第31話 「会うたびに新しい怪我が増えているような奴は、いっそ全身拘束して牢屋に放り込んでおいた方がいい」

「まさか、そんな」

 ラトゥースは愕然と眼を押し開く。シェイルは腰の剣を確かめた。視線を四方へ配る。

「私はギュスタを追います。姫様はその男を連れて宿へお帰りください。罪人を野放しにはできません」

「だめよ。私も」

 言いかけたラトゥースを、シェイルは激情の波にも似た視線で射抜いた。

「これ以上、余計な心配事を増やすのはおやめください。よろしいですね、姫」


「そんなに心配なら、俺が連れて帰ってやるよ」

 ハダシュは冷ややかに笑った。血まみれの顔で、平然とうそぶく。

「貴様が最も信用ならんから言っている」

 シェイルが吐き捨てる。

「疑うなら勝手にしろ」

 ハダシュはあからさまな侮蔑の態度を見せたあと、歩き出そうとして長椅子の背を掴んだ。

 頭に受けた傷から流れ出る血のせいで、一歩歩くたびに、足跡そくせきが血だまりの川へと変わってゆく。


「あの日、あいつがローエンと一緒にいるところを見たんだ。カネの相談をしていた。それで俺の顔を見て逃げ……」

 そこまで言ったあと。ハダシュは唐突に膝から沈んだ。前のめって倒れる。

 ラトゥースは悲鳴を上げ、ハダシュを支えた。

 赤く濡れた髪から、黒ずんだ滴が伝い落ちる。犬が水を飲むような音がした。滴が床に跳ねる。


「分かったら、さっさと宿へ連れてお行きなさい。そのままでは死にますよ」

 シェイルが冷徹な声で指示する。

「分かった。レイス先生に診ていただくようお願いするわ。大丈夫? 馬車まで歩ける? ハダシュ、しっかりして」

 ラトゥースは蒼白の唇をふるわせて、ハダシュの耳元に声を吹き込み続けた。



「説明しろ、と言ってもどうせまたはぐらかされるんだろうけどね。生きてるのが不思議なぐらいだよ」

 レイスの声だ。耳元ではさみを鉄の皿に放り込む音がした。

「眼が覚めたんなら、黙ってないで礼ぐらい言ってもらおうか」


 ハダシュは、疲れた笑いでいなし返した。

「まだいたのかよ先生。いつまで居座る気だ」

 しゃべる声からも血の匂いがした。


「あの酔いどれ親父以上の怪我を背負い込んで帰ってくる馬鹿さえいなければ、今ごろはもう、診療所に帰って楽しく一杯やってるはずだった」


 ぶつぶつと文句を垂れながらも、血のついた白衣の袖をまくり上げ、真鍮の水盤に張ったアルコールで手を消毒し、頭皮の裂傷を調べる。あちこちこつこつと叩いて骨に異常がないことを確認してから、油紙で包んだ小さな瓶を取り出した。

 薬さじで中身の白い粉を取り出し、油と混ぜて練り始める。

「なんだよそれ」

「消毒用の砂糖だ。塗っときゃ治る」

「実は塩とかじゃねえだろうな?」

「いっそ粗塩を全身にすり込んでやりたい気分だ」

 軟膏を塗った上に、酒に浸した生皮めいたものを適当に貼り付ける。それで処置は終わり。レイスは手を洗った。


「もうあまりにも毎度のことすぎて、真面目に治療する気にもなれないね」

 言いながら、次は、両手からこぼれるほどの大量の包帯をカバンから取り出す。


「待て、おい、何だそれは。ぐるぐる巻きのミイラにする気か」


 ハダシュはたじろいだ。振り返ったレイスは、眼鏡の位置を直し、ニンマリ笑った。

「会うたびに新しい怪我が増えているような奴は、いっそ全身拘束して牢屋に放り込んでおいた方がいい。そのほうがよほど安心できる」


「本当にすみません、レイス先生」

 開きっぱなしのドアをノックして、ラトゥースが入ってきた。

「全部、私のせいです」

「いやいや滅相もない」

 レイスはころりと態度を変えた。手を拭きながら愛想よく答える。

「何のこれしき。大丈夫ですよ。この程度の傷なら。ハダシュ君は石頭ですからね。少々殴ったぐらいでは壊れません」

「先生の薬のおかげだ。いつも思うけど、やたらとよく……」

「むしろ治療しないでベッドに寝かしつけておいた方が、よほどましな気がしてきたよ。今回だけはさすがに少々、私も苛立っている。治せば治すほど怪我が増える」

 刺のある声だった。レイスの視線に、ハダシュは今までと違う苛立ちを感じた。先ほどまでの愛想の良い表情はどこにもない。


 レイスは咳払いした。診療鞄を引き寄せ、居住まいを正して、ラトゥースを振り返る。

「申し訳ありませんが、ラトゥース姫。私は、ここでおいとまをさせて頂きたい。次の往診があるのです」


「ええ、それは、もう。お忙しいのに先生にはご迷惑ばかりをおかけして」

 ラトゥースははらはらと心苦しい様子で、両手を前に結び合わせる。

「よろしければ、御用の先まで馬車でお送りさせていただきますわ」


 ハダシュは横目でレイスを見やった。レイスはわずかに顔を伏せた。

「いや、結構。気づかいは無用です」

 眼鏡の表面が、表情を秘め隠して白く光っている。

「いいえ、遠慮なんかなさらないで。どうぞ、こちらへ。悪いけどハダシュ、この部屋でお留守番しててくれるかしら」

「留守番じゃなくて勾留、投獄の間違いじゃないか」

 ハダシュは幻滅混じりに吐き捨てる。


 レイスは名状しがたい表情を作って、ぐるぐる巻きにしたハダシュの傷を見やった。

「そうか。君は官憲に拘束中の身だったな。できるなら連れ帰ってやりたかったが、どうやら無理のようだ」

 その次に見せた表情は、もういつものにこやかなレイスの顔だった。


「ではここでいったんお別れしよう。いずれ自由の身になったら、診療所に寄ってくれ給え。必ずだよ。では、姫。私はこれにて」

 言い置くや、そそくさと診療鞄を手に部屋を出て行く。


 ラトゥースもまた愛想良く、何のおかまいもしませんでとか何とか、やたら気安い見送りの言葉を並べ立てながら、レイスについていそいそと出て行った。

 足音が遠ざかる。

 ハダシュは半開きの戸を見やった。

 また、開きっぱなしだ。


「馬鹿か、あの女」

 ハダシュは、椅子代わりにしていたベッドから降りた。闇へと誘う戸を閉めようとする。

 だが、建て付けが悪いせいか、何度やってもきちんと閉まりきらない。

 いっそ、扉を蹴飛ばそうと思ったが、すんでのところでやめにした。変にどこかが壊れて、逆に開かなくなったりしたら困る。


 気配がした。乾いた靴音が近づく。角に隠れていたらしかった。

「なぜ逃げない」

 シェイルの声だった。

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