奇怪短編

長月 了士

生前講習会



 うねうねと捩れる空間のただ中で、周囲に向かって語りかける者がいた。 それを取り囲むのは、これまたうねりながら輝く、小さな小さな光たち。隅々まで埋め尽くすほど存在し、その数は計り知れなかった。

 中心にいる者の声はささやかだったが、それはその場に居るもの全てに聞き取れた。

「出立をいよいよ明日に控えるみなさん、ようこそおいでくださいました。みなさんは長い長い道のりを経て、ここでようやく生を開始させるわけでございます。今は喜びもひとしおでしょう」

 "うおおおーっ!"

 光の集まりは歓喜の思念を撒き散らしながら、うねうね動いた。

 彼らは、生命の候補生であった。

 今、そのうちのひとつの光――まだここでは性別の区別はないが、記述の都合上"彼"と記す――は、目の前で繰り広げられる光景をぼんやりとした気持ちで眺めていた。いまだ現実感が沸いてこず、夢を見ているような心地である。

「それでは生を開始するにあたって、私から最後の通達がございます。この講習が終了次第、皆様方にはあるひとつの選択をしていただきます。それが済みましたら、皆様方はいよいよこの世界とはお別れして、新しい世界へと飛び立てるわけでございまーすっ」

 "おおおーっ!"

 光の集まりは今や大きな波となって、熱狂の渦を作り出している。

「皆様方もご存知のように、この次元は皆様が生涯を送る予定の世界とは、完全に隔絶したところに存在しております。

 皆様のように生命を得る可能性のある者は、世の中に現れる前にこの場に集められます。そして、生涯を始めるにあたっての様々な講習を受けていただくわけですが、ここにおられる皆さんは既にその課程を全て修了なさいました。ここまでの道のりは、さぞ大変だったことでしょう。

 記憶は失われますが、生を始めた後の能力はここでの経験がベースとなるわけです」

 "わあああぁ~っ!"

 "彼"の周りは大興奮状態だ。それを見ているうちに、次第に自分が置かれている状況が現実味を帯びて感じられてくる。

 "彼"は心の中で、これまで通過してきたその長い道のりを振り返ってみた。確かに、考えれば考えるほど、それは筆舌に尽くしがたいほどの苦難に満ちた道のりであった。特に"彼"が配属された『人間コース』は生まれた後の快楽が多い分、精神的な苦悩もまた多いのだ。思い返せば、様々な講習を通過してきたものだ。この一連の講習は、恣意的に選べるものではない。あらかじめコースを決められて、振り分けられたあとから個性が目覚めるのである。

 運命の糸を延々と紡いでみたり、一生分の緊張・苦痛の予行演習を受けたりと、ここまでの研修は二度と経験したくないものばかりだった。なにしろ、生命を得るための研修では、愉しいことや気持ちのいい出来事はあらかじめ経験したりしないものだからだ。苦痛は経験と共に和らいでいくものだが、その反面、快楽も経験すればするほど初めの喜びは麻痺していく。それらの喜びは全て、生を受けた後のお楽しみというわけだ。そして、彼はそれだけを目標に、何とかここまでやってくることができたのである。それはあの講師の言うとおり、本当に辛く長い道のりだった。

 だが、それらの苦労もこの講習でようやく最後となった。この講習を聴き終えさえすれば、晴れて自由の世界に飛び出せるのである。未だ知らない、快楽と喜びを探求する旅へ。

 それを考えると、"彼"の内側から底知れない期待と喜びがこみ上げてきた。これまで苦しいことのみを経験してきた分、生まれた後の快楽に対する"彼"の期待は、それはもう凄まじいものだった。

「ここにおられる皆様は、ミョウニチ――これは皆様が向かわれる世界で用いられる時間の単位ですが――に新しい世界に出現します。

 ですが、これだけは覚えておいていただきたい」

 その講師のただならぬ雰囲気に、場はふっと静まり返った。

「皆さんももうお気づきの事と思いますが、生まれた後の世界では一人一人の条件にばらつきがございます。つまり、個人の境遇や経験は、平等に得られるものではないのです。

 ある者は一国の長としての運命を背負って赤ん坊になることもあるでしょう。またある者は、何ひとつ特別な経験をせぬまま世の中を去ることもあるでしょう。皆様は、そういったあらゆる可能性の一部なのです。現時点では、どんな可能性も否定することはできません。可能性の中から皆さんが特定の境遇を選択することも不可能です。

 そして、この一点は非常に重要な事なのですが……赤ん坊という形も成さずに世を去るケースだって、皆さんが思っているより遥かに多い。

 ここのところは宜しいですか?」

 答える者はなかった。

 "彼"もまた、周囲と同じように黙りこくっていた。苦労を乗り越え、これからの旅に期待する者にとっては辛い言葉である。もしかしたら、自分はとんでもない不幸な出来事に遭遇して、あっという間に世の中を去ってしまうかもしれない。その可能性を否定することは出来ないのだ。分かってはいるが、考えたくない事柄だった。できれば、辛い出来事や懊悩を上回るだけの幸せを捜し求めたいものである。

「皆さんのお気持ちはよく分かります。誰だって、積み重ねた苦労に見合うだけの幸せは欲しいものですからね。不可逆の未来に、皆さんの意思が反映されないというのもご不満だと思います」

 "彼"はその言葉で、かえって突き放されたような感じがした。押し込めていた不安が一気に噴き出し、楽しみにしていた筈の生後に翳りが出てくる。こんな話なら、聴かないほうがよかったかも知れない。

 講師のものの言い方に、他の一同も苛立ちを募らせていた。なにしろあの講師は、"連日"あれと同じことを喋っているのだ。そこに真の同情などある筈もない。あんなものは所詮、上っ面だけの言葉でしかないのだ。あそこで喋っている限り、少なくとも講師が運否天賦に不安を抱くことなどない。場の不信感は募った。

 "彼"の周りからも、ぶつくさと講師の悪口を漏らすものが続出した。

 しかし、話にはまだ続きがあった。講師は再び喋り始めた。

「さて、先ほども申しましたように、ここである一つの選択をしていただこうと思います」

 その言葉は彼らを黙らせるには十分効果的だった。水を打ったように場は再び静けさを取り戻し、"彼"も不安と期待の入り混じった気持ちを抱えて、講師の次の言葉を待った。

「私はさっき言いました。『皆さんは、あらゆる可能性の一部である』と。それはつまり、どんな幸運にも遇する可能性があるし、逆に信じられないような不幸に遭う可能性もある、ということです。

 また、何一つ変わったことに出会わない一生だってあります。それは特別な幸運も、特別な不幸も経験せぬまま世の中を去っていく運命。

 皆様に選択していただくというのは、そのどちらかということです」

 そこで講師は言葉を切った。場の反応を確かめている様子だ。

 "彼"をはじめ、他の者たちは何も言葉を発することができなかった。誰もが、今の話を十分には掴めていなかった。誰もが当惑した様子で、不安げに揺らめいてみせる。それは、講師にとっては見慣れた光景なのだろう。講師は落ち着いたまま、ゆっくりとした調子で続けた。

「選択は、二つに一つです。

 一つは、一生のうちに少なくとも一度は凄まじい幸運か不幸に出逢う運命。こちらは幸運が期待できる分だけ、特別な不幸に遭う可能性も多分に含んでいます。深い悲しみや苦痛を経験する可能性も極めて高いといえるでしょう。

 もう一つは、大きな不幸も幸運も経験しない運命。私は助言やひいきは許されていないのですが、一つだけ事実を申しあげておきますと、大半の方々はこちらを選択なさる傾向にあるようですね。……と、私が言えるのはここまでです」

 講師の話はそこまでだった。話が終わっても、場はしばらく静まり返っていた。こんなことは、気軽に選べるような問題ではない。彼らの未来を決定する、重要な選択である。軽々に動ける筈がなかった。彼らは黙し、各々の考えに沈んだ。

 "彼"もまた、講師が喋っている途中から既に必死で考えて始めていた。

 この場合は、どちらがより自分に向いているのだろうか。危険と成功が隣り合わせの運命と、波の少ない穏やかな運命……。

 前者は危険が大きい分、見返りが期待できる運命だ。一度は確実に大きな出来事に当たるチャンスがあると保障されているのは、非常に魅力的である。自分は、喜びを得たいがためにここまでひたすら研修を受けてきたのだから、試す価値はあると言えるだろう。……しかしそうは言っても、特別不幸な目に遭う可能性も高いと言われれば、やはり悩んでしまう。運が悪ければ、それで苦痛を抱いたまま死んでしまうこともあるのではないだろうか。もしそうであったら、喜びも何もあったものではない。

 後者ならば、そういった心配はいらない。大きな喜びは期待できないが、安定した一生を送れるだろう。そう考えると、やはり大きな幸運など求めない方が無難で賢明なのかもしれない。深い絶望に包まれて、それまで続いてきた生が滅茶苦茶にされてしまうよりはずっと良い。

 それに、あの講師は前者の運命について説明するとき、『少なくとも一度は』と言った。それはつまり、不幸や幸運が一度起こったからといって、その後が平穏な人生になるとは限らないということである。仮に大きな幸運を手にしても、その後になってそれを上回る不幸が訪れないと言い切ることはできない。

 きっと前者の人生を歩めば、常に何が起こるか分からないという不安に苛まれ続けるに違いない。

 "彼"はそこまで考え、さっさと心を決めた。自分は、後者の運命を選ぼう。その方が絶対に安全だし、ゆっくりと一生を楽しめる筈である。それに、あんまり迷っても、結局どちらが良いかなどここでは判りはしないだろうと思ったのだ。

「どちらを選択されるかは完全に自由ですので、お好きなほうをお選びください」

 講師はそこまで言い終えると、ふっとその場から姿を消した。代わりに、それまで講師の居た場所に二つの穴ができた。ざわめく光たちのもとに、どこからともなく講師の声が響いた。

「前者を選ぶ方は、小さな穴の方へ。後者を選んだ方は、大きな穴の中へお入りください。全員が穴の中へ入った時点で、皆様は生命の欠片へと変貌を遂げることになります」

 既にその話が終わるか終わらないかのうちから、穴の中へ飛び込む者はぞくぞくと現れた。"彼"も既に腹は決まっていた。しばらく思い悩んだ末、やはり当初の予定通り大きな穴へと飛び込むことにしたのである。見ていると、"彼"と同じように、大きい方へ飛び込む者が圧倒的多数であった。やはり、大勢の選択する方に飛び込んでおいた方が余計な心配はせずに済むし、無難である。誰もがここまで必死に積み上げてきたのだ。危険を冒して大きな賭けに出るよりも、地味で平穏な幸せを手にしたいと考える者が多いのは、当然のなりゆきなのかも知れない。

 やがて、"彼"の飛び込む番がやってきた。

 光るその身を、大きな穴へ投げ込んだ。"彼"は薄ら青い色をした渦の中へ飲み込まれていった。色々あったが、これでいよいよこの身に生命が与えられるというわけだ。

 渦の中では不思議な潮流が巻き起こり、彼らを載せてぐるぐると廻っていた。意識が引き伸ばされるような、不思議な感覚が"彼"を襲う。恐らく、現在の意識そのものが消されようとしているのだろう。

 "彼"の周りでは、先を行った者たちや、後から続いた者たちが流れに乗って漂っていた。光り輝く彼らの身は幾筋もの光線を作っている。"彼"はぼんやりとした意識の中で、その幻想的な光景を眺めていた。

 彼らの体はどれも光り輝いていた。一つ一つの光は綺麗なのだが、しかし、それを一つ一つ目にすることはできそうにもなかった。ただ漠然と、"無数の光がある"と感じ取れるだけである。 彼らは数が多すぎるせいで、纏めて一つの光としかみなされない。所詮あらゆる意味で、彼らは予備軍にすぎないのだ。この時点では、彼ら自身が努力してどうにかなるような段階ではなかった。

 だがこれも、もう少しの辛抱だ。"彼"は静かに、その流れに身を任せた。

 先ほどまでの生後に対する不安は、今ではだいぶ薄らいでいた。どんな境遇であろうと、そうそう不幸な事態にはならないと決まったからであった。ここに居る者たちも、それがきっと嬉しいのだろう。彼らの作り出す光の渦は、とても美しく見えた。 不意に、その中の誰かが嬉しそうに漏らした。

(どんな家に生まれるんだろう? あったかい、優しい家庭だと良いなぁ……)

 それを聞いたとき、"彼"の中に急に嫌な予感が走った。

 自分たちは『生命』や『生涯』という言葉を、産み落とされてから死ぬまでの期間を表す言葉だと勝手に解釈していることに気がついたのだ。

 しかし、もし仮に、その解釈が違っていたらどうなるのだろう……。

 "彼"は急いで講師の台詞を思い出そうとしたが、間に合わなかった。思い出す前に、彼の意識が途切れたのである。その瞬間、"彼"の記憶は消され、大きな幸運や酷い不運とは無縁の運命が決定付けられた。"彼"はとうとう、新しい世界へ向かって飛び出したのである。

 悲しいことに、"彼"の不安は当たっていた。

 大きな穴に飛び込んだ者たちが、卵子に到達することはなかった。


 了

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