第6話 癒えることのない傷を
ハダシュの体が再度、石畳に跳ね返る。
口の中が苦い血の味であふれた。痛みすら鈍くにしか感じられない。
ハダシュはもがこうとして、ぶざまに痙攣した。頬にあたる石畳のざらついた感触に、鉄錆の生ぬるさがまじっていく。動けない。
「殺すな」
再び、先ほどの男の声が切れ切れに伝わった。地の声ではない。わざと声色を変えている。
「後で使える」
「ずいぶんと買いかぶるのね、デュゼナウ。あなたらしくもない。情が移ったの?」
黒薔薇が嘲笑の声を上げる。
ハダシュは倒れたまま、うつろに死を思った。ヒールの足でこづかれ、乱暴に仰向かされる。
無意識の呻きがもれた。唇ごと、顔をがりっと硬い砂まじりのヒールで踏みにじられる。血と土の味がした。歯が軋む。
のぞき込んできた白い顔が、すぐ横で燃えさかる火の陰影をうけ、残酷なほど笑っているのが見えた。
「ハダシュ、聞こえてる。目を開けなさい。この程度でくたばる男じゃないはずよ、貴方は」
冷たい感触がひたひたと頬をはたく。赤く光るナイフが鋭い光の棘を振り散らした。
「ほら、目を覚まして」
突き刺す痛みが走った。冷たく乾いたナイフの切っ先が、頬にうっすらと浅く血の線を切り裂いてゆく。
にじみ出た血の珠が涙のように頬を転がりおちた。
「殺せ」
身体がふるえる。絶望的だ。
「残念ね。人間って、そう簡単には死ねないのよ」
力なくひらいたままのくちびるを、ナイフの先でもてあそばれ、切り刻まれる。血の味。意識が遠ざかった。
ヴェンデッタの声ばかりがまざまざと近づいてくる。
「もっと激しく。刻みつけてあげるわ。心にも、身体にも」
あやしく、優しく、恐ろしい吐息が耳に忍び込んだ。ほつれた髪が柔らかくなだれかかる。
「癒えることのない傷を」
口を強引に割られ、ナイフを押し込まれる。舌が血にまみれて、うごめく。
ヌルヴァーナ像の落とす死の影に押し包まれ、ハダシュは喘いだ。かすんだ目を押し開き、必死で月の光彩を探そうとする。しかしどこにもない。真っ暗闇だった。
「どうしたの。見せなさい、あの目を。血の色の輝きを」
毒々しい声が揺すぶる。
「眼を開けなさい。そして私を見るのよ。貴方を殺す女の顔を」
恫喝にも似た低いささやきが、ハダシュを圧していく。
だが、何も見えない。身体も動かない。弱々しく呻く。無様だった。もう、何も、聞こえな──
「狼藉者、何事か。神妙にいたせ」
突然、夜に突き立つかのような誰何の叫びが響き渡った。闇に流れる松明をかかげた警邏の騎兵が駆けすがってくる。
ヴェンデッタは舌打ちした。気を失ったハダシュから飛び離れる。
「そこな者共、騒擾の罪につき神妙に縛につくことを命ず!」
騎兵は松明を投げ捨て抜刀するなり、武装した馬ごと突っ込んできた。
すさまじい馬塵と蹄の音に刺客一団はそれぞれがとんぼを切ってすばやく散開し、闇へと逃れる。
首領らしき男の姿はとうにない。
ヴェンデッタもまた、騎兵を睨み据えながら後退り、身をひるがえした。
騎兵はあえて追いすがろうともせず、荒ぶる馬をなだめながら手綱を引き、傷ついたハダシュの横で馬首を返した。馬が鼻息も荒くいななき、蹄で石畳を掻く。
「姫、どちらにおわします!」
女の声だった。女神像の袂に倒れていた少女がこめかみを押さえながら頭を振り、起きあがって手を振る。
巨躯の女騎士は甲冑を鳴らし、地響きをたてて地面へと降り立った。
ヌルヴァーナ像の台座よりも頭が飛び抜けてみえる。
騎兵は兜を脱ぎ捨て、怒りと焦燥をにじませた険しい顔で少女に駆け寄るなり手を差し伸べて引き起こした。
「いい加減になさってください、ラトゥース姫。やんごとなき侯姫の身でありながら、なぜこのような危険な真似をされるのです」
「私のことはいいから」
少女はよろめきながらも駆け寄って、ハダシュの側に膝をついた。ドレスの裾がふわりとひろがる。
しかし、かがんだとたん、やわらかな裳裾が血を吸い込んだ。手を口元に押し当て、あまりの悲惨さに悲鳴をもらす。
「この街は平穏な我らの都、ハージュではないと何度申し上げればお判り頂けるのか」
女騎士はがみがみと叱りつつ手袋を脱ぎ、息を確かめるためにハダシュの鼻先へ掌をかざした。
少女は気がゆるんだのか力なく笑った。
「ごめんなさい、シェイル。もう、抜け駆けは金輪際しない。よく分かった。まさか、こんなことが本当にあるなんて」
女騎士は、濡れる月光のもと、翼を邪悪に広げ、豊満な乳房を剥き出して哀れな獲物へと食らいつくヌルヴァーナ像を侮蔑の眼で見やった。
「この堕落の街でひとりうろつくなど狂気の沙汰としか」
吐き捨てながら、台座下で息絶えている他の死体横にかがみこみ手早く調べる。
だが着衣や所持品に手がかりは何もなかった。
むっつりとして、血の臭いから顔をそむける。
「自警団に連絡せねばなりません。それと、この男は──」
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