第38話 「変なところ触ってないでしょうね」「触ったが何がどこにあるかも分からなかった」
耳をそばだて、気配を探った。誰の声もしない。
岸壁の上を波が撫でてゆく。防波堤の足場を越えるほどの高さにまで潮位が上がっているのだった。どうやら満ち潮の時間らしい。急がないと道がなくなる。
運河と城壁に挟まれた細い通路を、ラトゥースの持つろうそくだけを頼りに急いだ。
夜霧に雨の匂いがまとわりつく。今にも降り出しそうだった。
前方に石積みのアーチが見えた。鉄柵の門が通路をふさいでいる。
ラトゥースは立ち止まった。
「行き止まりだ。どうしましょ。壁を登ってみるとか」
「城壁の上を歩くのはやめたほうがいいな。丸見えだし、挟まれたら逃げ場がない」
末路を想像したのか、ラトゥースは怖気をふるった顔をした。満々と闇に向かって逆流してゆく汽水域の先を見やる。
「泳いで柵の向こう側に渡るとか……」
「泳げないんじゃなかったのか」
「板か何かを持って、バタバタすれば……」
「その格好でか」
「……がんばれば何とか……」
「死ぬ。やめとけ」
「ううっ」
「あきらめて柵を登れ」
「そうするしかなさそうね」
ラトゥースは両手に息を吹きかけた。暖を求めてこすり合わせる。手が潮風にべたついた。
「もう二度とこんなヌルヌルするとこ、歩きたくない」
ハダシュは鉄柵に手をかけた。揺すってみる。
「開く?」
「開くわけないだろ」
かんぬきに絡みついた鎖はざらざらにさびていた。足をかけてよじ登り、上部の隙間から反対側へと身体を押し込み、飛び降りる。
「やってみろ」
そう言うと、ラトゥースは頰をふくらませた。
「そんな猿みたいなまね、できるわけないでしょ」
「じゃあ置いていく」
「ひどーい。薄情者ぉー」
ぽんぽんと交わす、たわいのない軽口が、今はぬるま湯のように心地よかった。
すべてが解決したわけではない。それでも脱出の糸口を見いだせた安堵があった。先行きの見えない不安も、薄紙を剥ぐように少しずつ取りのぞかれてゆく。
「つまらない文句を言ってる暇があったらさっさとやれ」
ハダシュはからかいの笑みを浮かべて、顎をしゃくった。
「ハダシュの意地悪。覚えておきなさいよ」
ラトゥースはろうそくをギュスタに預け、目も当てられない鈍重さでのろのろと柵を登った。何とかてっぺんにたどりつく。
「うう、狭い」
ドレスのすそがあちこちの突起に引っかかるのを無理やり引っぱっているうちに。
ラトゥースは手をすべらせた。真っ逆さまにハダシュの腕の中へと落下する。
「姫、おけがは」
ギュスタが声を高くして、柵越しに駆け寄る。
「してないと思うぜ」
ハダシュは腕の中のラトゥースに声をかけた。ラトゥースは、ぎゅっと閉じていた目をおそるおそる開けた。
眼が合う。とたん、真っ赤な顔でハダシュの腕から飛び降りた。
「変なところ触ってないでしょうね」
「触ったが何がどこにあるかも分からなかった」
ハダシュはにやりと笑う。ラトゥースは両手で胸元を隠しながら、ドレスの襟をかき合わせた。
「何よ、失敬な。私だってもう立派なレディなんですからね? あれこれいっぱい着込んでるから分からないだけで、脱いだらそこそこすごいんだから! そりゃあ、シェイルにはかなわないけど!」
子供じみた愚にも付かない抗議を無視し、ハダシュは鉄柵の反対側、元いた側を振り返った。
ギュスタは、目も当てられない、と言った顔をしていた。何も見なかったことにしたらしい。
「よし、来い。次はあんたの番……」
気安く声をかけようとした、その瞬間。
ギュスタの身体が、激しいきしみを立てて鉄柵に叩きつけられた。絶叫が夜闇に響きわたる。
「何、いったい……!」
ラトゥースが立ちすくむ。
黒い水がギュスタの足元に広がった。ペンキの缶を倒したかのようだった。ねっとりとした液状のしたたりが、運河へと流れ落ちてゆく。
「……お逃げ……くださ……」
柵の隙間から、震える手が差し伸べられる。
ちぎれた銀の鎖と、黒いペンダントがこぼれ落ちた。涙にも似たきらめきが一瞬、闇に散る。
ラトゥースはペンダントに飛びついた。跳ね転がって運河に落ちる寸前、手をいっぱいに伸ばしてすくい取る。
ギュスタが血を吐いてくずおれる。
その背後から、入れ替わるようにして黒い服を着た男がゆっくりと立ち上がった。
手には、血染めのナイフ。
ふいごを押すのにも似た、しわがれた呼吸音が聞こえた。
取り落としたろうそくが、地面に転がったままほそぼそと燃えている。
男は、柵にもたれかかって死んだギュスタの身体を残酷にも踏み台にして鉄柵を登った。柵の一番上から鈍い音を立てて落ちる。まるで、死体が動いているかのようだった。
ラトゥースは返す鞭のように後ろへ跳ね飛んだ。
「何者!」
銃をホルスターから引っこ抜く。両手で真正面に構えた。狙いを定める。
「下がってろ」
ハダシュはラトゥースの腕を掴んだ。虚を突かれ、ラトゥースはよろめいた。
ろうそくの火が、波のしぶきを受けて、一瞬、消えそうなほど揺らいだ。影が伸び縮みする。
「来ると思ってたぜ、ハダシュ」
おそろしくしゃがれた声が、ふいごの呼吸音とともに吐き出される。
這いつくばった姿勢のまま、男はぞっとする緩慢さで顔を上げた。
喉に巻いた包帯が、死神の衣のようになびく。
虚々実々に躍る、その影。
光と闇が照らし出す、その顔。
あの夜見たものと同じ、その、青い眼に。
ハダシュは狂ってしまいたいとさえ思った。
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