月面色のガム

 ぺとり……ぺとり……。

 ざらついたアスファルト。それを踏みしめる俺の足取りは、酷く緩慢だった。俺の全身を包むガムは、いまや名聞をかき集めてくる魔法のガムだった。歩く速度は、遅ければ遅いほど良い。そんな俺の目の前では、往来を行く人々が蠢いていた。累々と立ち並ぶ建造物の足元で、雑踏をきわめている。彼らも皆、全身にガムを纏っていた。

 俺はそれらをじっくりと眺め回した後で、自身の手足に目を遣った。薄い黄色に、やや青みがかった自慢の単一色がそこにあった。我ながらうっとりしてしまう。

 そのうちに、またどこかの頭の悪そうな女が、俺に声を掛けてきた。

「ねーねー、あたしあなたのファンなの。そのガム分けてよ」

 俺はちらりとその女を見やった。女が身に纏っているガムは俺のものと違って、汚い斑模様だった。ところどころに違う色がありすぎて、まるで統一感がない。そこに俺の色を加えたところで、どうなるというのだろう。

 何も答えないでいる俺を見て、女はまくしたてた。

「あなたの色、凄く良いわよね。ずっと昔から気に入ってたの。ね、お願いだから、それをあたしにもちょうだい。ね?」

こういう物言いには食傷気味の俺だったが、人は何度こんなふうに言われたって、決して悪い気はしないものだ。俺は本音を呑み込んで、ただ“ああ、いいよ”と軽い調子で応えてやった。ちなみに、こんなときは無関心を爽やかな笑顔に差し替えてやると良い。

 女は早速俺の身体に腕を絡めてきた。斑模様を張り付けてのたうつその身体は、艶めかしいと言うより幾分グロテスクだった。女の粘つく腕と俺の身体が擦れ合うと、俺の身体から幾らかガムがこそぎ取られて、変わりに女のいびつな色のガムがくっついた。

「よかったー! やっとこの色が手に入ったわ。ありがとね」

女は満足して、足早に去っていった。こちらを振り返りもしないで。

「ふん……」

 俺は溜め息混じりに、女から付けられたガムの部分を剥がす。早いところ剥がさないと、大事な俺のカラーと混じり合ってしまうからだ。あの女みたいに、色々と付けすぎてわけの分からない斑模様になるのはごめんだった。

 そんな俺の様子を、街行く男どもは羨ましそうな目で眺めていた。女子供は、ちらちらとこちらの様子を窺っている。みんな声を掛けようかどうか迷っているのだろう。俺は心地良い優越感に酔って、その視線をどんどん無視した。

 街を行く人々は、みんな身体に色とりどりのガムを纏っていた。単一の色で統一されているガムを持つ人もあれば、さっきの女みたいに斑模様の奴もいる。みんな色違いの粘土細工みたいだった。

 ちなみに、俺の持つガムはちまたでは“月面色のガム”と題されて、あちらこちらで話題になっていた。だからさっきみたいに、人はちょくちょく俺の所へやって来て、俺の色を分けて貰っていく。これはいわゆる、『当世注目の色』というやつなのだ。その時勢にも寄るが、当然珍しい色ほど人気は高い。俺の月面色は、目下最高の渋さと希少価値を兼ね備えていた。

 もっとも、この色が評価され始めたのはつい最近だし、俺自身も長いことこの色の良さには気付いちゃいなかったが。

 ガムをべちょべちょ身体に張り付けている俺たちは、誰かと擦れ合えば相手の色と引き替えに自分の色を相手にくっつけることができる。うまく混ざれば単一の良い色ができることもあるし、失敗すると原色だらけの迷彩を纏うことになる。多くの人はできるだけ良い色を纏いたいから、話題の色を持った奴に近付いてそのガムを分けて貰おうとするのだ。うまく適合するかどうかは、二の次だった。俺はみんなからもてはやされるようになって、有頂天だった。



 ところが、そんなある日のことだった。俺の目の前に、この俺と全く同じような色を有した男が現れた。

 これまでに“月面色”がもてはやされていた理由は、この色が非常に珍しい色だったからだ。まったく新しいイメージを人に与えることが出来るというのは、一つの才能とみなされている。それは色に表れるわけだが、同じような色が二つ並んでしまっては月面色自体の希少価値だって下がるし、何よりオリジナリティを奪われてしまったような気にもなる。

 その挙句に、そいつは俺の前に姿を見せるなり、周囲に向けてこう言ったのだ。まるで、自分に言い聴かせるかのように。

「みんな聴いてくれ。この男の月面色は、遠い昔に俺があげたものなんだ! すれ違いざま、こいつは俺の色をかすめ取っていきやがったのさ。見比べてみれば分かる。みんなは何だかんだとこいつを持ち上げるが、こいつの色はもともと俺の方がオリジナルなんだぜ」

 これには流石の俺も参った。そいつが言ってる事は、この俺自身にはさっぱり覚えがないことだったからだ。それも、こちらには否定しようがないことだ。身体が擦れあうたびに色を交換しているんだから、そう言われればそうなのかも知れない。遠い昔に、意識しない内に俺はこの色を自分のものとしていたのかも知れない。有り得ないとは言えないのだ。

 そして何よりも問題だったのは、新しく現れた月面色の奴の方が、俺のガムよりもずっと良い色をしていたことだ。二人が肩を並べたら、確実に俺のほうが見劣りしてしまうだろう。この俺にとっては、うざったいことこの上ない存在だ。

 世間の反応は分かりやすかった。

「ねぇ、見て。こっちの方が渋くて良い色じゃない?」

「ちょっと、その色俺に分けてくれないっすか」

「私にも分けてよ!」

 俺が呆れて途方に暮れる間もなく、多くの人々は新しく現れた色に群がった。もう、誰も俺に寄りつこうとしなかった。確かに、奴に比べれば俺の色は幾分安っぽかった。奴の言葉を信じれば、俺の色は貰い物だ。所詮、貰い物はオリジナルには敵わないということらしい。

「みんな、落ち着けよ! あっはっはっはっは、ちゃんと分けてあげるからさ。ちゃんと順番、順番にね」

 今度はあの野郎が有頂天だ。俺はムカムカしながら、その様子を眺めていた。ふと行列の中の一人が、俺に目を向けた。しかし、そいつは暫く俺を品定めしたら、それきりぷいと目をそむけてしまった。

 ああ……こうなっては、もう誰も俺なんぞに興味は無いのだ。

 うざったかった筈の猫なで声や上目遣い、賛辞の声はすでに遠くへ去ってしまった。俺は恐ろしく惨めな気持ちに包まれていた。

「まいったなぁ、みんなそんなに俺の色が欲しいのかい」

 横取り野郎のへらへらした笑い声が聞こえるたびに、俺は反発を感じながらもついついそちらを気にしてしまう。俺は顔を背けようとしながら、何度もそっちを見ていた。月面色と擦れ合っては、自分の色を残して行く人々……。ついさっきまでは、俺があそこの中心に居たはずなのに。まるで、自分のドッペルケンガーでも眺めているような心持ちだった。

 ところがその時、俺はあることに気が付いた。あいつの色が変わっている。はじめは奇妙な違和感だったが、今でははっきり異常だと分かる。あの野郎のガムの色が、見る見るつまらない色に変色していっているのだ。さっきまでは綺麗で重厚な月面色だったのに、今では段ボールみたいな色に変わってしまっていた。

これは一体どういうことだろう?

どうやら、周りを囲む連中もその事に気が付いたらしい。

「なんだこりゃ、どうなってんだ?」

「ダサい! こんな色いらねぇよ」

 周りを取り巻いていた連中は、途端にそいつへの興味を失ったらしい。洗剤から逃げる油膜みたいに、彼らは一気にそいつから離れた。側にくっついていると、自分にまで段ボール色がくっついてしまうからだ。その余りにも分かりやすい反応は、馬鹿馬鹿しくなるほど軽薄に見えた。普段の俺なら、冷ややかにそれを笑ってその場から立ち去るところだ。

ところが、今回は場合がちょっと違う。この事態がどういう結果を招くかについて考えると、俺は自然と笑みが零れてしまった。あの色はあいつの本性ではなかったのか。それとも、本性そのものが変わってしまったのか……。それはわからないが、とにかく俺にとって重要なのは、あいつの色がつまらなくなったという一点だった。

俺はその場に留まって、様子を見続けた。

「これは……どうしたんだ? 俺の色が、色が変わっていく!」

 人垣の向こうから、泣きそうな声が聞こえてくる。良い気味だった。突然俺の目の前に現れて、図々しい態度をとり、月面色のファンを奪い去っていった男。だが、今のあいつには月面色を名乗ることは許されない。この思わぬ事件で、月面色は名実ともに俺一人となったのだ。

「おうい、みんな~! 行かないでくれよ」

 奴は哀れな声で叫んだ。今の奴は、首周りが伸びきったTシャツみたいに惨めだ。そんなあいつの懇願など実るはずもなく、人々は無言で彼のもとを離れていく。奴は泣きそうな顔になって崩れ落ちた。

 これで人々は、俺のもとへと帰ってくるだろう。俺はさっきから、こみ上げる笑いを堪えることができずに、一人でニヤニヤしていた。月面色らしい月面色を求めて、人々は右往左往する。こいつは考えるだけで愉快だった。

 もう慌てふためく必要は無い。俺は黙って、人々が再び俺のもとへと戻ってくるのを待つことにした。いい気な取り巻き連中が再び現れるのが待ち遠しい。

 今の俺は、朝日を待つ病室だ。物事には浮き沈みってものがあるが、俺だってたまたまそいつにちょっと引っ掛かっただけなんだ。誇りと自信を載せた血が、再び俺の全身に行き渡っていくのが分かった。

 さて、今度はどんな渋り方をしてやろうか。今度は気前よく、いろんな人に色を分けてやるのも良いかも知れない。俺はにやけながら、楽しい想像を膨らませていた。

俺はそんなふうにして、この出来事を酷く楽観的に捉えていたのだ。

 しかし、そんな俺の期待はあっけなく裏切られてしまうことになるのだった。どうも世の中ってやつは、そうそううまくは事が運ばないらしい。

 不思議なことに、人々は俺の側へ歩み寄ってこようとしなかった。俺の色は、依然として月面色のままだ。俺は何も変わっちゃいない。人々が段ボールの色から離れていくのはわかるが、どうして奴らは俺の方へと歩み寄ってこないんだろう?

 俺はわけが分からなくなって、恥も外聞もかなぐり捨てて去りゆく一人を捕まえた。

「おい、待てよ。お前らどこへ行くつもりなんだ? 月面色はここにあるぜ」

 すると、俺に肩を掴まれたそいつは、俺のことをキッと睨んだ。

「さわるんじゃねえよ、お前の色が付いちまうだろうが」

 俺は驚いた。

「なんだと? どういうことだよ」

「もう、あんたのような色は要らないんだよ。古いんだ。俺はこれから流行る色が欲しいのさ。誰かが全く新しい月面色が見つかったなんて言うから来てみたけど、とんだ期待はずれだったぜ」

「俺の色はもう要らないのか?」

 そいつはいかにもつまらなそうな目で、そして哀れみを込めて俺を見た。

「いいじゃねえか。あんたはそれでも一世を風靡できたんだから、満足だろ?

 俺はもう行くぜ。俺の予想では、そろそろ“漆色のガム”が流行るんじゃないかと思うんだ。最近見つかった色だから、まだ持ってる奴は少ないしな。これからそいつに会いに行くのさ」

 その男はそう言い残すと、ぐにゃぐにゃと歩き去っていった。そいつの身体は色んな色が混じり合っていたが、汚い斑模様ではなかった。不思議な統一感を持った、印象派絵画のような様相を見せていた。

 一方で残された俺は、呆然と立ちつくすだけだった。

「“漆色”だと……?」

 ふざけるな。何が『古い』だ。俺のこの素晴らしい色が、一時の話題性だけのものだったって言うのか。そんなわけがないだろう。

 そうは思いながらも、胸の内からわけの解らない焦燥感が込み上げてくる。俺は群衆の方へと駆けだした。今なら、誰に笑われたって構わない。とにかく、月面色が依然として人気であることを確かめたかった。“漆色”が何だって言うんだ。そんな色は見たことがないが、どうせろくでもない安っぽい色さ。でもちくしょう。どうしてあいつらはちっともこっちを振り返らないんだ? あれじゃあまるで、知ってて俺を無視してるみたいじゃないか……くそ。

 走るのを止めた俺は、一人街の真ん中で佇んだ。寒々しい風が吹いていた。



 人々は、誰もこちらを見なかった。俺が知らない間に、月面色は人気が下火になっていたらしい。これじゃあ、偽物に人気を奪われたのと大して変わらないじゃないか。

もう、何もかも手遅れなのか。

そう思ったその時だった。

 俺の周囲の地面が、とてつもなく巨大な影に覆われた。続いて、背中に奇妙な圧迫感が押し寄せる。それに併せて、俺の身体はがくんと前のめりになった。次の瞬間には、自分の足が地面からだんだんと離れていくのが見えた。俺は必至で足先を伸ばしたが、もはや地面に触れることはかなわないばかりか、信じられないようなスピードで俺の足と地面の間隔が開いていく。二本の足で支えていた筈の俺の身体が、宙に浮き上がったのだ。俺は空中で虚しく足を振り回す格好となった。

 ……いや、これは浮き上がったのではない。俺が“持ち上げられた”のだ。

 俺は、自分の背中が何かにつままれているような感触を得ていた。振り返ると、途方もなく大きな指がそこにあった。

「な、なんだ!?」

 それは、目も眩みそうな大男だった。そいつが俺の背中を、人差し指と親指で挟んでいるのだ。男の顔も、手も、胴体も大きすぎて、そいつがどんな奴なのか俺にはさっぱり分からない。俺はもの凄い高さに持ち上げられて、思わず目眩を感じた。

「離せっ、離せよ」

 だが、男は俺の叫びも聴かずに、ぽいっとその口の中に、この俺を放り込んだ。

そして驚く暇もなく、いきなり俺はぐちゃぐちゃに噛み潰されたのだった。不思議なことに、それほどの痛みはなかった。代わりに、言いようのない悲しさがこの俺を包みこんだが。

 歯と歯の間に押しつぶされること数十回。男は舌で俺を弄びながら、何事か呟いた。

「これが月面色ね……。ふんふん、まぁこんなもんか」

 次の瞬間、俺はパッと吐き出されたかと思うと、そのままどこかにべったり張り付けにされた。あまりに突然のことで、俺にはどうして良いか分からなかった。気が付いてみれば、唾液まみれの俺の身体はどこかの壁にへばり付けられていたのだ。

 我に返った俺は、とりあえず思い切り怒鳴ってやろうと思った。だが、何故か肝心の声が出ない。手足はがっちりとくっつけられていて、動けもしない。さっき野郎の口の中で揉まれた時に、俺はそこですっかり無力な人間に変えられてしまったらしい。

 ここは一体どこなんだ? 随分広い平面みたいだが……。

 俺は周りを見回した。辺りには、俺以外にも大勢のガムが張り付けられていた。木目色や魚鱗色など、どれも見覚えのある色ばかりだ。よくよく見ると、そいつらは皆これまで流行った色を持った奴らだった。

 どうやら、俺が張り付けられたのはその末席のようだ。

「げ、つ、め、ん、いろ……と」

 男はそう言いながら俺の下に『月面色』とペンで書き込んだ。

 切手アルバムの切手みたいに並べられたガム達と、色とりどりの懐かしい色、そこに書き加えられる俺の色……。このアルバムを見渡せば、これまでにガムの色がどのような変遷で流行してきたかが分かるようになっているらしい。

 何が起こっているのかはさっぱり分からないが、これが一種のカタログであるということは察しがついた。ガムの流行色とその変遷を見るために、実在した人間を標本にした、異常に巨大なカタログだ。

「味はミント系の甘み。その中にも微かな苦みあり。匂いは……」

 俺は声も出せず、動くこともできない。全てはこの巨大な男の胸三寸だ。俺はその後、ガム史上の位置づけだとか、勝手によく分からない意味づけをされた。

 ……そして、それきりだった。

 男が書き終わってカタログを閉じると、俺はそこでページに挟まれて何も見えなくなってしまった。感じるのは、ただ重たい厚紙と粘着防止フィルターの感触だけだ。どこかに文句を言うことも出来ず、何か行動を起こすこともできやしない。この世の春を謳歌していたと思ったら、突然の暗転、そしてこの扱いだ。この世を見守る神が居るとしたら、そいつはどうかしているんじゃないのか。それとも、さっきの大男がそのどうかしている神なのか?

 俺は凄まじい憤りと惨めさを感じながら、何もできやしなかった。目の前に迫る暗闇が、見えるものの全てだ。動けない今の俺は、囚人以下の扱いを受けている。浸れるような過去を持つ分、俺の方が惨めでもある。俺はここで生きたまま死んだのだ。



 その後は、恐ろしく退屈な日々が俺を待っていた。考えることでしか時間を潰せないのだから、いやでもこれまでの自分を振り返らざるを得なかった。俺はぼんやりと虚空を見つめながら、自分の人生やら成分やらについて思いを巡らせてみた。

 しかしどう考えあぐねても、俺がこんな扱いを受けなければならない理由は見つからなかった。俺はただ偶然に素晴らしい色を持ち、勝手に人にちやほやされただけだ。その挙げ句、漆色だかなんだか知らない奴にその人気を奪われて、今ではこの有様だ。

 その時、俺はふと気になった。そういえば、あの漆色のガムを持っているという奴は、その後どうなったんだろう? 

 俺が大男に捕まる直前、あそこにいた男はこれから漆色のガムが流行るだろうと言っていた。あれからずいぶんと時間が経ったと思うが、漆色の奴は人気者になれたのだろうか? もうそろそろ、しつこいファンや取り巻きにうんざりしてる頃か?

しかし……もしそうだとしたら、奴の行く末はきっとこの俺と同じだろう。俺は溜め息を吐いた。厚紙が目の前にあるから、その溜め息は自分の顔に掛かった。かつては人々が必至で求めた月面色が、今ではこのザマだ。人気が加熱すればするほど、その色は普遍性を認められなくなっていく。

 漆色の奴も有名になったなら、もうすぐここにやってくるに違いない。そう思うと、俺は途端にそいつの色が見てみたくなった。この俺にとって代わった色は、果たしてどんな色なんだろう。

 かつては悔しい気持ちもあったが、ここで時間を潰しているうちに、そんなことは半ばどうでも良くなっていた。あの後人気に火がついたのは、実は漆色ではないのかも知れないが、俺はあの印象派絵画のようなガムを持った男の言葉を信じていた。あの男のガムは計算し尽くされた美しさを持っていた。ああいう男の読みがそうそう大きく外れるとは思えなかったのだ。

 俺は辛抱強く、隣にやってくるであろうガムのことを待った。

 それから暫く経ったある日、外の方から何やらわめき声が聞こえてきた。

「なにするんだ、離してくれよ! やめろったら」

 ページに挟まれて何も見えないが、悲鳴が途切れたところから推して、俺のような奴が大男の口に入れられたのだろう。可哀想に。

続いて、久しぶりにページが開かれたかと思うと、眩しい光と共に一人の男が降下してきた。輝かしい光の中に、シルエットが浮かんでいる。そいつはやはり俺と同じように、大男に背中を摘まれていた。全身が褐色で統一された、随分細身のガムだ。

 そして、彼方からのし掛かる大男の声。

「あれ……ところで“うるし”ってどんな字だっけなぁ」

 どうやら、俺を見限った男の予想は見事に当たったようだ。あれが件の色男、漆色のガムを持った男らしい。奴も必至に首を振り回して大男に抵抗しているが、結局、その努力も徒労に終わった。カエルの標本みたいに無様な格好で、漆色の男もカタログにべったりとくっつけられてしまった。

大男がせっせと漆色の説明を書き込んでいる間、俺はそいつの事をじっと見ていた。それは深い味わいを持った、艶やかな黒いガムだった。そして、これこそが俺の未来を奪った色らしい。確かにこいつは、これまでにないような良い色あいだった。月面色から人気の座を奪えたのも頷けた。

 しかしまぁ、よくよく考えてみれば、俺もまた月面色によって誰かの青写真をかっさらってしまったのかも知れないのだ。リレーと似たようなものだ。いつか誰かの順番が来る。だからひょっとすると、こんな色は持っていなかった方が幸せだったのかもしれない。俺はこいつの事が憎いとは思えなかった。

 最初は激しい抵抗を見せていた漆色だったが、そいつはやがてもがくのを諦めて、隣でメソメソ泣き始めた。もう声は出ないが、涙と鼻水は出るらしい。俺は少しの間、その様子を黙って見ていた。だが、漆色の奴が泣き止む様子はない。

 気が付いたときには、俺はそいつのことを少しだけ可哀想に思っていた。

「なぁあんた。まあ、そう気に病むなよ。いきなりで驚いたと思うけどさ……馴れればここも、そんなに居心地悪くないぜ」

 声が出るなら、きっとこれぐらいの台詞は言っていただろう。漆色の奴は随分と情けないツラでいる。拭うことが出来ないのに、涙や鼻水を垂れ流して。俺はというと、笑いかけるような、困ったような半端な顔をしていた。

 その時の俺はいつの間にかここの先輩気取りで、事態の悲劇性を半分忘れかけていたのだ。考えてみれば、恐ろしい話だった。気を抜くと、俺はあっと言う間に標本であることを黙認してしまう。手足が動かせず、声も出せないのに、始めに感じていたような違和感は俺の中でどんどん薄れていたのだった。

 大男がページを閉じると、俺たちは再び闇の中に閉じこめられた。


 それからは、同じ事の繰り返しだった。ある日ページが開かれ、誰かが張り付けられて延々と新しい色たちがカタログに張り付けられていく。大男は時たま用もなくカタログを開いて、俺たちを眺め回すこともした。またある時はカタログの様子を写真に撮ったり、 大男の友達らしき連中にこのカタログを見せびらかすこともやっていた。この世には大男ばかりでなく、大女や大ジジイもいるらしく、奴らが顔を覗かせるたびに俺は言いようのない埋没感を味わい、生まれたばかりの赤ん坊みたいに不安な気持ちになるのだった。

 時間の感覚などとっくに無くなっていたが、自分たちの身体が徐々に変わっていっているのは分かった。ここにこうして張り付けにされている間、俺達の身体はどんどん硬くなっているのだ。吐き出されたガムは、時間と共に柔らかさを失っていき、粘着もできなくなる。それはつまり、人に自分の色をくっつけることも出来なくなるということだ。

時間が経つと、俺たちを包むガムはその辺の石と大差が無くなってしまう。

 化石のようなガムたち。化石となっていく俺。

古くなった奴らは、カタログからすらこぼれ落ち、誰にも色を与える事が出来ず、誰の色ももらえず、忘れ去られる。たまにどこかの物好きが、地面に埋まったガムたちを掘り返しにやってくる。それだけだ。

俺には、全てが終局に近付いているのが分かった。いや、本当は終局なんて存在しないのかも知れないが、とにかく俺という人間の幕が閉じようとしているのは確かなことのようだった。俺の身体はすっかり黒ずんで、限りなく黒に近い灰色となってしまっていた。かつての月面色が、今では見る影もない。カタログからこぼれ落ちる日も近いのだろう。隣で虚ろな表情を浮かべている漆色の野郎も、今では俺と同様ぴくりとも動かなくなってしまっていた。

ただし、あいつと俺には決定的に違っているところがあったのだった。実は漆色の奴だけは、身体を包むガムの色が始めから何も変わっていなかったのだ。漆色は年月を経ても、漆色のまま……。

そう、今の俺の身体の色こそ、劣化した漆色そのものだった。

ある日、大男がカタログを開いた時、俺はとうとうそこから剥がれ落ちた。その時、俺は自分の居たページをちらりと見ることができた。驚くべき事に、漆色の奴の周囲ばかりが、黒ずんだ化石と化していた。離れたところにいるガムどもは、自分のカラーが薄れたまま化石になっているだけなのに。

驚く俺と漆色の奴の距離は、見る見る離れていった。奴は上へ昇っていく。俺は下へこぼれていく……。

墜落しながら俺は考える。ひょっとすると、漆色の奴だけは今でも柔らかいガムのままだったんじゃないだろうかと。

そう。きっとあいつは、俺たちが知らない間に俺たちの頭の中をいじくってしまったんだ。目から、耳から、とにかくあらゆるところから見えない手を突っ込んで。

地面はもう目と鼻の先だった。化石となった俺は、助かる術を持たない。

それにしても。ああ、他の奴らはともかく、この月面色までもが漆色に塗り替えられてしまったなんて。悔やんでも悔やみきれない。この月面色までもが。あの、月面色までもが。

だがしかし、月面色がどんな色だったのか、今の俺にははっきりと思い出せないのだ。

地表がみるみる近づいてくる。

それでも、月面色がどんな色だったのか、今の俺にははっきりと思い出せなかった。

それはとても、肝心なことだった筈なのに……。



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奇怪短編 長月 了士 @S_Nagatsuki

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