第44話 限りなく、のろのろと
とっさに足元のバケツを蹴った。膝に命中する。ふらついてつんのめったところを横に避けた。ナイフを叩き落とす。
だが、脱力しきった身体には互いに荷の重すぎる動きだった。ローエンはそのまま漁網に倒れ込み、ハダシュは押しのけられて壁にぶつかった。
蹴り飛ばしたがらくただけが、馬鹿げた冗談みたいな音をたて、転がっていった。
「ふざけんな……」
ローエンは、血の混じった唾を吐いた。咳き込む。喉から漏れる呼吸が、隙間風の音を立てて痰にからんだ。
「何で避けるんだ……ああ!?」
拳で口元をぬぐう。ぐらぐらと笑う膝を手で押さえ、体重を壁で支えて、かすれた血の跡をすりつけながら立ち上がる。
だらりと垂らした腕の先から、命が湯水のごとく流れ落ちていた。
喉の傷が再び割れているのだった。
ローエンはミイラのような口を開けて、笑った。骸骨の形に張り付いた顔の皮膚が、乾ききったあかぎれの跡のように、ピリ、ピリ、と、何箇所も裂けた。老いさらばえた色に変わってゆく。
「
ローエンは悲鳴を張り上げて突進した。二人一緒に、もつれ合って壁にぶち当たる。朽ちかけた板を張った窓が、窓枠ごと外れた。
壁板がばらばらに砕け、木くずとなって。
雨の闇に落ちてゆく。
互いに押し、押され、もみ合って、むしゃぶりつきあいながら。
のけぞった上体が、窓の外に大きく迫り出した。頭から今にも真っ逆さまに墜落しそうだった。
「
埋み火のようなぎらぎらとした眼が、脂汗のにじむ浅黒い顔の中心で光っていた。
「あのじとが
煮こぼれる憎悪のこもった拳が振り上げられる。泣き叫ぶ子どもの殴り方だった。
「
ローエンは獣のように喚き散らし、ハダシュの顔を殴った。何度も左右から拳を振り下ろす。殴りつける。血しぶきが降りかかった。
「おまえを殺せば、あのひとも俺を褒めてくれる……俺を好きになってくれる……抱かせてくれる……、って……!! おまえさえ死ねば……!」
抵抗してこないと分かると、ローエンは万力のような力で首を絞めあげた。ハダシュの上半身が窓の外へと押し出される。
のけぞった背骨が外壁の角に当たって、ゴリゴリと削れる音を立てた。砕けそうだった。
足が宙に浮く。かろうじて壁を手でつかんだ。心のどこかが、このまま抵抗するのをやめてローエンの望みどおり落ちてしまえ、とささやいていた。
そうすれば。
こんな、ぶざまな。
最期を────
猛然と階段を駆け登ってくる音がした。
「ハダシュ!」
恐ろしいほどはっきりと。ラトゥースの声が近くに聞こえた。階段へと続く扉の向こうだ。
扉を激しく叩いている。そのたびに、扉がたわんだ。悲鳴が聞こえる。
「そこにいるんでしょ。ねえ、ハダシュ、返事して。お願い……!」
ローエンは首を絞める力を一瞬、ゆるめた。わずかに背後を振り返り、舌なめずりする。
「おまえが死んだら、あの小娘も、一緒に……気が狂うまでグッチャグチャになぶり殺……」
ハダシュは一瞬、深紅に染まった眼を押し開いた。
壁から引き剥がした掌底で、ローエンのあごを突き上げる。真下から入った一撃が、かろうじて綴じ合わされていた喉の傷を、真っ二つに引き剥がした。
白い油の軟膏を塗った生皮で強引に貼り合わせただけの、見慣れた治療のあとを。
破裂したかのような血が、噴水となって顔に降りかかる。
ハダシュはローエンを引きつけざま、首を脇に抱え込んだ。絶望的な確信を込め、上下の体勢を入れ替えて頸椎をへし折りながら、身体をひねり込む。絶叫の手がハダシュの顔を、櫓の壁を、窓枠を掻きむしった。ハダシュもまた叫んでいた。
時間が壊れてしまったかのようだった。もはや痙攣しかしない屍人の上半身が、何もない闇へとずり落ちてゆく。
限りなく、のろのろと、ローエンの、下半身が、滑り落ちて。
音が消える。
土砂降りの雨でさえもが無数の水泡のように一瞬、空中で凍りつく。
どこか遠くで鈍い落下音がした。気がつけば、雨は変わらず降りしきっている。
ハダシュは酷く痛む頭を振った。かつての友の姿はもう部屋の中のどこにもない。ただ、雨音だけが底光る闇に流されていく。
いつか、夢想した、最期と同じ。
雨に、打たれて。
ハダシュはずるずると窓際に腰を落とした。頬についた生ぬるい水を無意識に拳の背でぬぐう。血まみれだった。
「ハダシュ、お願い、ここを開けて。返事して」
悲鳴が扉の向こうから聞こえてくる。ハダシュは吐き気をこらえ、立ち上がった。
かんぬきを引き抜く。
扉が弾けるように開いた。ラトゥースが転がり込んでくる。
「ハダシュ、大丈夫っ」
言いかけて、ほぼ全裸のありさまに声を失う。
「……あの男は……?」
ハダシュは、汚れた手のひらを見つめた。
「死んだ」
右手も。左手も。どこもかしこも血の色だ。もはや誰のものだったのかも分からないほど混じり合った嫌悪の色。絞り出すようにつぶやく。
「俺が、殺した」
圧倒的な雨の音が、他の音すべてを塗り隠した。
ラトゥースは呆然とハダシュを見つめ、全身に刻まれた無数の生傷へと目線を移した。下唇がわななく。
すぐに、はっとして気を取り直す。
「ここから出ましょ。ひどいけがだわ。早く治療を……」
かたわらに膝をつき、支えるようにして腕を引く。
「触るな」
ハダシュは、背後の壁をやにわに殴りつけた。血が飛び散る。
「殺したんだ」
ラトゥースは震い上がる身体をちぢこめた。出かかった悲鳴を反射的に呑み込んだ。握りしめた手を口に押し当てる。
「でも」
「うるさい。黙れ。関係ない」
叩きつけるように言葉を切る。
ハダシュは、顔をそむけた。かたくなにどうでもいい、と──
いつものように思考停止させれば、考えることを止めてしまえば、心からすべて閉め出せるはずだった。
ラトゥースに感じたまぶしすぎる光も、手の届かないやましさも胸を焦がしてやまないかすかな希望も。
最初からなかったことにすれば。
眼さえそむけてしまえば失わずにすむ。
なくしたことにさえ気付かないでいられる。
はずだった。だが、かなわない。握りしめた拳が、鬱血して、死蝋の色に変わる。
ラトゥースは涙ぐむ声を詰まらせた。
「違うわ。あなたのせいじゃない」
手袋を脱ぎ捨て、ふるえる素の指で血に濡れたハダシュの髪に触れる。
「ごめんなさい。私が油断して……捕まったりしたから……」
ハダシュはゆっくりと息を吐いた。首を振って、憐憫の手を振りほどく。
「俺に触るな。おまえまで汚れる」
「そんなことない」
いっそうすがりついてくるラトゥースの青い瞳に、きらめく涙が浮かんでいる。
きれいな顔だった。
殴られて意識を失っただけで、それほど大きなけがはしていないのだろう。ラトゥースだけでも無事で良かった、そう安堵する自分に対し、逆に。
胃の腑を裏返らせたような吐き気をもよおす。
たまらず、押しのけた。顔をそむける。精液と唾液と麻薬と血に汚れたこんな手で。触れるわけにはいかない。
ハダシュは壁に手をつき、ぐらつく身体を支えた。罪に汚れた髪を額に貼りつかせ、歩き出す。
「そこをどけ」
「待って。ハダシュ、どこへ行く気……」
おののく声。ラトゥースがさえぎる。
ハダシュは、乾ききった眼でラトゥースを見やった。
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