第4話 「逃げても無駄よ、ハダシュ。これはゲームなの。私と貴方の」

 笑みが浮かんでいる。

 ハダシュはヴェンデッタを凄絶に睨み返した。

「ふざけるな」


「じゃあ、こうしましょ」

 ヴェンデッタは指を鳴らした。すっと身を引く。

 心臓が、どん、と熱く跳ねた。本能が敵の潜む居場所を告げる。

 暗闇に潜んでいた殺意がもう一人の刺客となって襲いかかってきた。


 ハダシュはとっさに転がりざま身をひねり、迫る敵の手首をするどく蹴った。刀子がふっ飛び、鏡にあたって甲高く華奢な音を響かせる。

 黒衣の男がよろめき、つんのめった。顔は覆面で隠れ、見えない。


 ハダシュは手で床を強く突き、横飛びに飛んで跳ね起きた。その手には既にジェルドリン夫人の血を吸ったナイフが逆手に握られている。


「できるのかしら、貴方に」

 ヴェンデッタはしずかに笑った。

 恐ろしい微笑みに、なぜか突然、恐怖がこみ上げる。


「うるせえッ!」

 ハダシュは距離をおしはかり、半ば無謀なまでの間隙をついて男の胸元に飛び込んだ。

 何のためらいもない喉笛への斬突。

 耳元に風のような悲鳴が鳴った。

 割れた傷口から血が噴き出し、豪華な絨毯にボタボタとこぼれ落ちる。


 だが。

 最後の瞬間、ハダシュは気も狂わんばかりの確信に捕らわれて、手を止めた。

 ちぎれんばかりに見開かれた相手の眼が、ハダシュの良く知っている別の男と重なる。


 崩れ落ちてゆこうとする男の胸元を掴み、乱暴に頭巾をはぎ取る。膨大な失血で青ざめた男の顔があらわになった。


 その顔を見たハダシュは、息を呑み、つかんだ手の力も失って、よろよろと後ずさった。ナイフが手からこぼれ落ち、鈍い音を響かせて転がった。血が、ひろがっていく。


「ローエン!」

 名前が轟音となって脳裏に響く。

 ローエンは棒のように血の海へ倒れ込んだ。深紅の飛沫が飛び散る。

 信じがたい思いに打ちのめされながら、ハダシュはヴェンデッタをあおぎ見た。ハダシュのもらす喘ぎばかりが、荒々しく息づく。凍えた瞳が見つめかえしてくる。


 低くかすれた笑い声が聞こえた。

「ハダシュ、意地を張るのはお止しなさいな」


 ハダシュはぞっとすると同時に、違う意味でも身震いした。こんな状況に居合わせていてさえ、ヴェンデッタの声は本能に触れた。


「分かっているはずよ。私なら、ラウールよりずっと、貴方を」


 妖しい視線に膝が震えた。動けない。痛みと血に呼び起こされた昨夜の記憶がまざまざと蘇ってくる。ラウールの道楽にもてあそばれ、痛みを忘れるための麻薬に溺れて、それから。

 下半身が鈍くうずいた。

 ──何度も、この女と。

 記憶の中の悲鳴。恍惚という名の絶望。全てを絞り出されるかのような灼熱の感覚。身体が覚えている。

 ハダシュは怖れ、後退った。


「もうすぐ”あれ”も手に入る。そうすればこの手でこの下らない国のすべてを破壊できるわ」


 ヴェンデッタは首にかけたペンダントをかるくくわえ、中の何かをあおった。

 そっと伸ばされた手が、ハダシュのうなじに回ってゆく。濃厚な薔薇の香り。

 野葡萄色の唇があやしく、艶めかしく光った。

 身体がこわばった。忍び寄ってくる。逆らえない。しびれるような感触が唇にあたった。口の端をたまらなく甘美な蜜の味が伝う。

 とろりとこぼれるそれを、思わず探し、受けとめる。舌がからみついた。

 濃密なくちづけ。ぬめる音が聞こえる。


「私に従いなさい。そうすれば、もっと」


 両手で頬をゆるゆると撫で回される。首へ、肩へ、だらりと下がった腕へと、誘う掌がすべり落ちてゆく。

 おもわず声が洩れた。

 呆然と力が抜ける。ハダシュは殴りかかろうとして腰砕けになり、ヴェンデッタの肩に掴まった。


 襟元のボタンが音を立ててちぎれた。豊かな乳房が大きくはだけられる。きっちりと詰めていたはずの襟から、肩口の赤黒い古傷が露わになった。傷だけではない。それを隠しごまかすかのように、肩から胸にかけ、匂い立つかのような漆黒の薔薇の刺青が一面に咲き誇っている。


 禍々しく、毒々しく──触れるものすべて、あるいはヴェンデッタ自身をも傷つけずにはおれぬかのような美しさで。


 ヴェンデッタはあやしく微笑んだ。わざと刺青を見せつけるかのように、ハダシュを凄艶な乳房へといざない寄せる。

 熟し切って今にも腐り落ちそうなほどに柔らかく、なめらかな、それでいてどこか無機質な肌が、汗ばんだ頬に触れた。


「貴方は間違ってる。今の貴方はただの奴隷、あの男に飼われた死にかけの無様な犬」


 蛇のようにちろちろと細い舌を吐く声が、病的に熱を帯びた意識の裏にまで伝い入って来る。けだるく、甘ったるく。

 淫靡に濡れて光る唇がささやいた。


「私のもとへ来て。生きる理由をあげる。この世に二つとない、歓喜を」


 歓喜。

 理性がわずかな拒絶をさけんだ。

 本当はただ逃げているだけ。女の身体と金と麻薬、それに自堕落な暴力に依存しているだけだと。だがそれさえも、青白い肌に罪深く咲き乱れた薔薇の刻印を前にむなしく溶け落ちてゆく。

 夢見心地に身をゆだねかけ、吹きかけられる吐息の甘さに一瞬放心した、そのとき。


 急に音が戻ってきた。荒々しい足音が廊下をよぎる。ドアが激しく叩かれ、ジェルドリン夫人の名を呼ばわる叫び声が響きわたった。ハダシュは我に返ってヴェンデッタを突き飛ばした。

 とっさに身を翻し、血糊がつくのにもかまわずカーテンを引き払う。

 薔薇の香りが夜空に放たれた。強いめまいに襲われる。月が恐ろしいほど青白い。


「逃げても無駄よ、ハダシュ。これはゲームなの。私と貴方の」


 声に振り向く。ヴェンデッタは冷たい微笑みを浮かべてハダシュを見つめていた。

「覚えておきなさい。我が名は、黒薔薇」


 ハダシュは思わず後ずさった。

「狙った獲物は、逃さない」

 凍える微笑み。匂い立つ薔薇の唇。激しい胸騒ぎ。危険すぎる、その気配。


 そのすべてから逃れたかった。

 ハダシュは窓を突き破り、転がり落ちるようにして身を躍らせた。

 迷路のような植え込みを蹴散らし走り抜け、塀をよじ登って、用意しておいた馬に飛び乗る。馬は血の臭いに興奮して竿立ち、いなないて、狂ったように走り出した。

 喧噪が一気に遠ざかっていく。喉がちぎれそうなほど乾いた。


 ハダシュは声ならぬ声で絶叫していた。


 素性も定かではない殺し屋。父も母も記憶になく、闇の世界に身を投じる以外生き延びる術を学べなかった。今いる世界がたとえ血みどろの毎日でもその泥沼から逃れて行く先さえない。


 生きるため。ほんの一瞬すべてを忘れたいがために。


 壊してしまった。

 自らの手でローエンを、友を、自分自身のこころを、ばらばらに打ち壊してしまった。

 ハダシュは疾駆する馬の背で絶望のほぞを噛んだ。血が臭う。どれほど風を切って走ろうと、身に滲みついた陰惨な死の臭いが吹き飛ばされるはずもなかった。



 隠れ家に逃げ戻ったハダシュは呆然とベッドに倒れ込んだ。汗臭い汚れた毛布に顔をうずめ、ベッドを殴りつける。ローエンの血走った眼がぐるぐると脳裏をめぐり、執拗に消えなかった。


 涙が唐突にこみ上げては荒んだ殺し屋の眼から流れる。


 友を殺すことと、金のために人の命を奪うことと何が違うのか分からなかった。

 分からない自分が、悔しかった。とにかく、ハダシュは自分を責め、自分の生業を責め、ローエンの名を呼んで嗚咽し続けた。


 ──我が名は、黒薔薇。


 冷たい響きがよみがえる。

 ハダシュは枯れた涙を最後にひとつすすり込んで、感情の波をぶつりと断ち切った。

 濡れた頬を肩口でぐいとぬぐう。

 うつろな目で周囲を見まわす。


 長年浴びせられ続けてきた自己否定の罵声が、脊髄に刷り込まれた条件反射となって、感情と思考をともに停止させてゆく。

 何も考えなければいい。意識がのろのろと滞る。

 感情をそぎ、自我を放棄し、目を閉じてゆっくりと浅い呼吸を繰り返す。

 日々、けだもののように生きてゆくのだ。それでいい。


 ようやく体のふるえが収まりかけたと思った──そのとき。


 廊下の腐り板を踏み抜く甲高い音がした。

 張り巡らせた鳴子の仕掛けが狂ったようにぶつかり合う。

 足音が乱れ、どっと近づいた。


 襲撃。鳩尾に熱い衝撃が走った。


 反射的に立ち上がって窓へ駆け寄り、そのまま木戸を突き破って板張りのテラスへと飛び出す。

 眼下には無秩序に建て増しされた赤煉瓦の屋根ばかり。

 路地の向かいにある隣のベランダまでは一飛びの距離だ。


 ハダシュは手すりを蹴って飛んだ。だが着地した露台の床は半分腐りかけて脆くなっていた。体重と衝撃を支えきれない。

 床が割れた。体が半分突き抜ける。

 必死でもがき、足がかりを探す。宙に浮いたも同然の状態で露台の床に手を突き体を引き抜こうとしたとき、さらに床が砕けた。


 身体が沈む。木っ端のくずがばらばらに飛び散る。

「くそっ!」


 ずり落ちそうになるのをどうにかしがみついて止め、頭上の手すりをつかみ、一気に体を引きずりあげる。

 裂けた木がふくらはぎに引っかかった。

 皮膚が柘榴のように裂けた。帯状の血が噴き返る。


 振り返ったときにはもう、黒ずくめの刺客が身を乗り出して迫っていた。鈍色の殺意が光っている。


 とっさに折れた木っ端を刀子に見立てて投げ込む。尖った先端が刺客の左目に突き立った。

 刺客は顔をまだらに染め、獣めいた悲鳴をあげてのけぞった。その隙にハダシュは隣の部屋へと転がり込む。


「だっ、だれ、アンタ!」

 鞭を持ち仮面をつけた半裸の商売女が目を吊り上げてわめいた。

 足下に汗まみれの不細工な中年男がうずくまっている。

 鎖で緊縛された男の尻には火のついた悪魔の形の蝋燭。

 口には骨の形のくつわ。悪魔の蝋燭がじりじりと音を立てた。


「逃がすな」

 叫び声が聞こえた。

 ハダシュは苦悶の脂汗をふりはらい、部屋を駆け抜けた。

 反対側の窓を引き開け、一気にバルコニーから身を投げる。

 着地の瞬間、傷が引きちぎれそうに痛んだ。つんのめって倒れそうになる。


 酔客がよろめきつつぶつかってきた。何やらロレツの回らない悪態をついてハダシュの行く手を阻み、突き飛ばす。

 視界が錐揉みして急降下する凧のように回った。吐き気にも似た恐怖が喉元へこみ上げる。


 ハダシュは奥歯をきしらせ、どす黒い路地を転がるように走り出した。

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