第27話 もしそれが許されるなら――今が、引き返す最後の、そして唯一の分岐点
ハダシュは眼を伏せた。
「馬鹿を言うな」
ラトゥースの声はひくい。罪を犯してしまった者への哀れみが、その表情を大人びたものにしているのかもしれなかった。
「人足寄せ元締めのラウールが病気だとかで港の荷役が止まっていてね。でもそんな生っちょろい嘘、だれも信じちゃいない。とっくにシノギを巡る抗争が始まってるわ。あなたの首に掛けられた賞金もたぶんそういうことよね」
「賞金……」
そういえば街をうろつく少年たちも、そんなことを言っていた……
その途端、ラウールの死の意味が、血をはらんだ破裂寸前の腫瘍のようにふくれあがった。
ハダシュは声もなく側にあった枕をつかんで床にたたきつけた。髪をぐしゃぐしゃにしてかぶりを振る。
「俺じゃねえ」
「分かってる」
ラトゥースは、ハダシュの投げ捨てた枕に手を伸ばした。気後れした様子で枕を抱きしめ、うつむく。
「ここまで表立って追っ手がかかるということは……黒薔薇に寝返ったあなたが、ラウールを殺したことになってるんじゃないかと思うの」
「ラウールが死んだから何だ。俺の知ったことじゃない」
言い張る声が無様に震える。ハダシュは顔をそむけた。ラトゥースの仕草が、何より胸を圧迫する。そんなものに動揺した顔を見られたくなかった。
「私は、そんなの、いや」
ラトゥースは枕を置き直し、周辺の乱れたシーツを丁寧に伸ばした。ぽつりとつぶやく。
「そうやって、ずっと本当の気持ちに蓋をして、無理をして」
くしゃくしゃになったまま伸びない、元に戻らないシーツの皺を、何とかして、元通りのぴんと張った状態に戻そうと引っ張っていた手が、止まる。
「本当は、そうじゃないでしょ」
思い詰めた声に、ハダシュは息を呑んだ。突然の沈黙があらぬ幻想を呼び起こしていく。
深く澱んだ水の奥底に沈むガラスのかけら。傷だらけで泥に埋もれ、半ば壊れ、輝きをなくして。でも、誰かに見つけてもらえるなら、本当の姿を信じてもらえたなら、きっと。
「勝手に決めつけるな」
知られたくもない弱さを暴かれた気がして、ハダシュは声を荒げた。
「何が本当の気持ちだ、ガキじゃあるまいし」
「私だって、最初はあなたみたいな最悪な殺し屋の言うことなんてこれっぽちも信じる気はなかった。でも、覚えてる? あなたと初めて会ったとき。あれだけ敵に囲まれていながら、あなたは、見ず知らずの私を助けようとしてくれた。どこにでもいる町娘みたいな格好をした私を」
ラトゥースは顔を上げ、かすかに笑った。
うるんだ眼を指の背で恥ずかしげにぬぐう。
「びっくりしたわ。後で知って、まさか、って思った。でもね、嬉しかったの。それが本当のあなただと分かったから」
否定することも、眼をそらすこともできなかった。
純粋に光る涙を、ただ、呆然と見つめる。
「だから、私はあなたを信じることにした。あなたなら、絶対に立ち直ってくれるって。この街も、あなたも、全部。それが私の信じる正義よ」
ハダシュは眼を閉じた。
舞い散る薔薇の花弁にも似た記憶の断片が、灰色の闇を紅に染めて静かに降り積もっていく。
ローエンのこと。黒薔薇のこと。ラウールのこと。自分自身のこと。
そのどれもが収まるべき場所になく、居場所を求めてもがきあっている。
「返事は特に急がないから」
ラトゥースは角灯を持ち上げた。
「私が言ったことを、しばらくゆっくり考えてみて。返事はそれからでいいわ」
ゆらゆらと淡くかげる陰影が、ラトゥースの赤く染まった頬に落ちる。
くちびるがほのかに光っていた。やわらかな微笑み。
「ね、ハダシュ」
ハダシュはぼんやりとラトゥースのくちびるに見入っていた。
人殺しの名と知りつつ、やましさも見せずにまっすぐ呼んでくれる少女の清らかさそのものが、まだ、信じられなかった。
それでも、一度火がつけば、もう消えない。暖炉にくべられた
「じゃ、また後でね。ごきげんよう。そうだ、レイス先生にもご挨拶してこないとね。せっかくおいで頂いたのにほったらかしにしちゃって。気を悪くなさったりしてないといいけど」
ラトゥースは小首を傾げ、肩をちいさくすくめて笑った。小走り気味にぱたぱたと急き、髪をふわりとなびかせて部屋を出て行く。
今回も前と同じだった。鍵を掛けようともしない。
足音だけが確実に遠ざかってゆく。
以前、ラトゥースが口にした不思議な言葉が、脳裏によみがえった。
(今が《引き返すための黄金の橋》なの。自分を信じて、立ち止まって、考え直してみて。お願い、信じて)
行く手は、罪の底へと墜ちる断崖絶壁。だが、罪を前にして立ち止まり、考え直し、元の道へと引き返せば。
それは過去のあやまちを悔い、正しい未来へ歩き出すための岐路となる。
もし、それが許されるなら。
今が、引き返す最後の、そして唯一の分岐点だった。
ハダシュは、引きずられるようにして立ち上がった。
鍵のかかっていない戸を開け、ラトゥースの気配を追って廊下へ顔を突き出す。ランプの灯りがちょうど角を曲がっていくのが見えた。
「待ってくれ」
硬い声で呼び止める。なぜか名を呼ぶのは憚られた。
炎の動きが止まる。静かに見つめ返す気配があった。じりじりと炎だけが揺れている。
返事はない。
ハダシュは鼻をこすり、咳払いしてから廊下に歩み出た。所在なくうろうろとし、壁にもたれてそっぽを向く。
「理由が分からねえ」
壁を無為に睨みながら、心にもない反論をぶつける。
「何で俺なんかを」
「別に理由なんてそんなご立派なものはないけどね」
ラトゥースの顔は見えない。声だけが聞こえた。
真っ暗な廊下を挟んで、ひそやかな、だが強い視線が交わされあう。
火影だけが、闇の向こうでゆらめいている。
「私はあなたが何者かを知った。あなたがずっと苦しんで来たことも知った。だからといって、たくさんの人を殺めてきた罪を許すつもりはない。でもね、もし、あなたが、今までの罪を悔い、これからは罪を償ってくれるというなら」
ラトゥースは蝋燭を手にしたまま背中を壁にあずけ、言葉を選びつつゆっくりと答えた。
「喜んで手助けをするつもりよ」
ハダシュはうつむいた。
「……悔いて、償う、か」
ずっと、どうすればいいのか見当も付かずにいた。
罪に罪を重ねたその行く手が絶望であることを知ってはいても、どうすれば、そうではない自分に戻れるのか、分からなかった。
いや、もしかしたらずっと待っていたのかもしれない。分かっていながら見て見ぬ振りをしてきた、その言葉が突きつけられることを。
罪を認め、自らを省みることを、今、ようやく。
深いためいきをつく。取り憑いていたものが吐息と一緒にどこかへ流れ出ていったような気がした。ハダシュは胸を押さえた。他人の痛みが、自らの愚かさが、どうでも良いと思えたさまざまな出来事のひとつひとつが、今はなぜか無性に息苦しい。
横を見やると、壁にまだ赤い色が残っている。
ハダシュはためらい、声を呑み込んだ。
「この間の……その、俺が……ここで殴り殺しちまったおっさん……」
「ベイツのことなら」
青い視線がハダシュに突き刺さる。
「無事よ。酷い怪我だけれど」
ハダシュは目を伏せ、歯を食いしばった。言葉をしぼり出すようにして、ようやく言う。
「すまねえ。悪いことをした」
顔を上げる。
揺れる明かりが、笑うラトゥースの口元を照らし出していた。
「うん。分かった。伝えておくわ。じゃ、さっそく明日から仕事を手伝ってくれる? 助かるわあ。こう見えて忙しい身なの。事件はひとつじゃないから」
ハダシュは声もなくラトゥースの手元を見つめた。
暗闇の向こう側から手まねく、ちいさなろうそくの火。消えそうで消えないそれは、ハダシュの行く手を照らす、はじめての道標だった。
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