人間だらけ


 気持ちの良い青空だ。この淀んだ空気と対照をなすような。

 あたしは部屋の中から、ぼんやりとそれを眺めていた。

 窓の外からひっきりなしに聞こえる、自動車の走行音や往来を行く人の話し声、音楽。それらが絶えず、あたしの意識に働きかけていた。都会の中心から少し外れたこの古アパート。その周りは、いつもそうした雑多な喧噪に満ちている。

「ったく。アパート代が安ければ、そのドア役の人間も安普請だな」

 大きな声でぼやく声が聞こえる。一雄君が帰ってきたようだ。

 アパートはまるで大昔に忘れ去られ、そのままコケをまとって荒れ地に転がったままの岩のように、静かにそこに佇んでいた。

 その沈黙は威厳だとか、荘厳といったものとは無縁だ。それは世の中にありながら、世の中に見向きもされないが故の沈黙なのだった。

『在るのか無いのかすら分からないよ』

 それが、常日頃からアパートを評した一雄君の言葉だった。

 自宅へ戻ってくるなり、まず、一雄君はうんざりした顔をして見せた。目の前に突っ立っているドア役男の服装が酷いものだったからだ。ソースか何かのシミが付いたタンクトップに、下は色の褪せた青いジャージ、足下はサンダルときているんだもの。もっとも一雄君は、その男を単に自分の家の“ドア”としてしか見ていなかったのだけれど。

 目の前のドア役の男もまた、彼には目を合わせようとしていない。けれど、それが一雄君とドア役男との関係だった。男は一雄君の部屋の入り口のところに立ち、虚空を見つめながら、黙ってドアの役をやっているだけだった。

 向かい合って立っていながら、お互いを認めあっていない彼ら。いつしか、それを意識することもなくなっていた。

 一雄君はあからさまに溜め息を吐いた。そして、むっつりしたまま黙ってその男を押し開けると、緩慢な動作で中へ入る。気怠そうな目つきのまま。靴を脱ぎ散らかすのと同時に、後ろ手で彼はその扉を閉めた。

『キィィ……ばたん』という、情けないドア役の男の声が耳に残った。

「ああ、疲れた」

 一雄君は中へと進み、鞄を床に放り投げると大した意味も無く毒づいた。気怠げな目つきと、尖らせた口元で。茶色のくたびれた彼の鞄が、乾いた音を立てて床に崩れ落ちる。その情けない様を見て、一雄君はまた同じ事を口にした。

「クソったれが……」

 首を振り振り、いまだ着慣れないスーツ姿のまま、彼は床に寝ころんでしまった。窓の外から、押し入るように眩い夕日のかけらが射し込んできた。彼の呟いた言葉だけが、置き去りにされたようにあたしの耳に残った。部屋中の家具達は、一瞬ちらりとそんな彼を見やったけれど、すぐにまた元のように虚空を見つめだした。

 一雄君の方でも、既にそれを気にしたりはしていなかった。

 室内は停滞しきっていた。

 部屋は六畳の大きさのワンルームだった。都心にしては安い家賃だったけれど、部屋のあちこちはもう痛んでいて汚かった。その部屋の中央には四つん這いになった小さなテーブル役の男がいて、それに向かってテレビ男や本棚役の女などが壁を背に佇んでいる。床にはカーペットが敷いてあったけれど、家具をやっているその誰もが外行きの靴を履いていた。部屋の中で靴を脱いで、動いているのは一雄君一人だけ。みんな息をしているのに、動かずに、ただそれぞれの役をやっている。テレビ男はスイッチを入れられれば黙って番組を映し出し、本棚女は静かに本を抱え込む。部屋の中で聞こえてくるのは、そんな彼らの息づかいだけだった。

 その無言はいつ果てるともなく続いていた。昨日も、今日も、そしてこれからも。部屋の中に居る人間は十人近いのに、喋りだす者は一人も居ない。それが延々と続いていた。

 喋り出すとすれば一雄君ぐらいのものだった。けれど、彼の方も彼らに話しかけたりはしないのである。大抵は、さっきみたいに一雄君の独り言が部屋を満たしたのだった。

 彼らは死んでいるわけではない。れっきとした、生きている人間である。話しかけられればそれなりには答えるし、ものを考えたりもする。かつては幼稚園に通い、義務教育を受けてきた人達なのだから、話はできるし、読み書きだって当然できるのである。けれど、一雄君は家具である彼らに話しかけたりはしなかった。もうとっくの昔に、そんな事はやめてしまっていた。

 だって、彼らの応答と言えば大抵こんな感じだったから。

「なぁなぁ、テレビ君。今日は良い天気だよなぁ!」

「え? ……ああ、ええ。そうですね」

「よっ、本棚さん。ボク困ってんだけどさ、話聞いてくんない?」

「……? いきなり馴れ馴れしくしないでよっ」

「ねぇねぇ、椅子君。一緒にどっか行かない?」

「申し訳ありませんが、ここを離れるわけにいきませんので」

「テーブルさん、元気ですか?」

「あの、あなた誰ですか?」

 と、散々。

 彼らと一雄君は、いつまで経っても赤の他人なのだ。

 赤の他人にばかり囲まれている一雄君は今日も誰にも話しかけず、誰にも話しかけられず、ジャージに着替えると黙って布団を敷いて寝た。

 

 一雄君はよく寂しそうな顔をする。

 そうした時は決まって周りに視線を這わせるのだった。でも、そんな彼を取り囲むのは口を結んだ家具達ばかりだった。みんな揃って虚空を見つめ、それぞれが人との交わりを一切絶ってしまっている。それを認めると、一雄君は寝転がってただ溜め息を吐くのだった。

 家具をやっている人達と知り合いになれないのには、一つの理由がある。それは、家具役の人が、日毎にそれぞれ違う人になっているからだった。身なりとか、気品は殆ど替わらないけれど、人間は替わる。

 一雄君が部屋を空けたり、眠ったりしている間に、テレビ役をやっていた若い男が見ず知らずのおばちゃんに替わり、本棚をやっていた若い女性が壮年の男性になっていたりするのである。

 一雄君がある机の人とうまく知り合いになった時も、次の日には全く知らない人間に入れ替わっていた。一雄君はまた新しい机の人に話しかけたけど、初対面から馴れ馴れしくしすぎて今度はうまくいかなかった。一雄君はその時も床に寝そべって溜め息を吐いていた。

 毎日毎日別人になっていってしまうのだから、一雄君が家具達と話をしようと思い立てなかったのは、無理のない話だったのだ。

 わずかなスペースのただ中で人に囲まれているというのに、一雄君の知る人間は一人も居ない。家具の気が向かない限り、同じ人間が再び彼に会いにやって来るということは滅多に無いことだった。あの机の人も、彼に会いに戻ってくることは無かったのだ。

 本を取りに、本棚の前に行く。そこでは女が本を数冊抱えて佇んでいる。一雄君は本を一冊選び取る。そしてそのまま、本棚の前に佇んで女をじっと眺めていると、女は首を傾げてこう言った。酷くよそよそしく。ビジネスライクに。

「あの、私の顔に何か?」

 一雄君は慌てて目を反らし、

「……いえ。何でもありません」

 とだけ答えた。本棚は怪訝な顔を浮かべながらも、再び前を見据えて口を閉ざした。そして次の日には、本棚はまた別の人間に置き替わっていた。


 ある日のことだった。

 一雄君は勢い良く入り口の男を押し開け、部屋に帰ってきた。その足取りは軽快で、表情も比較的上機嫌のそれだった。おもむろに肩から降ろした鞄を開け、中から折り畳まれた黒い袋を取り出した一雄君。その袋の側面には、一週間後の日付が刻まれたレシートが挟まっている。一雄君はどこかのレンタルビデオショップからDVDを借りてきたのだ。

 一雄君は鼻歌混じりにDVDの再生装置の電源を入れ、青い袋から一枚のDVDの入ったケースを取り出した。黄金色に光沢を放つ円盤がくるりと薄暗い部屋を照らす。それは半年ほど前に公開された作品で、興行的には大成功を納めたハリウッド映画だった。内容自体は大して新しさを感じさせないSFアクション物だったけれど、空前の投資によって、日本人を含めた全世界の人々は映画館に行列を作ることとなったのだ。

 あたしもあれはまだ観たことがなかったから、凄く興味深かった。別にミーハーなわけじゃないけど、世間が注目しているものはやっぱり気になるものだ。

 そしてどうやら、一雄君もそのクチらしかった。

 すぐに観始めるのかと思えば、一雄君は続いて冷蔵庫をやっているおじさんの元へと向かった。どうやら飲み物を飲みながらじっくりと楽しむ算段らしい。気付けば、部屋中の家具達がそんな一雄君の所作を焦れったげに見つめていた。無論、冷蔵庫おじさんも含めて。どうやら部屋の半分くらいの人間は、まだあの作品を見たことがないようだった。

 十数人の視線を一身に浴びながら、一雄君は宙づりにされている食器棚女からコップを取り出し、再び冷蔵庫おじさんの冷凍庫を開いて氷を鷲掴みにし、ペットボトルを捻ってコーラをなみなみと注いだ後、再びそれを冷蔵庫の中にしまう。酷く緩慢な動作で。それを取り囲む部屋中の咽喉がゴクリと動いたようだった。

 そして、炭酸の弾けるその素敵なコップをテーブル女に乗っける段になってやっと、彼は座って再生のスイッチに手を伸ばしたのだった。

 重々しいファンファーレが流れ、配給元のロゴが映し出され、いよいよ本編が始まった。それと共に部屋の中にいるあらゆる人間が、瞬きの時間さえ惜しむように画面に食い入った。映像は札束を撒き散らすかのごとく、次々と最新技術をひけらかして場面を絢爛に飾り立て、くたびれきったそのアパートの一室を爆炎と鮮血で彩っていく。あの、一番奥に佇むドア役の男でさえ、苦労して凄い目で部屋の中を見つめている。それでも可哀想に、立ち位置が悪くて彼には画面の半分程度しか見えていないだろう。必死に耳を澄まし首を傾けていた。

 部屋の中で聞こえるのは、画面の中で大暴れしている中年アクションスターの声、効果音、それに伴うメロディ、そして部屋中の人間の、密やかな息づかいだけだった。


 あたしが一雄君のところに通い続けて、もう二ヶ月近くになる。でも、あたしと一雄君との間に、交流は一度もなかった。普通の人がこれを聴いたら、まず不思議に思うだろう。

 あたしは、何を隠そう彼の部屋の姿見なのだった。

 やったことのない人には想像しづらいだろうけど、鏡という役目もなかなか辛いものがある。だって、一雄君はあたしを意識的に見ていないのだから、あたしの前で平気で服を着替え出すし、時には全裸の時だってあるのだ。だけど、それはまぁ仕方がない。あたしは鏡なんだから。あたしはそれを自覚して、殆ど毎日ここへやって来ているのだから。

 それよりも問題は、毎日目にしている筈のあたしに、一雄君は一向に声を掛けてこないという事だった。唯一、毎日彼に会いに来るあたしに。これはとても悲しい事だった。

 一雄君のところに初めてやってきたのは、二ヶ月ほど前の、ある雨の日の事だった。あの日はどしゃ降りで、あたしを含む全ての家具達が傘を持ってやって来ていたのを覚えている。あたしがその家に着いた時には、まだ家の主は帰ってきていない状態だった。玄関を見ると、一雄君の物と思われる傘が置きっぱなしになっている。どうやら彼は傘を持たずに外出したらしい。

 外は前が見えなくなるほどの大雨。部屋中に立ちこめる、濡れた衣服の匂い。窓のひさしを撃つ雨粒の音。あたしはこの家に来て早々に、何だか居心地が悪くなってきていた。周りを見渡せば、目に映るのはメガネを掛けたエリート風のパソコン男、パーマの崩れたタンスおばさんに、四つん這いになったテーブル青年、そしてカーテンじいさん……それらがこの湿った空気を、鼻息で掻き回す。奥にいる冷蔵庫女や本棚男なんかも、居心地悪そうに佇んでいた。

 それでもあたし達は立っていた。立ち続けていた。

 それはまだ見ぬ、この部屋の主のためだったのだろうか? ……いや、多分違うだろう。

 一雄君は予想通り、身体をびしょ濡れにして帰ってきた。横殴りの雨だから、コンビニなんかで買える小さな傘では到底役に立たなかったのだ。彼の衣服は、まるで水に浸したかのように絶えず滴を垂らしている。小脇に抱えた紙袋もボロボロになっていた。彼の顔は疲労に打ちのめされていた。

 だが、そんな彼が部屋に入ってきても、室内に突っ立っている家具の中で、彼に手を差し伸べる者は居なかった。一人として。それは、このあたしも含めて。

 それどころか、声を掛けようとも、目をあわせようともしないのが大半の反応だった。一雄君はただ「くそ……」と唸るように呟き、バスルームへと入っていった。彼の歩いた後には、足の形をした小さな水たまりが出来ていた。

 あたしはその時、彼の事を可哀想だとは思ったが、実際に手を差しだそうとまでは思わなかった。所詮、彼は赤の他人なのだ。すれ違っては後ろに去りゆく、それだけの存在なのだ。そういう思いが枷となって、あたしの行動を阻んでいた。多分、ここにいる家具達も、同じ思いだったのだろう。

 皆、これまで他人とすれ違うことが多すぎたのだ。人が景色になってしまっている。

 一雄君はパンツだけの姿で室内に戻ってきた。タオルで濡れた頭をくしゃくしゃにしながら、溜め息を吐いている。彼は何かずっと唸っていた。そして片手で顔を覆い、頭を左右に振る。何事だろうと部屋中の人間が彼の所作を見守っていると、突然その彼が顔を上げ、彼に集まっていた視線を一斉に睨み付けた。あたしも一瞬その目に捉えられ、身体が硬直してしまった。

 その八畳の空間が、奇妙な重たい空気に包まれる。

 そして次の瞬間、一雄君が静寂を破って大声で怒鳴りだした。

「もう沢山だ! お前ら何なんだよ?」

 全員がビクリと身体を震わせた。その声が余りにも大きかったのだ。あたしも驚き、恐怖すら覚えた。一雄君の身体は小刻みに震えている。

「どうして……どうして僕がこんな所で、こんなに寂しがらなくちゃいけないんだ!? 

 おかしいじゃないか! 僕は人間に囲まれているのに、一人でいるよりずっと孤独だなんてさ!!」

 部屋は八畳の大きさしかない。彼の必死の叫び声は嫌でもこちらの全身に響いた。

「いっつもいっつも黙りこくってやがって! お前ら……お前ら、何か言えよ……ちくしょう……」

 そう言うと彼は肩を落とし、床に座り込んだ。それを見下ろす人々の視線。

 あたし達家具は、依然として黙っていた。それでもやっぱり黙っていた。

 何も言えなかったのだ。

「お前ら、人間なのかよ……本当に……」

 最後にそう呟いた一雄君の声が震えだした。タオルで頭を覆い、下を向いているから顔は見えないが、泣いているのかも知れない。あたしは何だかいたたまれない気持ちになった。泣いている人間を目の当たりにするのは、いつだって胸が痛む。再び辺りを見回すと、メガネのパソコン男もテーブル青年も、彼らなりに衝撃を受けていたようだった。目と口が開きっぱなしになったまま、部屋の真ん中にいる一雄君を見ている。

 だが、それでも、やはり一雄君の側に歩み寄る者は居なかった。

 一雄君はそのまま寝入ってしまった。彼が眠りにつくと、部屋の中は再び禅堂のような無言の空間に変わった。

 そして次の日になると、一雄君の呼びかけなどまるで無かったかのように、いつものように、部屋中の人間達はやっぱり入れ替わっていた。

 あたしを残して。

 それ以来、あたしは彼の事が気になりだしたのだった。

 一雄君は、人一倍孤独を感じている。それは確かだった。

 でも、毎日同じ部屋にいるこのあたしには、何も話しかけては来なかった。てっきり何か喋りかけてくれると期待していたあたしは、この二ヶ月ほど小さな失望の積み重ねだった。あたしは彼の事が気になるのに。毎日見ているのに。彼は動かない。ぶっきらぼうな表情であたしの前に立ち、鏡として利用しては背を向けていく。

 多分このまま、ずっと会話を交わすことなく終わってしまうのだろう。この頃はずっとそう感じていた。

 それでも、そうと解っていながら、あたしは毎日ここへやって来ていた。それはやはり、あの雨の日の事があったからだった。彼の訴えに心を揺さぶられたからだった。あの事がずっとあたしの脳裏に引っ掛かっている。来る日も来る日も、溜め息を吐いて寝転がる一雄君。それを取り囲む仮死状態の家具達。

 それを目にするたびにあたしは、『声をかけてあげようかな』と自問し、迷い、結局自分に負け続けているのだ。所詮、この迷いが薄甘い同情からだからだろうか……。でも、このままじゃ何も進展しないのは明らかだった。そこであたしは遂に決心したのだった。

 明日こそ声を掛けてみよう。


 話しかけることを決めてから、一雄君と知り合いになれることを期待していたあたしだったが、結局そうなる日はやって来なかった。何故なら、あたしと一雄君が再び会うこと自体が出来なくなってしまったからだ。いや、会わなくなると言った方が正確だろうか。

 あたしは、一雄君のアパートを出ることにしたのだった。

 それは何も、あたしの決心が揺らいだからとか、勇気が無かったからとか、そういう理由じゃない。それは一雄君が、あそこに女性を連れ込むようになったからだった。可愛らしい綺麗な、女性を。よりによってあたしが決心をした、その日の内の出来事だった。

 あたしは部屋に置かれた鏡に過ぎない。あたしは壁に立てかけられながら、部屋の隅でそれを眺め続けるだけだった。あたしはその女性の顔立ち、服装、仕草を、一雄君とのやりとりを見続けた。彼女が部屋に上がった途端、何か華やかな空気が香った。セミロングにした茶色の髪が美しかった。彼女は笑うとえくぼが出来る。彼女は一雄君のことを『かずお』と呼び捨てにする。

 あたしは来る日も来る日も、一雄君の事が気になってあの部屋に出入りしていた。にも関わらず、二人の間には何の関係も生まれはしなかった。

 それまであたしをあのアパートに繋ぎ止めていたのは、紛れもなくあの雨の日の一雄君の叫び声だった。しかし、今となってはそれも薄らいでしまった。あたしがあそこへ通う殆どの理由は、失われてしまったのだ。

 一雄君は笑っていた。

 それを認めたあたしには、もはやそこに留まることは出来なかった。ただ静かに、そこの一室に別れを告げるしかなかった。もっとも一雄君は、それを別れとすら認識しないのだろうけど。

 明日になればあそこにも別の鏡の人が現れ、鏡としての役割を果たし、そして去っていく。人が見知らぬ人と出会い、一方がもう一方を見つめ、その相手は目もくれずに去っていく。そういう出来事がまた起こるだけ。それの、繰り返し。

 歩道を俯いたまま歩きながら、あたしはあの部屋での事を振り返っていた。色々な事を。来る日も来る日も目にしたあの部屋の薄暗い景色と、その床に寝転がる一雄君の姿が瞳の裏に浮かぶ。でも、今ではあそこに一人の女性が居座っているのだ。あたしは歩む速度を幾分緩め、一雄君の真似をして溜め息を吐いてみたりした。

 その間、あたしの脇を様々な人間がすれ違い、過ぎ去って、追い抜いていった。空では飛行機少女が雲をたなびかせ、道路には車おじさんが走り、道の所々に電柱ばあさんが佇み、高層ビル青年がそびえ立ち、ネオン女が光り、街路樹じいさんが枯れゆき、電車オヤジが走り抜いていった。

 人、人、人……。

 人間が、見渡す限りにいた。

 あたしがそうしている間も、間断なく人はあたしの脇を通りすぎ、ぶつかった。でも、まるであたしがそこに存在しないかのように、誰もあたしの方は見ようとしなかった。

 暫く歩くと、あたしは自分の家に辿り着いた。

 目の前には扉役の女性が佇み、虚空を見つめている。あたしは黙ってその女性を押して、ゆっくりと中へ入っていく。街中の人間音を背中に感じ、部屋の中にも人間の気配を感じながら、靴を脱ぎ捨てる。

『キィィ……ばたん』という、扉役の情けない声だけが、あたしの耳に残った。



 了

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