第45話 獣

 目の前の一点をうつろに見つめる。

「あの女を殺す」

 抑揚のない声で答えた。


「あの女って」


 ラトゥースは呆然とし、視線をさまよわせた。ハダシュと、その切り刻まれた身体と、乱れた着衣、足元の血だまりを追う。

「何言い出すの、急に……」


 はっ、と白い息のかたまりが立ちのぼった。青ざめた顔。ふるえる唇。揺れる瞳がハダシュをにらみつける。

「だめよ、そんなの」

「うるさい、どけ。俺は俺のやりたいようにやる」

 邪険に手を振り払う。指先がラトゥースの目元に当たった。赤い線が走る。

「え……」

 ラトゥースは信じられない、という顔をして頬を押さえた。手のひらを見る。瞳に恐怖の色がさした。

 血の色。

 だが、すべて無視した。押しのけて立ち去ろうとする。

「どうしてそんなこと。ねえ、話を聞いて。落ち着いてよ……」

 悲痛な声が心もとなく追いかけてすがりつく。


「うっせえ、グチャグチャ命令すんな、このクソガキが! ぶっ殺すぞてめえも!」


 大切なものも守りたいものも、守らなければならなかったものも、全部。

 荒げた声を心ごと引きちぎり、投げ捨てる。ハダシュはラトゥースを突き飛ばした。


「しょせんは違うんだよ。俺とおまえとじゃ。生きる世界が」


 華奢な身体が、跳ね上がる勢いで壁にぶつかる。漁火のランプがなぎ倒された。悲鳴もろともラトゥースはくずおれる。

 ガラスと鉄板の割れる音が耳に突き刺さった。

 一瞬が、永遠にも思えた。


 ラトゥースは雷に打たれたように、その場でうずくまった。息をつめ、眼をかたくつぶって、肩を震わせる。

「……違う……」

 そのまま、呆然と声を失う。


「ああ、そうだ」

 ハダシュはつめたくあざ笑った。また、心と表情かおとが引き剥がされてゆく。腹の底には、真っ白に霜が降りて凍え切った絶望が重く沈んでいるというのに。

「じゃあな」

 通り過ぎる。


 ラトゥースは詰めていた白い息を吐き出し、ふいに顔をあげた。弾かれたように立ち上がり、部屋を出ようとするハダシュの背中を追う。

 半分つんのめりながら前方へと回り込んだ。立ちふさがる。


! そんなことない! そんなこと、させない! 絶対に!」

 

 声が、裏返って響いた。全身をおののかせ、両手を精いっぱい横に広げて、行く手をはばむ。

 手も足も、傍目から見て笑えるほどわなないていた。

 ハダシュは血色の眼を陰惨に光らせた。心にもない嘲笑が口をついて出る。

「そんなに死にたいのか」


 ラトゥースは絞め上げられたようなうめきをあげた。後ずさる。背中が壁にぶつかった。靴底についた砂がざらついた音を立てた。


 それでも、逃げない。


 ラトゥースの眼。胸を焦がす青白い炎。

 ハダシュはその色にふと、心を奪われた。


 こちらをまっすぐ見ることもできず、噛み合わなくなった奥歯をがちがちと鳴らし、ぶざまに膝をふるわせている。


「行かせない……!」


 ろくに明かりもない、豪雨と血の臭いに閉じ込められた部屋の中。

 何十人もの命を平気で奪ってきた殺し屋。つい今しがた長年の友を殺したばかりの男。肉欲の残滓ざんしもあらわなけだものの姿を前にして。

 泣きくずれる寸前の顔をくしゃくしゃにして、あっさりと砕け散りかねない何かのために立ちふさがっている。


 何がラトゥースをそんなにも駆り立てるのだろう。

 何のために、そこまでして。


 ハダシュは幽鬼のようにゆっくりと手を伸ばした。暗い誘惑の笑いを向ける。ラトゥースの表情がこわばった。

「そんな顔するなよ」


 一気に間合いをつめ、及び腰のラトゥースを襲った。足払いをかける。華奢な身体は再び、あっけなくもんどり打った。

 手首を取り、悲鳴ごと床に叩きつける。獰猛に組み敷いた。すべてが、身体の下にあった。


「やめて」

 ラトゥースは苦しげにもがいた。背中をのけぞらせる。金の髪が床にみだれ広がった。

 ハダシュはゆらりと顔を寄せた。ぞっとする息づかいで見下ろす。

「何がんだ? 俺はしょせん人殺しだ。仲間だろうがなんだろうが殺す。お前が俺のどこに何の幻想を見ているのかは知らん。だがそんなもの」

「やめて。お願い」

 ラトゥースは呻吟に近いあえぎをもらした。ハダシュは、手首を掴む手にさらに強い力を込めた。

「痛い。離して……お願い……!」


 ラトゥースの顔が苦痛にゆがむ。


「夢でしかない」

 ハダシュは、獣の唸りをあげてラトゥースにのしかかった。ドレスの膝を強引に割り、悲鳴を上げる身体を押しつぶして、荒ぶる息を吐きかける。白いレースがあらわになった。


「理想? 正義? お前に何が分かる。誇りを汚され、自分の無力さをどうしようもなく思い知らされて、何もできない、何も果たせない悔しさにさいなまれたまま死んでいった人間の気持ちが。ギュスタの気持ちが。ローエンの気持ちが。お前に分かるのか」

「分からない。分からないけど!」

 ラトゥースは身体をよじって抗う。


 その胸元にハダシュは手を掛けた。力任せに引きちぎろうとして、動きを止める。

 つかんだ手の中に、最後の理性が残っていた。引きちぎれば、おそらく、太陽の光にすら晒されたこともないだろう──白く、なめらかな、汚れ一つない、透き通りそうなほどきめ細やかな素肌があるはずだった。恐怖にぶるぶる震え、喘ぎ、必死に息づく女の、まだ男の味を知らぬ乳房が。

 ちぎるかわりに、ぐしゃぐしゃになるまで襟元を握り込む。


「俺が、今、お前をどろどろに汚せば」


 ハダシュは低い声をラトゥースへと突きつけた。

 やわな女の身体が、組み敷かれたままむなしく暴れている。

 思った通りの弱さだった。ろくにはねのける力もない。


「お前はどう思う。あの女軍人は。お前の家族は。笑って俺を許すのか。許すわけがないだろう。めちゃくちゃにされて、どこの馬とも知れぬ人殺しの子を孕まされて、それでもお前はお高くとまった博愛主義のお姫さまでいられるのか。そんなわけねえだろうが、ああ?!」


 ハダシュはラトゥースの首筋に唇を寄せた。

「俺は、お前が望むような人間じゃないんだよ」

 まさぐるように息を吐きかけ、喉へ歯を立てる。美しい、やわらかな不可侵の肌に、赤い鬱血の跡がついた。


「それでも、まだそんな寝言を言えるのか」

 歪んだ表情で見下ろす。

「どうなんだ」


 ラトゥースは顔をそむけた。ぎゅっと眼をつぶる。

 ふるえる声が長い吐息に変わった。

「それでも、私は。あなたを」

 白い息が苦しげにたちのぼる。


「信じてる」


 閉じたまぶたから、涙が一粒。こぼれ落ちた。

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