yummy!

高梨來

第1話

 ほんの些細な生活習慣ひとつを取ったって、何気ない瞬間に見えてくるものは、意外なほどにたくさんあるのかもしれない。



 ふぅ。ふぅ。ふぅ。

 ほどよく焦げ目のついたドリアを、いやに念入りに冷ましながら口にする目の前の男のペースに合わせるかのように、周もまた、いつもよりも心なしかゆったりと食事をともにする。

「周だいじょうぶ? 熱くない? 慌てて食べたらやけどするからね、気をつけてね?」

 ふぅ、ふぅ、ふぅ。一匙ずつ掬っては念入りに冷ましてから口をつける、を繰り返すその姿を前にすれば、何ともいえないおかしみがこみ上げてくるのは致し方ないことのように思える。

 子どもみたいだな、こうしてるとますます。ていうか、猫舌のくせにこうやっていちいち熱いものを自ら作って食べたがるのはどうなんだか。

 野暮なつっこみは如何なものかと思いながら、ひとまずは応援とばかりに、ずいぶんと中身の減ってきたコップに、冷えたほうじ茶を継ぎ足してやる。

「あったかいもん食べるとさぁ、なんていうかほっとするよね」

 ふぅ、ふぅ、ふぅ。

 にこにこと満面の笑みを浮かべながら、念入りに冷ましては口にする、を繰り返すその姿を前にするそのうち、どこかこちらまで気持ちを緩まされるような、そんな心地にさせられるのだから不思議だ。

 端的に言ってしまえばいちいちかわいいというか、なんというか。(言うと調子に乗るので、もちろん口にはしないけれど)

 ふぅ、ふぅ、ふぅ。まねをするように、同じペースで念入りに冷ましては口に入れる(そこまでする必要はないのだけれど、一応)を繰り返すこちらを前に、いつもどおりのあの得意げな笑顔を浮かべたまま、忍は言う。

「うちさぁ、佳乃ちゃんが一時期、あっついご飯ばっか作る時があって。おでんとか、グラタンとか、魚のホイル焼きとか。まだじゅうじゅう言ってるような時にはいどうぞーって食卓に出すわけね。でもさ、俺もひろちゃんも猫舌で熱いの食べれないから、いっつも一生懸命ふーふーしてるわけね」

 お喋りの合間、念入りに冷ましたドリアをぱくり、とうれしそうにほおばりながら、忍は続ける。

「佳乃ちゃんは俺たちに意地悪してんのかなーってひろちゃんといっつも話してて、いつも通りあっつあつのシチューが出た日にそれ、言ったのね。佳乃ちゃんが熱いご飯ばっか出すから食べれないじゃんって。したら佳乃ちゃんさぁ、なんて言ったと思うの?」

「……さぁ」

 首を傾げるこちらを前に、にいっと得意げに笑いながら告げられる答えはこうだ。

「あんたたちとゆっくりおしゃべりしながらご飯が食べたいからそうしてるのよって」

 うっとりと瞳を細めるようにしたまま、うんとうれしそうな様子で忍は続ける。

「佳乃ちゃんはさ、俺とひろちゃんが食べ盛りだからって、ろくに喋んないでがっついてご飯食べてはさっさと部屋に帰っちゃうかテレビ見ちゃうのがつまんなかったんだって。熱いご飯だと冷ましながらじゃないと食べられないから、そしたらゆっくり一緒に食べられるでしょ? って。ほんとさ、そのくらいふつうに言えばいいだけなのにねー。お母さんってなんていうか、そゆとこがいちいちめんどくさいよね。でもさ、おんなじくらいちょうかわいい」

 ふぅ、ふぅ、ふぅ。念入りに冷ましては口にする、を繰り返しながら告げられる言葉を前に、唐突になぜだか、ぎゅっと胸の奥を絞られたかのような、そんな錯覚に襲われる。

「……どしたの周?」

 僅かに息を詰まらせるこちらを前に、いつもどおりのあの、邪気のかけらもない笑顔がふわりとこぼれ落ちる。

「や、その。なんていうか」

 少し熱くなった喉を冷ますようにと、ごくり、と音を立ててほうじ茶を流し込むようにしたのち、周は答える。

「いいお母さんじゃん。なんていうか、すげえおまえん家っぽい」

「でしょー?」

 にこにこと満面の笑みとともに告げられる言葉と共に、言葉にならないあたたかさと、裏腹の息苦しさにも似た何かがふわりとやわらかに溶けていく。

 

 まるで違う、とそう思い知らされるのは、たとえばこんな瞬間だった。食事風景ひとつ取ったってこんなに違うのなら、忍がこんな風に育つのだってそりゃああたりまえだ。


 箸の使い方は正しく

 食べる順番を守ること

 野蛮な食べ方はしない

 

「外に出た時に恥ずかしくないように」そんな大義名分は所詮は周自身ではなく、両親のための物だったに過ぎないと、周はいまでもそう思っている。

 行儀をよく、を口を酸っぱくなるまで散々言い聞かされながら強いられた食事の時間はちっとも楽しくなんてなくって、店で買ってきたみたいな綺麗な見た目と盛りつけの母親の手料理は、裏腹にいつも、どこか味がしなかった。

 今更、かわいげもない不肖のひとり息子を十八年育ててくれた上で、大学にまで通わせてくれた両親のことを逆恨みするつもりはさらさらない。

 頭が堅くて常識的で、人一倍見栄や世間体を気にして――「どこに出しても恥ずかしくない一人前の人間になれるように」、そんなモットーと共に厳格に育てられた家庭環境は、周にとっては幾重にも折り重なった見えない鎖で繋がれたかのような生活にほかならなかった。

 常識的に、道を外れずに、世間様にきちんと顔向け出来るように――一見耳障りがよく聞こえはするけれど、一歩でも敷居をはみ出すような振る舞いを取れば死刑宣告を突きつけると、そう言われているのと同じだ。

 ゆるやかな支配から逃れようと飛び出した先で、これからはもうずっとひとりで生きていこうと、そう決めた――そのはずだったのに。



「佳乃ちゃんがさぁ、むかし言ってたんだよね。お嫁さんにするなら一緒にご飯食べるのが楽しい人にしなさいって」

 ドリアを冷ます合間にと、箸の先で摘んだプチトマトをぱく、ぱく、とテンポもよく口にしながら忍は答える。

「俺さ、周といっしょにご飯食べるのちょー楽しい」

 屈託なんてひとかけらもあるはずもない笑顔を前にすれば、僅かばかり顔を覗かせた心のうちの曇りは、いつのまにか音も立てずにはらはらと溶けてしまう。

「ね、周」

 どこか期待に満ちたかのような満面の笑みを前に、念入りに冷ましたドリアをぱくり、と口にしながら、周は答える。

「……決まってんだろ、んなの。なんべんうちで飯食ってんだよ、おまえ」

「そっかぁー」

 にこにこと得意げに笑いながら口いっぱいに頬ばるそんな姿を前に、思わず笑い出したくなるのをぐっとこらえて、ゆっくりと噛みしめるように咀嚼するのを忘れない。


 おいしいはうれしい。おいしいは楽しい。おいしいは幸せ。そんな時間を誰よりも大切に思える相手と一緒に過ごせるこんなひとときは、こんなにもあたたかい。


「周って結構料理上手いよね、やっぱお母さんに教えてもらったとかそういうの?」

「別に――ガッコの家庭科と、あとレシピサイト? いまなんか色々あんじゃん、スマホでみれるやつ」

「わぁ、ハイテクだぁ。ITの申し子だぁ」

「おまえも使ってんだろふつうに」

「まぁそうだけどさー」

 にこにこと得意げに笑う顔につられるように、こちらにまで綻んだような笑顔が広がっていくのが、確かめなくたってすぐにわかる。


「おまえさ、明日って来るんだっけ」

「あ、うん。バイト入ってないし。周はだいじょぶなの?」

「バイトあるけど、十七時上がりだから」

 ごくり、と喉を鳴らしてほうじ茶を口にしながら、周は答える。

「青椒肉絲にするけど、ちゃんとピーマン食えよ」

 途端に、子どもみたいないじけた表情と共にわざとらしく不満げな返事を返される。

「えー」

「励ましてやるから。だいたい、ピーマン抜いたら美味くねえだろあれ」

 焼きそばの具のピーマンをよけて食べるのを丁重に叱った一件を忘れたとは言わせない、断じて。

「だけどさー」

「いいから、そろそろ普通に食えんだろ。もたもたしてるとさめんぞ、な」

 答える代わりのように、大きな口を開けてうれしそうにスプーンを口元に運ぶその姿が映し出される。


 

 一緒に食べて、一緒に過ごして、一緒にたくさん笑って。こうやって、これからもたくさんの時間を積み重ねて――そんな風に過ごしたい相手に出会えるだなんて、いままで思いもしなかった。


「ね、周。おいしい?」

「おう」

 いつも通り、ぶっきらぼうに答えながら、瞳を細めてうれしそうに笑うその姿を、思わずまぶしげに見つめる。


 決まってんじゃん、おまえといるんだから。

 

 そんな単純なことがいやに気恥ずかしくって言ってやれないだなんて、目の前の男はきっと、知る由もないだろうけれど。

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