第5話 黒薔薇
それからどこをどう逃げ回っただろう。
アルマナス通りからマリド広場へ、そして過去の遺産である薄汚れた城壁の抜け道を突っ切りヒュッチ区の裏路地へ入り込んで、それから。
だんだん動きが緩慢になり、息が切れてくる。刺客の気配も感じられないのに、何度も何度も振り返って、頭が混乱して、なぜ逃げなければならないのかも分からなくなり──
今ではもう、自分がどこにいるのか見当もつかない。
ハダシュは喉をぜいぜい鳴らしながら、それでも獣のように足を引きずり、歩き続けた。
とにかく、ここではないどこか見つからないところを探して……とうとう動けなくなって、路地のごみためにうずくまる。
血が帯のように流れて、足下に黒い血だまりを作った。
すえた臭いが鼻をつく。地面がぬるぬると滑った。
とりあえずシャツを破いて止血帯を作り、落ちていた食いさしの骨で帯を強くひねりあげ傷口を絞る。
全身にしびれ渡る痛みが走った。
このまま、こうやって身を隠していれば見つからないだろう。
朝になれば、きっと奴等もあきらめる。
あきらめてくれたら──
ぐらぐらする頭が物音にびくりと反応する。本能が最後の警鐘を鳴らした。背筋に走る、痛いぐらい定かな気配。
路地の入り口に黒い影がさした。
「いたわ。そこよ」
あの女の声。心惑わせる瞳が鮮烈に記憶をよぎった。
意識を射抜くヴェンデッタの姿が、黒ずくめの刺客の背後にかき消えた。
きらりと銀色に光るものが視界をかすめる。人影。
注意を払ういとまはなかった。這いずりもがいて、泥と残飯まみれになりながら路地をまろび出る。
月が明るい。
一瞬、これで助かるかもしれない、という幻想が脳裏をめぐる。
だが血塗れのハダシュが転がり出てくる様子に怯えたのか、広場にたむろっていた何人かの街娼、酔っぱらいたちは、おどおどして姿を隠した。
そのまま、誰の助けも求めることができず、むなしく膝をつき、倒れ込む。
動けなかった。自分の吐く荒い呼吸音だけがいつまでも続く。肌寒い恐怖が肺を締め上げた。
死の恐怖が迫る。
そのとき、石畳を蹴る軽い足音が聞こえた。
ハダシュは最後の絶望的なあがきをもって、跳ね起きた。武器もなく、手傷を負い、疲れはててどうすることもできなかったが、せめてもの一撃は食らわしてやるつもりだった。
「……うわ、何、どうしたのそれ。ひどい怪我!」
緊張感のまるでない声に、振り上げた拳が力無く沈み込む。
ハダシュは、全身の力がどっと抜けるのを感じた。夜風に吹き消されかけの灯火を片手に駆け寄ってきたのは、一見、どこにでもいそうな町娘の装いに銃のホルスターを下げた、あまりにも不自然な格好の少女だった。
こんな夜中に出会うにしてももう少し何とかならない物か、とは思ったものの、今はそれどころではない。相手は燈火に浮かび上がったハダシュの血まみれな姿に眼を押し開いた。
「え、ええっ、喧嘩、にはちょっと見えない……けど?」
「畜生ッ」
我に返ったハダシュは歯ぎしりしてうめいた。歯がみする思いで口汚くののしる。
「そばに寄るんじゃねえ、このあばずれ女。てめえみてえな淫売にかくまわれるほど落ちぶれちゃいねえや。消え失せろ」
しかし、近づく絶望の足音がハダシュの罵詈雑言を呑み込ませた。
腹の奥が氷のように冷たく縮こまる。
だが、一方の少女は周囲の異変にまったく気づいていなかった。いきなり袖をまくり上げて唇をへの字に結び、ハダシュの頭上で気の強いたんかを切り始める。
「な、何を言う、無礼者、この私のどこがそんなふうに見えるというの? どこから見ても平々凡々とした一介の小市民でしょうっ……!」
黒衣の女が路地から歩み出てくる。石畳に落ちる月影。ざらつく砂にも似た、ひそやかな殺意。暗闇に塗り込められた静寂の中、うつくしいおもてにひそむ冷笑だけが、壮麗な月に照らされ、浮かび上がっている。背後に控える刺客の気配が伝わった。凄まじい殺気が渦を巻いている。一人や二人ではない。
「逃げろ」
ハダシュは精いっぱいの体裁を取りつくろって呻いた。
「相手は、黒薔薇だ」
気の強い少女は眼を上げ、近づいてくる刺客を見た。驚きの息を大きく吸い込む。
ヴェンデッタは肩をそびやかせ、うっすらとひそみ笑った。
「逃げ足だけは見上げたものね。さすがはラウールの飼い犬だわ。でも最後まで逃げ切れるかしら」
声が闇に沈んでいく。ヴェンデッタはすっと身を引いた。代わりに、刺客どもが足をにじらせながらせめぎ寄ってきた。
「どけッ」
ハダシュは、少女の袖をつかんで後ろにたぐり寄せた。その余勢を駆って地を蹴り、前に飛び出す。
迫り来る刺客どもの数を眼の隅で数えながら、右、左とくり出されるナイフを避け、身体をぐいとひねって手首を捕らえ、逆肘に膝を叩き込む。
へし折れる骨の感触。
絶叫が耳を突き抜けた。
だが踏み込みが深すぎたせいか、足の傷が割れた。支えきれず、がくりとつんのめって膝を落とす。
途端、思いもかけない方向から拳骨が叩き込まれた。
衝撃で意識が吹っ飛んだ。
広場中央に立つ妖艶なヌルヴァーナ像の台座に激突し、頭から崩れ落ちる。
「死ねや、ガキ」
真正面の男が、狂気の嗤いを放って棍棒を振り上げた。
まばゆく月の光る頭上に黒々と、死を司る美しき死神ヌルヴァーナの像が、その禍々しい青銅の翼を大きく打ち広げて覆い被さってくるのが見えた。
意識が凍え入る。
反射的に息をすすり、足を蹴り出した。足をすくわれて敵はつんのめる。
振り落とされた棍棒は危ういところでハダシュをかすめ、台座の根本に当たって跳ね返った。
衝撃で男の手から飛び、点々と転がる。
殺らなければ殺される。ハダシュは恐怖にかられた悲鳴を上げ、石畳に転がる棍棒を奪い取りざまに敵の頸椎めがけ叩きつけた。
ぐしゃりと頭の形が潰れる。
何か恐ろしく熱い死の色がべたべたと周囲に飛び散った。
ハダシュはよろめいた。べっとりと黒く濡れた手が、ぶるぶると震えていた。
激しい呼吸音だけが夜に吸い込まれていく。
生き残った刺客がふたたびハダシュを取り囲む。
ヴェンデッタの怖いほど穏やかな眼差しが、ふと、ハダシュの背後へと向けられた。
「あら? 誰、その子?」
つられて振り向いたハダシュは思わず目を疑った。さっきの少女がまだ居残っている。
「死にたいのか、逃げろ」
どなりつける。
だが少女は硬直したまま動かない。
青くなった唇がわなわなと震えている。
逃げないのではなく、動けないのかもしれなかった。
台座にすがりつき、目の前で繰り広げられる凄惨な殺し合いを凝視しつづけている。
「さて、どうしたものかしら。デュゼナウ?」
黒衣のヴェンデッタは困ったように笑って小首を傾げ、背後を見た。黒い手袋をはめた手がひるがえる。
闇に潜んでいた別の気配が、いらだたしげに応じた。
「……殺れ」
くぐもった男の声。
なぜか唐突にいくつもの記憶が混乱した。いらだった声で因縁を付けてきたローエン、苦笑する銀髪の医師レイス、悲鳴を上げて死んでいったジェルドリン夫人──
恐怖に見開かれた少女の青い目が、ふいに胸を突いた。
「何やってるんだ、早く逃げろ」
追い立てられるかのように駆け戻って少女を突き飛ばす。
少女はハダシュの行動に意表を突かれ、甲高い悲鳴を走らせて倒れ込んだ。
手にしていたカンテラが石畳に飛び、ブリキの音をたてて跳ね転がる。
まき散らされた油が一瞬にして燃え広がった。
熱気に闇が引き縮んでゆく。
その瞬間、恐ろしく重たいものが後頭部に振り落とされた。
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