第17話

 彼は、既に閉店した〈アマリリス〉の定位置にしているカウンター席に座っていた。いつもはあんなにやかましいくらい賑やかなのに、こうしていると、丸腰で一人放り出されたような心許なさも覚える。

「エース」

 不意に響いた自分の名を呼ぶ声に、エースは鈍い動作で顔を上げた。〈アマリリス〉の女主人は、その顔を見て情けないというように肩をすくめた。

「なんてツラしてるんだい。そんな景気の悪い顔してる客は、とっとと出てってもらいたいねぇ。店の運気が逃げる」

「……人を貧乏みてぇに言うんじゃねぇ」

 呟くような低い声音で反論したエースだったが、長い付き合いのクイーンの前では鼻で笑われて一蹴された。

「言ってることは間違ってないだろ」

 エースは黙るしかなかった。

「まったく……アンタが血相変えてあの子を店に運んで来たときにゃ何事かと思ったよ」

 クイーンは苦笑交じりに言うと、カウンターに入った。いつも通りの調子でグラスを二つ取り出すと、酒ではなくキンと冷えた水を注ぐ。彼女はその片方をエースの目の前に置いた。それから、いくらかの沈黙を挟んで言った。

「……あの子、歌姫のリアだね?」

「………」

「いくら黙ってたってわかるさ。時の人じゃないか」

 エースはたっぷりの間黙った。クイーンは急かしもせず、この不器用な青年が話すのを待った。

「……あいつは、たしかに歌姫のリアだ」

 そうしてようやくエースが口を開くころには、グラスに入った氷も随分と小さくなっていた。カラン、と鳴ったそれを見つめながら、エースはゆっくりと語り始めた。

「……俺とあいつと、今やトップレーサーとなったキングの三人は、元々クラウンに拾われた捨て子だった」

 クラウンの下で生きるのは、死ぬほど大変だった。けれども、いつも三人で肩を寄せ合って必死に毎日を生きてきたから不思議とどうにかなった。エースとキングは日中はずっとエアバイクの修練に明け暮れ、リアは歌の練習に没頭した。唯一の楽しみは、寝る間際にリアが披露してくれる覚えたての曲を聴くことだった。

 やがてエースもキングもリアも、それぞれが選んだ世界で名をあげるようになった。それでも、この関係はいつまでも変わらないと思っていた。

 エースはそこで、左肩を掴んだ。事故のことを思い出すと、どうしたってこの金属の塊が軋んで痛む気がする。

「……けど、知っての通り俺は墜ちた。クラウンは失敗を許さない。俺は、リアにもキングにも何も言わずにあの場所を去った」

 そして、青年はふっと笑った。痛ましくて見ていられないような、自嘲の笑みだった。

「……そんな俺に、今更合わせる顔なんてないだろ」

 クイーンはしばらく黙ったままだった。〈アマリリス〉の外はとっくに明るくなっていて、ざわざわとした喧騒が聞こえる。けれども二人がいるこの空間は、埃が舞っている音さえ聞こえてきそうだった。

「ったく……情けないったらありゃしない」

 やかて眉をつり上げてクイーンがこぼした言葉は、エースの予想に反して怒りがこもっていた。彼女はグラスを乱暴に置いた。カン、と甲高い音が、店内に響いた。

「アンタは落ちぶれた自分をあの子に見られるのが怖いだけだろう。そんなのは自分勝手ってもんだし、自分が惚れた男のそんなヘタレな理由なんざ女には通用しないさ」

 エースは図星を突かれてぐうの音も出なかった。そんな彼を鼻で笑った後、荒くれ者の酒場をとりまとめる女店主は、ふと出来の悪い息子に言い聞かせるように続けた。

「……あの子、気を失っててもアンタの名前呼んでたよ。気の毒になるくらい青ざめた顔でね。……顔くらい、見てやってたらどうだい」

 結局、発破をかけられた青年がカウンターを離れたのは、グラスの氷も溶けて水も温くなった頃だった。歌姫が眠る部屋へと消えていったその頼りない背中を見送ったクイーンは、どうして周りにいる男どもはどいつもこいつも手がかかるのかとため息をついたのだった。

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