第63話 「ヴェンデッタは……あなたが止めに来てくれるのを待っていたんだと思うの」
透き通る夕日が、毎度おなじみの病室を照らし出す。
「部屋を代えてくれ。こんな縁起の悪い部屋には二度と入りたくない」
「無理。いっそずっと閉じ込めておきたいぐらいよ」
埠頭を舞うカモメが、小馬鹿にするみたいな高い声で鳴いていた。夕刻の鐘の音が重なる。
レースカーテンが潮風に揺れる。
ラトゥースは部屋に入ってくるなり、窓を閉めた。
白のサッシュを腰高に結んだ淡い水色のバッスルスタイル。ドレスが動きにあわせてさらさらと衣擦れの音を立てる。軍服に見えなくもないスペンサー風の短上衣からはレースの袖口。
その格好と、ソーセージを横に束ねたみたいな弾薬包をぎっしり縫いつけたごついガンベルトとの取り合わせは、やはり何度見ても珍妙すぎて。
まるでそぐわなかった。
「ここが病室なわけじゃなくて、たまたまいつも病室になってるってだけでしょ」
「だから、わざとこの部屋に担ぎ込むのはやめてくれと言ってる」
ハダシュはベッド上に座ったまま、動くこともままならぬ包帯姿へのあきらめも兼ねて、子供じみた不平を口にした。
撃ち抜かれた肩の銃創は、不幸中の幸いか太い血管も関節も傷つけることもなく内部で止まっていた、とのことだった。銃弾は摘出。その他の傷も、とうぜん痛みはするものの、だいぶましにはなっている。
「それに、何でこんなに全身包帯だらけなんだよ」
「普通の人なら全治三ヶ月とかなのよ? 本当に、何でまともに動けてたのか分からないわ。馬鹿な事ばっかりして」
「誰が馬鹿だ。おまえの方がよっぽど……」
ラトゥースは出窓の床板にもたれ、軽く腰掛けた。窓の外を見る。
「ハダシュが悪いのよ。心配ばっかりさせるから」
そのまま、ふさぎ込んで黙りこくる。
ハダシュは内心、ラトゥースを傷つけてしまったのではないかと動揺した。
何とか場を取り持とうと、気の利いたふうな言葉をいくつも探し出してきてはそのどれもがふさわしくないと思い返す。
結局は、全面降伏するしかなさそうだった。
せめてもの抵抗に、しぶしぶといった顔を無理につくって、視線をあさっての方向へとねじ向け。
ぶすりと言う。
「悪かった」
「言っておくけど、私だってシェイルにこの倍は叱られたんだからね」
華奢すぎる影が、透き通る紅の残照をゆるやかに横切る。
薄闇の迫る静かな部屋。
二人きりだった。
シェイルは、王都への報告や銀ギルド長カスマドーレの取り調べ、沈んだ戦列艦の現場検証などで忙しくしている。
おそらく、遅くまで戻ってこないだろう。それが分かっているだけに、沈黙がますます気まずい。
ラトゥースが歩み戻ってきた。
ハダシュの額に手を置く。汗に湿った前髪を、指の先でかき上げる。
「やっぱりまだ熱があるわ。汗拭くから、ちょっと待ってて」
そう言って部屋の隅に行くと、真鍮色をした手水盆の縁にかけてあった白いタオルをいったん冷や水に浸してからきゅっと絞って広げた。冷たさを確かめつつ持ってくる。
ハダシュはぼんやりとラトゥースの動作を眼で追いかけながら、ふと思いついてたずねた。
「お前は、大丈夫なのか」
手が止まる。
だがラトゥースは取り乱す様子もなく、肩をすくめた。取りつくろった優しい微笑みをうかべる。
「平気よ」
ハダシュは拭いてくれようとしたラトゥースの手からタオルを取り上げ、自分で額の汗を拭った。そのまま眼の上にタオルを伏せ、顔を隠して、長い息をつく。
ラトゥースの表情を見てしまうことに、気鬱めいた後ろめたさがあった。
「本国に詳細な報告書を送らなくちゃいけないんだけど」
ベッドの縁に腰を下ろす気配が伝わる。手を伸ばせばすぐに届きそうなほど近くて、そして遠い。
捜査の進展状況を説明される必要など、ハダシュにはまったくない。ラトゥースも、おそらく今後を相談するつもりでしゃべっているわけではないのだろう。
何でもない素振りを保つだけで、息が苦しくなった。
「港にいた戦列艦は、もう調べようもないほど燃えてしまったけれど。エウロラ号からは行方不明になっていた子どもたちも含めて、奴隷として輸出される所だった人たちが救出されたそうよ。それだけが救いね」
ハダシュは遠い過去のことを思った。暗い穴ぐら。闇へと続く洞窟。だが、そこから先の記憶は、ない。心のどこかにぽかりと隙間が開いていて、そこから感情がずっとこぼれ落ちていたのかもしれなかった。
「あとは……本国の情報機関を通じて、ギルベルト・レイスブルックあるいはデュゼナウの名前を照会させるわ。どうせ偽名だとは思うけれど……たぶん、バクラントの工作員で間違いないでしょうね。でも、事件に関与した全員が死んでしまった今となっては、真相を明らかにするのも難しい」
声が沈んでいる。ため息が聞こえた。
「結局、誰一人助けられなかった。本当に、次に死ぬのは私かもね」
自虐的に続ける。
「馬鹿なことを言うな」
ハダシュは首を振って、眼の上のタオルを払い落とした。つい語調が荒くなる。
ラトゥースは萎縮した視線をハダシュへ向けた。手にしていた調書の書類を膝に伏せ、うつむく。
「ごめんなさい。余計なこと言っちゃった」
ハダシュは自分の馬鹿さ加減に後悔した。どうしようもなく頭が混乱している。こんな時に限って、かけるべき言葉がまるで思い浮かばない。
「黒薔薇は、ヴェンデッタは……あなたが止めに来てくれるのを待っていたんだと思うの」
長い沈黙のあと。
ぽつりとラトゥースは言った。
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