第8話 そのためだったらどんな手を使うことも厭わない

 レグラムは目をそらし、卓上の呼び鈴を振った。

 現れたメイドに冷たいはちみつ果水をなぜもっと早く持って来ないのかと八つ当たりし、うろたえる背中にとげとげしく追い打ちをかけて追い払い、さらにまた汗を拭く。


 一方、レグラムの隣には、本来の客である男が座っていた。

 銀ギルド長カスマドーレである。


 胸元に金ラメを散らした薄絹の襟巻きをいれ、たっぷりした緑のガウンを着て、傲岸な姿勢で手を腹に乗せ、長椅子にもたれている。太い指には驚くほど大きな銀の指輪がはめられていた。


「いやなに、黒薔薇と言われましてもね。実際は何の後ろ盾もないような連中が、何かそれらしき組織の名をかたりさえすれば脛に傷持つ者どうし恫喝できるということがまかり通ってまして。そういった連中の要求額と言えば、遊ぶ金ほしさのゆすりたかりのようなもので、すぐ見分けがつくと言えばつくわけで、さような訳ですから治安が悪いと言ってもさほど最悪というわけではなく、別段改めて書類に起こすとかご報告申し上げるなどしてお手をわずらわせるまでもなかろうというのが、われら議会と自警団共通の認識であり議決なのです」


 銀ギルドの長は、レグラムの狼狽ぶりとかけ離れた逃げ口上をのらりくらりと述べ立てた。

 なるほど、顔は笑っているが眼の奥底はまるで違う。

 ラトゥースはいかにもな表情で何度もうなずいてみせた。


「なるほど分かりました。そういうことならば特に調査する必要もありませんね」

 レグラムの顔が思わず安堵にゆるむ。

 ラトゥースはすかさず続けた。


「ではもう一件。シャノアから奴隷が輸出され、代わりに何処かより密輸入された麻薬が蔓延しつつある、と聞いております」


 ラトゥースは短く言葉を切って、相手がどう反応してくるかを観察した。


「見るに耐えぬ有様との噂。というのも、本来ならば水際で摘発すべき側にある役人の大多数が、奴隷商人、麻薬商人から賄賂を得て黙認しているとかいないとか」


「断じてそのようなことはない。失敬な」


 突然レグラムは激昂して立ち上がった。

 ラトゥースを威圧するかのようにテーブルを叩き、怒鳴りつける。

 はずみで空のゴブレットが倒れた。

 底に残る薄黄色の果水がこぼれ、コースターに染みてゆく。


 ラトゥースはこぶしを振り上げるレグラムを含みのある目線で見上げた。涼しげに笑ってみせる。それでいて何も言わない。


「総督、落ち着きなさい」


 ラトゥースの口元が皮肉に微笑んだのを見たのか、銀ギルド長は鼻白んだ口調でレグラムをいさめる。レグラムは苦虫をかみつぶしたような顔で押し黙った。


 声を荒げれば脅しに屈するとでも思っているのか。


 ラトゥースは内心、呆れ果てた。つまらない小心者もいたものだ。

 実際のところラトゥースにとっては、その程度の脅迫など日常茶飯事にすぎなかった。

 若すぎる年齢とたおやかな外見は、特にこういった任務を遂行するにあたって足元を見られやすい。


 だがそれゆえ相手が油断してつい高圧的に恫喝したり、あるいは本性をのぞかせてしまうことも少なくない。このいけ好かない官僚のように、だ。


「基本的に、シャノアにはくずのような人間が多すぎるということです」


 カスマドーレは組んだ指から人差し指だけをほどき、かすかにいらいらと突き合わせた。幅広の指輪が陰鬱な銀の色に光っている。


「働きもせず、酒を飲み騒ぎ治安を乱しては無闇にはばかる連中がおります。我々の眼が行き届かぬ裏路地、城壁の中、排水溝はドブネズミの巣となる一方。足がつかぬのを良いことに、そういう輩をわざわざ好んで悪事に飼い使う者もおるとまで聞き及びます。それががもし寄り集まり騒ぎ出せば何をしでかすか分からないというのに、どういう了見か、『困っている人を見捨てないでほしい、クズどもに仕事をまわせば治安が良くなる、議会も救民に協力せよ』だなどとつまらぬ不平ばかりを言ってくる愚か者もまたいるのです。ご存じのように当市には『救民法』が存在します。健康でありながら仕事をせぬ者に公共の仕事を与える法律です。これ以上の恩恵はないでしょう。もし黒薔薇とかいう組織が存在し、シャノアで奴隷狩りを行っているとしても、考えようによっては『救民法』でさえ救えない犯罪者予備軍を一掃するに等しく、我々善良なる市民としてはつまり」


「つまり奴隷売買は公然とした事実であり、しかも誰一人としてそれをとがめようとしない──あるいはできないとお認めになるのですね」


 ラトゥースはカスマドーレの言葉尻を捕らえた。

 そのくせレグラムだけを見つめて言う。

 レグラムは鼻髭をいじりながら尻すぼみに答えた。


「とにかく被害の訴えがありませんので、我々としてはどうにも……」

「分かりました」


 ラトゥースは天真爛漫な微笑みをうかべ、立ち上がった。

 腰のガンベルトにぶち込んだ金象眼の銃が、美術工芸の粋をつくした骨董品のごとき美麗なきらめきを放つ。


「そういうことでしたら。では失礼。貴重な執務時間を割いていただき有り難うございました。シェイル、行きましょ」


 ラトゥースは後ろに控えた大柄な女軍人をうながし、部屋を出た。

 女軍人は、傍らに立てかけるようにして置いていた剣を取って一礼した。


 総督館を出て、表に待たせていた黒塗りの二頭立て馬車に乗り込む。

「お待たせ、ベイツ。出して」

 ねずみ色の外套を着込んだ御者が馬に鞭を入れる。


 馬車はゴトゴトと走り出した。


 長年にわたり増改築を重ねたせいだろうか、いつの時代の何様式かも分からなくなったかつての海城、シャノア総督府を後にする。

 城から市街地へ抜ける馬車道は狭く、入り組んで、たいそう進みづらかった。

 古い石造りの城壁と海水を引き込んだ壕とが、さながら迷路のように行く手を阻んでいる。

 運河を挟んですぐ目の前に跳ね橋が見えているのに、いつまでたっても目的の地点へたどり着けない。

 橋を一本渡り間違うと、もうどこをどう走っているのか、さっぱり分からなくなるのだった。


 通算五度めの迷子になったあと、御者はよれよれしたコートをはためかせ、すまなそうに首をねじって振り向いた。


「すんませんお嬢さん、また間違うてしまいました」

「いいのよ。今度来るときはこっそりと城郭地図を用意しておくわ」


 さすがに申し訳なく思って、ラトゥースは御者に慰めの声を掛けた。


「その呼び方は止せ」

 シェイルが苦々しく戒める。ラトゥースは笑ってシェイルをなだめた。装いに似合わぬ仕草で肩をすくめる。

「呼び方なんてどうでもいいわ」


 腰に巻いた重いガンベルトをほどき、座席に放り出す。

 なめらかにきらめく銀白地に金象眼をあしらった、こしらえの良い燧石式フリントロックピストルが現れた。


「それにしても、あのギルド長、何て言ったかしら。カスマドーレか。信じられない。この私に向かって、こともあろうにあることないことよくもまあぬけぬけと」

「同感です」


 女軍人のシェイルは腕を組み、つんとした顔で同調した。

「ふざけた連中かと」


「治安が悪いのは、市政を預かるものに良くしようという気がないからよね」


 ラトゥースは向かい側の腰掛け下部を蹴飛ばした。気のない音がした。


「いくら表向きの肩書きが銀ギルド長だからって、あの調子じゃ裏で何やっててもおかしくない。というか、もしシロなら、私には人を見る眼がないってことだ。無実の人に濡れ衣を着せ歩く前に陛下に申し出て職を辞させていただいて、婿探しのパーティにでも夜ごとお勤めした方がましよ。ひらひらしたドレスにプンプン香水ぶっかけて『マアなんて素敵な王子様じゃなくって!』とか何とか言ってさ」


「おたわむれを」

 シェイルは相変わらずの仏頂面で受け流す。

「調べますか」


「そうね、少なくとも銀ギルド長御自らレグラムを訪ねる理由ぐらいは」

 その口調はむしろうきうきと楽しそうだった。

 白日に曝すべき秘密のありかを求め、青い眼が勢い込んで輝いている。


「いくら相手が総督とはいえ、たかが賄賂の受け渡しにギルド長みずから出向くわけがない。何か他の用事があったに違いない。もっと重大な何かが」


 車窓の景色が軽快に流れ出す。

 馬車はどうにか跳ね橋の迷路を抜け、シャノアの港に近い倉庫街を走っていた。

 山と積まれた麻袋を積んだ荷車を引くロバや、自分の身長よりも高い荷物を平気で担いで歩く荷役夫などが次々に行き過ぎ、または馬車道を平気でのろのろ横切ってゆく。


 ラトゥースは何気なく続けた。


「黒薔薇の連中が動いてると分かってて、見て見ぬ振りしてるのだけは許せないの」

「袖の下をつかまされているのでしょう」

「まったく。こっちはそれどころじゃないっていうのにね」


 ラトゥースは大げさにため息をつくと、ぼんやりと首を傾けて、遠い東の空を見つめた。


「もし、本当に黒薔薇が陛下のお命を狙う何者かのたくらみに荷担しているのだとしたら。それだけはどうしても阻止しなければ」


 半分開けた窓から差し込む陽が、馬車が揺れるたび、定期的に行き過ぎる影となって、ラトゥースの表情を明から暗へ移ろわせてゆく。

「そのためだったらどんな手を使うことも厭わない。たとえこの身を投げ出すことになろうとも、ね」


「姫、それは」

 柳眉をつりあげて反論しかけたシェイルに気付いて、ラトゥースはふっと表情を和らげた。

「ごめんね、シェイル。あなたにはいつも心配を掛けて申し訳ないと思ってる。でも、本当のところ、黒薔薇のこと以外はどうでもいいの」


 つばの広い帽子をとり、くしゃくしゃと端を丸めながら、飾りの白い羽根とビーズを指先でいじる。

 ほんのり淡い光をはなつ金色の巻き髪が、襟足から柔らかくこぼれてはねた。


「昨日の赤毛も、もしかしたら……」

 どこか上の空でつぶやくラトゥースの眼が、ふと街のある一角で止まった。

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