第18話 取り戻してもいい?
「……で、赤ちゃんは? 赤ちゃんのことも嫌い? 赤ちゃんができてから、お母さんは変わっちゃったんだろ? 生まれたらますます、あかりちゃんは見向きされなくなるね。赤ちゃんにお母さんを盗られるね」
冷めた口調でミカが言った。感情のこもらない、冷え切った声。ミカの言葉があかりの胸にギリギリと突き刺さっていた。
眉をひそめたユーリが、そっとミカの肩を叩く。
「ミカさん……何言ってるんですか……止めてください」
「だって本当のことじゃないか。ねえ、あかりちゃん、赤ちゃんが邪魔だろう? 赤ちゃんがいる限り、お母さんは赤ちゃんのものだよ。赤ちゃんがお母さんを独り占めにするんだ。そうしたら、あかりちゃんはずーっと一人ぼっちってことだ。ああ、そっか、お母さんと赤ちゃんからみれば、あかりちゃんが邪魔者なんだ……」
あかりの身体がブルリと震える。ずっと胸の奥で漠然と抱えていた不安を、ミカが口にしてしまった。
赤ちゃんが生まれると聞いて、はじめはとても嬉しかった。妹だといいな、可愛いいだろうな、ミルク飲ませてあげたいな、遊んであげたいな、いっぱいお世話してあげよう、そんなことを思っていた。
でもこの頃は、赤ちゃんのせいで、家の中がめちゃくちゃになったと思うようになっていた。
ミカの言う通りなのだ。赤ちゃんにお母さんを盗られてしまったと、嫉妬しているのだ。そして、赤ちゃんが邪魔者と言うより、赤ちゃんだけのものになってしまったお母さんに、役に立たない邪魔者だと思われているのではと怯えているのだ。
だから怒られても、逆らわずにお手伝いもがんばっていたのは、見捨てられないようにするためだったのだ。
ミカの言葉は、とんでもなく鋭い刃で、あかりを切り裂いてしまいそうだった。
何もかも見透かされているようで、息がつまり声も出せない。
「ミカさん!」
「大丈夫、大丈夫、オレがあかりちゃんのお母さんを、ちゃんと取り戻してあげるから……オレにまかせて、ね」
ミカの手が頭の上に乗ったのを感じて、あかりはまた震えた。怖かった。
その手はなんだか冷たくて、なでるというよりも返事しろよと急かしているようで。お母さんを取り戻すという言葉が、ともて怪しくて。聞こえの良い優しい言葉を並べながら、本当は危ない取引のようで。
――ひどいこと言っておいて、なんで大丈夫なんて言うの!
ああ、悪魔の誘いってこんな感じなんだろうかと、あかりはぎゅっと目を閉じた。
あまり強い力では無かったが、ミカはあかりの髪を掴んで顔を上げさせた。
「ねえ、オレを見てよ」
「ミ、ミカ……?」
「さっき、雷竜の角がもう一つ、いいことを教えてくれたんだ。黒助だけじゃなくてさ、他にも大きな光があるんだよね。……ねえ君、取り戻してもいいだろう? そしたら君も、お母さんを取り戻せるし」
あかりを見下ろしてニタリと笑う。
――もう一つ? 大きな光がある? お母さんも取り戻せるって……?
あかりは涙をポロポロこぼしながら、ミカを見上げている。頭の中がぐちゃぐちゃで、ミカが何を言っているのか分からない。いや、分かりたくなかった。
ぷう子が落ち着き払った声で、なるほどなあ、それはええ考えやなあ、などととつぶやいているのが、なんだか憎らしかった。あかりは、止めて止めてと心の中で叫んでいた。
笑っているのに、ミカはとても怖い。雨の中で、黒い腕をいっぱい出していた時より、もっと怖い顔をしているのだ。
眉をひそめるユーリをドンと後ろに突き飛ばして、ミカが歌うように言った。
「ああ、もうすぐ生まれちゃうなぁ。そしたら、取り戻すのが難しくなるなあ……。オレは命の光を、君はお母さんを……」
ミカのとどめの言葉に、あかりは愕然した。
さっき、ぷう子が言ったばかりではないか。黒助が生まれる時に、命の光が一緒に入り込んだのだと。だとしたら、お母さんのお腹にいる赤ちゃんの中にも……。
彼の手をはねのけて、バッと立ち上がる。足も唇もわなわなと震えていた。
でも、しっかりとミカをにらみつけていた。
「ダメ! 絶対ダメだから! 近寄らないで!」
「でもさ、元はオレのだよ? それにバッタの中にあった光だって同じだ。光を抜いた後、しばらくしたら死んだろうけどね。……どうして虫は良くて、人間はダメなのさ!」
「イヤ! ダメったらダメなの! 止めてよ、お願い! 盗らないで!」
「違うよ……返してもらうだけ……」
「やめて! 悪魔! ミカなんて大嫌い!」
うっすら笑うミカは、あかりの知らない恐ろしいミカだった。こんなのミカじゃないと思った。黒い羽をばさりと広げて、いやらしく唇を吊り上げて笑うなんて。
角なんか無くたって、牙やシッポなんて無くたって、悪魔はいるんだとあかりは思った。こんなのって、ひどすぎる。
「……ねえ、オレだって死にたくないんだよ」
ミカが顔をのぞき込んで、言った。
じゃ、行くね、と。
あかりは思い切り頭を振った。涙が飛び散って、髪の毛がビシビシと頬を叩く。そしてくるりと向きを変え、鳥居の方に駆け出していた。
「ダメ! イヤ! 絶対ダメなのぉ!!」
転びそうになりながら走った。あかりは泣きながら走った。
家に帰るのだ。お母さんを守らなきゃ、赤ちゃんを守らなきゃ、それだけを思っていた。時折、濡れた路面に滑って転びそうになりながらも、懸命に。
決して後ろを見ようとはしなかったが、追いかけてくる羽ばたきの音がしないかと、耳をそばだてながら走っていた。
――ミカがあんなこと言うなんて! 赤ちゃんから命の光を抜き取るなんて!
もともとはミカの命なのだと分かっている。彼が生きるためには、光を取り戻さなければならないことも。
でも、ミカの命の光を吐き出した黒助は、一瞬で年老いてしまったではないか。バッタも死んでしまったと言ったではないか。
泣きそうになるのを堪えながら、一秒でも早く家にたどり着こうと、走り続ける。
きっと、お母さんやおばあちゃんにはミカが見えないだろうから、逃げることもできないはずだ。自分が危険を知らせて守らなければ、赤ちゃんから命の光が抜き取られてしまう。そう思って、あかりは必死に家を目指していた。
お母さんを嫌いだと言ってしまった。赤ちゃんのせいで何もかも変わってしまったと思った。赤ちゃんさえいなければ……と、確かに思った。
でも、いなくなればいいなんて、死んでもいいなんて思ってない。絶対に違うのだ。赤ちゃんがいなくなれば、お母さんが戻ってくるとか、そんなこと考えたこともなかったのだ。
ただ、自分の気持ちを吐き出したかっただけだった。黒助に死んで欲しくないだけなのだ。黒助が死んでしまうということが、どうしても納得できなかったのだ。黒助は猫だけど、大好きな友だちなのだから。
ミカのことも友だちだと思っていた。学校の友だちとは全然違う、とても不思議な友だち。別の世界から来たからなのか、魔法使いだからなのか、大人だからなのか、それは分からないけど、あかりをとても惹きつけるのだ。
ミカの大きな手で、頭をクシャッとかき混ぜるように撫でられると、とても気持ちよくて安心できたのだ。それなのに、さっきのミカは、急に別人になったようで怖かった。あんな酷いことを言うなんて。
あかりはがたがたと震えていた。噛み締めた唇が、ぴりっと痛んで、じわじわと血の味が口の中に広がる。
もしも、もしも赤ちゃんが死んでしまったら、自分のせいだ。ミカを恨むよりも、自分を責めて責めて、後悔で身体が裂けてしまいそうだ。
絶対、守らなければならない。お母さんに邪魔者だと思われていてたとしても、赤ちゃんに嫌われたとしても、守るのだ。
だって自分は、お母さんも赤ちゃんも、とても大事で大好きなのだから。生まれてくる赤ちゃんはもう自分の家族で、絶対に失ってはならない存在なのだ。だから、奪わないで欲しいのだ。
――イヤだ! イヤだよぉ!
我慢していた涙がポロリとこぼれた。必死に走り続けて息があがり、もう呼吸もままならない。でも、ふらつきながら、あかりは家に帰ろうと、お母さんを、赤ちゃんを守るんだと、進んでいく。
後少しだ。
焦る心を抑えて、角を曲がる。そこを真っ直ぐに行けば、家はもうすぐだ。
肩で息をしながら顔を上げると、白の軽自動車が、ゆっくりと走り出すところだった。
あっと声を上げると、自動車もすぐに止まった。それはおばあちゃんの車だった。運転席から顔を出し、おばあちゃんが手を振った。
「丁度良かった! 学校に迎えに行こうとしてたのよ! さあ、乗って、病院に行くから!」
おばあちゃんが勢い良く言う。
車の後部座席には、青い顔をしたお母さんと不安げな輝の顔が見えた。
病院という単語に、あかりの心臓が飛び跳ねる。急いで助手席に乗り込んだ。
「ど、どうしたの?!」
後ろの席に身を乗り出して、あかりはお母さんをのぞきこんだ。
苦しそうに眉を寄せて目をつむり、歯を食い縛っている。くぅと、息をこぼしてから、お母さんは薄っすらと目を開けて、微笑んだ。唇が動いたけど、か細すぎてなんと言ったのか、あかりには聞こえなかった。
お母さんの額に汗が浮かんでいる。息も荒い。
あかりの背が震えた。
「ヤダヤダ! お母さん死なないで! 死なないでぇ!」
あかりが叫ぶと、お母さんの隣で呆然としていた輝の目がみるみるうちに潤んできて、今にも泣き出しそうになる。
「お母さん、ごめんなさい! 嫌いなんて言ってごめんなさい。良い子になるから! 言うこときくから! ごめんなさい! だから、だから死なないで! お母さんも赤ちゃんも死なないで、お願いだから」
ランドセルを背負ったまま、後ろの席に行こうとするあかりを、慌てておばあちゃんが止めた。
「ちょっと、ちょっと! 何言ってるの。バカねえ、死んだりしないわよ。赤ちゃんが生まれるのよ。陣痛が始まったの。病院に連絡したら、すぐ来てくださいって。だからあかり、ちゃんと座ってちょうだい。これじゃ運転できないじゃない」
驚き顔のおばあちゃんが、半分笑いながら言った。お母さんも、お腹をさすりながら笑っていた。泣きそうな顔で笑っていた。
「……ありがとう……あかり。心配してくれたのね……大丈夫よ」
「ごめんなさい……お母さん……」
「謝らないで……。あかりったら……涙で顔がぐしゃぐしゃ。ごめんね……お母さんのせいね。ごめんね。大好きよ、あかり」
お母さんは苦しそうに手を伸ばした。その指先が、そっとあかりの頬をなでてゆく。
「あかりはもう十分良い子で、とっても優しいんだから。お母さんが謝らなきゃ……ガミガミ怒ってばかりで、本当にごめんね。あかりの話、聞いて上げなかった。目を見て話さなかった……あなたの気持ちを分かってあげられなかった…………。昨日、召使じゃないって言われて、やっと気が付いたの。おばあちゃんにも怒られちゃった。あなたを信頼して頼りにしてたのに、全然むくいてあげていなかったね……バカなお母さんね。ごめんね、あかり……」
「お、お母さぁん……ふぇ…………うえぇぇ」
「あかり、大好きよ」
髪は乱れて顔色は悪いままだったけど、お母さんの声はしっかりと力強くて、にっこり微笑む顔は、今までで一番きれいだと思った。
お母さんは、泣きそうなのをグッとこらえている輝の頭を抱き寄せ、もう一度力強く言った。
「大丈夫、輝も大好き。二人とも大好きよ」
お母さんの頬に一粒光るものが流れて、それからまた苦しそうに眉を寄せて、お腹をさすった。
「じゃ、行こうかね」
パンと短くクラクションを鳴らしておばあちゃんが言った。
あかりは手の甲でゴシゴシと顔を拭いて、シートに座った。ちらりと振り返りお母さんと目が合うと、カッと頬が熱くなり、冷え切っていた身体に温かいものがめぐり始めた。
「……お母さん、大好き。赤ちゃんも大好き……」
あかりのつぶやきとともに、車はゆっくりと動き出した。
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