第12話 召使いじゃない

「私は、お母さんの召使いじゃない!」


 あかりは思い切り叫んでいた。こんな大きな声で怒鳴ったのなんて、もしかしたらはじめてかもしれない。

 ずっとガマンしていたものが、プチンと弾けてしまった。爆発してしまった。

 身体が火の様に熱い。頭の中はドロドロのマグマのようで、何も考えられない。考えたくない。

 イヤだイヤだと、そればかり繰り返していた。


「押し付けないでよ! 命令しないでよ! 大きらい!」

「あかり?!」

「もうイヤ、きらい! こんな家、もうイヤ! ミカとユーリのとこに行く! もう知らない! お母さんなんか、大きらい!」


 ボロボロと、涙が後から後からあふれ出して、全然止まってくれない。

 そばにあった、ひかるの消防車のおもちゃを、力任せに蹴り飛ばした。壁に当たって、がしゃんと派手な音が響く。輝がギャーと泣きだす。お母さんもダンとテーブルを叩いた。

 うるさくてたまらない。あかりは耳に手を当てて、ブンブンと頭を振った。

 お母さんのギャンギャンと叫ぶ声も耳を素通りで、何を言っているのか分からない。別に分からなくていい。どうせ、わがままだの、思いやりがないなどと怒っているんだから。

 あかりは玄関に走り、クツに足を突っ込んだ。


「ちょ……待ちなさい! あかりぃ!」

「うわーん! ママー、ママー! しょうぼうしゃぁぁー!」

「こら、輝! 離して! あかり、待ちなさいったら!」


 振り向きもせず、飛び出した。

 薄暗くなった道を、泣きながら走った。どこに向かっているのか、自分でも分からない。ただ夢中で走って走って、走り続けた。

 




 昨日よりも少し帰りが遅くなってしまい、あかりはお母さんに怒られてしまったのだ。帰ってくるなり、遅いと怒鳴られ、どこで何してたのと質問された。

 そして、答える前にいっぱい怒鳴られた。


「もうすぐ生まれるのに! 遊んでばかりで、何もしないで! お姉ちゃんらしくしなさいよ! 赤ちゃんが生まれるのよ!」


 お母さんは朝起きた時と同じパジャマのままで、髪もぼさぼさで、化粧もしてなくて、鬼ババみたいだった。お腹が異様に出っぱった、みにくい鬼ババだった。

 ハアハアと全身で息をしてふらついていて、動くのも辛そうで苦しそうで、お腹を何度もさすっていた。でも、青ざめた顔でギッとあかりをにらみつけてくるのだ。

 朝、あかりがきちんと片付けたはずの輝のおもちゃは、部屋中に散らばっていて、輝が食べ残したおやつもテーブルに残ったままで、お絵かきした紙も床に広がっていて、夕食の用意は何もできていなかった。

 リビングは荒れ放題だった。全部、輝がやったことと、お母さんがやらなかったことだ。

 それなのに、お前は遊んでばかりで何もしない、とお母さんは怒るのだ。

 赤ちゃん、赤ちゃんと、そればかり言うのだ。


――どうして。


 あかりはちゃんと、自分の部屋もリビングも掃除をして出かけた。宿題も済ませた。昼ごはんも作ったし、後片付けもした。帰る時間は少し遅くなったけど、五年生の頃よりも早く帰ってきているのだ。

 赤ちゃんが生まれると聞いてからは、お手伝いも沢山するようになったし、お姉ちゃんらしくしようとがんばったのだ。

 お父さんは単身赴任でいないから、自分がお母さんを助けてあげないといけないと思ったのだ。輝はわがままだから、せめて自分はいい子にしていようと、がんばったのだ。いっぱいがんばったのだ。


――それなのに!


 お母さんは何も認めてくれないし、ほめてくれないし、見てくれないし、聞いてくれない。あれをしろこれをしろと言うばかりだ。もうすぐ赤ちゃんが生まれるって言うばかりだ。

 まるで、自分はお母さんの召使いみたいじゃないかと思ったのだ。

 

――なんで、前みたいに私の話を聞いてくれないの! 一緒におしゃべりして笑ってくれないの! 前のお母さんは面白くて優しかったのに! 赤ちゃんができてから、変わっちゃった! お父さんがいなくなってから、変わっちゃった!


 あかりは胸が苦しくて苦しくて、しゃがみ込んでしまった。いっぱい走ったせいなのか、いっぱい泣いたせいなのか、息が苦しくてもう立っていられなかった。

 ふと、足元に石の階段があるのに気付いた。ここがどこなのかよく分からなかったが、もうどうでもいいと、うつむいたまま石段に座りひざを抱えてうずくまった。

 小さく丸まって、あかりはしゃくりあげながら泣いていた。


 スカートがぐっしょり濡れて、色が変わってみえるくらいになった頃、足に温かいもふもふしたものが触れてきた。

 顔を上げると、それは猫だった。全身真っ黒で、頭のてっぺんだけ白い毛の生えた、黒助だった。


「ふにゃう~~」


 黒助は頭をあかりの足に、しきりにこすりつけて、目を細めて鳴く。頭をなでてやると、ゴロゴロと喉を鳴らした。


「黒助……なぐさめてくれるの?」

「にゃう」


 黒助は、差し出した指をぺろりとなめてくれた。

 あかりは黒助をひざの上に乗せる。ぎゅうっと胸に抱きしめると、黒助の体温がとても温かった。

 イヤがりもせずに、黒助はぴとりとあかりにくっついて、ほっぺをペロペロとなめてくれた。あかりの目からまた涙が一粒こぼれた。

 そういえば、ミカと知り合ったきっかけは黒助だったなあと思い出す。歩道橋の上から黒助を見つけ、車にひかれちゃうと思わず手すりから身を乗り出して、ミカに飛び降りと間違えられたのだ。


「……黒助のおかげで、新しい友達ができたんだよ。ありがとうね」

「にゃう」


 あかりは顔をあげた。そして周りを見回した。

 ここは黒助がねぐらにしている学校近くの神社で、あかりは入口の鳥居の手前にある石段に座っていたのだ。家からかなり離れてしまった。すっかり夜になって、空は真っ暗だった。

 自分がいる場所が分かると、あかりはちょっと不安になった。神社の前の道は街灯があかあかとついているが、人通りはほとんど無いのだった。


「どうしよう……」


 あかりがつぶやくと、黒助はさっとひざから飛び降りて、トトっと道を歩いてゆく。そして少し進んでからあかりをふり返り、にゃうと鳴いた。ついておいでと言っているみたいだった。

 あかりはゆっくり立ち上がり、黒助についていった。

 それは家のある方角だった。







「母さん、私どうしたらいいの……あかりが、あかりが……どうしよう、もしもの事があったら……さくらちゃんの家にもいないのよ」

『いくつになっても、本当に困った子だねえ、お前は。待ってなさい、今からそっちに行くから!』


 輝がまだひっくり返ってギャーギャーと泣いている横で、お母さんも泣きながら電話をしていた。


「でもでも……母さんが来るまで、一時間くらいかかるじゃない。やっぱり私、探しに行ってくるわ!」

『こら! 待ちなさい。お腹が張って痛いんでしょ? そういう時は、歩いちゃダメって先生に言われてるでしょ。じっとしてなさい。赤ちゃんも苦しがるよ。で、その、みかちゃんとか、ゆりちゃんのお家には電話したの?』

「ううん。知らないの。聞いたことない名前で……。この頃私、全然あの子の話聞いてなかったから……友達の名前も知らないなんて……。私が悪いの。不安で、あの人がいないから、全部私にのしかかって来るみたいで、不安で、ついイライラして……あかりに怒ってばかりで……。私が悪いの、私が悪いの」


 お母さんは泣きながら、自分の母親、あかりのおばあちゃんに電話で助けを求めていた。あかりが飛び出していって、追いかけようにも走れなくて、どうしたらいいのかと混乱していた。今にも倒れそうなほどに青い顔で、受話器を持つ手も震えていた。


『分かった、分かった。とにかく今から行くから。切るわよ。あんたはじっとしてなさいよ、いいわね! きっと他のお友達のところにいるはずよ!』

「うん……ありがとう、母さん」


 電話を切った後、お母さんは輝をぎゅっと抱きしめた。ごめんね、ごめんねと言いながら抱きしめると、輝はキョトンとして泣き止んだ。さっきまで泣きわめいていたのが、ウソのようにおとなしくなってしまったのだ。

 そして輝は、おずおずとお母さんの背に腕を回すと、小さな手でよしよしとなでるのだった。


「ママ……ぼく、ウソ泣きしてごめんね。もうウソ泣きしないね。だからママ、泣かないで。……大好き」


 輝が泣き止んで静かになると、今度はお母さんが声をあげて泣きだしてしまった。

 でもすぐに無理やり涙を止めて、あかりの友達の家に次々に電話をかけていったのだった。







 あかりが立ち止まると、先を歩いていた黒助が振り返り、にゃうと鳴いて戻ってくる。そして、あかりの足にすりすりと身体をこすり付けると、また歩き出すのだ。ちゃんとついて来なさいと言われているようだ。

 あかりは、黒助に連れられて、家の近くまで戻ってきていた。どうして黒助が家を知っているのか、不思議でならない。

 でも今はそれよりも、家に帰るのがおっくうでならなかった。こんな家イヤだって言って飛び出しておいて、どんな顔して帰ればいいのか分からないのだ。きっと、またお母さんに怒られるに決まっているし。


 だからといって、このままずっと外にいるなんて無理だし、行く当てもない。

 本当にミカとユーリの所に行っちゃおうかとも思ったのだが、あの人たち一体どこで寝てるんだろう、もしかして公園で野宿だろうかと思ったら、怖くて行く気になれなかった。帰るしかないのだ。

 でも、あかりの足は重い。帰りたくないという気持ちは消えてはいなかった。黒助が一緒に歩いて、応援してくれなかったら、きっとここまで戻ることもできなかったと思う。

 はあぁと大きなため息をついた。

 ミカみたいに飛べたら、窓から自分の部屋にはいれるのになと思った。


「あかりぃ!」


 背後でパパーンと車のクラクションの音が聞こえて、呼びかけられた。

 驚いて振り返ると、見慣れた白の軽自動車が停車するところだった。すぐに人が降りて来る。あかりのおばあちゃんだった。


「あかり、良かった。ちゃんと自分で帰ってきたのね。ああ、良かった!」


 そう言って、おばあちゃんはあかりを抱きしめてくれた。よしよしと頭をなでてて、ギュッと抱きしめてくれた。


「おばあちゃん……おばあちゃん!」


 あかりも夢中で抱きついて、わんわんと泣きだしてしまった。心細くてならなかったのだ。ひとりぼっちが、さみしてくたまらなかったのだ。


「心配したんだよ……。お母さんが泣きながら電話してくるから、おばあちゃんびっくりして、心臓が口から飛び出るかと思った」

「……電話? ……なんて、言ってたの? お母さん」

「あかりがいなくなっちゃった、どうしようどうしようって。事故にあったらどうしよう、悪い人に連れていかれたらどうしようって、すごく心配してた」

「……本当に? 心配してた?」

「当たり前よ。心配するに決まってるでしょ。あかりはね、お母さんとお父さんの大事な大事な子どもなんだから。さ、帰ろうか」

「でも……お母さん、きっと怒ってる……」

「大丈夫よ。怒ってないから。それにおばあちゃんもいるじゃない」


 あかりがもじもじとしていると、おばあちゃんは携帯電話を取り出した。


「もしもし、私よ。あかり、見つかったわよ。丁度今、会ったの。うん、うん……そう、家のすぐ近くまで自分で帰って来てたの。…………大丈夫だって、全然怪我もしてない。…………うん、うん、そうね、分かった。あ、そうだ、晩ごはんまだって言ってたけど、何かあるの? そう、じゃ、コンビニ行ってから帰るから。……はいはい、分かったから、もう泣かないの! しっかりしなさい。いつまでもぐずぐず言わない! 見つかったんだから、もういいの! じゃ後でね」


 おばあちゃんは、お母さんに電話をしたようだ。

 あかりは驚いていた。電話越しとはいえ、お母さんがおばあちゃんに叱られている現場を目撃してしまった。おばあちゃんすごい、と尊敬のまなざしで見つめた。


「お腹、すいてるでしょ。お弁当買って帰ろうね」


 おばあちゃんの笑顔は、とっても優しくて頼もしくて、温かかった。






 屋根の上で、腹ばいで寝そべっていた影が、むっくりと起き上がった。


「あかりちゃん、ガーンバ……」


 翼をパサッ広げ、ふふっ笑ったのはミカだった。

 コンビニで弁当を買い、おばあちゃんと手をつないで、家に入っていくあかりを見送ると、ミカは立ち上がって下の道路をキョロキョロと見回した。


「えーっと、さっきの猫どこに行ったかな? タダもんじゃ、なさそうだったけど」


 ふわりと浮かび上がり、元来た方向、神社に向かってゆっくりと飛んでゆく。ミカの目は猫の姿を探していたが、すっかり見失っていた。

 ミカは雷竜探しの後、ユーリのいる公園に戻る途中で、あかりが周りも見ずに走っていくのを見つけた。そのただならぬ様子を、空からそっと見守っていたのだ。

 もう暗いのに子どもが一人で外に出るのはよろしくないぞ、とブツブツ言いながら、もしも危ないめに会いそうなら助けてやるつもりで後を追っていたのだ。


 母親のことで悩んでいたし、泣いているところをみると、もめたことはすぐに分かった。

 しばらくしてあかりが少し落ち着いてきたころ、声をかけようとしたら、あの猫が現れた。黒猫は彼女を慰めているようだったから、そのまま見守り続けていたのだが、なぜか家まで道案内を始めたので、何者なのだろうかと不審に思ったのだ。

 猫を探してふわふわと飛んでゆくが、やはり黒い毛皮は夜の闇に紛れてしまったようで、どこにいるのかまったく分からなかった。

 少し迷った後、猫探しはあきらめた。縁があるなら、また会えるだろうと。

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