第47話 その瞳が放つ光は

 ラトゥースは手を結びあわせた。目を閉じ、祈る。


「無力で、無能で、馬鹿な私。義父が賊にたおされるのを、むざむざと手をこまねいて見てるしかなかったあの日と同じ罪を、何度くり返せば済むんだろう。ギュスタも助けられず、奴隷としてさらわれた街の人も救えず。聖堂で毒を混入した瞬間を目の当たりにしていながら、気づくこともできなかった。それであなたまで失ったら、私はいったい何のためにこの国を守ろうとしたのかすら分からなくなる」


 苦悶のかたちにねじれたギュスタの腕を柵からはずして、胸の上に重ねさせようとする。だが、どうしてもうまくいかなかった。何度重ねても、死んだ腕はだらりと垂れ下がる。


「せめて、水がかからないところまで引き上げてあげなきゃ」

 ラトゥースが濡れた鉄柵に手を掛ける。ハダシュは押しとどめた。

「俺がやる」

 ラトゥースがうなずく。ハダシュは鉄柵を登って反対側へと降りた。


 運河へずり落ちそうになっているギュスタの身体を引き戻そうと試みる。

 ぞっとする重さだった。石のように固い。

 柵の向こう側へ戻ることは、もう、できそうにもなかった。暗闇から逃げ出そうともがき、かなわず、空しく波に飲み込まれる妄想が脳裏をよぎる。


「ひとりじゃ無理だ。いったん詰め所へ戻って、手下どもを連れてこい。ついでにローエンの死体を引き上げて調べれば、おまえが探してる事件の手がかりがつかめるかもしれねえ」


(明日の夜、護衛の戦列艦が出航する)

(終わったら来て。明日の朝。《暁の港》で。いいわね)

(……エルシリアの雌犬に、この情報を教えてやるがいいわ。そうすれば分かる。あの娘が求めたものが、決して、あなた自身ではなかったということが)


 ヴェンデッタの声が、壊れたオルゴールのように何度も頭の中で繰り返される。明日の朝、《暁の港》で。明日の朝、《暁の港》で。明日の朝、《暁の港》で。


「あなたはどうするの」

 ラトゥースは雨で貼り付く前髪をかきあげた。不安な面持ちのまま、柵を両手でつかむ。


「俺はここで見張っとくから、とにかくあの女軍人を連れてこい」

 口から出たのは、心とは裏腹のせりふだった。


「……他に手はなさそうね。分かった。これをギュスタに返してあげて」

 ラトゥースは鼻をすすり上げた。遺品である黒い石のペンダントを取り出して、ハダシュの手のひらに落とす。

 傷だらけの古い黒い石には、サヴィス家のものらしき紋章が刻まれていた。


「気をつけろよ」

「ねえ、私が戻ってくるまで絶対ここにいてよ。一人でどこか行ったりしないで」


 思いつめたまなざしが、降りしきる雨越しにハダシュの表情を追いかけていた。柵をつかんだまま離れようとしない。

 ハダシュは苦笑いした。

「ああ、約束する。どこにも行かねえよ。何なら手錠をかけてくれてもいい」

「そんなことはしないけど、本当に、本当に。絶対どこにも行かないで」

「分かってる。しつこいぞ。さっさと行け。早くしないと満潮で首までつかっちまう」

 ハダシュはわざとそっけなく言った。手で追い払う。

「それより銃はどうした。さっき落としただろ」

「あっ」

 どうやら完全に失念していたらしい。ラトゥースはホルスターをたたいた。空っぽの音がした。

「ほんとだ。やばっ」

「まったく。そんな大事なもの、あっさりとなくすなよ」

「銃より大事なものがあったんだもの。仕方ないでしょ」

「いいから行け。急ぎすぎて転ぶなよ。そんなけがまで俺のせいにされちゃたまらねえ」

「ありがとう。ご心配なく!」

 ラトゥースは、勢いこんでうなずいた。ほんのわずか、頬が赤く染まっている。

「すぐ戻ってくるから。待ってて」


 今度こそ、身をひるがえし駆け去ってゆく。若駒のような後ろ姿が、柵の向こう側へにじんで消えた。


「さてと」


 ハダシュはギュスタを見下ろした。ラトゥースが握らせた黒いペンダントと、死んだ男の顔を交互に見比べる。

 心が騒いだ。増水した黒いうねりが、冷たく足首を洗う。飲み込まれてしまいそうだった。記憶の底の闇に。


(もうすぐ”あれ”も手に入る。そうすればこの手でこの下らない国のすべてを破壊できるわ)

 黒い眼。黒い髪。ナイフをまさぐる指にきらりと光る、黒い石の指輪。


「引き返すべき黄金の橋、か」


 ハダシュは形見のペンダントを握りしめた。氷のように冷たい。なのに、焼けつく憎しみの炎であぶられたかのような痛みが広がった。

 膝を立て、立ち上がる。


「遠いな」


 死体から離れ、柵に背を向けて。

 歩き出す。

 その瞳が放つ光は、かつてと同じ血の色だった。

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