第46話 何もかも奪われて、何もかもなくして、何もかも壊されて

「夢みたいなこと言ってんじゃねえッ!」

 砕け散るような拳の一撃。こめかみ近くの床に叩きつける。ラトゥースの身体が、恐怖と衝撃に硬直した。


「忘れたのか。ギュスタも死んだ。ラウールもローエンも死んだ。聖堂で死んだ奴の数を数えてみろ。あの女は、奴隷商人の銀ギルドと組んでこの国を壊すつもりだ。身寄りのないガキどもをバクラントに売り飛ばして、《竜の骨》を掘り出すと。だとしたら、次に狙われるのは誰だ。俺か。あの女か。賄賂を握らせた総督か。銀ギルドの親玉か。違うだろう」

 ハダシュは爆発する感情をラトゥースに突きつけた。胸ぐらをつかんで引きずり寄せ、揺すぶる。


「ちょろちょろと目ざわりに動き回り、なおかつ、一番手っ取り早く殺せて、捨て置くことも政治的に許されない、戦争の導火線。それが、王国巡察使でありエルシリアの貴族でもあるだ!」

 自分で、自分の口にした言葉に怖気をふるう。血の思想に染まり慣れた手があまりにもいとわしかった。


「これ以上、何もかも奪われて、何もかもなくして、何もかも壊されて。それでもし、おまえまで俺の目の前で殺されるようなことになったら。俺はどうすればいいんだ。それでも許せと? 理想を追えと? 正義のために耐えろと? ふざけんな!」


 ラトゥースは、眼を開けた。

「ハダシュ」

 自由になった片手で、ハダシュの頬に手を伸ばす。やわらかな、愛おしむような、指先。


 抵抗を無くした身体を、ハダシュは殴りかかりたい衝動に駆られながら必死にもぎはなした。そのままでいれば、激昂のあまり別の衝動へ変わってしまいそうだった。

「少しは抵抗しろ。本気で犯すぞ、この」

 罵倒しかけて、絶句する。

 光と涙の入り交じった青い双眸が、ハダシュを見上げていた。


「それでも、あなたにはもう、二度と罪を犯してほしくない」

 組み敷かれ、震えながら。

 ラトゥースは血を吐くような声であえいだ。

「罰を受けることは誰にでもできる。でも、悔いることは正しい心を持つものにしかできないの。あなたを、信じさせて。お願い」


 熱を帯びた呼吸だけが耳にこびりついた。


「もういい」

 耐えきれず、ハダシュはその場から離れた。

「待って」

 ラトゥースがあとを追いかけてくる。階段を駆け下りる足音が甲高く響いた。ひじをつかまれる。

「離せ」

「いいから、話を聞いて」

 もつれ合うように壁へぶつかる。ハダシュはつまづいたラトゥースを抱きとめた。暗闇の中、見つめ合う。

 遠くで雷が光った。青白い頬に涙のあとが伝う。


「話を聞いて、ハダシュ。お願い」

 思いあまった必死の声が、ハダシュを引きとめる。

 ハダシュは惨めな気持ちを殺して、立ち止まった。絶望にさいなまれつつ、かぶりを振る。

「もう話すことはない」

 目を合わせられなかった。もし、これ以上そばにいたらラトゥースの言葉に、その気持ちに応えたい、と思ってしまう。馬鹿みたいに。


 戻れないと分かっているのに。


「いいから聞いて。私のこと、馬鹿だと思ってるでしょ。綺麗ごとばっかり言って、人に自分の理想を押しつけて。自分じゃ何もできないくせにって」

 ラトゥースは、ぶるっと震えた。白のブラウスが雨に濡れて肌に貼り付く。なよやかな肌が透けて見えた。濡れた前髪から雨粒がしたたる。


「公にはできない秘密だけど。私がシャノアに来たのは、国王陛下のお命を狙った刺客の黒幕を探し出すためよ。襲撃のとき、私の義父も同席していたの。それで、何とか撃退することはできたけれど……義父は斬り尽くされて重傷を負って……あの日からずっと意識が戻らない」


 頼りなげにラトゥースは言葉をかさねた。矢継ぎ早に話していなければ、ハダシュを見失ってしまうと恐れてでもいるかのようだった。


「刺客の手首には黒薔薇の焼印が押してあったわ。だから、私はこの街にきたの。誰が陛下の暗殺を依頼したのかをこの手で明らかにするために」


 寒さのせいか、自身の内側に潜む動揺のせいか。語尾が震えている。

 それ以上は互いに何も言わなかった。二人とも、ただ、歩き続ける。


 雨は、いつ止むともなく降り続けていた。

 黒い潮が満ちる。運河の水面が逆巻いて波打った。次第に高くなる潮騒が護岸を打つ。

 門の鉄柵から、ぶらさがってはみ出すギュスタの腕だけがのぞいていた。身体は柵の向こう側に倒れたままだ。

 豪雨に打たれ、ぐっしょりと黒く水びたしになっている。

 ラトゥースは鉄柵の前でひざまずいた。

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