第五章

1 通報

 左前方に側道が見えてきたので、長内はゆっくりとブレーキを踏んだ。ハンドルの左側にあるシフトレバーを、四速から三速に入れる。エンジンの回る音が一瞬甲高くなった。軽トラの車体が、エンジン音に合わせるようにわずかに震えた。


 都心環状七号線、いわゆる環七は、都心近郊を車で移動する者にとっては、大動脈と云ってもいいほど重要な幹線道路だ。しかし長内は、多くても一、二ヶ月に一度ぐらいしか都心には来ないので、車通りが激しい幹線道路に対して苦手意識が強い。その環七を離れ、練馬駅に近づく道路にようやく車を入れた長内は、正直ほっとした気分だった。


 長内の仕事場は、東京郊外から神奈川にかけてが中心だったが、友達や家族のつてで仕事が入ったときなどは、こうして都心まで車でやってくることもある。クロス貼りという仕事は、腕が良ければいくらでも仕事が回ってくるし、彼自身、依頼された仕事はできるだけ断らないことを身上にしていたからだ。


 今回の仕事は、練馬に住んでいる長内の妹夫婦から頼まれたものだった。実は半年ほど前から依頼されていたのだが、町田や稲城での仕事が立て続けに入ったこともあって延ばし延ばしにしていた。身内からの依頼は、どうしても後まわしにしがちでいかんなと思っていたのは確かだが、実は急遽やることに決めたのには別の理由がある。


 数日前、東京の練馬区で子供が虐待を受けているというメッセージが、長内宛に送られてきたのだ。送り主は「コロンボ」というニックネームで、通常のメールではなく、天使の盾のホームページでメッセージ機能を使って送信されていた。これは普通の電子メールとは違い、ホームページのなかでのみ見られるメッセージを、ユーザー同士で送り合うことができる機能だ。


 メッセージには、虐待が行われている家の住所が記載されており、さらに、女の子が養父から、しつけと称して縫い針で全身を刺されているという、信じられないような虐待の内容が書かれていた。児童虐待の通報経験がある長内ならば、なんとかしてくれるかもしれないのでお伝えしますと、最後に結ばれていた。


 もしこれが本当だとしたら、是が非でも確認したいと長内は思った。ここに書かれていることが事実で、虐待がいまも行われているなら、すぐにでも通報してやらなければ子供の命が危ない。知った以上、確認するのは我々子供を持つ大人の、当然の義務ではないか。そこで、妹夫婦から依頼されていた仕事を思い出し、急遽やることにして、車で練馬に来たというわけだった。


 長内は、先日、自分を尋ねてきた刑事たちを思い出した。稲城や町田で見つけた児童虐待を通報したことで、何やら変なことに巻き込まれたようだったが、構うものかと正直思う。別に悪いことをしたわけではないのだから、堂々と信じることをやればいいのだ。


 長内が運転する軽トラは、やがて西武池袋線の練馬駅前を通過した。ここは南口なので、一度ガード下を通過して北口に向かわなければならない。


 妹夫婦の家での作業は、今日の午前中に開始して、昼の三時には終了していた。頼まれたのは十二畳のリビングと六畳間を三部屋だけだったので、二日もあれば楽に終わるし、実際今日の作業時間もそんなに長くはかからなかった。妹夫婦の家を出てからここまで車で三十分ほどだったが、四時に目的の家に着きたいと考えていたので、ほぼ予定通りと云えるだろう。


 車を北口のロータリー横の道に入れると、長内は事前に書いておいた地図のメモを取り出した。すでに目的地の近くまで来ている。


 メモに書かれた目印のコンビニを見つけると、長内はその角を左折して住宅街のなかに軽トラを入れた。三十メートルほど前進してから、ハザードランプを出して車を停車させる。ちょうど背の高いブロック塀に囲まれた家があったので、その塀にぴったりと密着させるように車を停めた。これなら、通行する車の邪魔にはならないはずだ。


 業務用の白い軽トラは、こういうときに怪しまれないから便利だと思った。荷台には、丸めて包装した数種類の壁紙や、アルミ製の脚立を載せているので、いかにも近くで内装の作業が行われているようである。周りの住民たちから変に怪しまれることもないだろう。


 長内は運転手側の窓を全開にして、十メートルほど先に建っている一軒家を見た。グレーの屋根瓦が、妙に重々しい印象を与える。長内に送付されてきたメッセージには、庭の目立つところに白い花を付けた庭木があると書いてあったが、確かに玄関扉のちょっと手前に白い花のようなものを付けた木があるようだ。長内は庭木にはあまり詳しくないので、それが何の花なのかは検討が付かなかったが、書かれていた特徴とは確かに一致する。あれこそ目的の家に間違いないだろう。


 車を降りて、家の方に少し歩いてみた。一軒家の真向かいに自動販売機を見つけたので、そこまで行って煙草を一つと缶コーヒーを二缶買う。


 自動販売機の前から、長内はじっくりと観察してみた。家のデザインと壁の傷み具合から、築十五年ほどと検討をつける。玄関の横に小さな庭が見えたが、手入れらしい手入れはされておらず、雑草が伸び放題だった。駐車場にはシルバーの国産乗用車が一台停まっているが、こちらも最近洗車されたようには見えない。長内の経験上、この手の家は室内の壁紙にも無頓着で、喫煙者が居住していれば間違いなく壁は真っ黄色に変色しているはずだった。もし虐待が確認できなければ、飛び込みで営業してみるのも悪くないだろう。


 時計を見ると、時間は四時を少し回った頃だった。小学生ならとっくに帰宅している時間である。長内は、車のなかで二、三時間ほど監視して、何も起きなければ、明日作業が終わったあとにまた来るつもりだった。今日と明日の二日間、夕方から夜にかけて何も無ければ、今回は通報しないと彼は決めていたのだ。


 長内は車に戻ると、窓を開けたままにして、助手席に置いてあった漫画雑誌を手に取った。しばらくはここで時間をつぶすわけだから、なるべくリラックスしていたい。こないだやってきた刑事さんたちに、張り込みのコツを訊いておけばよかったと、長内は何となく思った。


 陽の光がだいぶ赤くなって、そろそろ撤退かなと長内が思ったとき、突然怒鳴り声が聞こえてきた。はっとした長内は、その声に全神経を集中させる。激しい叱責の声、やがてその声に子供の泣き声が混じる。


 ドアの音がなるべくしないようにそっと車を降りると、長内はゆっくりとした足取りで再び自動販売機まで歩いた。その間、厳しく叱りつけるような声がまだ聞こえている。


 長内が自動販売機の横に立ったとき、隣の家の玄関から一人の老人が出てきた。心配そうな顔を隣家に向けている。長内は、彼に話を訊いてみることにした。


「すいません、ちょっと」

「私、ですか?」

「そうそう、おじいちゃん。隣なんだけど、すごい声だよね。いつもこうなの」

「ああ。あんまりご近所様のことは云いたくないんだけどね。ここの女の子がねえ、良くない子みたいで、いつも叱られとるんよ」

「虐められてるのかな。あんまりひどいなら通報しないと」

「あんた、通報なんて大げさだよ。確かにここの家じゃいつも叱る声が聞こえるけど、通報なんてしちゃいけない」

「でも、子供の泣き声もするんだろう?」

「そりゃ可哀相だけどしつけだよ、しつけ」


 長内は呆れてものが云えなかった。隣人がこんなでは、この家でどんなにひどい虐待があっても決して通報されることはないだろう。


「じいさん、この家の子になんかあったら、あんたも同罪だぜ」


 老人は、長内に睨まれたせいか、すごすごと家のなかに戻っていった。その間も、子供を怒鳴りつけるような男の声と、泣き叫ぶ子供の声が聞こえてくる。


 長内は、ズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、アドレス帳を開いて、目的の電話番号を表示させた。すぐに通話ボタンを押して電話をかける。おそらく、いま泣き叫んでいる子供を救えるのは自分しかいない。いま通報しなければ、彼女の地獄はこの先までずっと続くかもしれないからだ。


 電話がつながる音がして、スピーカーから声が聞こえてきた。


「天使の盾、子供虐待ホットラインです」

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