第36話 侵入者
最後飛ぶようにして階段を駆けくだる。ハダシュは水路に面した木戸を蹴破った。
砕けた扉を踏み越え、さらに一段低い水路脇の通路へ。
濡れて足場の悪い石積みの防波堤へ、横滑りしながら降り立った。左右を見渡す。
たいまつをかざし、追いすがる幾艘ものはしけ船。水面を叩く棹の水しぶき。
運河は血の色をすり流しながらあかあかと揺れていた。追い立てられる侵入者が起こす波紋を、くっきりと描き出している。
照り返しを受けた赤黒い曇天は、さながら内臓のような恐ろしい形に割れて空を押し潰すかのようだった。
「ハダシュ、あそこ」
ラトゥースが息を弾ませて指し示した。
「ギュスタ・サヴィス」
ハダシュは、声を押し殺して叫んだ。振り返った侵入者の驚いた顔までもが、波の向こうにはっきりと見分けられる。
「逃がしてやる。こっちに来い」
侵入者は大きな泡一つを残して水中に没した。ようやく追いついてきたラトゥースが息をつまらせる。
「だめよ、全然聞こえてない」
「逆だ」
「助けないと」
ラトゥースはいきなりドレスの裾をまくりあげ、運河に飛び込もうとした。
「馬鹿。そんなヒラヒラの格好で泳げるわけねえだろ」
ハダシュはラトゥースの腕を掴んで引き戻す。
「そうだった。泳げないんだった」
「泳げないのかよ」
「忘れてた」
凛とした青い眼差しが今は高まる緊張に揺れ動き、水面に立つ波だけを食い入るように見つめている。
「そこにも誰かいるぞ!」
夜空を切り裂く鋭い笛の音がひびきわたる。
「犬だ。逃すな」
投射された探照灯が足元に白く交差した。
「まずい。今度はこっちに気付かれた」
「わわ、それは大変」
ラトゥースは泡を食って、はしたない格好のまま後ずさる。
ハダシュは、水面に走る波紋を睨みつけて怒鳴った。
「俺が奴らの注意を引きつける。その間に、逆方向へ逃げて城壁に隠れろ。あの神官をひっ捕まえたら、すぐに後を追いかける」
ハダシュはラトゥースの腕を強く掴んだ。
言い聞かせるように、その青い瞳を見つめる。
「下手を打つなよ」
「ええ、分かったわ、撃たない」
ラトゥースは半分聞いていない。炎を睨んだまま、短く答える。
「気をつけて」
「余計なことするなよ、いいな」
追いすがる光、怒号、金具のぎらつき。
振りかざされる松明から、火の粉が雨のようにこぼれ、水面へと降りかかる。どこか遠くで銃声が聞こえた。一発。また、もう一発。
緊迫の渦中を駆け抜けざま、ハダシュは一気に運河へと身を躍らせた。
水しぶきが高くあがる。
ハダシュはわざと目立つよう大きな抜き手を切ってから、息をするどく吸い、身体を反転させて水底深くに潜った。暗黒を掻く別の水音が聞こえる。
みるみる、影に近づいていく。
ハダシュは逃げる人影の腰を掴んで水底に引きずり込んだ。激しく抵抗される。必死の眼がハダシュを睨んでいた。立ちのぼる無数の泡に取り巻かれ、掴み合い、もつれ合ううちに、相手の息が尽きた。
黒衣の男が喉をかきむしる。
なかば意識を失った相手の脇を支え、ハダシュはようやく水面に浮かび上がった。男の頭巾をはぎ取る。
思った通り、あらわれたのはギュスタ・サヴィスの顔だった。
背後を振り返る。追っ手の舟はなぜか、見当違いの場所に集まったまま、居もしない侵入者を捜して怒鳴り散らしていた。
手に、青い天鵞絨の帽子を吊り上げている。ぐっしょりと濡れた白い羽飾りが、やたらと目立っていた。
ハダシュは、片腕にギュスタを抱え、ゆっくりと泳ぎ出した。運河の縁へつかまり、ギュスタの身体を押し上げる。
頭上から、心許なげな声が聞こえた。
「無事でよかった」
ハダシュは顔も上げずに答えた。
「余計なことをするなと言っただろ」
「な、な、何もしてないけど?」
ラトゥースの手元からは硝煙の臭いがぷんぷんする。
「もういい。それよりこいつを運ぶ。手伝え」
「うん」
二人でギュスタを引き揚げる。ハダシュもまた、運河の縁へと上がった。全身から水がしたたり落ちる。
「こっちに来て」
ラトゥースは、城壁内部に格好の隠れ場所となりそうな裂け目を見つけていた。
二人がかりでギュスタを引きずり入れ、寝かせる。
中は真っ暗で埃っぽく、じめじめと土臭いにおいが充満していた。足下には端石が転がっていて、まともに歩くこともできそうにない。
「火を起こすわ」
燧石を擦る。切り火が散った。ぱっと燃えあがる。
ラトゥースのうら寂しい表情が、ゆらゆらと揺れて浮かび上がった。
「助かる」
ハダシュは手をかざして暖を取りながら、濡れた服を脱いだ。火を消さないよう、横を向いてしぼる。
上半身脱ぎ払ったところで、ラトゥースがぎくりと息を止めた。
「怪我した?」
ハダシュは濡れたシャツを手にしたまま、心外に思って振り返った。
「いや。どうしてだ」
「あ、ああ。そうか、ごめんなさい」
青い顔でラトゥースは口元を覆った。
「何でもない」
ハダシュはくちびるをゆがめた。この薄暗がりだ。背中の刺青を血と見間違えたに違いない。
シャツを振り、ぐっしょりとまとわりつく冷たさにもかまわず袖を通す。
火が狂おしく燃えていた。
ギュスタの息を確かめに傍らへと向かう。まだ気を失っている。
「死んでないよね」
「おぼれただけだ」
言いながら、胸の部分をいきなり強く踏みつけた。何度も圧迫する。
ギュスタは、むせ返って水を吐いた。
まぶたを引き剥がすような仕草で片眼を開ける。
ハダシュを認めると弱々しく呻いて肘をつき、上半身を起こした。
「なぜ、私を」
うつむいて、うつろにつぶやく。
その背後に、ラトゥースが近づいた。
「これ以上、貴方に罪を犯してもらいたくなかったからです。騎士ギュスタ・サヴィス」
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