第35話 青い天鵞絨の帽子

 身裡の奥が、ぞわりと騒いだ。

 飢餓感。

 ハダシュは歯を食いしばった。いつもこうだ。肝心なときに手がふるえ出す。仕事で下手を打ちたくない。仕方ない。アレをキメて、震える手を止めて。それでいつもの自分に戻れる。


 思い出すだけで恐ろしかった。禁断症状のすさまじさは筆舌に尽くしがたい。眼球に針を突き立てられる寸前のような、身もだえする予感が来たかと思うと、それは見る間に絶叫と失神の繰り返しへと変わっていく。その記憶が。

 蘇る。


「ハダシュ」

 抑えられてはいたが鋭い声だった。

 ハダシュは、はっと身をこわばらせた。

「傷が痛む?」

 青い瞳が大きく見開かれ、不安そうに揺れている。

 ハダシュは短く荒い息をつき、投げやりな笑みを作った。

「なんでもない」

 わななく手を握り込んで唇をゆがめる。


 やにわに、自身の愚かしい弱みを全てむしり取って投げ捨てたい衝動がこみあげた。身体の苦痛も心の弱さも、自分が犯してきた罪への罰だ。

 抑え込め。

 前だけを見ろ。

 過去を乗り越えなければ、悔いることも、償うことも許されない。


 ラトゥースは困惑した様子で眼のやり場を探し、とりあえずシャノアの夜景を見つめた。

 港の喧噪だけが、潮の匂いに乗って運ばれてくる。

「綺麗な街よね。ずっと見ていられる」


 ハダシュは身体が震え出すのを感じた。釘を打ち込まれたかのような尖痛が、脊髄に走る。


「何、どうしたの」

 ラトゥースが顔を上げ、ハダシュの背中をさすろうとして手をのばす。

「来るな」

 乱暴に払いのける。

「どうして」

 ラトゥースは弾かれた手をおさえた。声を詰まらせる。


 首筋にまで、ぞっとする鳥肌が這い回るような感覚。ハダシュは、血が出るほど唇を噛んだ。声が漏れそうになるのをこらえ、血走った目でラトゥースを睨む。


「ハダシュ、あなた、やっぱり」

 ラトゥースが、せっぱ詰まった表情で詰め寄ってくる。


「うるせえ」

 荒げたはずの声が震える。

 何度も落とされた、禁断症状という名の拷問。

 犬のように鎖でつながれ、全身をなぶりものにされ、理性のカケラもない狂気にたたき落とされて。

 自分は、クスリのためなら殺しでも何でもやる人間のクズなのだと、思い知らされ続けてきた。

 あの姿だけは、あの、おぞましい姿だけは絶対に。

 ラトゥースにだけは、見られたくない──


 血の気が引いた。暗くなってゆく。気を失ったのだと思った。


 それがなぜか眩しい金色に変わっている。天界を思わせる、すがすがしい、花のような、柔らかい太陽の光にも似た、ぬくもりの香り。


「ハダシュ」

 青い天鵞絨の帽子が、風に吹き飛ばされ闇の底へ舞い落ちていくのが見えた。羽根飾りの純白が、ひらり、ひるがえって。小さく消える。


 刹那の幻影が消え去る。


「苦しいなら、無理しないで」

 耳元に聞こえたのは、蚊が泣くよりも小さな声だった。


 声が聞こえてはじめて、華奢なはずのラトゥースに抱きとめられていると気づいた。

 膝が笑い、我知らずうめき声がこぼれ、痛みと自嘲に噛みしめた奥歯が軋る。

 唾棄したいほどの所在なさでありながら、そうと気づかないほど自失していた。

 うすら寒く汗が流れ落ちる。それでも、動けない。


「禁断症状ね……?」

 ハダシュは答えず、あえて乱暴にラトゥースを突き飛ばした。

 手を背壁につき、乱れた前髪越しに半ば憎々しいほどの眼でラトゥースを睨みすえる。弱みを見せたくなかった。


「無理しないで、やっぱりちゃんとしたお医者様に診てもらったほうがいいわ。レイス先生とか」

 ラトゥースが動転した口振りで言いかけるのを、灼熱の一瞥で黙らせる。

「レイスには関わるな」

 唇のわななきが治まらない。血がにじむほど、ぎりりと強く噛む。


 なぜ、突然、そんなふうに思ったのか分からなかった。内心、ひそかにずっと心の片隅に引っかかっていたことが、こんな瞬間に表に出てくるとは。


 傷を治す万能の薬。敵の攻撃をあっさり避けた一瞬の所作。ラトゥースを見る、あの眼。


 肩で息をする。喉の奥が、ひりひりと剥がれそうに痛んだ。

 拳で、汚れた唇をぬぐう。

 ハダシュは眼の奥でずきずきと赤黒く回り始めた眩暈の渦を押さえ込んだ。

「もういい。直った。これぐらい、どうってことはない。よくあることだ」

 掠れ声で吐き捨てる。


 突然、背後が騒がしくなった。運河の水面が、赤々とした火に照らし出されていく。

 ラトゥースは壁の向こう側に視線を走らせた。

 驚きの眼を押し開き、息をとめ、身を乗り出して。

 対岸の城壁を指さす。


「あそこ。誰かいる」


 朱金色に染まるさざ波が、闇と溶け合って騒然とざわめき、沸き立った。

 総督府側からせり出した跳ね出し歩廊から、いくつものまぶしい光が放射状に放たれる。

 火の粉を散らして燃えるたいまつが無数にかかげられる。銃を持った衛兵がぞくぞくと集まった。水面を指さし、大声で怒鳴る。


「あの神官かもしれねえ。行くぞ」

 ハダシュは水音を追って走り出した。

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