第2話 「いったい、どこでこんな馬鹿な遊びをしてくるんだ」
赤毛の男は部屋でひとり、ベッドにうつぶせていた。
上半身は裸のまま。背中は血にまみれたおぞましい刺青で引き裂かれている。苦痛のうめきがもれる。掴みだそうとして、そのままあきらめたのか。革袋の口がだらしなく開いて、中の粒銀貨が床にこぼれおちていた。
ドアが開いた。先ほどの女が入ってくる。
赤毛は起きあがった。病的に熱を帯びた目で女を見つめる。黒髪の女は赤毛の存在になど気も留めない様子で、そのまま歩み入ってきた。完全に無視している。赤毛は立ち上がり、女の行く手に立ちはだかった。
行く手を遮られた女は不興げに唇をゆがめ、立ち止まった。底知れぬ眼で赤毛を見やる。
「支払いが先よ」
腕を組み、冷淡に微笑む。
赤毛は身体を震わせた。壁に据え付けられた燭台に蝋燭が一本、ほのぐらい光を放っていた。
迷える羽虫が、己自身を焼き焦がしながらも離れられず、火の回りを舞い狂う。じりじりと音を立てて燃え落ちる。
拷問のような静寂が過ぎた。女はふと気配をゆるめて赤毛の頬に触れようとした。
「触んじゃねえ」
赤毛は頭を振ってかわした。
「さっさと出せ。さもないと」
餓えたけだもの同然に唸って、女へと挑みかかる。女は薄笑った。
「迂闊だこと」
赤毛は動きをとめ、息を呑み込んだ。いつの間にか、喉に針金のような細いナイフの尖先が突きつけられている。女の声色に冷酷な力が込められた。
「手を放しなさいな」
赤毛は動かなかった。のどの皮膚がぶつり、と音を立てて破れた。みるみる血がふくらんで玉を結び、転がり落ちる。赤毛は歯を食いしばった。
「金なら、そこに」
「出して」
嘲う女の声に、赤毛はよどんだ眼をそらした。のろのろと従う。
女は革袋を奪った。中に手を差し入れて銀貨を確かめ、代わりに赤毛の手へ折りたたんだ紙包みを押し込む。
赤毛は部屋の隅へとよろめき歩いた。病的に震える手で机の引き出しをあけ、苦い煤で真っ黒になった真鍮の皿を取り出す。薄茶色の紙包みを開いて、中身を皿に転がり落とす。黒ずんだ茶色の樹脂、阿片。
乾いた音が響いた。
醒めたまなざしが、赤毛の逃げ込んだ闇を見つめている。
赤毛は燭台からろうそくを取り、ランプに火をうつした。その上に、麻薬の樹脂を載せた皿をかざし、炙る。やがて立ちのぼり始めた煙を、赤毛はむさぼるようにして深々と吸い込んだ。もたれた椅子が大きな音を立てて倒れた。恍惚と堕落の匂いが漂いはじめる。
女は闇におぼれていく赤毛の腕をつかんで、ベッドへと放り投げた。
赤毛はだらしなくうつ伏せたまま、痙攣じみた含み笑いをあげ続け、もう、ひくりとも動かない。
ふいに女は赤毛の体を仰向かせ、裸の身体に赤い爪を立てた。赤毛は鈍い声をあげて身体をゆらす。だらりとゆるんだその表情は、笑っているようでもあり、どこか泣いているようでもあった。
女は、闇の色に光る冷たい目で赤毛を見下ろした。
「ラウールに飼われ、貶められ、果てはボロ切れのように捨てられるだけの命。まさかその程度の男だったとは言わせない。貴方に私と同じ闇の光を見いだせたと思ったのに。あの目はただの作り物か。私を睨み付けた毒蠍のまなざしは」
漆黒の瞳に、暗い炎が揺れ動いていた。
「ハダシュ……貴方、本当にそれでいいの?」
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ねっとりとした煙の渦が、阿片窟の中央から地上へと上がる螺旋階段を昇っていく。どのテーブルも獣のような男たちでいっぱいだった。その間を行き交いながら、誘うような笑みを投げて回る女たちもまた、安っぽい白粉と香水の臭いを強烈にまといつかせている。
「やれやれ、何とも凄まじい傷だな」
汚れた白衣をまとった男は、ハダシュの背中を見た途端、苦虫を噛みつぶしたような白々しい笑みを浮かべた。
薄汚れた鞄をカウンターへと放り投げ、煮沸した布を消毒液に漬け込んだ瓶と、薄黄色い死蝋じみた軟膏の入った広口の留め金付き瓶の二つを取り出す。
「いったい、どこでこんな馬鹿な遊びをしてくるんだ。たまたまイブラヒムの店で薬を仕入れられたから良かったものの」
手早く消毒し、薬を塗り込めた油紙を背に押し当てて傷を塞ぎ始める。煙草に混ぜた阿片の煙が、ぶどう酒の饐えた匂いと混じり合って腐臭を醸し出していた。
「今度同じことしてきたら薬の代わりにたっぷりと粗塩を塗り込むぞ」
「冗談じゃねえ。イブラヒムの薬なんてどうせ粘土に毒蝦蟇の油混ぜて練ったまがい物に決まって……痛えよ、レイス先生」
ハダシュは身をよじって抵抗した。
医師がぴしゃりとその背を叩く。
「静かにしろ」
「痛えっつってんだろ、この、藪医者」
あまりの手荒さにハダシュが脂汗を浮かべ、唸ると、白衣の医師はどうでもよさそうな調子で肩をすくめ、笑った。
場末の掃き溜め医師にはとうてい思えない、貴族と見まごう整った顔立ち。
さらりと長い銀の髪、眼鏡に隠された、にこやかな眼。
とりあえず本人の希望通りレイスと呼んではいるが、それが果たして本名なのかどうか、ハダシュにはよく分からなかった。
「つつくと蛇が出るような薮でも、いないよりはいるほうが余程ましだ。よし、終わった」
レイスは手を拭きながら鞄を閉じた。
「もう、こんな馬鹿な真似はするんじゃない。いいね」
ハダシュは答えなかった。無言でシャツに手を通す。
「分かったかい」
「ほっといてくれ」
苛立ちまぎれに立ち上がって、吐き捨てる。レイスは眼だけでハダシュを追った。すべてを見通すかのような灰色の眼が、またたきもせずにハダシュを見つめている。
「よお、ハダシュじゃねえか。何やってんだ」
唐突に名を呼ばれ、ハダシュは首をねじ曲げた。
テーブルの合間をぬって男が近づいてくる。
一人ではない。黒ずくめの法衣を身につけ、顔を隠した男を連れている。
法衣の男は、おそろしく青ざめた顔をこわばらせてフードを引き下げ、横を向いて顔を伏せた。
「じゃ、私はこれで」
何気なさを装ったレイスが用心深く鞄を抱え、顔を伏せて後退る。気が付いたときにはもういなくなっていた。
入れ替わりに現れた男はなれなれしくハダシュの肩を叩き、隣のカウンター席へなだれ込むようにして座った。
「久し振りだな、ローエン」
ハダシュは痛みのあまり目を眩ませ、咳き込みそうになりながらごまかし笑いをした。
「誰だ、そいつ。客か」
「ああ」
ぬけぬけと笑う。ローエンはハダシュがこの街に流れ込んで来たときからの仲間だった。
「首が回らねえってんで整理屋に連れてってやるんだよ。どれ、一杯やってくかな」
ローエンは神官に酒をおごってやろうとしたが断られ、一人で塩漬けの干し肉を肴に安酒をあおった。
それから延々と何かくだらない話をし続ける。ハダシュはカウンターの向こう側でうんざりとグラスを磨いているマスターを見やった。
そろそろ時間だった。仕事に行かねばならない。
羽振りの悪そうな仕草でポケットから錆びかけの小銭をつかみ出し、一個ずつ手のひらでより分け数える。
あの金があれば。
こぼれ落ちる銀貨の音を思い出してハダシュは気持ちを暗くさせた。
何かと世話になっているのに、レイスにはここしばらく治療代すら払えていない。人が良いのか、それとも馬鹿なのか。食えない男だということは分かっていたが、それ以上踏み込んで詮索する気にはなれなかった。
「ローエン、悪いが時間だ。あこぎな真似ばっかしてねえで、たまには店に顔を出せよ」
「はッ、そりゃあ俺の台詞だ」
思わず身構えてしまいそうな嫌な声が絡みつく。
ローエンは酔っていた。毒のある眼がハダシュをとらえる。あるいはしたたかに酔っている振りをしているだけかもしれなかった。
「気にいらねえんだよお前、俺の上客までヤリ捨てやがって。おかげで俺は……どうせ俺は……」
「あらやだローエン、ローエンのくせにあんた嫉妬してんの」
濃い化粧を塗りたくった出っ歯の女が後から顔を出した。嘲弄まじりの唾を飛ばしてからかう。
ローエンは歯をむき出して狂暴にうなり、いきなり娼婦の頬を手甲で張り飛ばした。よろめいた娼婦はローブをたくし上げ骨ばったすねを丸出しにして、いきなりはすっぱな啖呵を切り始めた。
「何このゲス野郎。あんたなんかお呼びじゃないっての。ハダシュなら金払ってでも抱かれたいってえ女がごろごろしてんのにさ、隣のあんたがキモくてブサじゃあ近寄れやしねえ」
「何だと、このブサアマ」
激高したローエンが娼婦に掴みかかる。
カウンター上のグラスがけたたましい音をたてて転がり落ちた。中の安酒が飛び散る。傍らにいた法衣の男が騒ぎに困惑し、今にも逃げ出しそうに腰を浮かせた。
ハダシュはすかさず男の手首を掴んだ。
法衣の男は反射的に腕を振り払う。
思いも寄らぬ反撃に眼を押し開く。聖職者の所作ではない。
男の襟元から、今にもちぎれそうな細いチェーンにつながれた黒いペンタグラムがこぼれおちた。あわてて隠そうとした手がフードを引っかけ、逆に払い落としてしまう。漆黒の髪があらわになった。
漆黒の眼。漆黒の髪。やつれてはいるが端整な顔立ち。記憶の一部が揺り動かされる。
どこかで見たような――罪に怯えた暗いまなざしが光る。神官は怖じて眼をそらした。転がり落ちてゆく者特有の態度だった。だが関わる筋合いはない。
「じゃあな、ローエン。俺は行く」
ハダシュは鼻白んで言うとカウンターを離れた。
「おい、待てよ逃げるのか」
しかし今日のローエンはやたらと執拗だった。席を立ったハダシュを追いかけて手を背後から掴み、引き戻そうとする。
「まだ話は終わってねえ」
「時間だって言ってんだろ」
ハダシュは倦んだ声を上げ、掴まれた手を振りほどいた。
「けっ、あのマダムに呼ばれていそいそしてんだろう。お前、あのババアにずいぶん気に入られてたもんな」
ローエンは、熱を帯びた嫉妬の眼差しを突き立てた。
「はん、どんな手練手管を使ってんのか知らねえが、白豚にケツ振って楽しいか、この犬野郎」
口汚い罵倒のはずが、なぜか半分泣いてでもいるかのようだった。いつもの陽気なローエンとはまるで別人に思える。背中に押し付けられた視線が、焼けた鉛のように痛く、心地を焼きなぶった。
いやな気配に耐えきれず、ハダシュは逃げるように立ち去った。
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