第10話 良識ある大人に疎まれ、悪辣な大人には弄ばれる

 左のこぶしを右手で包み込み鼻先まで持ち上げて、膝を軽く折る。

 胸元に黒い石をあしらったペンタグラムが揺れていた。


 ラトゥースは優美にドレスをつまんで礼を返した。

「申し訳ございません、私は王国巡察使、ラトゥース・ド・クレヴォーと申します」


 その名を耳にしたとたん、神官の表情に薄暗い影が射した。だがすぐに神官は取りつくろいの微笑みをうかべてしまい、一瞬の動揺も同じく秘め隠された。


「それはそれは、ようこそおいで下さいました」

 どこか執拗な視線が追いかけてくる。

 ラトゥースは不覚にも受け止めかね、たじろいだ。


 列を離れたところでは、既に食事を終えた子供たちが棒きれや板を持って駆け回っていた。

 乱暴に殴り合ったり突き転ばしあったりしているようにも見えるが、それは大人の目線でしかない。ころころと笑い声が響き渡っている。


「これは、何の行事でしょう?」


 神官はふと、疲れたため息をついた。

 陽のまぶしさに眼を細めながら、手をひさしにして子供たちの歓声をみつめる。


「ご視察おそれいります。不定期ではありますがたびたび行われております慈善の行にございます」


 神官の刺々しい気配が少し薄れてきたように思って、ラトゥースはほっとした。


「素晴らしいことです。マイアトールの慈愛に触れ、人々の信仰もまたいや増すでしょう」

「神の思し召しなれば」


 神官はかすかに目をそらした。

 なぜかシェイルが矢を射るようなするどい気配を神官へと突き立てる。

 その態度、気に掛からないと言えば嘘になる。

 だが、畏れ多くも太陽神マイアトールの神職にあるものに対し、罪人に対処するがごとく問いつめるのはさすがにはばかられた。


「ギュスタさま」


 気配を感じ取りでもしたのか、周辺の子供たちが寄り集まってきた。

 顔を煤で汚した少年が、思いつめた顔で神官の袖を引っ張る。


「どうかしたか。顔色、悪いぞ」


 神官はぼんやりと子供を見下ろし、我に返った様子でふと目を瞬かせた。

「ああ、リカルド。元気でしたか。みんなも」


 年の頃は十前後、といったところか。

 リカルドと呼ばれた少年が履くズボンは膝までしかなく、色の褪せた継ぎが当てられていて、それもまたほつれて左右互い違いになってしまっている。靴も同様にすりきれ、割れた爪先からは指がのぞき見える始末で、もはや靴とは名ばかりの足袋にすぎない。他の子供たちも似たようなもので、男も女もその点に関してだけはさしたる違いを持っていなかった。


「メイレルの具合はどうですか」


 犬のような臭気を放つ栗色の髪を、だが神官は優しい手でくしゃくしゃと撫でた。

 少年は唇を曲げ、ためらいがちにかぶりを振る。


「あんまり」

「そうですか。じゃあ、後で私の部屋へおいで。薬を調合してあげよう。他には何もなかったね。危ないことはなかったかい」


 神官は腰をかがめ、ゆったりと膝をついて少年の目の高さにまで降りる。


「もう、食事はすませましたか」

「まだ」


 無愛想な返事。だが、決まった仕事を持たず、庇護してくれる親も後見人もない子供が、半ば群をなした野良犬のように生きてしまうのは致し方ないことなのかもしれなかった。


「ギュスタさま、おれ」

 リカルドは団子鼻の下を指の背でこすった。息苦しげに言葉を継ぐ。

「神官様の言われた通り、今週、ずっと働いた。湯屋のさ、火焚き。メイレルが……いた店。かっぱらい、しなかった」


「ああ、リカルド。それはとても良いことです。マイアトールのお導きだ。おなかもすいているでしょう。早く食事をしていらっしゃい」


 神官は少年を抱き寄せ、頬を寄せて、こころから希望の嘆息をもらした。

 リカルドは一瞬、照れくさそうに身じろぎした。赤いくちびるがわずかにゆるみ、子供らしい表情をのぞかせる。


 しかし少年の眼はすぐに陰気な色に染められ、くらくなった。何か恐ろしい光景を思い出しでもしたのだろう。リカルドの顔は大きくゆがんだ。声がふるえる。


「ヴェラーノが、捕まった。やめろって言ったのにさ。あいつ、盗みに入ったんだ。そしたら、大人に殴られて。蹴られて。血だらけで連れて行かれちまった……帰ってこないんだ」


「リカルド」

 神官は強い力で少年を抱きしめた。

「私の部屋で待っていてください。みんなにも来るように言って。院長様にお許しをいただきました。人さらいが──増えています。これから夜はずっと私の部屋にいていいのです。どこにも行ってはいけません」


 リカルドは力なくうなずいて、去っていった。

 よろよろと肩を落として歩いていくその後ろ姿を、神官は殺伐とした眼で見送った。

 そのまま眼を堅くつむり、うつむく。


「彼らは何を怖れているのですか」

 ラトゥースの声に、神官はようやく顔を上げた。


「すべてをです」

 神官の声はやましさと後悔にあふれていた。


「シャノアは、彼らのような子が生きて行くにはあまりに惨すぎます。盗みをせねば生きて行けない。それゆえ良識ある大人に疎まれ、悪辣な大人には弄ばれる。なのに、私は」


 ラトゥースは苦々しい面もちで港を振り返った。


「かどわかされ奴隷として売られてゆく子たちがいるとも聞いています。もし、何かご存じなら」

 神官は顔をそむけた。

「申し訳ありません……リカルドが待っています。行かなければ」


 そのとき行列の最前列、テーブルの前から数人の言い争う声が聞こえた。

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