4.殺し屋と姫
第12話 私が助けを呼んでこなかったら、たぶん今頃は、どこかその辺の海にぷかぷか浮かんでる最中だと思うの
歯切れの良い足音が部屋を横切り、窓辺に回り込んでくる。
どうやら感覚が鈍っているらしい。声がするまで、人の気配など微塵も感じなかった。
さらに、その事実に気付いた後でも恐怖がわきあがって来ない──殺される可能性もあるというのにだ。
心の平衡が壊れているのかもしれなかった。
それもいい。恐怖は自衛本能の一種だ。
命に重みを感じられない人間は、恐れも痛みも覚えないだろう。
そうなれば簡単に死ねる。命を棄てられる。
ハダシュは、声の来る方へぎごちなく顔を向けた。
手に湯気の立つカップを包み持った少女が、葡萄茶色の長椅子にふわりと腰をおろす。
ハダシュはわずかに目を瞠った。一目見るだけで、違う、と分かった。
微笑みの柔らかさが、住む世界が、呼吸する空気が違う。何もかも違う少女。
一直線に差し込んだ真紅の夕日が、やわらかな金の髪を陽炎のようにゆらめかせている。
まるで絵の中からそのまま現れ出でたかのようだった。
印象的なまなざし。見たことも、言葉を交わしたことすらない、遠い光の彼方にいるたぐいの──
逆光が優しげな表情を秘め隠した。
「どうしたの。まさか怒ってるんじゃないでしょうね」
少女はハダシュの刺々しい視線に気付いて、皮肉に口元をゆるませる。
言い返そうとしたが、うまくいかなかった。
声が出ない。喉に綿が詰まっているような気がする。
少女はいたずらな子狐のように笑った。
「私が助けを呼んでこなかったら、たぶん今頃は、どこかその辺の海にぷかぷか浮かんでる最中だと思うの」
貴族の令嬢がおいそれと口にできる類の台詞ではない。
が、それだけは事実だと認めるしかなさそうだった。
どういう意図があるにせよ、治療もされている。
戦闘で破れた服は脱がされ、打撲の後には膏薬が、無数にできた裂傷には血止めの布と包帯をあてがってある。
守るもののない剥き出しの両肩はやけにこころぼそく、うすら寒かった。
ハダシュは苦々しいかすれ声をしぼり出した。
「さっきのクソ餓鬼か」
「何それ」
とたんに少女はむっとした声でさえぎった。どうやらそちらが本性らしい。
「どさくさに紛れて、さ、触ったくせに」
「触って分かるようなものには触ってない」
ハダシュはひねくれた笑いを浮かべた。小馬鹿にした目で少女を見返す。
少女は耳まで真っ赤に染めた。
「ぶっ無礼な、エルシリア候姫に向かって何という」
今にも噴火しそうな顔で息を喘がせる。
状況の情けなさにもかかわらず、ハダシュはつい身を堅くした。
少女は今、エルシリア、と言った。
都のある東国の地名だ。
黒薔薇が口にしたことを聞きとがめられたか。
答えを見いだせないまま、その場のごまかしもかねて、何とか起きあがろうと無駄な努力を重ねる。
少女はため息をひとつして、ハダシュをしょんぼりと見た。さすがに手を貸してくれる様子はない。
「どうして俺を助けたりした」
とりあえず媚びてさえいれば状況は悪くならないだろう。
ベッドに身を預け、ぼんやりと天井をながめる。黄ばんだ染みの形が、歯を剥き出して笑う悪霊の顔に見えた。
「どうしてと言われても」
少女はやや皮肉っぽく青い目をみひらいた。
「困っている人はそれを助けよ、でしょ。太陽神マイアトールの教えよ。献身的で義侠心あふれる、いかにも騎士道精神に則った行動だと思うけど」
「そんな甘っちょろい考えで寝首を掻かれた奴なら、腐るほど知っている」
ハダシュは半ば自棄的に呟いた。
「ずいぶん荒んでるのね」
少女は肩をすくめ、カップに口をつけた。甘いミルクの香りが漂う。
「ま、それはいいとして。あなたのお名前を聞かせていただこうかしら。何であんな連中に襲われてたのかも、よければね。ついでに言っとくと私はラトゥース・ド・クレヴォー。生まれは東国エルシリア、この地を統べるラグラーナ王家に仕えしクレヴォー家の姫にして法の執行者たる宰相閣下の忠実なるしもべ」
ハダシュは笑えないまま眼を伏せた。
「馬鹿か、てめえは」
奇妙な間が空く。
王家に仕える貴族あるいは騎士ということは、すなわち闇世界の住人の次に芳しくない連中──外部の役人ということになる。
そのとき、ようやく少女が腰に巻いたガンベルトに気付いた。
無造作に突っ込まれている銃。なかなかの業物と見受けられた。
一目見るだけで、そこいらに転がっているような模造銃の類ではないと分かる。
貴族がその地位を顕示するために作らせるような、美術品であり工芸品でもある代物だ。
レイスあたりが見れば、きっと目を輝かせるだろう。あの男も、ああ見えてけっこうな好き者だ。
「あら、そう、ごめんあそばせ」
嫌な予感を感じてハダシュは顔を上げた。
思いも寄らない、小悪魔的な微笑が眼に飛び込む。
「人を呼んだほうがいいみたいね。キャー誰か助けてー」
「ま、待て」
ハダシュは思わず手を伸ばそうとして、全身をつらぬく痛みに顔をゆがめた。
それ以上動くこともできず、ただ、うめく。
「うわ、大丈夫? ごめんなさい、ほんの冗談のつもりだったのに」
あわてた素振りでラトゥースは屈み込んできた。大きく見開かれた青い瞳が、心配そうに揺れ動いて近づいてくる。
「来るな」
ハダシュは乱暴な声でラトゥースを振り払った。澄みきった無垢な瞳が恐ろしい。いや──
その眼にまざまざと映り込む自分の姿こそが、何よりも疎ましかった。
「そんなことよりもだ」
吐き捨てるように声を荒らげ、話をすり替える。
あの女の記憶が、惑乱する幻の痛みとなって心をかき乱していた。
ヴェンデッタならたちどころにこの場所を突き止めるだろう。そうなれば、また。
「誰にも気付かれてないんだろうな」
自分は良い。襲われても自業自得だ。だが。
穏やかな微笑がラトゥースの口元に登った。
「心配しなくても大丈夫」
ハダシュの思いを見透かしたか、ゆっくりと落ち着かせるようにかぶりを振る。
冷静な仕草だった。
「なぜ分かる」
「なぜって言われても」
ラトゥースは眼をぱちくりとさせた。表情に困惑の色が射す。
「見られないよう用心したからなんだけど」
「奴等を知ってるのか」
畳みかけた問いの意図をそらすかのように、ラトゥースはあからさまにとぼけた素知らぬ顔でくすりと笑った。
天真爛漫な人形のように、ちょこんと肩をすくめ、小首をかしげる。
「ま、それはともかく。今は何よりもまず怪我を治すのが先決だと思うの」
ラトゥースは椅子の座面に手を突いて押しやり、勢いを付けて立ち上がった。
「あとで夕食の差し入れにくるわ。何か食べたいものはある?」
ハダシュは答えなかった。
「もちろん、ご期待に添えるような大層なディナーは用意できないけど……」
ラトゥースは答えを期待するでもなくカップを干して、テーブルへ置きに行く。
破鐘のような銅鑼の音が、磯の香り混じる潮風に乗って遠く聞こえてくる。
わずかに身をかがめた姿に夕日が遮られ、均整の取れた影が黒く浮かび上がった。
「何?」
微苦笑混じりの問いかけに、ハダシュはようやく我に返った。
無意識にラトゥースの動きを眼で追っていたと気付いて、わずかに狼狽える。
「別に」
「え、なになに、なあに?」
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