第30話 取り返しのつかない傷
あのとき──
ジェルドリン夫人を殺す前の夜。ハダシュは確信した。この男は、ローエンが整理屋へ連れてゆくとうそぶいていた──罪におののく眼をした神官。
「何で、てめえがここにいる」
ハダシュは神官を突き飛ばした。
「それはこちらの台詞だ」
神官はくずおれ、力なく膝をついた。床に落ちた青銅の天使像へと弱々しく手を伸ばす。
天使の顔には、醜い傷ができていた。
神官は指先で何度も天使の顔を拭う。傷は深く、簡単には癒えそうにもない。
取り返しのつかない傷だった。
だが、もしかしたら。それは今付けられたばかりの生々しい傷などではなく、もっと以前から人知れず刻み込まれ続けてきた後ろ暗い傷なのかもしれなかった。
心許なく揺れ動く薄明に染め上げられ、懺悔の塔はふたたび異様な静けさへ戻ってゆく。
ハダシュは恐ろしくこわばった表情を作って神官と向かい合った。
神官は、食い入るように天使像を見つめていた。
「クレヴォー様がお連れになった罪人というから、誰かと思ったら。まさか、カスマドーレの……
青白い顔で呻く。
「あの御方までが、まさか」
「ふざけるな」
ハダシュは、神官の口からもれた名に侮蔑の表情をうかべた。
「銀ギルドか。分かった。俺もガキの頃にさんざん世話になったからな……あの野郎は、ガキを狩り集めてバクラントの鉱山に売り飛ばす奴隷商人だ! あんなド外道のクソ野郎と、あいつを……あの小娘を一緒にすんじゃねえよ。てめえこそ、あのときローエンとつるんで何をやってた!」
神官は言葉を呑み込んだ。黒のペンタグラムをまさぐり、握りしめる。
「ああ、そのとおりだ。何という冒涜を、私は」
わななく声で悲痛につぶやく。
「神に仕える身でありながら、教えに背き、罪に怯え、罰を恐れ──こんなことなら、あの方にお会いしたその時に、汚れたこの身を投げ出し、真実を伝え、赦しを請えばよかった。秘密を塗り隠し、罪に罪を重ねるぐらいなら、いっそ」
掌が白くなるほど握りしめられたペンダントの形に、ハダシュはふとめまぐるしいほどの既視感を覚えた。
確かに、どこかで見た記憶がある。
これとよく似た、だがまったく違う別の何か。追い詰められたかのような強迫感が、心の深い部分に食い込んで離れない。
それでも、やはりどうしても思い出せない。
絶望の吐息が聞こえた。
はるか遠くから、時を告げる荘厳な鐘の旋律が鳴り始める。高く、低く。
「でも、もう遅い。知られてしまったのなら……もう」
神官は拾い上げた天使像を手に、ひどくゆっくりと振り返った。
そのころ、ラトゥースは懺悔の塔に繋がる礼拝堂の席について、ぼんやりハダシュを待っていた。
隣の椅子で待つシェイルを見やる。
珍しいことにシェイルは首を垂れ、こくり、こくりと居眠りをしていた。
連日の激務は深夜におよぶ。相当疲れが溜まっているのだろう。ラトゥースはそっと、自分のショールをシェイルの肩にかけてやった。
「もうお嫁にいけない……」
むにゃむにゃと寝言をつぶやいている。
いつの間にか外はまぶしく白んでいた。
天窓から射し込む光が明るく感じられる。
噴水になった聖杯から、泡立つ小さな音を立てて水がこぼれ、光るしずくを跳ね散らす。
見上げる天井のフレスコ画も、まばゆいばかりの色彩であふれている。
楽器をつまびく天使、花一輪を手にする妖精、眠る猛獣の隣で草を食む子羊。
理想郷を描く壁画に、自らの夢想を重ねる。
朝の鐘が思いも寄らぬ近さで聞こえてきた。高く、低く。それらが荘厳に重なり合って、朝の空気を洗い流す。
ラトゥースはつと立って、壁に掛けられた古めかしいランプをひねり消した。気を取り直して頭を振る。
「信じるって決めたんだから」
それにしても、ずいぶん時間がかかっている。
室内に迷い込んできたらしい虫が、出口を求めてぐるぐると舞い、ガラス窓に突進しては、何度もぶつかって跳ね返る。
見かねて、わざわざ窓を開けてやる。虫は羽音だけを残し、あっけなく飛び去った。
ラトゥースはためいきをついた。
全く違う事件が、いくつも並行して起こりすぎる。
銀ギルド長のカスマドーレとシャノアの総督レグラムが癒着し、奴隷狩りや黒薔薇について何か隠しているらしいこと。
ハダシュのこと。
毒物混入事件のこと。
死んだラウールのこと。
一つずつ整理し、順序立てて考えてゆかなかければ、次に何をすべきなのかも分からなくなりそうだ。
「とにかく、今日からはしっかり聞き込んで回っ……」
突如、何かがめきめきと砕ける音が響いた。地響きのような音が続く。
「おい、誰か」
ハダシュの声だった。声に驚いたシェイルが、目を覚ましてびくりと身を起こす。
「何ごとです」
「ハダシュ?」
ラトゥースは弾かれたように立ち上がった。
「ここを開けろ」
激しく壁を殴りつける音が続く。ラトゥースは立ちすくんだ。
「な、何、どこにいるの」
「いいからさっさと開けろ、馬鹿」
シェイルは制止の仕草でラトゥースを黙らせた。耳をそばだて、声の在処を探り当てようと左右に視線を走らせる。
「あちらです」
シェイルが指し示したのは、アーチ柱で隠された北側の廊下奥だった。
ほの暗い薄闇の隅に、天使の衣装をまとい腕に赤子を抱いたヌルヴァーナの礼拝所が設置されている。
さざ波のような彫刻をほどこされたアーチ柱は、ヌルヴァーナのひろげる四対翼を模し、天井を支え、同心円状にせり上がる床と繋がる。
その像の足下。
台座の部分に、四角く切られた扉の形があった。まさかそんなところに出入り口があるとは思いもよらず、ラトゥースはつるりとなめらかな扉の前で立ちすくんだ。
「な、なにこれ。どうしたらいいの?」
「クレヴォーか。ここを開けてくれ」
ハダシュのかすれた怒鳴り声が聞こえた。
「分かったわ。待ってて」
ただならぬ予感にかられ、扉に体当たりする。だが、ラトゥースの力程度ではたわみもしない。悲鳴ごとあえなく弾き返される。
「姫」
シェイルが血相を変えて押しとどめた。
「無理をなさってはなりません」
「何やってんだ、馬鹿、もういい。こっちから扉をぶち壊す」
扉の向こうのハダシュもまた、恐ろしく緊張していたに違いない。低く殺された声が動揺を孕んであからさまに震えている。
「誰が馬鹿よ」
言いかけてラトゥースは息を呑んだ。扉の中から、金属で壁そのものを叩き壊すかのような凄まじい音がした。みるみる扉が張り裂け、蹴破られる。
「逃げやがった、あの野郎」
土埃が立ちのぼるなか、傷だらけの銅像を引きずったハダシュが蒼然と現れた。
両手にはまだ、枷がはめられたままだ。冒涜の仕草で像をうち捨てる。翼をもがれ、顔をつぶされた青銅製の天使像が、点々と血の色を散らして大理石の床を転がった。
ラトゥースは息を吸い込んだ。
ハダシュのこめかみから、ぞっとする量の血がしたたっている。
血は、耳裏を濡らし頬を伝い、肩口を真紅の網に染めて、止まる様子もない。
「何が起こった」
シェイルが声を荒らげる。
「答えろ、罪人」
「あの神官」
ハダシュは手にからみついた枷の鎖を凄絶に鳴らした。
血にまみれた獣のまなざしをシェイルへと突き返す。
「……
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