4 鳩

 居間の蛍光灯のスイッチを手探りで入れると、室内が明るい色で満たされた。蛍光灯らしい青白い色ではなく、どことなく暖かい色。オフィスのような色は居間には似つかわしくないと、洋子が決めた色だった。


 徳島は、上着を脱ぎながら室内に入ると、疲れで重くなった足取りのままソファへと向かった。脱いだ上着とネクタイをソファの背もたれにかけると、何気なく対面キッチンの手前にあるカウンターの上を見る。


 留守番電話のランプが点滅しているのが目に入った。

 三日ぶりの帰宅だから、電話ぐらいは何件か来ているのが普通だが、洋子からの可能性もある。徳島は、電話機に手を伸ばして、伝言の再生ボタンを押した。すぐに機械的な女性の声が聞こえてきて、三件の伝言があると伝えてきた。


 一件目が再生される。徳島が普段から贔屓にしているクリーニング屋からの伝言。預けっぱなしになっていたスーツを、そろそろ取りに来てほしいと云っている。徳島は、キッチンに行って冷蔵庫を開けた。ビールだけは常備していて欠かすことはない。


 二件目。再生されてすぐ、伝言が切れた。どうやら、録音が開始された直後に先方が電話を切ったらしい。徳島は缶ビールを開けて、中身を喉に流し込んだ。

 三件目が再生された。徳島はビールを呑むのを止めて電話機を見た。久しぶりに聞く声。洋子だ。


「あの、よければ電話ください。少し、話がしたいから。夜なら、携帯にかけてくれればいつでも出られます。待っています」


 洋子の通話が途切れたあとに、録音された日付と時間が告げられた。どうやら昨晩にかかってきたらしい。

 残りのビールを一気に喉に流し込んでから、徳島は受話器を取って短縮ボタンを押した。洋子の携帯電話は短縮ボタンに登録してあるので、ボタン一つですぐにかけられる。

 着信音がしばらく続いたあと、洋子が電話に出た。


「遼ちゃん」


 心配そうな声だと徳島は思った。おそらく連日の報道から、徳島が事件を担当していてもおかしくないと思ったのだろう。


「久しぶりだな」

「うん」

「体調、大丈夫か」

「平気。こっちは順調だよ。それより、そっちの方が心配。昨日は帰ってないみたいだし」

「平気だ。なんとか、三日に一度は帰ってるから」

「そう」

 受話器から、洋子のかすかなため息が聞こえてきた。

「いまテレビでやってる事件、大変なんでしょ?」

「まあ、な」

「酷い事件が起きたね。遼ちゃん、本当に大丈夫?」


 洋子の声には、徳島への強い心配がにじみ出ていた。子供を虐待していた親が、報復されるように殺されている。それを、親から虐待されて育った警官が捜査しているのだ。徳島自身もこれは異常なことだと感じている。洋子が心配するのも当然だ。


「洋子」

「うん」

「今回の被害者な、殺された親たちだけど。連中、子供に酷い虐待をしてたよ」

「そう……でも、子供たちは無事だったんでしょ?」

「一人は言葉にも反応しない状態になってしまって、一時保護施設に入所してる。もう一人は」


 高遠守の顔を思い出した。左の頬に青い痣。右足をわずかに引きずるように歩く。


「一度は保護したけど、いまは行方がわからない」

「そう……なんだ。じゃあその被害者たちは、子供に酷いことをしたから殺されたのね」

「子供を苦しめる親は、死んで当然なんだろうか?」

 受話器から、洋子が息を呑む気配が伝わってきた。

「遼ちゃん」

「確かに、殺してやりたくなるほどの所業だったよ。彼らと同じような奴を目の前にしたとき、自分を抑えるのが大変だった。でも、だからといって殺されてもいいのか」

「それは……わからない」

「そうだな。俺にもわからないよ」

「遼ちゃん、まだ、あの夢見る?」

 洋子がこの家を出るきっかけになった徳島の夢。自分の子供を殴る夢のことだ。

「うん、たまにな」

「そう」


 洋子はしばらく黙っていた。徳島も、何と声をかけていいかわからない。やがて、洋子の方から徳島に語りかけてきた。


「私ね、遼ちゃんに云わなきゃいけないと思って昨日連絡したんだ。いま私のお腹にいるこの子だけど」


 彼女は一度言葉を切った。自分の決心を確認しているかのように、徳島には思えた。


「どうしてもこの世界に出してやりたいの。例え、遼ちゃんとこのままうまくいかなくなっても」

「そうか」

「それだけ、伝えたくて」

「わかった」

「じゃあ、もう切るね。ゆっくり休んで」

「ああ」


 また少し間が空いた。洋子は、自分の言葉を待っている。そう思った瞬間、通話が切れた。

 徳島は受話器を戻してからキッチンに行き、冷蔵庫から缶ビールを二つ取り出した。

 会話の最後で、洋子が自分の言葉を待っていたのは、痛いほどわかっていた。しかし、いまの自分に何が云えるのか。生まれてくる子供のために、自分はいない方がいいかもしれないのに。


 ソファに躰を沈めて、テレビをつけようとしたところで、携帯電話の着信音が聞こえてきた。徳島は、背もたれにかけてあった上着の内ポケットをまさぐって、携帯電話を取り出す。着信音がひときわ大きく室内に響いた。サブモニターを一瞥してから、通話ボタンを押す。


「いま、一人か?」


 上條健吾の声が聞こえてきた。




 上條が指定してきた店は、JR国分寺駅の南口にほど近い居酒屋だった。徳島は入ったことがないが、この店に誘った上條の口ぶりから察すると、何度か利用したことがあるようだった。


「ひどい顔をしてるな、リョウ。疲れがたまってる顔だぜ」


 徳島の顔を見るなり、上條が云った。ちょっと前からここで一人で呑んでいたようで、すでに酒が入っているのか心持ち表情が柔らかい。


「おまえの方はずいぶんましな顔に戻ったじゃないか、健吾。こないだはひどい人相だった」

「ああ、あんときは世話になった。ちょいともめ事のあとだったからな。まあ、ああいうこともある」

「久しぶりに連絡してきたかと思えば、はらはらさせやがって」

「そう云うなよ、リョウ。十年経ったって、中身はそんなに変わっちゃいないってことさ」

「十年。そうか、もう十年か」

「あれから、気がつけばそんなに経っちまった」


 上條は日本酒の徳利を持ち上げると、ちょうど徳島の前に運ばれてきたばかりのお猪口に注いだ。


 徳島が上條に最後に会ったのは、警察学校に入る少し前だった。高校を卒業して、これから警察学校の寮に入るというとき、すでに徳島よりも一年早く社会に出ていた上條に呼び出されたのだ。


 もうしばらくは、うまい飯も食えないだろうからと、上條はそんなことを云いながら、徳島を町外れの小さなステーキハウスに連れて行ってくれた。たった一年、先に社会に出ただけで、こんな旨い物が食える店に入れるのかと素直に感動した覚えがある。


 徳島は十歳になってすぐ、児童養護施設「双葉ホーム」に入所している。入所した当時のことは、彼はいまだによく思い出せなかった。母親と暮らしていたあのアパートで、毎日のように殴られていた生活の方ははっきりと思い出せるのに、そのあととなると霧がかかったようにおぼろげで、気がついたときには養護施設での毎日が始まっていたような感じなのだ。だから、母親との別れすらもよく覚えていない。


 養護施設では一部屋に五人がともに暮らしていたが、感情の発露がほとんどなく、周りからの呼びかけにもあまり反応しない徳島に、他の者が馴染めず、彼一人が孤立してしまうこともしばしばだった。


 そんなとき上條が入所してきた。徳島よりも一つ年上でどこか大人びていた彼は、口数が少なく、同室の者たちともなかなか打ち解けようとはしなかった。上條が徳島に話しかけてきたのは、たまたま徳島の躰に無数の傷があるのを、彼が見つけてからである。上條はその傷が親から受けた傷だということを知ると、徳島の前で大粒の涙を流して泣いた。


 それからというもの、上條は何かと徳島に関わってくるようになった。一緒に食事をして学校に行き、勉強をする。特に上條は、徳島に自分の好きな映画の話をするのがお気に入りで、これまでに彼が観た映画のあらすじを、うまくネタバレにならないようにかいつまんで徳島に聞かせてくれた。実際、そのおかげで、結婚前の洋子と映画の話題で盛り上がることができたぐらいだ。


 あのとき、上條が徳島に屈託なく話しかけ続けてくれたおかげで、徐々にではあるが徳島の周囲への反応も増えていき、中学校を卒業する頃にはすっかり感情を取り戻していた。結局、上條とは中学二年から高校二年までの四年間を、養護施設の同じ部屋で過ごしていた。


 高校に上がった頃、徳島は自分が上條健吾という男のことについて、実はまったくと云っていいほど知らないことに気がついた。そもそも養護施設の児童というものは、お互いの過去をあまり話したがらないし、詮索もしないものである。もちろん上條も徳島の身の上について直接訊いてきたことはないし、徳島自身もそうであった。別に互いの過去など知らなくてもいいと思えたし、何故施設に来たかということより、施設を出たあとに互いがどうなるかの方が、このときの徳島にとっては大事だった。


 しかし上條が施設を離れる直前、徳島の部屋を担当していた職員から、偶然彼の過去についての話が訊けた。職員の話によると、上條の両親は経営していた工場が倒産したことで多額の負債を抱え、それを苦に練炭自殺を遂げてしまったという。そのとき、まだ幼かった彼の弟が両親とともに亡くなり、上條だけが取り残されることになってしまった。何故、上條の両親は長男一人だけを残して一家心中を図ったのか。遺書のようなものは見つからなかったというから、その理由はわからなかったらしい。この話を訊いた徳島は、上條が自分を、亡くなった弟にどことなく重ね合わせて見ていたのかもしれないと思った。


 都内の商業高校を卒業した上條は、すぐにコンピューターのソフトウェアを開発する小さな会社に就職して、養護施設から退所していった。徳島との別れ際、上條は笑っていつでも会えると徳島に云い、仰々しい別れの言葉を口にするのを嫌がった。その言葉通り、徳島が警察学校に入る直前に一度現れたが、その後はぱったりと姿を見せなくなった。ただ施設の職員から、上條が突然会社を辞め、行方がわからなくなったという話だけが伝わってきた。


 それから五年ほど経ったある日、どこで調べたのか徳島の携帯電話に上條から連絡が入った。何でもフリーのプログラマーとして生計を立てていて、気楽な毎日を過ごしているという。このとき、電話でしばらく話しただけだったが、徳島は上條の口調から不穏な気配のようなものを感じ取っていた。すでに五年も警察官として過ごしていた徳島は、上條の言葉の端々に犯罪者特有の匂いのようなものを嗅ぎ取っていたのだ。だが、徳島が上條にそのことで何かを訊くことは決してなかった。どんなことがあっても、上條のことは詮索しないと、すでに何年も前に決めていたからだ。


 徳島は、上條から注がれた酒を一気にあおった。日本酒の甘さが口に広がる。度数の効いたアルコール分が徳島の喉を灼いた。旨い、と思った。

 上條は久しぶりに会った徳島から、その後の警察での活躍を訊きたがった。徳島は、警察学校から本庁に採用されるまでの経緯を、話せる範囲で上條に訊かせてやった。


「それじゃあ、あのときの太った奴が、お前の先輩様か。あれ、何だか頼りないんじゃないのか」

「いやいや、あれでなかなか抜け目がないんだ。柔道も強くて、インターハイでかなりいいとこまでいったという噂もあるぐらい」

「へえ、人は見かけによらないもんだな。そうそう、ところで」


 上條はお猪口の残りを飲み干してから云った。


「あの少年、高遠守とか云ったっけ。どうしてる?」

「ああ、残念ながら、あのあとすぐにいなくなった。一度聴取は取ったんだが、夜に児童相談所から抜け出したらしい」

「そうか」


 徳島は、おやと思った。児童相談所に上條が守を連れてきたとき、二人の間にはそれなりの交流があったように思われた。なのに、守がいなくなったと訊かされた上條の反応は、彼にしては希薄すぎるような気がする。


「もちろん、捜索はしてるんだろ?」

「してるさ。しかし、自分から出て行ったからな」

「あれはどうした。確か、鞄がどうとか云ってたが」

「青いスポーツバッグを無くしたって件か。それなら、高遠守の捜索を担当している部署に伝えてあるよ。一応殺人事件の現場から出たものだから、見つかったらこっちにも連絡があるはずだ」

「連絡がないってことは、まだ見つかってないってことか」

「気になるのかい?」

「ああ。あいつ、母親のところに行く気だったらしいんだ。スポーツバッグには、母親の居場所を書いたものが入っていたと云ってたしな」

「そうか。いま頃どうしてるだろうな。自分一人で、ずっと鞄を探し続けてるか」

「さて、どうかな」


 上條は、徳島と視線を合わせずに酒を呑み続けていたが、やがて持っていたお猪口をカウンターに置いてから、徳島をまっすぐに見て云った。


「これは、いまさら思い出したってことで、訊いてほしいんだが」

「なんだい? まさか、犯人を知ってるとか云うんじゃないだろうな」

「まさか。守と最初に会ったとき、あいつ空を見上げて変なことを呟いたんだ」

「何て?」

「鳩」

「鳩? あの鳥の?」

「ああ。あの日は雨だったし、しかも守と会ったのは夜だったから、鳩なんて飛んでいるわけがない。しかしあいつは、夜の空を見つめて、鳩と呟いた」


 いまのところ、鳩という言葉で思い当たるような情報は、捜査のなかに出てきていないはずだった。いや、角度を変えて検討すれば、もしかしたら何かが該当するかもしれないが。


「気を失う寸前だったから、うわごとのようなものだったのかもしれんが。役に立つかもと思って、一応話したがな」

「そうか、いや助かるよ。いまはどんな情報でもありがたい」


 徳島が事件の謎に没入しようとした瞬間、上條が話題を変えてきた。今度は、徳島の結婚生活の話が訊きたいらしい。そこまでで事件に関係した話題はお終いとなり、あとは徳島と洋子の馴れ初めから、結婚までのエピソードを話す羽目になった。


 上條との十年ぶりの邂逅は、その間を埋めるかのように次から次へと話題が飛び出して、いつまでも話が尽きなかった。いまだから話せる施設時代の打ち明け話や、上條が付き合っている彼女の話、さらにはいま巷を騒がせているミスターボムの話題など、酒の力も作用してか、二人の会話はやがてとりとめのない内容のものが多くなっていった。結局、そろそろ帰らなければと上條が云い出したのは、午前一時を少し回った頃だった。


 徳島は、居酒屋の前で上條と別れるときに、彼の後ろ姿に尋ねた。次は何年後になるかなと。


「また、すぐに会えるさ」


 上條は振り返って、そう答えたように思えた。徳島は、珍しく酒が回った頭で上條の言葉を心に刻み込んだ。

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