2.血と薔薇とナイフ

第3話 何もかもが深紅に染まっていく、その、耐え難い生ぬるさ。

 柱の中途で頭を踏み固められている奇怪な怪物の彫刻。一瞬の艶姿を扇情的に切り取ったニンフ像。窓枠には宝石と装飾に狂気を絡みつかせたくろがねの薔薇。

 悪趣味きわまりないゴシックで飾りたてた部屋に、醜く太った中年女が入ってきた。


 手に持ったろうそくをテーブルの燭台に移し、いったん鏡の前に座る。

 ジェルドリン夫人は欠伸をしながら、ブラシで貧弱な髪を梳き、カーラーを巻いた。鏡に顔を近づけ、分厚いくちびるにたっぷりと紅をひく。紙をくわえて巨大な口紅の跡をつけると、それをまじまじと見て壊れた微笑みを浮かべた。


 窓の外は月夜。青ざめた風がさらさらと舞い込んで、レースのカーテンをまるく膨らませる。

 ろうそくの火がまたたいた。消えそうなほど、大きくたなびいている。


 夫人は窓に目をやり、どうしたものかと考えあぐねる様子をみせた。カーテンはあいかわらず不穏なほどに揺れ、映し出された灰色の木陰をゆらゆらとまといつかせている。


 ふっとろうそくの明かりが吹き消された。体をこわばらせ、闇を振り返る。

「だれかいるの」


 風の波打つ形だけが、月影となって床に映る。


 耳を澄ましても、葉ずれの他には何も聞こえない。巨大に戯画化された影だけが、不気味に伸び縮みして見えた。

 夫人は舌打ちし、呼び鈴につながる金と白と赤のふさがついた組み紐に手を伸ばした。

「ジゼラ、火をお願い」


 すぐさま隣の控え部屋から赤いろうそくを携えた小間使いが現れた。消えた燭台に火を移して風よけをたてる。

「マリオンが来るのよ。化粧するから手伝ってくれない?」

 媚びの混じった裏声は、他人が聞けば鳥肌の立つような気味悪さだったが、女中は顔色一つ変えなかった。

 ドレスを取りにクローゼットへと向かう。


「あっちのほうはどう」

 聞こえていないのか、黒いエナメルのロングドレスと赤い羽根のショールを手に戻って来る。

「こちらでいかがでしょう。それにジャグーのダイヤネックレスもあわせられては」

「ああ、あれならきっとマリオンも気に入ってくれるわね。それで」

「ほぼ順調です、ある点をのぞいては」


 女中は慇懃な態度を崩さぬまま用心深く言葉を選ぶ。


「冗談でしょ。この間も同じ事を言っていたわよ。まだ足りないの」

 夫人は女中に助けられてガウンを脱ぎ捨てる。ぶよぶよと何重にも垂れ下がった白い脂肪があらわになった。


「役人どもへの賄賂がかさみまして」

「そう」


 納得して頷く。酷薄な笑みが口の端を吊り上げた。

「そろそろレグラムにも引退してもらわなくちゃね」


 扉を軽くノックする音が聞こえた。

「マリオンかしら。聞いていらっしゃい」


 女中は、今にも裂けそうなドレスに主人の脂肪をむりやり押し込め、ふわふわと軽いショールを手渡すと、身を翻し、扉を細く開けた。外にいた召使いが二言三言、何かをつぶやく。

 女中は振り返った。

「マリオンが参りました」


「ああ」

 夫人はうわずった嬌声をあげて頬を手で押さえた。気味悪く身悶えながら、今にも駆け出しそうにどすどすと足踏みする。

 女中は宝石箱から金色に輝く大粒ダイヤのネックレスを取り出して、女主人の首にまわし留めた。


「では私はこれで」

 頭を下げ、ささやくように言って、控えの部屋へ続く赤いカーペットに沿って後ずさる。

 ノックの音がした。怪鳥の頭を模した金のドアノブが回り、扉が開く。


「マダム・ジェルドリン、こんばんは」

「いらっしゃい、マリオン、待ちかねたわ」

 精一杯の媚態もあらわにジェルドリン夫人は現れた赤毛の青年を迎え入れた。


 夫人の目の前に真紅の薔薇が花開く。花びらの先、青々とした葉の脈に、澄みきった甘露があざやかに珠をむすぶ。水上げしたばかりの芳醇な香りが広がった。


「まあ、綺麗。素敵よ」

 夫人は初心な小娘のように頬を染め、手を打ち合わせた。

「僕の気持ちです。受け取ってくださいますか、マダム」

 眼をほそめて赤毛の青年は笑う。


「ありがとう。お入んなさいな」

 ジェルドリン夫人は花束を受け取りながら彼のキスを受けた。


「素敵な装いですね、マダム。でもどんなに目も眩む輝きを放つダイヤも、マダムの気品には叶いません。今夜の装いは高貴なあなたにこそ本当によくお似合いです、マダム」

「お世辞はよして。なんだったらこのダイヤ、あなたに差し上げてもよくってよ」

 あえぎながらジェルドリン夫人はビヤ樽のような腰をくねらせた。

「すぐに生けさせるわ。ジゼラ、この薔薇を生けてちょうだい」


 赤毛は女中が入ってきても目一つそらさず、ねばっこいキスを受け続けた。それは飼い主を満足させる態度だった。


「今夜は泊まっていってくれるのよね」

 ジェルドリン夫人はさっそく赤毛の胸をあばいて、ピアスのはいった乳首に触れた。


「あ……いえ、残念ながら」

 わずかに上気したふうをよそおって青年が言う。

 夫人は不審そうな眼差しを向けた。

「どうして」


「パーティがあるのです」

「まあ、およしなさい。お金が入り用なら私に言えばよいのに」

「違いますよ」

 赤毛は軽くいなす。

「……クスリ?」

「それもありますけど」

「あらやだ、ほどほどにね」

 ジェルドリン夫人はいやらしく笑った。麻薬を売りさばいている当の本人がいう言葉ではない。

「じゃあ、何?」


「マダムに申しあげられるようなことではありませんよ」

「いいの。言ってみて」

 ジェルドリン夫人はしたり顔で重ねて問いただす。

 赤毛は白状した。

「ラウールさんに呼ばれてるんです」


「あなた知ってるの。あのラウールを」

 夫人の目つきが急に鋭くなる。


 赤毛は無邪気にうなずいた。

「ええ。いつもは僕、ラウールさんのお店にいるんです」

「そう」

 ジェルドリン夫人は一瞬考え込む素振りを見せた。だがすぐ官能的に笑みくずれ、青年の手を取ってベッドへといざなう。


「あとで面白いお話をしましょ。そう、ラウールを知ってるの……今度、私の店にいらっしゃい。最高級のお薬が入ったのよ。あなた、好きでしょ」

「マダム、じゃあそのうちに……あっ」

 ジェルドリン夫人が軽く肉圧をかけ、もたれかかっただけで、赤毛の身体は黒と金の豪奢な刺繍付きの天蓋が下がるベッドへと押し倒されていた。

 もう腰のベルトをほどかれている。

 牛のような唸り声を上げて夫人は赤毛にのしかかった。赤毛は鼻に掛かった媚声をあげる。


 だが。


「そのうちに、ではなくて、今どうするかを尋ねているのよ、”マリオン”君」


 冷たく乾いた声。赤毛は鋭く体を起こした。ジェルドリン夫人が血相を変えて顔を上げる。

 いつの間に忍び寄ったのか、背後に先ほどの女中が立ちつくしている。


 ジェルドリン夫人は眼を押しひらいて、ふてぶてしく変わった赤毛の表情と、女中の冷酷な美しい顔とを交互に見くらべた。

「何、どうなってるの、ジゼラ」


 忍び寄ってきた黒髪の女は、そのままの気配で含み笑った。

「奥様、その”マリオン”……ラウールの犬ですわ」


 ジェルドリン夫人はヒステリックな悲鳴を上げてよろめく。赤毛は乱された着衣もそのままに、ジェルドリン夫人を脇へ押しやった。

 素っ気ない仕草で女と真正面から対峙する。


「裏切る気か、ヴェンデッタ」

 苦笑いとともに、”マリオン”を装った仮面が剥ぎ取られる。


「ラウールだけに仕えると言った覚えはないわ」

 黒髪のヴェンデッタは肩をすくめる。

「五千スーで手を打ってみない。悪くない話だと思うけど、どうかしら、”ハダシュ”君」


「なるほど、最初からそのつもりだったわけか」

 ハダシュは顔の左半分だけに打算的な笑みを浮かべてみせた。表に出た表情こそ冷めているが、内心はどうやってこの場を逃れるか、その方法を猛然と考えている。


「ここでお前を殺せば千スーの儲け。ラウールを殺せば五千スー。そのかわり死ぬまで追い回されて終わり。簡単だ。こんな取引はできないな」

「一万スーなら?」


 ヴェンデッタは細長い針のようなナイフを取り出した。

 掌底に金の円環を縫いつけた黒革の指無し手袋に切っ先を押しあて、ゆっくりとしなわせる。

 ナイフをあやつるしなやかな指使いにまぎれ、右のくすり指にきらりと黒い石の指輪が光った。


「私と手を組みましょ。仕事のことはそれからでも遅くはなくてよ」


 ハダシュは思いつめた眼でヴェンデッタを見返し、無意識に喉の傷をまさぐった。

「悪くはないな」


 全身から生ぬるい汗が噴き出す。ぞくりとする痛みがよみがえった。


「マリオン、ぜ、ぜひそうなさい。ジゼラが言うならあなたを信じるわ。ラウールの十倍払う。いいえ、二十倍でもいいわ。あなたを殺させたくないの」

 ハダシュは焦ってしがみついてきたジェルドリン夫人に押され、はっと我に返った。


「マダム、それはできない」

 顔をゆがめ、ジェルドリン夫人を突き放す。


 こわばった声にジェルドリン夫人は絶句した。


 赤いビロードに彩られた壁ぞいに、互いになまめかしく絡み合った白亜のニンフ像がいくつも並んでこちらを見つめていた。

 壁一面に張られた姿見が、恐ろしく緊迫した部屋の空気と共に三人の位置関係をそのままに映し出す。


 灰色の窓、大きくうねるレースのカーテンと悪魔の暗い影、そして暗くてよく見えない白い顔――おそらくはジェルドリン夫人の――すぐ横に、きらめく太いナイフの刃が映っていた。

 ナイフの柄には、精緻に浮き彫られた赤い蠍の彫刻。


 今まで眼にしたこともないハダシュの酷薄な表情に、ジェルドリン夫人は悲鳴を上げ損ね、息をすすり込んだ。その音は首を絞められる寸前の豚にも似ていた。


「嘘……!」


 むせかえり、何とか殺意を振りほどこうともがきかけた、その甲斐もなく、獲物をかき裂く切っ先が闇にするどい弧を描き走る。


 鏡に、ざあっと血の飛沫がふりかかった。小さくない呻きがほとばしる。

 ジェルドリン夫人は純白のニンフたちを深紅の壁布と同じ色に染めながらなぎ倒し、どうとばかりにくず折れた。


 鏡の表面を、幾筋もの血がとろとろと伝い落ちていく。吹き込んだ風にカーテンが舞い上がる。

 突然切れた雲の合間から月の光が麗々と射し込めて、殺し屋の半身を鏡に浮かび上がらせた。ハダシュはうめき、罪と血に汚れた手を見おろした。震えている。何もかもが深紅に染まっていく、その、耐え難い生ぬるさ。


 ふいにヴェンデッタが口を差し挟む。

「話を続けましょうか」

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