ。あんたの負けだ」
「私の? 負け? どこがだ。自分の顔を見てみるがいい」
まっすぐ立っていられないのか、レイスはぶざまにふらつきながらも血まみれの肩をそびやかした。その視線はまるで見当違いの方向へと向けられている。
もしかしたら、もう、何も。
見えていないのかもしれなかった。
「やめろ。こっちへ来るな。来ないでくれ、先生」
懇願の声が、かすれる。喉と胸の両方が、焼けつくように痛んだ。ロープの端を握りしめる。
「ァァッッハッハハハハァア! ついに負けを認めたか! しょせん君ごときクズは私の敵などではなかったな! 君を殺した後に、ゆっくりと姫を、エルシリアの連中への手土産として見せしめの血祭りに……!!」
狂乱の高笑いが響く。
ハダシュは燃えるロープを力任せにたぐり寄せた。
頭上に一段と赤い閃光が広がった。帆布が巨人の手のように広がって、甲板に落ちてくる。空が燃えているかのようだった。
ハダシュは飛びのいた。
爆ぜる火の音。
へし折れる音。
地の砕ける音。
轟音と煙と炎をまとった帆柱が、一面の火となって倒れ込んでくる。
「笑止! こんなものが避けられぬとでも思うか!?」
レイスは迫る熱気の気配だけで察知し、かわそうとして。
くろぐろと広がる床の、消し炭と化した部分を踏み抜いた。膝まで嵌まり込む。
「何だ、これは……っ!」
「……あんたが、自分の剣で、さんざん突き回しながら開けた穴だよ」
ハダシュは乾いた声で告げた。
「おかげで、その辺はもうグズグズの穴だらけだ。ほんの少しの衝撃で陥没するぐらいにな」
「貴様ァアっ!」
もがけばもがくほど、甲板の板がぼろぼろと炭になって崩れる。
レイスは狂気の形相でもがき、底なし沼のような消し炭の穴から這い出ようとした。
その頭上へ。
帆柱が崩れ落ちた。
黒焦げの横材が甲板に突き刺さり、ばらばらになって砕けた。
絶叫が上がる。
熱と炎が、濁流のように流出した。飛び散る無数の破片が、夜を赤くあぶり、焦がす。
レイスの影を飲み込んだ炎のかたまりが、燃える帆柱の向こうでのたうつのが見えた。
見ていられなかった。顔をそむける。
「先生、頼む。どうか元の先生に戻ってくれ。そうしたら、いつかまた……!」
返事などあろうはずもなかった。
「だめよハダシュ、もう脱出して!」
ラトゥースが舳先で手を差し伸べた。手まねく。
「これ以上は無理だってば! 早く逃げなきゃ、本当に死んじゃう……!」
ハダシュは身をひるがえした。ラトゥースめがけて走り出す。ラトゥースは両手に赤と白の
「早く! 早くったら、ハダシュ! あちちち! 浮き輪が燃えちゃう!」
「分かってる」
ハダシュはラトゥースの手をとった。そのまま一緒に舳先の手すりへと向かって突っ走る。
「ええええええどこ行くのーーーーっ!?」
「飛び降りる」
「嘘おおおーーーーっっ!」
「鼻ぁつまめ!」
「ふんがぁぁーーーーっ!?」
手すりを飛び越え、船の縁を蹴って。
手に手を取り合って、海へ。沸騰する紅の闇に向かって。
たかだかと身を躍らせる。
火が煮こぼれる炎の海へと、二人一緒に、石のように落ちてゆく。
水柱が上がった。肩の傷が裂けんばかりに痛む。
ハダシュは半ば気を失い、そのまま濁る海へと沈んだ。血が黒い水を汚してゆく。
息が尽きる寸前、ハダシュはようやく自分を取り戻した。
動かない片腕を棒のように引きずり、もう一方の腕で必死で水をかいて、海面へと浮かび上がる。
浮き輪にぶら下がったラトゥースが、海面でばちゃばちゃと暴れていた。
「伏せろ!」
「あっハダぷっ!」
強引に海中へと引きずり込む。
次の瞬間。
おそらく積み込んでいた火薬の箱に引火したのだろう、船を真っ二つに断ち割るほどの爆発が右舷を突き破った。
水煙と炎の洪水が、夜の海上に噴出する。
炎の尾を引く木っ端が、さながら悪夢のごとく飛び散る瀝火となって、周囲一帯に赤い流星雨を降りしきらせる。
悲鳴と怒号の入り混じる夜空も。
すべてを写し、飲み込む海面も。
まるで血をすり流したかのように明るく、赤く、焼けただれて見えた。
喉に水が流れ込んだ。息が詰まる。
「クレヴォー!」
銃創に海水が染みて激痛が伝わった。
呼吸しようとするたび、海水が顔にかかる。腕は冷え切って石のように動かない。
浮き輪にぶら下がっているはずのラトゥースの姿がない。
「どこだ、クレヴォー!」
「ハダシュ」
ふいに頭がハダシュの顔の真横に浮かんだ。
「お、お、溺れ……誰かが足を引っ張って……!」
そのまま、ぶくぶく溺れそうになって、ハダシュの身体へとすがりつく。
ハダシュは息を吸って海に潜った。何も見えなかった。沈んでゆく白い衣のようなものが見えた気がした。だが、それだけだった。
「足、足、足に何かっ……!」
「しがみつくな。痛い」
再度浮かび上がったハダシュは、痛みに顔をゆがめながらも、ラトゥースの腕に浮き輪を持たせた。
「ばか、違う、これは私が使うんじゃなくて、あなたの!」
「黙ってろ」
弾ける水しぶきが降りかかる。
燃える木切れと煙火の混じる波間に、小さなボートが見えた。漁り火にも似た青い光が舳先に揺れている。浮かび上がる女軍人の影。
今しか、なかった。
ハダシュはラトゥースの身体を引き寄せた。
半ば沈み、半ば泳ぎながら。
ラトゥースの身体を抱いて荒々しく唇を重ねる。それまで、ばしゃばしゃともがいていたラトゥースの身体から、驚きの力が抜けた。
「助かった。お前のおかげだ」
「……う、うん?」
ラトゥースは、ぽかんと唇を半開きにした。そのまま、ぶくぶくともう一度、沈んでいく。
「おい、こら、沈むな!」
「姫、いい加減になされませ! どこですか! 勝手に先走るなと!! 何度言えばお分かりになられるのです! 絶対にゆるしませんよ、本当に、もう、こんなことを……姫さま! 隠れても無駄です!」
青い火を灯すボートが近づいてくる。舳先にシェイルが立っていた。
「やっと終わったのね」
ラトゥースが、浮き輪に顔を半分隠したまま言った。
「ああ、終わった。お別れだ」
「先生と……?」
ハダシュは答えなかった。波しぶきを立て、手を振って、シェイルを呼ぶ。
青い光が海面を走った。シェイルはラトゥースめがけて網を投げた。ボート上に引き上げる。
相変わらずがみがみ叱るのかと思いきや、まるで姉のように強く抱きしめただけで、それ以上は何も言わない。泣いていたのだった。
ハダシュは船に上がる手を止め、振り返った。
燃える戦列艦の終焉を遠くながめる。
海上に漂いつつ燃える無数の藻くずとともに、波に揉まれ、半ば座礁したまま、完全に沈むこともできず。
音を立てて崩壊してゆく。
残酷に、壮麗に。葬送の業火はあかあかと夜の海面を照らして、いつまでも消えない。砕ける波しぶきもまた、血の色だった。
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