第26話 初めて人を殺したのは、いつ
「ひどいぞ君だけ。不公平だ。私だって僥倖にあずかりたい。姫君との優雅な晩餐と語らい!」
情けない声が、廊下の彼方に遠ざかる。
「ずいぶんな好待遇だな。ああ見えて、おとなしく閉じ込められるような奴じゃない」
「いかにも、あなたの主治医様って感じね」
「ヤブ医者だろ。いつも塩をなすくりつけて終わるんだ。牛じゃあるまいし」
「凄腕よ。笑っちゃうぐらいにね。施術の手際を見れば分かるわ」
ラトゥースはそっけなく笑った。
「いったい、どこの国で医術を勉強したのかしらね。まあ、悪いようにはしないから安心して」
ラトゥースは角灯を提げ、先に立って歩き出した。案内されたのは見覚えのある、あの部屋だった。中は真っ暗だ。
ラトゥースはまず傍らの台に置かれた壁付きの燭台に火を移した。ぼんやりと病室の隅が浮かび上がる。閉じられたガラス窓に、くすんだ明かりの色が映った。じりじりと朱影が揺れる。
「お前も相当な馬鹿だな」
ハダシュは後ろ手で扉を粗暴に閉め、脅すようにつぶやいた。
「俺と一緒にいたら、てめえの命なんざいくらあっても」
「あら、うれしい」
ラトゥースは妙に声を弾ませた。
「私のこと、心配してくださってたのね。光栄だわ」
ハダシュはうっとうしさを装って唇を曲げた。
「誰がそんなこと言った。俺がお前を殺すって言ってるんだ……」
「まあ怖い」
ラトゥースは、てんで堪えていない様子で窓辺に寄り、ちらりと用心深く外を覗いてからカーテンを注意深く正した。
「とにかくは座って。話を聞かせてもらうわ」
やはり尋問だ。
ハダシュはしぶしぶ従った。鈍重な足取りで部屋を横切る。
ラトゥースの目が鋭く瞬いた。
「まずはローエンという名について」
ハダシュは、陰惨なまなざしをラトゥースへと突き立てた。
「誤解しないで。ずいぶんうなされて……うわごとで何度も繰り返してたから」
やや神妙な口調で付け足す。
「知り合い?」
「うるせえ、知るか。先生に聞けよ」
ハダシュはベッドに身体を投げ出した。
少しは跳ねるかと思ったベッドは、だが、厚みのまるでない板敷きの反発力そのままだった。肌触りの悪い薄っぺらなシーツが、いらだたしさをいっそう助長させる。
居心地の悪さが気に入らず、ハダシュはわざと当てつけに吐き捨てた。
「白豚と一緒に殺った」
「……ジェルドリン夫人のこと?」
「二度も言わせるな」
「それはおかしいわ」
ラトゥースの青い目が、棘のあるひそやかさで光っている。
「見つかったのは夫人の死体だけだった。間違いなくあなたの手口と分かる、即死に近い死に方をした夫人の死体。でも、部屋全体に渡ってひどく争った形跡があった。あなたが標的を殺すのを邪魔した者がいたとしか思えないほどに」
「うるせえ。知るか」
ハダシュは溢れだしてくる記憶の濁流を、無理矢理にせき止めた。
血走った青いローエンの目。
組織を裏切り、黒薔薇に荷担した馬鹿な奴。
だが、そう思おうとすればするほど、反対に声がわなないてゆく。まとわりつくラトゥースの視線が恐ろしい。
「裏切り者は死んで当然だ」
ラトゥースはしばらくの間、何も言わなかった。
ゆっくりとうつむき、考え込み、顔を上げハダシュを見つめては、くちびるを噛む。
くしゃくしゃと柔らかい毛先が頬にあわく透ける疲れの影を落として、わずかなかぶりを振るたびにもの悲しく揺れていた。
ラトゥースは短い息をついた。窓辺の長椅子に腰を落ちつかせる。
「尋問してるつもりはないの」
「女は家でママゴトでもしてろ」
「少しは自分の立場ってものを考えたほうがいいわ」
さすがにむっとした返事が戻る。
「じゃ、とっとと縛り首にすればいいだろう。偉そうにしやがって気に入らねえんだよ……」
ラトゥースは再び窓の外を見た。
守衛が門灯の前に立っている。向かいの建物の室内からも、ほのかな明かりが洩れていた。馬のいななきが小さく聞こえる。
「もしあなたが噂どおりの殺し屋だったら、とっくにそうしてる。私にはこの銃が……処刑の権限があるし、もしなかったとしても、あなた一人の命ぐらいどうにでもできる」
いったん言葉を切り、うつむいていた顔を上げる。
視線がぶつかる。疲れも、痛みも忘れたかのような──
まっすぐな視線だった。
「だから、私の話を聞いて欲しいの。信じて。聞いて。分かって欲しいの。私はあなたを助けたい。ううん、あなただけじゃない、この、シャノアの街全体を助けたい」
ハダシュは歯牙にも掛けずせせら笑った。
「ばかばかしい」
「ひとつ、聞いてもいい?」
声がふと落ちる。ハダシュはラトゥースの瞳に映り込む炎の揺らめきに心を奪われた。ぶれることなく燃え続ける静かな火。
「初めて人を殺したのは、いつ」
沈黙。
「なぜ殺したのかも教えて欲しいの」
なぜ答える気になったのか。とにかく気付いたときには返事が口をついて出ていた。
「金を盗んだ」
「強盗ね……いくら?」
「半スー」
「たったそれだけ?」
「うるせえ、悪いか」
ハダシュは吐き捨てた。
「寒くて腹が減ってイライラしてたんだ。誰でも良かった。女の分際でお役人様やってござる腐れ女には見当もつかねえだろうさ」
薄汚い罵詈雑言。ラトゥースはくちびるを噛んだ。
が、あえてさらに問いかける。
「仕事にしたのはどうして」
ハダシュは一瞬、答えようかどうしようか迷った。
聞けば、ラトゥースはきっとうろたえるだろう。だが、逆に言えばラトゥースの純粋な心を酷く踏みにじり傷つけ嘲笑ってやれる、そんな思いが罪深くうずいた。
優しさの前で卑屈になりかけた今の状態から逃れたかった。
偽悪だろうが何だろうが、それで偽善を叩きつぶしてやれるのなら。
そう、どうせ、偽善に決まっている。
助けたい、だなんて。
ハダシュはわざとだらしない、みだらな格好をあからさまに晒してベッドにもたれ込んだ。
「ヘタ打って、その辺の売人に半殺しにされてヤク漬けの慰みものにされてたところをラウールのおもちゃに飼われた」
白々しくラトゥースを見返す。
「こう言えば満足か」
ラトゥースは顔を歪めてうつむいた。
ハダシュは薄ら寒い侮蔑の表情を浮かべた。
だが内心、思わぬ狼狽に襲われる。逆に、自身の姿こそが喉元へ突きつけられてきた諸刃の剣に思えた。
「言っとくが、そんな奴は俺だけじゃねえ。いくらでもいる。カネとクスリと女欲しさに誰彼みさかいなく襲っては嬲り殺すような連中がな。クズはどうせ一生クズなんだよ。だから、殺すならさっさと殺れ。もったいぶって生かすの殺すのと、いちいちうぜえんだよ」
「……ってことは、やっぱり知らないのね」
ラトゥースのかすれた声が遮った。
ためらいがちに口を開く。
「そのラウールだけど、たぶん、もう、死んでる」
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