バクは夢を食らう
赤蜂
第1話 昔の記憶
―――聞いて下さいお母さん。
とうとうあの子にお母さんと同じような病気が…。
なんてこと……。
二人で窓枠に向かって何か話しかけているの。
怖いわ、お母さん。―――
「ねえおばあちゃん」
「ん?」
「お話ってなに?」
そう問うと、由(ゆかり)――祖母――は温かな手で、ゆったりと私の頭を撫でた。
「私の一番のお友だちを、ルーシに紹介してあげようと思って」
「お友だち?」
柔らかい笑顔を窓の外に向け、キョロキョロと見回した。私もつられて外を眺める。
月の光が眩しい程の月夜。今夜は満月だ。街頭など無くても家の前の街道は良く見える。そこに、
「……?」
やけに背の高く、真っ黒な人影が一歩一歩こちらに近づいているのが見えた。
「お、おばあちゃん……」
怖くて由を見上げると、大丈夫、とシワだらけの手で優しく頭を撫でた。声色は落ち着いていて、安らぎを与えてくれる。
不思議とその黒い影を再度見ても恐怖は感じなくなって、そのゆらりゆらりと近付く影を見つめ続けた。そしてその影との距離が数メートルまでになった時。私は気付いた。
つばの広いシルクハットを被っていた事で顔の細部は分からなかったが、近付くことでハッキリと見えたのだ。
虚ろに横長い目、人種的な肌色にしては特殊な、黒に近い灰色。何より特徴的なのは、歪に伸びた鼻だ。象のように飛び出た鼻の先端は僅かに下に向いていて、背が低い私からは鼻孔がまじまじと見て取れる。
驚いて声も出ない私に、その「象のような顔をした人影」は腰から上を前屈みにして、その歪な鼻をひくひくさせた。そして、笑いかける。
「はじめまして。ルーシ」
――――――――――
「ーー!!」
勢いよく体を起こすと、そこは見慣れた自室だった。閉まったカーテンの隙間からは、明るい日差しが覗いている。
治まらない動悸、片手を胸に当てて軽く深呼吸した。暑くもないのに酷い汗だ。
頭の中で、見た目とは違ったとてもやさしく低い声がリピートしている。
『はじめまして。ルーシ』
はぁ、ともう1度息を吐いた。
「…」
懐かしい夢を見た。おばあちゃんがまだ生きていた頃の思い出。
「…?」
思い出?あんな不可解なこと、本当に体験したのだろうか。たしかに、あんな細かく覚えているなら相当ショッキングな現象だったに違いないが。
「……まぁいいか」
―――――
「……何の話?」
手早く着替えを済ませて、朝食を摂っていたときにさり気なく今朝の夢の話をした。母は少し間を置いて、低めの声で言った。
「…そんなことより、勉強の方はどうなの?もうすぐ期末試験でしょう」
父は何も言わず、珈琲を片手に新聞を読んでいる。
「…うん」
「また返事だけ…、他に何か言うことあるでしょう?昨日だって、ご飯も食べずにどこをほっつき歩いて…」
父が小さく、咳払いをした。
「ルシア、朝からそんな尖(とが)るな。それにルーシも、毎回ほぼ満点取ってきてるじゃないか。今回も問題ないだろう」
「ほぼ満点で妥協しないでください!ルーシにはあなたの会社に就いて次期社長として立ってもらわなければいけないんですよ」
母が発する一言一言に胸が押しつぶされそうになって、咄嗟に母が言い終わる前に席を立った。だが見逃されるわけもなく、呼び止められる。
「ルーシ!!」
「もう学校行かなきゃ」
まだ後ろで金切り声を上げていたが、聞こえないふりをしてリビングを出た。
「……っ」
はやく、耳を塞ぎたかった。
―――――
玄関を出ると肌寒い風が髪の隙間を縫った。上着を持ってきたらよかっただろうかと思いながら、ブレザーの袖に手先を埋(うず)めて門を潜(くぐ)る。
学校に近づくにつれて、周りに同じ学校の学生たちが増えていく。友達同士横並びして、朝っぱらから手を叩き大笑いしている。私にはこれっぽちも同感できない。
ため息のようなものを吐きながら、人込みをかき分けていく。何故抜かそうとしている人がいるのに歩道いっぱいいっぱいまで広がるのだろう。通行を妨害しているかもしれないという志向は無いのだろうか。言い出すときりがない。
イヤホンをポケットから取り出し、右左と付けながら空いた片手で端末を弄(いじ)る。端末をポケットにしまい、真正面より少し下に焦点を向け、瞼(まぶた)は伏せぎみに前へとつま先を向ける。外のリズムの遮断とまではいかないが、雑音を頭に入れないのには十分だった。
私の祖母、由は私が六歳になってすぐ他界した。私は由のことが大好きだった。両親が共働きで帰りが遅いときや、毎晩のように私一人だけになるときは必ず祖母の家へ行き、美味しいご飯を食べ、祖母と和やかに過ごした思い出がある。夏休みも「休みが取れない」と淡々と告げる両親に、私は「おばあちゃんの家に行くから」と1ヶ月強過ごした。私は両親といるより祖母といた方が幸せだったのだ。由が亡くなった時、涙一つ見せず遺産の話ばかりしていた両親よりは確実に由が大好きだった。
そんな由が居なくなった世界は、何もかもが醜く、つまらないものに見える。
ーーーーー?
ふと気が付くと、周りには誰も居なかった。
人どころか、いつも周りをつきまとうコンクリートの壁すら無かった。あるのは薄緑色のフェンスのみ。
空はこんなに広いものかと、首を痛めそうなほど見上げて、久しぶりに背筋を伸ばした事に気付いた。
フェンスの向こう側に広がる、玩具のように小さい私の街。所狭しと並ぶコンクリートのビルは目障りなほど日光を反射して、その存在を主張している。
目の前には、謀(はか)ったかのようなフェンスの途切れ目。
その途端、ああ、と納得した。
きっと由が私を迎えに来てくれたのだ。こんな世界で由と過ごすより、両親のいないあの世界で由と過ごした方が断然良い。そう、由が感じて、私を導いてくれているのだ。
頭の中にあるのは、優しい笑顔の由。
うん、分かった。
一歩、
由がゆっくり両手を広げる。
一歩、
「ルーシ」と囁いた声が、聞こえた気がした。
一歩二歩、
私も、私も言いたい。
一歩。
「おばあちゃん…!」
足が空を蹴った。
バクは夢を食らう 赤蜂 @akahachi_178
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