9.大罪
第48話 どうして気付いてあげられなかったのだろう。自らが犯した過ちに誰よりも傷ついていたのは
ラトゥースがシェイルや神官たちとともに現場へ戻ったとき。
ハダシュの姿はすでになかった。
翼ある蛇の杖を手にし、全身を白一色の巻衣で包んだ死の女神ヌルヴァーナの祭官が進み出た。白と黒の骸布にくるまれた遺体を前に、
豪雨の中、おごそかに花がまかれ、
皆、逃げるように散ってゆく。
浄めの花びらが、雨に打たれ、泥に汚れ、流されてゆく。遠雷が聞こえた。
ラトゥースは、水しぶきの弾ける運河のほとりに立った。
食い入るように雨の波紋をにらみつける。
(何もかも奪われて、何もかもなくして、何もかも壊されて。それでもし、おまえまで俺の目の前で)
そう言いながら、子どものように震えていた。呪わしい捨てぜりふを口にしながら、今にもはりさけそうな眼をしていた。
どうして気付いてあげられなかったのだろう。
自らが犯した過ちに誰よりも傷ついていたのは、自分の進むべき道を信じられなかったハダシュ自身だったのに。
雨のしずくが前髪を伝っては頬にこぼれおちた。
背後から堅い靴音が近づいた。
「犯人とおぼしき死体を発見しました。面通しをお願いします」
シェイルだった。軍帽をかぶり、襟を立てた濃色のマントをまとっている。
「その前に、まずこれを」
新しい帽子と折りたたまれた黒いマントが差し出された。
「ありがとう」
ラトゥースは運河を見つめたまま礼を言った。
「われわれには、まだ為すべき事があります」
シェイルは声を押し殺した。ラトゥースの痩せた肩には少々大きすぎるマントをまわし掛けて着せ、子ども相手のように帽子をまぶかにかぶせる。
ラトゥースは打ちひしがれた様子を隠そうともせず、シェイルを見返した。
「私は、これから何をすればいいの」
「報告が二点。まずは、死体で発見された男の懐から、
シェイルは、事務的に書き付けを読み上げた。
「なお、ジェルドリン夫人殺害現場から消えた
シェイルのするどい眼がラトゥースをとらえた。
「我々を裏切って逃げたハダシュを捕らえ、断罪せねばなりません」
「逃げたんじゃないわ」
ラトゥースは反射的に声を高めた。
「黒薔薇を追っていったのよ。ハダシュは、黒薔薇が次に狙うのは、巡察使の私だと言った。奴隷商人と組んで、《竜の毒》を掘り出させるつもりだって」
「あの男は殺人者です。ジェルドリン夫人を殺し、仲間を殺し、ラウール殺しの賞金首となっている。命惜しさに黒薔薇と手を結んでもおかしくない」
「だったら、私がハダシュを探す。ハダシュがかつて悪に与していたことは間違いないし、それは許されるべき事じゃない。でも、今のハダシュは違う。言ってくれたもの、私のこと、信じてくれるって。だから、せめて私だけでも彼を信じてあげないと……!」
「いい加減、目を覚ましなさい」
シェイルは平手でラトゥースの頬を打った。濡れた甲高い音が鳴る。
「シェイル……」
ラトゥースは愕然と眼を見開いて、それから、頬に手を当てた。
「それが、民を統率する立場にあるものの態度ですか。たかが殺し屋ごときに、いつまでもかかずらって任務を放棄するとは。われわれにはこの国を守る使命があるのです。まさか、もう忘れたとは言いますまい。黒薔薇と奴隷商人の結託を。行方不明の子どもたちのことを。聖堂で死んだ者たちのことを、もう」
書類ばさみを取り出しながら、シェイルはにべもなく言った。
「姫には、巡察使として、国を、この街を、人々を守る義務があるのです」
慇懃ではあるが、断固とした口調だった。
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