第9話 大聖堂

 倉庫街の入り組んだ路地の合間から、見慣れた形のしるしを戴いた尖塔が一瞬のぞく。


 ラトゥースは眼を輝かせるなり、がたがたする窓をいっぱいに引き開け、上半身を乗り出した。まばゆい南国の風が、髪をさあっと吹き散らかす。


「あっち、ほらベイツ、見て」


 ほがらかにラトゥースは叫んだ。帽子をつかんだ右手を大きく振りまわす。

 後方へと流れていく視線が、幾台かの馬車越しに併走する地味めな服装の騎兵を捕らえた。


 御者台のベイツが仰天した顔で振り返った。


「うわっお嬢さん何っ、危ないって」

「ベイツ、戻って。塔が見えたわ。マイアトール神の聖堂よ」


 叫んだとたん、石畳の隙間に落ち込んだのか馬車は壮絶に跳ね上がる。

 ラトゥースは潰れたカエルもどきの声をあげて天井に頭をぶつけ、あわててつり革にしがみついた。


「やっぱりね。思った通りだわ」

「は?」

「いやいやこっちのことよ。それよりまわれ右してちょうだい」


 言いながら頭を引っ込める。


 ラトゥースは上気した微笑みを浮かべ、シェイルを見つめた。

「思いきり後をつけられてたわ」

「レグラムでしょう」


 シェイルは面白くもなさそうに答えた。そう言いつつ、手はとうに剣の柄頭に置かれてある。


「無理はなさらない方が」

「うん。でも表の地位をふいにする危険を冒してまで、私たちを排除する勇気はないんじゃないかしら。胡散臭い部分を嗅ぎ回るのではないかと危惧していて、それで後をつけ回す。と、思うのだけれど」


 ラトゥースの意見を聞き、シェイルはやや遠い眼をした。好ましくもない記憶を呼び起こされたような顔でうなずく。


「確かに奴は昔からこざかしい卑怯者でしたが」

「知ってるの」


 ラトゥースが尋ね返すと、シェイルの張りつめた眉間に露骨な皺が刻まれた。


「王都ハージュ守備隊の禄を食む身であったはず。端役でしたが、とある問題を起こして」

「知らなかったわ」


 ラトゥースは声をかたくした。


「でも、それなら少しはクレヴォーの名に反応してもよさそうなものだけれど。何、それって私が無視されたってこと?」

「相当前の話ですから。過ぎた、あるいは終わった出来事だと思わせるには十分すぎる年月です」

 シェイルは言外の意をにおわせながら諦めた口調で答える。


 やがて馬車はマイアトール聖堂門前で止まった。車止めに寄せたあと、ベイツが外から木窓を叩く。


「着きましたで。どないしますの」

「もちろん降りるわ。ありがとう」


 ラトゥースがにこやかに応じている間、シェイルは馬車の天蓋に手を掛け、身体をかがめて先に降りた。

 反動で馬車があやういほど傾く。片輪があきらかに浮いた。

 御者席の足下から薄汚い革袋が滑り落ちかける。

 砂埃によごれた黒い靴がとっさに革袋を踏みつけた。


「えへへ、えへへ、わし、ここで待っとくんで」


 ベイツはしわくちゃになった革袋を大事そうに拾い上げた。

 中から水のゆれる心地よい音が聞こえてくる。

 シェイルは、ほどけかけた結び目からのぞく古ぼけた緑の瓶とコルク栓に眼をとめた。無言で睨み付ける。


 ラトゥースはシェイルに手を取ってもらって馬車から降りた。回りの景色を見渡し、感嘆の声を上げる。


「うわあ、綺麗。まるで湖みたい」

 一直線に敷き詰められた石畳が、青緑の光をきらきら反射している。

 左右の街路樹がおとす木漏れ日もまた、春の日の湖水のように柔らかく揺れていた。


 大聖堂前通りの突き当たりは鬱金の瓦で葺かれた門になっている。

 向かって右に、憤怒の火を剣にまといつかせた黒大理石の聖騎士像、左には竜笏を手にした白大理石の隠者像。

 せり上がって立つ二聖像の視線は、父なる太陽神の境内へ立ち入ろうとする者の魂を射抜かんばかりの神々しさだ。


 ラトゥースは手をかざし、敬慕のまなざしで伝説をかたどった神像を見比べた。


「姫、あちらを」

 シェイルが押し殺した声を上げた。


 ラトゥースは声にうながされ、木立の向こうに点在する堂の彼方へ眼をやった。

 その顔がふいに曇る。

 さして広くもない聖堂前の広場を、薄汚れたぼろを身にまとったものたちがうめつくしている。


 ラトゥースは眉をひそめた。


 この街の二面性は誰もが知るところだ。

 銀を商う豊かさの一方で、繁栄から追いやられた人々の暮らしは荒んでいる。ラトゥースは足早に広場を横切り、彼らに近づいていった。


 ところがいざ傍に寄ってみると、その集団は、意外なほど整然としていて、気がおけない笑い声さえ聞かれるほどだった。

 皆、生活に疲れ果てた様子ながら、それぞれが欠けた椀や錆びた深皿を手に、顔を明るくさせている。

 視線を行列の先頭に転じると、人々が楽しそうにしていられる理由が分かった。


 経堂の前に広げられたテーブルに、蔦編みかごに山と積まれた固焼きのビスケット、土鍋いっぱいにとろけるチーズ、とりどりの色にゆでられた野菜、スープの甘い湯気が立ちのぼる大鍋が並んでいる。

 辺りはふくよかに漂うサフランの香りでいっぱいだ。


 ゆったりした墨衣に鬱金のサッシュをしめた、マイアトール神官独特の装いをした者が数名、一人一人にビスケットを手渡し、次々差し出される椀にスープを注いでまわっている。


「ちょっと美味しそうかも……」

 ラトゥースは目を丸くし、ごくりと生唾を飲み込んだ。

「お見苦しいことはおやめください」

 シェイルが苦々しく咳払いする。


 近づく声に気付いたのか、神官の一人がふと顔を上げてラトゥースとシェイルを見た。

 黒いまなざしが不穏に見開かれる。

 だが、列の先頭にいたものが声をかけると、その変化はたちどころに消えて失せた。


 神官はぎごちなく笑い返し、何でもないと言うかのようにかぶりを振ってみせる。

 神官の態度から、皆がラトゥースと、そして威圧的な軍衣を身につけたシェイルに気付いたようだった。

 列にざわめきが広がり始める。


 さして後ろめたくもなかろうに、それぞれ隣り合った者どうしが何ごとかをひそひそと耳打ちしあっている。

 ついに、黒い目の神官は意を決した目をラトゥースへとむけた。

 木杓子を鍋に置き、手を濡れ布巾でぬぐう。


 マイアトールの神官は、表情を堅くしたまま、ラトゥースの前へやってきた。

「何か問題がございますでしょうか。本日の行事については議会にも自警団にも届け出済みですが」

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