第37話 隙間から差し込む光

 ギュスタはラトゥースの顔を認め、力なく肩を落とした。

「罰を受ける覚悟はできております」

 ラトゥースはかぶりを振った。穏やかに命じる。

「誰に、何と言われたのか。すべてを告白してください」


 しん、と。息詰まる。

 波の音が壁を伝わって、絶え間なく打ち寄せた。自制心を持って抗わなければ、そのまま暗い海の底へ引きずり込まれてしまいそうだった。

 ギュスタの足元に揺らぐ影を、ラトゥースとハダシュは沈痛の面もちで見つめる。


「市井の保護なく暮らす者、あるいは食うに事欠き、ほどこしに頼るほか生きるすべのない子どもたち」

 ギュスタは眼を上げた。苦悩に満ちたため息をもらす。

「彼らが自由市民として個々に仕事を持ち、奴隷でも犯罪者でもない生活ができるようになるためには莫大な資金が必要でした。私は愚かにも金の力を借りようとし、それでも足りずに魂を売り、手を着けてはならない金を……使い込みました。それをローエンとカスマドーレに知られて」


 長い沈黙の後、ギュスタは続けた。

「借金のかたに、聖堂の骨を盗むようにと言われました。そして、何があっても──見て見ぬふりをせよ、と」

 渋い煙が上がった。湿り気を帯びた音を立ててたなびく。

 ラトゥースは枯れ草を火にくべた。


「あなたも、《竜の骨》と《竜薬》とを勘違いしたのですね」

 ギュスタは眼をみはり、ハダシュを見た。ハダシュは罪の宣告役を引き受ける。

「《骨》は猛毒だ。クスリの売人が目の色を変えてほしがるほどのな。あんたは奴隷商人に猛毒の原料を売り渡したんだよ」


 ギュスタは息を呑んだ。両手で顔を覆う。


「私は、私自身の手で、子供たちの自由を、未来を、命を奪ってしまったのか…… 己が罪の露呈を恐れたばかりに。あの子たちを裏切ってまで守るべきものなど、何もなかったのに」

 懺悔の声が小さくなった。


「姫がおいでになって、不遜な役人を追い払ってくださったとき。あの役人の言い草を聞いて私は心の中で悔やんだのです。『その通りだ、こんな慈善事業をして何になる。他人のために自分自身が苦しむ必要など、どこにもなかったのに、なぜ』と。それが自分の本心だったのかと思うと、なおいっそう、我が身がおぞましく思えました。一度は、罪を清めるため神に仕える身となったはずが、何も変わっていなかった」


 喉の奥からうめき声を絞り出す。


「いっそ、死んで詫びようとも思いました。でも、私一人が罰を受けて何が変わるだろうと……この街を腐らせてなおのうのうとしている元凶を思うと、いてもたってもいられなくなりました。どうせなら、死んだ人たち、罪もない子供たち、それに私自身がずっと抱き続けてきた呪わしい思い、母や妹が受けた屈辱と苦しみ。それを、奴に……レグラムに思い知らせてやるために」


 かすれ声が、罪を告白する。

「殺すしかない。そう思いました」


「あなたは卑怯です。ギュスタ・サヴィス」

 ラトゥースはふいに遮った。思いつめた瞳に揺らぐ火が映り込んでいる。海に沈む寸前の夕日のようだった。

「怒りと憎しみの業火に身を任せ、許されぬ血に手を染めて、それで亡くなった人たちが喜ぶとでもお思いですか」

「では教えてください」

 ギュスタは胸に手を当てた。ペンダントが揺れる。

「私に、何ができたというのです。犯した罪の償いとして自死を選べば良かったのですか。罪を悔い、刑に服せば、それでこの悪虐の街が変わるのですか。そんなことはない。言葉では、何一つ変えられはしない。何一つ」


 ギュスタは手の中につかんだ小石を、角がけずれて取れるほど握りしめた。


「罪なくして傷つく者だけが苦しみ続ける世の、どこに正義があるというのです。私の母も、妹も、レグラムによって汚され、自らの命を絶ちました。どんなに祈ってもどんなに訴えても、運命は変えられなかった。言葉は無力です。良心もまた、闇を光に変える力を持たなかった。どうせ変えられないのなら、いっそ……理想ではなく金を。言葉ではなく暴力を。良心ではなく憎悪を。悪には、悪をもってあたるしかない。それでも、なお、気高き理想だけを追えと、そう仰るのですか、姫……!」


 壁の向こうで、捜索のざわめきが聞こえた。

 ラトゥースはわずかに腰を浮かせた。腰のガンベルトへと手を走らせる。


「火を消せ。逃げるぞ」

 ハダシュはすばやく砂を蹴って火にかぶせた。城壁内が漆黒に塗り込められる。

「待って、ろうそくに火を移すわ」

 風に吹き消されそうな小さなともしびを手にするラトゥースの表情に、なぜかハダシュは声をなくした。


 理想、正義、良心。信念に支えられて凛と輝いていたはずの瞳が、今はほんの少し押しやっただけでも倒れそうなほど揺らいでいる。

 これほどまでに暗く深い闇を、小さな手燭ひとつで照らし出すのは、しょせん、無理だったのかも知れなかった。


 一時間ほど、足音を忍ばせて歩く。

 前方の壁に、崩れかけた隙間があった。光がこぼれている。

 ハダシュは裂け目に近づき、慎重に外をのぞいた。

 運河の縁から霧が這いのぼり、遠い街の光にぼんやりと鉄色のかさをまとわせている。

 磯の匂いがした。

 人の声はない。


「ここから外に出よう」

 ハダシュは石レンガに手をかけた。揺すぶると、もろくなったモルタルがくずれた。石が外れて足元に落ちる。

 後ろに下がる。肘がギュスタに当たった。

「お怪我はありませんか」

 ギュスタが手元をのぞき込む。黒いペンダントが胸元から傾いて、鈍い光を放った。おそらくはサヴィス家のものであろう小紋章が浮き彫りされている。

「どうってこと……」

 倦んだように言いかけたとき。

 魔女の手のような悪寒が、ひやりと首筋を撫でた。背筋が粟立つ。


 ハダシュは、ギュスタのやつれた表情をあらためてまじまじと見返した。

 ギュスタの整った顔が、わずかにこわばる。

「何か」

「いや、何でもない」

 ハダシュは眼をそらした。あえて、もやもやする気持ちを強引に頭から追い出す。


 裂け目を何とか人一人通れる隙間にしようと、かがみ込んで石をどける作業を始める。

「私も手伝うわ」

 ラトゥースが隣にやってきた。

「邪魔だ」

 ハダシュは焦る心地を持て余し、思いあぐねて、心にもないことを言った。

 ラトゥースはけげんな顔をする。

「何、今さら。何なの」

「足の上に石が落ちるぞ」

 ハダシュはぶっきらぼうにごまかした。肝心なことは何一つ言えないまま、壁を壊す作業に逃げる。


 壁の穴はすぐに大きくなった。

 だが、最後のひとかけらに手をつけた状態のまま。

 ラトゥースはなぜか動かなくなった。


「クレヴォー」

 ハダシュは無意識に名を呼んだ。ラトゥースが顔を上げる。

「ごめん、何でもない。ちょっと考えごとしてた」


 広くなった壁の隙間から、霧のまとわりつく光が帯状になって差し込んでいた。瓦礫の散らばる城壁内に、灰色の線を描き出している。

「その、」

 ハダシュは、ラトゥースが崩しかねていた最後の石を見やった。


「もし、お前が信じろと言ってくれなかったら、今ごろ俺はもう、とっくにどこかの暗闇でくたばってた。だから、少なくとも俺は、お前と……お前の言う理想ってやつを信じてやってもいいと思ってる」


「何。何なの。今さら」

 ラトゥースは大きく目をみはった。それから、若干照れたふうに笑う。

「これで、やっと広いところに出られるわね」

 二人同時に、最後の石を突き崩す。新たな道が広がった。

 潮のざわめきを胸に吸い込む。


 外に出る。手も届かないはるか頭上に、大きな石橋がかかっていた。そこだけがわずかに明るい。

 目の前は暗い運河。

 対岸すら見えなかった。

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