第39話 豪雨

 雨を含んだ風が吹きすぎる。頬に生ぬるい一粒が当たった。

「どうしてお前が」

 それだけしか言えない。

「確かに殺したはずなのに、か」

 襲撃者のもらす、煤煙にも似た吐息が、血と腐臭に染まって毒々しくたなびいている。

 それは、なつかしくも恐ろしい──


 あの日ハダシュが手に掛けてしまったと信じ込んでいた男の、醜く変わり果てた声だった。

 偽者などではない。見れば分かる。他の誰でもない、かつての友、ローエン。

 生きていてくれたという安堵があっていいはずだった。

 だが、そんな偽善めいた感傷を容赦なく否定する憎悪の視線が、ハダシュを打ちのめす。


「残念だったな。そう簡単に殺られてたまるかよ。馬鹿にしやがって」

 ローエンは、気味の悪い笑いでハダシュの思いを遮った。灰色の歯茎を剥き出す。

「黒薔薇の頭領から、てめえに伝言だ。今頃、おめおめと逃げ出して何になる──何十人と殺してきた殺人鬼の分際で」


 言葉の棘が、心臓を鷲掴む。


「てめえに殺された人間が生き返るとでも思ってんのか。死人どもの家族が笑って許してくれるとでも。つけあがるな、人殺しが。もう戻れないんだよどこにもな!」


 言い放った声に引きずられ、ローエンは咳き込んだ。顔がゆがんでいる。


「ローエン」

 胸のちぎれるような後悔に、だが今、無為にとらわれるわけにはいかなかった。

 ハダシュは息詰まる思いを振り捨てた。

 おそろしくゆっくりと訊く。

「なぜ、黒薔薇に加担してまで、俺を狙う」


「あのひとのためだ」


 ローエンの口元が、手負い特有の凄惨なかたちに笑みくずれた。

 額に汗が滲み出している。瀕死の呼吸だった。

 ハダシュはローエンの喉を見やった。

 血の滲む包帯の端がほどけて、ぶざまにたるむ。その下に、生肉を包む脂の膜めいた半透明の皮が貼りついていた。


「あんなひと、見たことねえよ。俺のことなんか鼻にも引っかけねえ、てめえの思ってることしか頭にねえ。なのに、目的のためなら俺みたいな下らないド底辺のチンピラにまで、かなわねえ夢を見せてくれる……そんな震い上がるぐれえ恐ろしい女が」


 ローエンは血脂の付いたナイフを、かなぐり捨てるように振り払った。


「好きで好きでたまらねえ、と言った。俺のことなんかこれっぽちも見てねえくせに、手に入れられないぐらいならいっそ殺してほしいとか抜かしやがった。死にかけてる俺の目の前で、くすくす笑いやがって、あの女」

 ハダシュは固唾を呑んだ。


「ハダシュ、てめえをだ」


 ローエンの眼に青黒い炎が上がる。

「絶対に許さねえからな」


 獣の咆吼をあげ、ナイフを腰だめにして飛びかかってくる。

 ハダシュはラトゥースを背後にかばいつつ、ローエンの手首をかいくぐった。切っ先を払い、肘の関節を逆にひしぐ。

 ナイフが石壁を削った。火花を飛ばす。尖った音がきらめいて水の中に消えた。


「やめろ」


 誰に聞かれるとまでは意識しなくとも、それ以上、ローエンにれ言を言わせたくなかった。


「俺には関係ない」

「ふざけるな。何も終わっちゃいねえ」


 ローエンは腕を押さえ、歯をむき出し、荒い息を漏らした。狂気めいた情炎がぎらぎらとただれ落ちる。

「殺すか、殺されるかだ」

 むしゃぶりつくようにして殴りかかってくる。


 避けきれず、こめかみに一発をくらった。壁に跳ね飛ばされる。一瞬の痛みのあと、視界が血の色の砂嵐でゆがんだ。

 ラトゥースの姿が逆さまに見えた。

「撃つな!」

 気をそらすため、わざと視線を虚空へずらし怒鳴りつける。


 ローエンはつんのめった。舌打ちして後ずさる。


 ハダシュは壁にもたれかかった。後ろ手にぐらぐらする煉瓦の突起を掴み、どうにか上体を支える。

 倒れた拍子に頭を強打したらしい。ぬるい血が、耳の後ろを蛇の舌のように這いつたった。寒気がした。

 割れた煉瓦のかけらがくずれ、足元に散る。頭の中で激痛の轟音が鳴り響いていた。視界はいまだ中途半端に暗転したままだ。平衡感覚も取り戻せない。


 ハダシュは、濡れたこめかみを手の甲で拭った。ざらりとした血と砂の感触が擦りつけられる。

 と、見せかけて握り込んだ石を投げつける。


 鈍い音がした。石の直撃を顔面に受けてローエンの身体がのけぞる。矢継ぎばやにみぞおちへ蹴りを入れる。

 たまらず吐きながら膝をつくローエンの耳めがけて、結んだ両の拳を叩き込む。ローエンはつぶれた呻きをあげて水路に転落した。黒い水飛沫が上がる。


「てめえごときに俺が殺れるとでも思ったのか」


 ハダシュは傍らに唾を吐いた。青ざめた声で斜に見下す。

 ようやく上がってきたローエンの恨みがましいびしょぬれの髪から、ぼたぼたと水のしずくが落ちていた。

 ローエンはうつぶせに這いつくばり、声を枯らして咳き込んだ。喉をつかんだ手が、どす黒く汚れている。

 いや、そうではない。汚れに見えたものは火傷の痕だった。黒薔薇をかたどった、奴隷の焼き印。

 ハダシュは愕然と印を見やる。


 食い入るような視線に気づいたのか。

 ローエンはふいに粗暴な笑みを浮かべた。見せつけるかのように拳の背を撫でまわす。


「その顔。知ってる顔だな……」


 刹那、ハダシュはローエンの顔面を蹴倒した。

 その足にローエンが食らいついた。油断していたわけではない。だが、命を半ば捨てたローエンの動きについてゆけなかった。

 そのまま引きずり倒され、馬乗りになって一方的に殴りつけられる。

「どこだ。見せろ。言え」

 髪を鷲掴みにされ、地面に押さえつけられる。

「どこに刻まれた。皮ごと剥ぎ取ってやる」


 一発。二発。骨に響く拳が意識を砕いてゆく。ハダシュは呻きながら、ただ無力に殴られ続けた。


「そこをどいて! ハダシュから離れなさい!」

 ラトゥースが引き金を引いた。銃声がとどろく。ローエンは、にやにやしながら顔を上げた。威嚇射撃だと分かっていたらしい。ハダシュと、ラトゥースの間に挟まれた形になっていながら、平然としている。


「クソが……邪魔するんじゃねえよ」

 ハダシュは殺伐としたしゃがれ声を上げた。

 よろめき、口の端をぬぐって立ち上がる。足がふらついた。めまいに、泥と鉄錆と生臭い磯の味が入り混じる。

「足手まといだ。どいてろ。近づくな」

「馬鹿言わないで。どうして」

 ラトゥースが悲鳴にも似たかぶりを振る。


 ハダシュとラトゥースに挟み撃ちされ、身動きもならないはずのローエンは、だが、怖れる様子もなかった。

 毒のしたたる目線をラトゥースへと向ける。


「てめえがこんな小娘を連れ歩くとはな。らしくもねえまねを」

 上から下までねぶるように見回し、色の悪い唇を舐め、あざ笑おうとして。逆に血を吐く。


 ぽつり、またぽつりと、暗い雨が落ちてくる。勢いは次第に強さを増し、やがて車軸を流すような激しい豪雨に変わった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る