第29話 懺悔の塔
マイアトール聖堂は、翡翠色の屋根の大伽藍を中心に、白い玉砂利を敷き詰めた五稜型の回廊に囲まれている。
今は、さすがに閑散としているが、マイアトールの太陽節や季節折々の聖なる日、たとえば夜と月の女神ヌルヴァーナの星夜節、隣国バクラントに実在したとされる竜神の祭など──が営まれるときは、聖堂周辺を巡礼がうずめつくすほどだという。
小坊主に案内され、丹念に回廊の腰壁の浮き彫りを確かめながら行くラトゥースに、すっかり観念したハダシュがうんざりと付いて歩き、さらにその後をシェイルが影のように付き従う。
夜も明けやらぬ早暁のなか、浮き彫りの所々に埋め込まれた禍々しい形の骨は、かつて、隣国バクラントに巣食っていたとされる巨獣の怨念を今も訴えかけているかのようだった。回廊全体が、海の底めく青白さと凄涼な輝きに満ちている。
「見て、これ。竜岩だわ」
ラトゥースは壁の化石に触れ、ハダシュを振り返った。化石は石灰のように脆く砕けやすく、壁から抜け落ちて穴となっているものもあった。
「本物よ」
「そんなもの海岸を掘り返せばいくらでもゴロゴロしてる。クジラの骨みたいなもんだ」
ハダシュはつっけんどんに答えた。
「珍しくも何ともねえよ」
だが、ラトゥースは壁に鼻をこすりつけそうなほどの距離にまで近づき、指先で骨に触れた。
ためつすがめつ、いつまでもしげしげと眺める。
「だってハージュの都じゃ竜岩、特に角の化石は、万病に効く不死の《竜方薬》って言われてるのよ? 誰もが探し求める秘薬よ? ホントに浜辺に転がってるんなら明日、拾いに行こうかしら……」
「落ちてる骨なんざ、犬も食わねえよ。やめとけ」
懺悔の塔は伽藍の裏手にあった。華やかな本堂とはうってかわって、ざわざわと風に揺れる木立に囲まれ、外界と遮られたひっそりと暗い空気の中に建っている。
灰白石の壁に墨葺きの屋根が、冷たい朝霧に溶け込んでいる。質素というよりむしろ陰鬱で、隔絶された雰囲気さえあった。
「じゃ、私たちは表で待ってるから」
塔の前で立ち止まったラトゥースは、行ってらっしゃい、と手を振る。
シェイルが冷たく念を押した。
「……分かっているな」
「うるさい、デカ女」
ラトゥースが怒った眼で睨んだ。
「二人とも、喧嘩はだめって言ったでしょ」
言い返せない。
ハダシュはむっつりと横を向き、舌打ちした。
「どうぞ、お入りを」
手枷を嵌められたままのハダシュの代わりに、案内の小坊主が、いかにも古めかしい塔の扉を引き開けた。首を垂れる。
窓もない控えの間は薄暗く、誰もいない。ハダシュはなかなか踏み込む決心が付かず、しばし立ちつくした。
塔の地下へつながる階段は、人が一人ようやく通れるかどうかといった狭さだ。一直線に刳られた左右の壁に、無数の蝋燭がゆれている。
焚かれる香の煙は胸に優しく、夜に聞くさざ波の音のようだった。
「どうぞ、奥へお進み下さい」
どこからともなく、声が反響して聞こえてくる。
ハダシュは嫌悪の吐息を一つもらし、中へと踏み込んだ。
背後で、扉がばたりと閉め切られる。外から鍵がかけられた。
ハダシュは一息ついて、狭い階段を降りていった。靴音が響く。
階段を降りきった先に部屋があった。横切る黒い衣が見えた。
「どうぞ、こちらへ」
待っていた墨衣の神官が、手を差し出して懺悔室の入り口を示す。
蝋燭の火を吸って、石壁が朱のさざなみ色に映える。反響する声はすこしくぐもって、聞き取りづらかった。
音のない閉鎖された空間に、あかるく、それでいてどこかあやしく。ひっそりと蝋燭の火が燃えている。
壁に踊る、不穏にねじ曲げられた影。
神官はゆっくりと顔を上げた。次の瞬間。
短いさけびを放って、後ずさる。身体のどこかが壁際の台座に当たった。
置かれていた青銅製の天使像がぐらりと傾いだ。手を伸ばす間もなく、天使像は悲痛な音をたてて床へと転がり落ちる。
ハダシュは眼を鋭くし、神官を見つめた。
胸のどこかで、何かが騒ぎ出す。
見覚えのある顔だった。記憶が揺り動かされた。
いきなり神官が身をひるがえす。逃げようとしているのだった。とっさに追いすがる。
「待てよ」
引き留めようとする。
とたん、思いもかけず鋭い手刀が振り下ろされる。訓練された動きだった。剣で斬りかかる太刀筋と同じ。
反射的に体をひねり、一撃をかわす。こちらは手枷のせいで手が使えない。
振り下ろされた手を肘から逆関節に蹴って体勢を崩させ、倒れ込んだところをもう一回蹴りつける。
「いったい、何の真似だ」
神官の胸元にかかったペンダントが、狂ったように飛び跳ねた。
拳が飛んでくる。避けられない。まともに顔にくらった。ハダシュは小机をなぎ倒しながら倒れ込んだ。
獣のような呼吸音が懺悔室に響く。ハダシュは跳ね起きざま、手枷そのものを神官の頭めがけて振り下ろした。神官は直撃を受けて床に昏倒した。
背後から馬乗りになって、動けないよう、膝で押さえ込む。
「どういうことだ。説明しろ」
神官は苦悶のうめきを上げるのみで、何も答えない。
ハダシュは相手の首を締め上げようとして、はっと気づいた。
短く刈った黒い髪。怯えた表情。黒い石のペンダント。記憶の隅に残っていた光景が蘇る。
この男は。
間違いない。
「お前、あのときの」
信じがたい思いで眼を押し開く。
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