3 愛情
国道二四六号沿いに建設中のマンションは、名前を「エクレール長津田」といって、一階のエントランス前にはモデルルームへと案内するための巨大な看板が設置されていた。十二階建ての外観はほぼ完成しているようで、いまは各部屋の内装や、駐車場の整備などを行う時期らしい。看板にはこの秋分譲開始とあるから、いまはそれに向けて急ピッチで作業を進めているのだろう。
徳島と栗橋は、エントランスの脇にある作業員用の入り口からマンションのなかに入った。エントランスホールには数人の作業員がいたので、彼らに
徳島と栗橋はエレベーターで五階まで上がり、外通路から内装作業中の部屋を探した。床にはすべて青い養生シートが貼られていて、いくつかの部屋の扉が通路に向かって開いたままになっている。
養生シートを踏みながら通路を歩いて行くと、やがて一番奥の開いている扉から、脚立を肩にかけた背の高い男が出てきた。タオルを頭に巻いていて、白いTシャツに作業ズボンという出で立ちである。やせ形だが、肉体労働で鍛え上げた筋肉が、シャツの上からでもよくわかる。
彼はこちらに気がつくと、脚立を下に降ろしてから話しかけてきた。
「あんたら、刑事さんだろ。さっき、坂本工務店の社長から連絡もらって訊いてるよ。俺を探してるんだって?」
「あなたが長内さんですか」
徳島と栗橋は長内に近づいて警察手帳を出した。長内は警察手帳をまじまじと見てから、二人に笑顔を向けた。
「これが警察手帳かあ。初めて見た。かっこいいねえ」
「すいません、突然お邪魔しちゃって。少しだけ、お話を聞かせてもらいたいんだけど」徳島が警察手帳をしまいながら云った。
「いいよ。そうだと思って、今日の分は少し早めに終わらせといたから。しっかしさ、うちの家内からの電話で、警察から連絡あったけど何したのさといきなり怒られて、まいっちゃったよ。ついさっきは坂本社長からも心配されちゃったし」
「ああ、申し訳ありませんでした。こちらが長内さんに関してわかっていたのが、ご自宅の電話番号だけだったもので。奥さんに坂本工務店の社長をご紹介いただいて、ようやくここがわかったんですよ」
「いやあ、いいんだって。俺は別にやましいところなんてないし、刑事さんに協力するだけでしょ。それで、何の件?」
「実は、あなたがロシナンテという名前で天使の盾のホームページに書き込みをした件で、お聞きしたいことがあるんです」
「ああ、やっぱりそうかあ」
長内は頭をかきながら、恥ずかしそうな素振りを見せた。
「警察が来るって訊いたときから、多分あれかなあとは思ってたんだよ。しかしまいったなあ」
「まいった、というのは?」
「だって、殺された親のことをすごく悪く書いちゃったでしょ? あれでずいぶんあそこのスタッフや他のユーザーから注意されちゃったんだよね。誰かが、警察に苦情でも云ったんじゃないの」
「我々も読みましたよ。ずいぶん過激な内容だ」
「天罰とか、書いちゃったもんなあ。いや、腹が立ってたのは確かなんだよ。テレビの報道でも、被害者が自分たちの子供にどんな虐待をしてたかなんて、これっぽっちも云ってなかったから。お前ら何も知らねーって。そうしたら無性にイライラして、気がついたら書いてたんだよね。あのあと、随分謝ったんだけどなあ」
「長内さん、天使の盾に通報してますよね。稲城と町田で二件。どちらかと云えば、我々はそちらの方を訊きたいんですが」
長内は一瞬動きを止めて、徳島を見た。いつの間にか顔から笑みが消えている。
「あんたら、もしかして俺のこと疑ってんの?」
「いや、とりあえず不審な点がないかを捜査している段階でして。長内さん以外にも、こうした質問をしている人はいるんですが、全部確認するのが仕事ですから」
「ふーん、まあいいや。とにかく、俺がした通報はどっちも本当のことだよ。確かに両方とも死んじまったのは驚いたけどな」
「稲城の方は保坂さんですよね。子供に会ったとか書かれてましたが」
「名前は知らねえけどな。確かに会ったさ。俺たちクロス貼り職人てのはさ、部屋のなかの壁紙を貼る仕事なわけね。マンションやアパートが新しく建ったりすると、たくさんの部屋に壁紙貼らなきゃならなくなる。あと人が住んでる家でも、壁が黄色くなったから貼り替えてくれって依頼も結構あるな。だから、稲城も町田も、どっちも壁紙貼りに行ったときに虐待を見つけた訳よ。稲城のときは、アパートの外階段で泣いてる男の子がいたから話しかけたのがきっかけだったな」
「少年の、火傷の痕を見たんですね?」
「おうよ。あれは酷かった。もうちょっとで、その場で怒鳴り込むところだったぜ。でもよ、あの子がそれだけはやめてくれって云ったんだ」
「やめてくれと?」
「ああ。お父さんとお母さんは悪くない、自分がうまくできないから怒られるんだって云ってた。それを訊いて、切なくてねえ」
徳島は、児相で魂が抜けたようになっていた保坂真一を思い出した。彼もかつては、自分の意思を人に伝えることができていたのだ。
「町田はどうでした?」
「あれは子供には会ってない。親の方に会ったんだよ。男で、名前はよく覚えてないが」
「宇木田高雄というんですが」
「いや、名前は訊かなかったんだ。あとで家の表札を見たのだけは覚えてる。確か名前が二つあって、そのどちらなんだろうなと思ったよ」
「どんな話をしたか、覚えていますか?」
「覚えてる。嫌なやつだったよ。マンションの階段で休憩してるときに、あいつが通りがかって、暇つぶしみたいな感じで話しかけてきたんだ。お互いの子供の話になって、俺がとにかく子供が可愛いっていうと、やつはそれは嘘だって云うんだ。子供が可愛いなんて、絶対に嘘だってね。あ、煙草いいかい?」
徳島は、片手を挙げて身振りで承諾した。本当は、近くではできるだけ吸ってほしくない。長内は、ズボンのポケットから煙草とライターを取り出すと、一本を口に咥えて火をつけた。
「あいつはこう云ったよ。子供にはしつけが肝心だ。云うことを訊かない子供は殴るのが一番。自分は金槌で殴ってみたが、効果はてきめんだったってね。最初は冗談だと思ったよ。でもよ、あいつの目を見たら、それが本当だってわかっちまった。こいつは本当にやったんだって、何となくわかっちまったんだ」
「だから通報した?」
「その日にすぐという訳ではなかったよ。あのあと、作業を頼まれてた家の奥さんに、事情を訊いてみたんだ。そしたら、あの階に子供が虐待されてる家があるってのは、あそこのマンションじゃあ有名な話だって云うじゃないか。それでもう居ても立ってもいられなくなってさ」
「通報は、町田の方が先のようですね」
長内は煙草を深く吸ってから、しばらく考えてから煙を吐き出して云った。
「ああ、確かそうかな。町田のマンションが先だった。あそこの仕事が終わってから稲城のアパートに行ったんだ。稲城は知り合いから格安で頼まれた仕事だったから、よく覚えてるよ」
徳島は、長内の話の要所をメモ帳に書き付けていた。あと一つ、長内には重要な質問をしなければならない。
「最後に、長内さんのことで確認があります。七月十三日の火曜日深夜と、二十八日水曜日の夜十一時頃、何をしていたか覚えていますか?」
「やっぱり疑ってんじゃねえか」
徳島の質問に、長内は間髪入れずに言葉を返してきた。しかし口調に怒りや当惑は混じっていない。
「二組の被害者を知っている方には、必ず確認してることです。長内さんだけじゃありませんよ」
「どうだか。まあいいけどな」
長内は少しだけ考えてから答えた。
「それって、どちらも間違いなく家にいたよ。うちの家内が証言してくれるはずだ。俺は呑みに行くときは週末って決めてる。だから平日の八時以降はまず家にいる」
アリバイの証明に関しては、厳密に云うと家族の証言は信用度が低いとされている。しかし確認できないよりはましだ。
「一応、奥様に確認を取らせていただくと思います。後日、我々から電話がいくかもしれません」
「問題ないよ。うちのやつに云っとくから」
長内は、もうだいぶ短くなってしまった煙草を最後に深く吸うと、ポケットに手を突っ込んで携帯灰皿を取り出した。
「刑事さん、確かに俺はね」携帯灰皿に煙草を押し付けながら、長内が云う。
「子供を虐待する親なんか死ねばいいって思ってるよ。ああいう連中を見つけるたびに、そう思っちまう。だから、あんな書き込みをしちまった」
一呼吸おいてから、長内は徳島の目を見て云った。
「うちの子、先月三歳になったばかりの女の子なんだけど、これが可愛くてさ。俺もう三十過ぎてたし、うちの家内なんか姐さん女房だったから、子供はもういいかあとか云ってたんだけど、やっぱりできてみるとたまらなく可愛いんだよ。もうさ、仕事なんか急いで終わらせて、できるだけ早く帰って一緒にいてやりたいと思うんだ。できるまでは考えもしなかったけど、とにかくあの子のすべてが大切になっちゃって、子供のために生きてる自分が誇らしいぐらいさ。あんたら、子供いる?」
「いえ」
「そっかあ。結婚したら、できるだけ早く作った方がいいよ。それで子供に愛情を注いでさ。親もそうすることで同時に成長していくし、子供からも愛情は返ってくる。そりゃあいいことばっかりじゃないけど、でもすごく価値はある」
長内はそこまで一気に話すと、ため息をついてから話を続けた。
「俺はさ、虐待を見つけるたびに、うちの子が虐められてるような気がしちゃうんだよ。なんであいつらは、我が子に酷いことができるのか、俺は不思議で仕方がない。だからそういう親を見つけると、とにかく何かしなくちゃって思うようになった」
「それで通報を? しかし、死んでも当然だというのは」
「ああ、云い過ぎだったかもな。しかし本心ではあったよ。だからかな、今回の殺人事件の犯人の気持ち、俺にはわかる気がするんだ」
長内は、徳島と栗橋を交互に見てから云った。
「子供を殺そうとする親なんて、いない方がその子のためだからな」
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