第32話 ギュスタ・サヴィスの正体

「てめえの仕業か」

 ハダシュは親指を下に向けた。扉の一番下に、上から見えないよう、わざと曲げた釘が打ち込んである。

 暗闇にシェイルの鋭い視線が光った。

「貴様がいれば、姫様が危険な目に遭う」

「知ったことか」


 ハダシュはシェイルの顔の前で、力任せに扉を閉めた。


「あら、シェイル、お帰りなさい。疲れたでしょ」

 ラトゥースが駆け寄ってくる声がした。ハダシュは鼻に皺を寄せた。

「さっき、どんどん言ってたけど何? あれ、開かない。ハダシュ、中から開けてくれない?」

 ハダシュはしぶしぶ、戸を開けた。


「ああ、重かった」


 ラトゥースはこわばった両手をぶらぶらと振った。どこから運んできたものか。赤い革張りのトランクを引きずっている。

「はい、カギ」

「恐れ入ります」

 シェイルがトランクを受け取った。壁際へと運んでゆく。


「先生はもう帰ったのか」

 ハダシュはぶっきらぼうに訊ねた。

「ええ。ずいぶんとお急ぎのようだったけど、送って行くのは丁重にお断りされたわ。身分を明かせない相手の秘密の治療を任されてるんですって。医者の守秘義務とかなんとか」

 ラトゥースはちいさく含み笑った。

「あれだけの医術を独学で学んだのなら、本当にすごい話よね」

 ハダシュは答えなかった。


 シェイルがためらいがちに口をはさんだ。

「姫様。実は、お耳に入れておきたいことが」

「ギュスタ神官の行方が分かった?」

 ラトゥースが表情を輝かせる。

 シェイルは首を横に振った。

「いえ、それは、まだ」


 居心地の悪い沈黙が続いた。シェイルもハダシュも、それぞれの思惑を秘めた眼で、ラトゥースを見つめる。

 ラトゥースは手で顔を半分覆った。

「どうして行方をくらましたりなんかしたのかしら。そんなことする必要なんてないのに」


 その様子を見たシェイルは、胸の内に溜め込んでいた息を吐いた。重い口を開く。

「姫様は、ギュスタ・サヴィスの正体をご存じない」


「どういうこと?」

 ラトゥースは、弾かれたように顔を上げた。心もとなく揺れるまなざしで、シェイルを見返す。


 シェイルは思い詰めた顔を伏せた。言うべきか、言わざるべきかとためらって唇を噛む。

「言って」

 ラトゥースが押し殺した声でうながす。シェイルはうなずいた。

「ギュスタ・サヴィスは……エルシリア出身の騎士です。かつては王国騎士団の一員でありました」


 ラトゥースは目を丸くした。声を裏返らせる。

「何で。そんな重要なことを、どうして今まで」

 シェイルの表情に苦悩が混じるのを見て、ラトゥースはささくれ立った声の調子を鎮めた。

「ごめんなさい。続けて」


「十年前のことです」

 重苦しい記憶が、シェイルの表情を苦悩にゆがませる。

「当時、サヴィス家には、若くして家を継いだギュスタの他には病弱な母と幼い妹がいただけと聞き及びます」


 ふいに風が鳴った。壁にかけられた黒金の古いランプが、すきま風に火を揺らがせる。今にも消えそうなほど細く、くらく、弱く。


「ギュスタはまだ若く、しかし孤独な騎士でした。我々の王国も建国されたばかり。世情も今ほど平穏ではなく、建国を支えたエルシリア騎士の重圧は特に大きく。騎士としてもまだ駆け出しであったギュスタは、仕方なくレグラムの口利きで王都ハージュへとおもむき、下士官として軍に入隊することになりました」

「レグラム……シャノア総督の?」

「以前にも一度、申し上げたはずです。レグラムは、当時、ハージュの役人でした。ですが」


 陰鬱の火がゆれる。芯が焦げて、苦い煙がたちのぼった。


「奴は、当主ギュスタへの恩義につけ込み、何の罪もないサヴィス家の女たちに対して」


 シェイルはランプに油をつぎ足すために席を立った。

「……自ら死を選ぶほかないほどの屈辱を与えました」


 ラトゥースは手で口元を覆った。

 長い沈黙の後、ふたたび灯りが戻ってきた。背を向けたシェイルの肩越しに、新しく灯した光が丸くひろがっていく。


「雪と氷の湖のほとりに、母親の指輪だけが落ちていたそうです。誰もが……誰しもがレグラムこそが罰を受けるべきだと言い、法の裁きもまた、それが当然と結論づけました。なのにサヴィスは裁判の場に引き出されたレグラムを前に、愚かにも逆上し、我々の制止を振り切り、何人もの警備兵を傷つけてでも自らの手で憎むべき相手を断罪しようとし……敵わぬと知るや、エルシリアから逃亡しました」


 どこか遠くの闇から、悲鳴のような犬の遠吠えが聞こえてきた。

 シェイルは壁に向かったまま、握ったままの手を棚の上に置いた。


「聖堂の催しでサヴィスと再会したとき、よほど姫様にもこのことを申し上げようかと思いました。憎むべき仇であるレグラムのいる街に、サヴィスがいる目的は一つしか考えられない。……ですが、神に仕え、自らの罪を償おうとしているのであれば……姫様がその男を救おうとするのと同じように、私も…… たとえ、過去がどれほど罪深くとも、その秘密をあばくのはあまりに忍びないと思いました」


 シェイルは、ゆっくりとハダシュへ目を移した。


「姫様は、王国巡察使でいらっしゃいます。我々の役目は、治安を維持し、法を遵守し、刑罰を執行すること。罪を許すのも、過ちを正さない者を罰するのも、同じ我々の役目です。もし、ギュスタ・サヴィスがふたたび怒りと憎しみに身をゆだね、因縁の罪を重ねることで人と社会に対し害を成すのであれば、法の名の下に、今度こそ彼は断罪されねばなりません」


 ラトゥースは、ゆっくりと深呼吸した。

「ありがとう。言いにくかったでしょ。よく言ってくれたわ」

 立ち上がり、部屋の隅へゆき、トランクをあける。

 トランクは雑然とした荷物で埋まっていた。一番奥の底に埋もれていた古い書類の束をひきずりだす。

 深紅の革で装丁された書類。それはクレヴォー家のサインが入った、指名手配一覧の書類だった。

 埃を払い、ゆっくりとひもといて、大罪の項目を開く。

 ラトゥースは中の一枚に目を留めた。そこに書き付けられた名を、指でたどりながら確認する。


 ギュスタ・サヴィス。罪名、兵士五人殺し。大罪。


 絞り出すような深いため息をつく。

 ラトゥースは書類の束を閉じた。元通り、トランクに収める。

「ギュスタ・サヴィスを黒薔薇の協力者として指名手配して。ただし組織の全容を解明するため、必ず生きて捕らえること」

 暗い表情で付け加える。

「もし、子供たちや病気の人に見せていたあの顔が全部嘘だったとしたら、私も、彼を許さないわ」


 それは王国巡察使としての義務だった。

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