第11話 「お加減はいかが?」
たちまち人だかりができる。
揉みあった拍子に誰かがテーブルに倒れ込んだ。大鍋の中身が今にもあふれ返りそうなほどに揺れる。
あちこちから情けない悲鳴があがった。
ラトゥースが何事かと目を向けた時にはもう、近くにいた神官が割って入り、袋叩きに遭いかけていた一人を助け出していた。
その男はどうやら酔っているらしく、不届きにも神官の手を振りほどき、深皿を鍋に投げつけた。
椀は鍋の中に落ち、中のスープを跳ね散らして、テーブル全体をびしょぬれにした。
列の中途から不穏なうなり声があがる。
神官たちがいそいで人々をなだめる。ぎすぎすした場の雰囲気が収まるころ、当の男はいつの間にか姿を消していた。
「では最後に一つだけ。こういった慈善活動はどうやって行われているのでしょう」
神官は言いよどんだ。眼が偽りの彼方を探して泳いでいる。
「この施しは、とある篤志家による寄付でまかなわれております。ですが、そのお方は故あって名を出すことも、あるいは聖堂に対し喜捨が行われていることさえ口に出すことを喜ばれません」
ラトゥースは用心深く肯いた。
「分かりました。今はお役目中の身ゆえ、何のお力添えもできませんが、生国へ戻った折りには必ず、シャノアの窮状を陛下と宰相閣下に直接お伝えし、対策いただけるよう、上申いたしましょう」
「何と。それはまことですか」
神官は心からの驚きと微笑を浮かべ、ラトゥースの手を両手に取って強く握りしめた。
が、握った掌がやんごとなきものであることを思い出したのか、我に返って手を離し、あとずさり膝をつく。
「失礼をいたしました。エルシリア侯姫の御手をつい」
おそれ畏まった神官を見てラトゥースはあわてて手を添え、立ち上がらせにかかった。
「どうか顔をお上げください。神に仕える方が、わたくし如き世俗の者になど」
その様子を察したか、別の神官が慇懃に近づいてきた。
「ようこそおいでくださいました。当院の長ダルジィが、もしよろしければ茶湯に招かせて戴きたいと申しておりますが」
「おお、それは忝ない、ありがたいお申し出ですが」
心の底から残念だという気持ちを表しながら、ラトゥースは遠くの空を見上げてみせた。
「怪我をした仲間を宿に残しておりますので、そろそろ戻らねばなりません」
「それは残念」
「申し訳ありません。またいずれ改めてご挨拶に伺わせていただきます」
残念そうな顔、気後れした顔、それぞれに見送られ、ラトゥースとシェイルは馬車に戻った。
取り急ぎせねばならないことがたくさんありすぎる。
今すぐ手を着けられる用件は目下のところ一つ──
しかしそこから派生する問題と、行く手に立ちはだかるであろう無数の障害を思ってラトゥースは憂鬱になった。
ところがのんきなことに御者のベイツは腕に葡萄酒の空き瓶を抱きかかえ、ごうごうといびきをかいていた。シェイルがその膝をこづいて起こす。
「ああ、お帰りんさい」
大あくびをこらえ、ベイツは身を起こした。よだれを袖で拭き、酔っぱらった充血の眼でラトゥースを見返す。
「寝起きで申し訳ないけれど、宿までお願い。でも、くれぐれも安全運転でよろしくね」
ラトゥースは馬車に乗り込み、帽子を横に置いた。背もたれに身体をあずけ、うんと小難しい表情をつくる。
「さてと、そろそろ目が覚めててもおかしくない頃合いだけれど、どう攻めたものかしらね、あの赤毛……?」
全身が燃えるように痛んだ。寝返りも打てない。悪夢が襲っては引いていった。黒服の殺し屋たちが、どこまでもしつこく追いかけてくる夢。不意をつかれ、襲われ、ぼろぼろに貪られ、闇に引きずり込まれる。全身に傷を負い、身動きひとつできないのに、地面から細い手が何本も伸びて足首をとらえ、首や顔に張り付く。
手は身体中をまさぐり、皮膚を剥ぎ取る。ばらばらと音を立ててこぼれおちる肉と骨のかけら。欠けていく顔を涙で濡らしながら、はぐれた心と身体、それぞれの部品を必死でかき集める。闇にのっぺりと浮かぶ巨大な顔が見えた。見たくなくて、強く頭を振る。だが無数の手が強引に顔を真正面にねじ向けさせる。こわれた身体から、歯車とネジがぼろぼろ落ちる。砕け散るガラスのかけら。だらりと垂れ下がる操り人形の糸。前を見ず、後を顧みることもせず、ただ生かされているだけの人形──
悲鳴を上げる。巨大な口が轟音を発した。
眼を押し開く。
部屋中が真っ赤に見えた。
ハダシュは声をほとばしらせかけ、そのまま絶句した。
飛び去った悪夢の代わりに、しみの浮かんだ茶色い天井が見える。
開け放たれたままの鎧戸から見える風景は、いつもと同じ変わり映えのしないものだった。
深い陰影に沈む街と、はるか遠くにきらめく透きとおるような夕暮れ。
重厚な宗教音楽のように、街並みと切ない陽射しとがどこまでも連なっている。
そぞろに鳴きかわす海鷲の声が聞こえる。
巻き舌を震わせるのに似た、水笛のような鳴き声。
生きている。それが、不思議だった。
命があっただけではなく、安静な状態でベッドに横たえられ、拷問も暴行も受けずにすんでいる。
その現実を受け入れられるようになるまで、ハダシュは呆然と天井を見上げ続けていた。
ここがどこなのか、なぜ、こんなところに寝ているのか、全く覚えがない。
とまどいつつ、わずかに首をねじる。
枕元の台に小さな金だらいと縁に掛けられた手ぬぐい、陶器でできた薄緑の水差し、使いさしの包帯の残りや錆びたはさみ、血の付いた布切れ、それと茶色の瓶にはいった消毒用の薬──おそらくは酢かアルコール──それらの治療道具一式が、出しっぱなしで放置されているのが見えた。
一瞬、レイス医師が助けてくれたのか、と考える。あのお人好しならもしかして、と。
差し込む西日に、瓶の中の液体がきらきらと揺れ輝いている。
そのゆらめきを見つめているうち、ぼんやりとではあるが気を失う直前までの記憶が戻ってきた。
背筋がぞくりと冷たくなる。
ハダシュは自嘲のため息をつき、運命を呪った。
生き長らえさせる理由があるとすれば、それは苦痛を長引かせる他にはありえない。
むしろこんな現実なら悪夢の方がまだましだった。
まずは起きあがるために、ゆっくりと身じろぎする。
腕は自由なままだが、足は動かない。
添木をあてられ、包帯できっちりと巻かれている。
無理やりに膝を折ってみるが、待っていたのは灼熱の激痛だけだった。
歯を食いしばり、無様にうめく。
「あら、お気付きになられましたのね」
軽やかな声が降りかかった。
「お加減はいかが?」
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