第34話 黒い船影

「何やってんだ、そんなとこで」

「シー、声が大きい。見つかっちゃう」

 ラトゥースが指一本を立てて、とがらせた甘い色の唇に押し当てる。

 その言いぐさからすると、どうやら本気で身を潜めているつもりらしい。

 今どきシーはないだろう。指先が触れた唇の色といい、子どもっぽい仕草といい。巡察使のような汚れ仕事をやる性分には見えない。

 笑うに笑えず、ハダシュはとりあえず視線をそらした。報告する。


「あの毒が何かはすぐには分からないが、イブラヒムは、《竜の骨》には毒がある、と言った。お前のいう《不老不死の薬》とは違うそうだ。でも、なんでそんな骨が聖堂や浜辺に転がって……」

 ラトゥースの表情が暗くなった。

「昔、戦争してたから」

「それとこの事件と何の関係があるんだ」

「あるかもしれないし、ないかもしれない。良き隣人ではなかった国が今も近くにある、と言うだけ」

 目つきが険しくなる。ラトゥースは、厚ぼったい雲のたれ込める海側の空を仰いだ。


「ギュスタ神官が、あなたのいう整理屋のローエンに連れられて行ったのは、おそらく彼が身の丈を超えた借金を重ねてしまったせいだわ。救貧の催しだって、タダではできない。言ってたもの。『名前を明かせない篤志家によってまかなわれている』って。そうまでして子どもたちを守りたかった理由は……」


「黒薔薇と銀ギルドが奴隷狩りで結託しているからだろ」

 ハダシュはそっけなく言った。ラトゥースは無意識にぶるっと震えた。おののく視線でハダシュを見やる。

「それをレグラムは銀ギルドから賄賂をもらって見逃している……」


 ラトゥースは自身に気合を入れるかのように、その場でこぶしを作って力を込めた。

「分かったわ。総督府に行きましょ」

「いきなり敵地へ乗り込むのか」

「まさか。もう二度と無茶はしないってシェイルと約束したもの」

 ラトゥースは手を振った。

「見張るだけよ。ギュスタ神官が無謀な行為に出ないように。これ以上、彼に罪を重ねさせるわけにはいかない」

 罪。なぜか、イブラヒムの言葉が脳裏にちらついた。裏切り。

 無意識にこめかみへと手をやる。

 触れた指先に生ぬるく冷や汗がぬめった。嫌な予兆だった。痛みもないのに、脳の一番奥に何度も閃光が弾ける。時計の振り子が立てる単調な音が次第に大きくなる。

 ただの幻聴だ。

 気のせいに決まっている。

 ハダシュは杞憂を振り払った。



 シャノア総督府は、海に切り立った城壁を幾重にも巡らせる、古風かつ堅牢な作りである。

 以前、ラトゥースがシェイルと訪れたときに何度も道に迷ったことから知れるように、街区全体が迷路になっている。

 毛細血管のように入り組んだ水路。

 各所に設けられた水門。

 自在にはね上げられる橋。

 それは、まるで、棒を一本書き加えただけで行き先が変わるあみだくじのようなものだった。


 灰色の空は、重たげな雲に覆われている。荒々しく流れる雲は風にちぎられ、今にも雨になって落ちてきそうだ。

 常日頃であれば、総督府周辺は、税関の手続きに訪れる商人や、歓楽街を探し、徒党を組んでくだをまく酔いどれ船員、しどけなく肌をあらわにした客引きの女たちでごった返している。

 それが、今は。

 物々しい衛視が辻という辻に歩哨に立ち、税関の手続きに来る長い列に対し、あからさまな敵意を向けて行く手をさえぎっている。


「ずいぶん滞ってるようね。あれじゃ業務にならない。よほど何か後ろめたいことがあるとみえるわ」

 ラトゥースが薄暗がりの中でつぶやく。


 ハダシュは先導して周辺の気配を探った。月のない夜道を歩くのは慣れている。


「行くぞ」

 親指をしゃくって合図を送り、物影を縫って走る。

 運河には防波堤をかねた低い城壁があり、随所に見張りのやぐらが設けられている。二人は木戸番のいないやぐらを選んで戸をこじ開け、内部に忍び込んだ。

 足音が反響する。

 暗く狭い階段を上っていく。途中、ところどころに鉄格子の入った矢狭間が切られていて、運河を行き来する船を監視することができるようになっていた。


「待ってよ。そんなに急がないで」

 ラトゥースはもう苦しげに息をはずませている。

「置いていくぞ。さっさと上がってこい」

 ハダシュはラトゥースを待って立ち止まった。物見櫓を登り切ったところで、ちょうど鐘が鳴り始める。


「ひぃ、ふう、みぃ……と。終わりの鐘だね。橋が閉まる」

 鐘の数は六。ラトゥースは両手を使って指折り数えた。やれやれとへたり込む。


 風が吹く。夜が来る。


 運河をまたぐ大橋の両端に、木枠に鉄を嵌め込んだ巨大な格子戸が落とされた。

 長時間待たされたあげく、上陸を拒否された商人たちが、不満の声を上げて門扉に寄り集まる。だがそれも長くは続かない。銃剣を手にした衛士が何ごとかを怒鳴ると、異国の行商人たちは蜘蛛の子を散らすようにいなくなった。


「さて、と」

 ラトゥースは埃をはたいて立ち上がった。強くあおってくる潮風に飛ばされまいと帽子をおさえる。

「行動開始ね」


 海から直接引き入れた運河に、ひたひたと黒い潮が満ちてゆく。

 波止場に揺れる、いくつもの燈火。

 等間隔で誘導する火に照らし出された川面かわもを、白い三角帆を上げた交易船が、音もなくすべるように進んでゆく。


 一方の港側では、夜にもかかわらずひたすらまぶしく、騒がしい。

 火という火を焚き、鏡を使った投光器で港全体を照らす。荷揚げのてこが軋みをあげ、荷役の労務者が汗を飛び散らせ、段取りの悪い監督を罵倒するいくつもの怒声が飛び交い、物の壊れる音、銅鑼、鋭い笛の音が、混然一体の騒音となって入り交じる。

 その劇的な賑やかさとは正反対に──


 城門で閉ざされた陸側は、陰鬱なレンガの土影に塗りつぶされ、明かりひとつない。

 どちらも同じシャノアのはずなのに、灯がともり、金と物資と娯楽が行き交うこの一角だけが、文明という名の享楽を突出して甘受できる別天地だった。


 ラトゥースは港から眼をそらした。望遠鏡を取り出し、引き伸ばしてレンズの位置を調整し、遠い海を見つめる。

「沖合にずいぶん大きな船があるわ。暗くてよく見えないけど。月が出ていればもう少しはっきり見えたのに」


 ラトゥースは望遠鏡を目から離し、指さした。

 商船用の錨地に、灯りを伏せた黒い船影が浮かんでいる。闇に溶け込む三本マスト。貨物船にしては妙に乾舷が高く、直線的で一段と高い後甲板を持ち、そこに並ぶ窓だけから黄色い明かりがかすかに洩れている。

 船尾に掲げられているはずの所属旗は暗くて見えない。上がっていないのかもしれなかった。


「何かしら、あの船。フリュート貨物船にもクリッパー高速船にも見えないけれど。どう思う?」

 ラトゥースは胸壁に肘をかけ、身を乗り出す。


 ハダシュはわずかに身体をふるわせた。船の種類など見分けがつくわけもない。

 とにかく潮風が寒かった。石積みの壁に直接触れたところから冷気が伝いのぼってくる。耳鳴りがした。ラトゥースの声がやたら遠い。

 悪寒。指先をつぶされるようなしびれ。

 冷たい脂汗がにじむ。


「ハダシュ、聞いてるの」

 問いただされ、ハダシュは我に返った。ラトゥースの真摯な顔が驚くほど近い。

「ほら。あれ。見て」

 望遠鏡をひょいと投げ寄越してくる。


 とっさの反応ができず、掌の上で望遠鏡がはねた。かろうじて紐が指にからまる。

「ああ」

 手に力が入らない。


(刻みつけてあげる)

(裏切ると後がキツイアルよ)


 艶めく女の声と、皮肉なだみ声と。眩暈のような、二重になった声が頭の中に響いた。

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