第61話 一敗地にまみれよ

「私怨で国を売るからだ。この、クズが」


 レイスは倦んだふうに短く嘆息した。

 見下げ果てた横目をくれる。もう、笑みすら投げやりだった。


「嘘つき!」


 ヴェンデッタは涙を振るいのけた。徒手空拳でレイスにつかみかかる。

 後ろ姿が、真っ赤な炎を背景にして黒く切り取られた。影が煙に取り込まれる。


「やめろ」

 ハダシュは手を伸ばした。声を呑む。

 側舷から、爆発音と同時に赤黒く裏返る炎が噴き出した。

 下層の砲甲板に保管してあった弾薬が誘爆したのか。衝撃が船全体を突き上げる。斜めに大きくかしぐ。揺れる。


 炎にあおられ、文字通り火柱と化した船尾のマストが、めきめきと音を立てて倒れていった。艦尾の操舵室に直撃。

 船室の断面を露出させながら砕けてゆく。真っ二つに折れる。

 火の粉をまとった残骸が、雨の夜空に弾け飛んだ。


「ヴェンデッタ、やめろ、そいつに近づくな」

 手をかざし、熱風から顔をそむける。ハダシュは喉を涸らして怒鳴った。

「おまえのかなう相手じゃ……!」


 水分を含んで渦巻く煙が、ばちばちと爆ぜながら吹きつける。

 火は収まる気配もない。

 外壁の割れる音が耳を圧する。こちらが風下になったせいか、煙と蒸気で何も見えない。

 もう、あと十数分ほどしか持ちそうになかった。


「レイスは俺が倒す。おまえは船首側へ逃げろ」

 ハダシュはあわただしく周囲を見渡した。

 煙の薄い前方を指差し、ラトゥースに示す。


「船が沈むまでに浮き輪カポックを確保してくれ。手すりか柱か、どこかに結んであるはずだ。なければ、ふくらました皮袋でも木切れでもいい。ロープで腰にゆわえつけておくんだ。もし俺が海に落ちたら、おまえが俺を助けろ。いいな」


 ラトゥースは青い瞳に強い決意をみなぎらせた。うなずく。

「いいけど、つまり私が無理やり後をつけて来てなかったら、ハダシュは確実にどこかその辺の海にぷかぷか浮かぶ予定だったってことよね? シェイルにもそう言ってくれるわよね? ねえ、ちょっと、聞いてる?」


「あー、くそ、うるっせぇな。そうだよ。おまえがいなかったらとうに終わってた」

 ハダシュは笑った。

 手を伸ばし、ラトゥースの頬に触れる。一瞬のもどかしさが、すぐに手のひらに伝わるやわらかさに変わった。寄り添うようにしてかたむく頭を、くしゃりと撫でる。


 波しぶきと、風と、残骸のまとう火炎の入り混じった赤い雨が降りしきる。 

 爆ぜる音に混じって、悲鳴が聞こえた。

「あっ、何。今の声」

 ラトゥースは閉じていた眼をぎょっとしたふうに開いた。首をちぢめ、ひるんだ表情で見回す。

「まさか」


「時間がない。急げ」

 ハダシュは名残惜しさを振り払った。ラトゥースを船首側へと押しやる。

 声がしたのは、甲板中央に開いた穴から吹き出す炎の向こう側だ。凝視する。


 再び風向きが変わった。引き潮のように、唐突に煙が流されてゆく。視界がひらけた。

 あちらこちらに、きらめく金属の痕跡が散らばっている。レイスが投げたランセットだろうか。


 ハダシュは、炎の闇に透ける影をとらえた。

 なぜか、悪寒が背中を這い上がる。

 レイスの姿が見えない。

 ヴェンデッタだけが、その場に凍りついている。


 いや、違う──


 その背に、白く。

 わずかにのけぞったヴェンデッタの黒髪の間から、巨大な湾刀の切っ先だけが、生えかけの銀翼のように突き出している。

 刃がぐい、と伸びる。死の翼がぎらついた。


「今まで、よく働いた。褒美をくれてやろう」

 無情な宣告が聞こえた。

「裏切り者にふさわしい最期を」


 ヴェンデッタの身体が一瞬宙に浮いた。剣先がひねられる。

 空気を押しつぶす呻きが、肺から漏れた。指先がけいれんする。


「何やってんだてめえ……」

 食いしばった歯の間から、低く声を押し出す。


 ヴェンデッタの残した、赤いサソリ模様のナイフを、ハダシュはゆっくりと拾い上げた。おそろしいほど、手にしっくりと馴染む。

 その間もレイスから目線を外さない。


「ううん? 何だ、怒ってるのかい?」

 ヴェンデッタを刺しつらぬいた姿勢のまま、レイスがひょっこりと顔をのぞかせる。揶揄の笑みがかすめた。

「どうせ殺すんだ。だったら一緒じゃないか。それともまさか本気で生かして助けるつもりだった?」


 レイスは悪びれもしなかった。

「まいったな。君ともあろうものが、いつの間にそんな生っ白い平和主義者の寝言を並べ立てるようになった。そんなものはうわっつらの幻想だよ。完膚なきまでに敵を殲滅し、平らげてこそ真の平和だ。もし、かりそめの平和に目がくらんで、敵の増長に見て見ぬふりをすれば、やがて何十万もの血が無駄に流されることになる。だったら、」


 からかいのまなざしが、船首へと向く。

 何げない視線の先には、朱色に塗られた皮の浮き輪カポックを腕にぶら下げたラトゥースがいた。

 ハダシュは奥歯をぎりっと鳴らした。


 表情の変化に気づいたのか。

 レイスの唇がうすくつり上がる。

「それが、君のもっともものであったとしても、」


 ハダシュは顔の半分を笑いに、半分を嫌悪にゆがめた。分かっている。これは挑発だ。やすやすと乗ってやる理由もない。だが。


「今、ここで、一息に消し……」

「黙れ!」

 瞬間、脳が沸騰するのが分かった。

 血にぬめる甲板を蹴る。レイスへと詰め寄った。ナイフで襲いかかる。


 レイスは、ヴェンデッタを盾にして難なく身をかわした。耳障りな嘲笑を放つ。


「そうだ、その顔だよ。ハダシュくん。私は君のその顔が見たかった。人殺しの顔だ。実に美しい。だが、まだだ。まだ足りない」

「ふざけるな」


 レイスは血まみれのヴェンデッタを楯に、残忍な笑みを浮かべた。かすり傷ひとつ負わせられぬまま、ハダシュは飛びのく。

 何度攻撃しようと、致命傷を与えるだけの距離にまで近づけない。

 レイスは、まるで社交ダンスを踊ってでもいるかのようなステップを踏んで、ハダシュの攻撃を避け続ける。


「どうした。何をためらう。君ならこの女ごと私を斃せるはずだ。死など恐るるに足らず。《竜の毒》の味を知っている君ならばな」

 おぞましい死の舞踏ダンス・マカーブル

 踊るたびに、ヴェンデッタの腕が揺れ、剣を突き刺したままの背中から血が法外にあふれ、こぼれ落ち、甲板に跳ねた。

 まるで死人マリオネットだった。死への冒涜を見せつけられるたびに、理性が砕けた。レイスの嗤い声が響き渡る。


「まだわからないのかい? 君がここ数日で受けてきたの数々を思い出すがいい。君が傷をこしらえてくるたび、さんざん塗りたくってきたあの軟膏が、本当にただの砂糖と松精テレビン油でできていたとでも? ……《竜の角》の正体を薬屋のイブラヒムにたずねたそうだな。《》だと。誰からその噂を聞いた? なぜ、猛毒の《竜の骨》を秘薬だと誤解した? それは、つまり、本当の効力を知っているものがいるからだろう。エルシリアに!」


 火勢が強まった。異様な揺れが船を襲う。足元の甲板が、振動でがたがたと音を立ててたわんだ。爆発音が立て続けに伝わる。

 先ほど割れた甲板の下から、黒煙がもうもうと上がっていた。立っているだけでも足の裏が熱い。焼けつきそうだった。

 もはや、いつ、この上甲板そのものが崩れ落ちるかわからない。沈没は目前だった。


「どうやら遊びが過ぎたらしい。もう時間だ。終わりにしよう」

 レイスは笑みを消し、周囲を見渡した。炎の照り返しを受けた横顔が赤く染まる。


「お別れだ、ハダシュくん。邪魔な君たちを片付けたら、私はエルシリアへ向かう。君たちとの日々は、とても愉快で、有意義で……何より楽しかったよ」

「俺もだよ、先生。てめえを殺す日が来るなんて、思いもしなかった」


 激情にかられながらも、相反する恐怖に腹の底が冷え込んだ。この男に本気で狙われたらきっと、ひとたまりもない。


「是非もないね」

 燃えさかる炎が逆光となって、一瞬、レイスの表情を闇に塗りつぶす。

 ヴェンデッタの、だらりと垂れ下がった腕がびくりと動いた。深紅に濡れた爪がレイスの腕に巻き付く。


「馬鹿ね」

 かすれた声が耳を打った。ヴェンデッタの手が、己をつらぬく剣の柄をつかむ。

「愚か者の最期を、見届けもしないで」

「貴様、まだ死んでいなかったのか」

 さすがに虚を突かれたのか。レイスが愕然と口走る。


 ヴェンデッタは美しい顔を凄絶な血に染め、ふいに笑った。

 レイスの顔を、蹴爪のような手でつかむ。立てた爪が眼鏡をむしり取った。投げ捨てる。


「くそっ、この、」

 視界をふさがれ、レイスは獰猛に唸った。首を振る。

 だが、密着した状態からどうしても離れられない。剣ごとヴェンデッタを突き放さない限り、どうにもならないのだった。


 ようやく己の失態に気づいたのか。レイスは口汚くののしった。剣を引く反動で払いのけようとする。

 ヴェンデッタは泡状の血を吐いた。

 わざとレイスの腕をつかんで。

 離されまいとしながら、もう一方の手でレイスの顔をかきむしる。


 とがった爪が、幾すじもの傷をつけた。

 指先が眼窩に突き立つ。食い込んだ。深々とえぐり抜く。


 レイスは獣のように吼えた。耐えきれず片手を剣から離す。

 血の流れる眼を押さえ、よろめき、一瞬の憤怒に息を吐いたのち。


「離せ、死にぞこないが」


 力まかせにヴェンデッタの腹を足で蹴った。押しのける。刃が引き抜かれた。

 血脂を練る音がして返り血が噴出した。白衣に降りかかる。

 支えを失ったヴェンデッタの身体が、粘土のようにのけぞる。

 吐いた血が、別れの涙となってヴェンデッタの眼からこぼれ落ちた。口元が力なくほころぶ。


 さよなら。


 声など発せられるはずもない。

 だが、確かに。

 そう聞こえた。


 さよなら、ハダシュ。


 ハダシュは声にならない叫びを上げた。

 今しかなかった。片目をふさがれたレイスめがけ、飛びかかる。


 甲板を強く蹴る。足元の床板が砕けた。走るたびに、足の裏でなかば消し炭と化した床が砕け、燐火を放った。


 もし下手に床を踏み抜けば、階下の炎獄に落ちる。

 それでも構わなかった。

 さらに加速。足跡からまばゆい火花が軋り飛ぶ。


「させるか」

 レイスが再度、剣を構えようとする。


「遅えよ先生!」


 そんな暇など、二度と与えるつもりはなかった。地を擦るナイフが、散らばるランセットを蹴散らした。音がきらめく。

 壊れた左肩を盾にして肉薄。

 レイスは即座に反応する。だが、剣を支えた片手が、望外の返り血にずるっ、とぬめった。

 取り落としかける。

 ととのった顔が、みにくくゆがんだ。

「ちっ!」

 いくら手練れとはいえ、これだけの重量がある剣だ。片手で制御できるしろものではない。


 死角から一足飛びに間合いをちぢめる。

 ハダシュは、ぐらつくレイスの剣先を、ヴェンデッタが遺したナイフで跳ね上げた。金属音がひらめく。不動だったはずの構えが乱れる。剣筋がそれる。

 正面はがら空き。


「終わりだ!」

 急所の心臓めがけてナイフの狙いを定め、突き入れ──


 一瞬、レイスの顔に冷ややかな笑みがよぎった。

 うなじを這い下りる氷の感覚。全身に鳥肌が這った。一秒が百秒にも感じられる。

 つい数分前の記憶が、脳内で荒いコマ送り状態となって再生された。


「同じ過ちを二度繰り返すとは、君らしくもない!」

 レイスが血まみれの哄笑を放つ。

「そんな手持ちのナイフごとき、いくら全力で来たってかすり傷にもならん。殺せるものなら殺してみるがいい!」


 余裕の表情を見せる理由を、すんでのところで、思い出す。


 レイスは、心臓の位置に防御の鉄胸甲を装備している。

 この一撃で致命傷を与えられなければ。貫通させることができなければ。

 一刀のもとに倒されるのはハダシュの方なのだ。


「……ああ、まったくだ」

 ハダシュは、食いしばった歯列の隙間から獣めいた熱い呼吸を吐き出した。

 手玉に取ったつもりの嘲笑に対し、裏をかいた獰猛な笑みで答える。

「同じ攻撃を食らうなんて、らしくもねえ……ッ!」


 心臓をつらぬくはずだったナイフを、直前の中空で、ぱっ、と手放す。

 代わりにハダシュの手に握り込まれていたのは。


 レイスがばら撒いたランセットの一本だった。本当にがら空きの顔めがけて突き立てる。


 針先が傷ついた眼を覆う手の甲をつらぬいた。破裂したような血がしぶく。

 レイスは血だるまの顔を押さえ、のけぞった。縫いとめられた手が顔から離れない。


 それでもまだ致命傷ではない。

 ハダシュは、レイスの剣を回し蹴りで蹴飛ばした。剣は重たい音を立てて甲板に落ち、そのまま炎の穴へと落下した。


 そうしながら、ヴェンデッタの身体が甲板に打ち付けられる寸前に抱きとめる。

 今度こそ、もはや生きてはいなかった。

 その身体から、命が、血が。

 酒舟の底を踏み抜くかのようにこぼれ落ちている。

 人間の身体のいったいどこに、これほどの量を湛えられているのかと目を疑うほどの、膨大な出血。

 それが、取り返しのつかない勢いを伴ってみるみるあふれ、噴き出し、濡れた甲板に惨いまでの色を飛び散らせて、広がり。


「油断したよ」


 レイスは狂気じみた嘆息をもらし、喘ぎ笑った。手ごと右目に突き刺さったランセットを引き抜き、手の甲からくわえて抜き去り、吐き捨てる。

「まさか、この私がここまでの傷を負わされるとはね」


 貴族的で端整な面立ちに、今は凄まじい傷がいくつも走っている。破れた手、潰れた右目から血が流れ出ていた。

 それでも笑っている。


投降とうこうしろ、先生。あんたの負けだ。さっき下で爆発音がしたのを聞いただろう。もうすぐこの船は沈む。その眼では脱出もままならんだろう」


 ハダシュは息を荒げて言った。


「それがどうした」

 レイスは血まみれの唇を吊り上げて笑った。

「この私へ、一敗いっぱいまみれよとでも言うのか。貴様らごとき人間のクズどもを前にして、膝を屈せよと、生き恥をさらせと!」


「そうだよ、先生」


 それがたとえ嘘だったとしても。

 レイスは、いい医者だった。いつも愛想よく、怒って笑って、さんざん嫌味を言いながらも丁寧に治療してくれた。その笑顔が偽りの仮面でしかなかったとしても、それでもまだ、やはり、心の底ではずっと信じていたかった。

 手繰り寄せるように、言葉を連ねる。


「裏切り者でも、恥知らずでもいいじゃねえかよ。敵国とか何とか、そんなのも俺には関係ない。生きて、本当のことを話してくれれば、クレヴォーだって」

れ言を。笑わせるな」


 レイスは鼻で笑った。何も信じていない笑い方だった。

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