今日もお父さんのことがうまく思い出せない

温本 希

今日もお父さんのことがうまく思い出せない

 ここ最近、墓や仏壇の守をするというしきたりが薄れつつあるらしい。自分があったこともない先祖が眠っている墓に挨拶に行ったり、やれ何回忌だの死んで何年もたつ人間のためにお坊さんにお経を読んで頂いたり、考えてみれば、自分が知ってる人間が亡くなったのなら、自分の心の拠りどころとしてそれらを行うのは共感できるが、そうではない場合(自分が思い入れのない人物だった場合)なんかには、そう大切なものには思えないかもしれない。墓という制度に反対する気は全く本当に全くなく、ただ私自身、死んだ人間が死後の世界で生きているといったような考えではないので、そういう想いに至っただけのことである。自分のこの考えがはっきり認識したのは、お父さんを亡くした時だった。

 私が二十代前半の時にお父さんは死んだ。大病を患ったのだが闘病期間は短く、その別れはあっけないものだった。闘病中こそ、いつかくるであろう別れをおもい、それまでの自分の親不孝ぶりに後悔したり、悲しみに浸っていたのだが、いざ亡くなって骨になったお父さんの姿を見た瞬間にあっさりと「終わり」を理解した。骨になるまではいくら死んでいるとはいえ、自分の良く知ったお父さんの姿を見ているとお父さんをものすごく身近な人間として感じることができたが、骨になったお父さんはもうなにもかもが「終わったもの」であった。体がない、触れることができない、この世に体が存在しないことはお父さんという人間の存在の終わりを、私に目を背けられないほどはっきりと示したのだった。霊柩車で墓まで運ばれる、まだこの世に体が存在している父こそが、私の心を動かすことができる最後のお父さんの姿だったのだと思う。骨になったお父さんを見たときには涙も出ず無駄に冷静だった。

 それからというもの、なぜだか私はお父さんのことがうまく思い出せない。

 今日は、久しぶりに墓参りに行ってきた。お父さんは生前、マメに墓の守をする人だったことが、私の足をごくたまに墓に向けさせる。墓参りにはおばあちゃんと一緒に行った。私のおばあちゃんは自分より先に一人息子であるお父さんを失った悲しみを、墓参りで癒しているように見える。花を変え水を変え、そして墓石の根本周辺に生える雑草に混ざった枯れ葉を拾う。雑草を撫でるように触る中で手に触れた枯れ葉を拾う。その昔からのおばあちゃんの手つきを自分も何気なく真似ていることに気付くと同時に、おばあちゃんのこの手つきがなんだか好きだということにも気付く。そうだ、私は幼いころおばあちゃんに連れられ、顔も知らぬ先祖が眠る墓を良く参りに来ていたのだった。そんなことは思い出せるのに…。

 今日も私は、お父さんのことがうまく思い出せないのだ。


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今日もお父さんのことがうまく思い出せない 温本 希 @harumotonozomi

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